Episode191
朝のサロンは、まだ静かだった。
開店前のこの時間は、瀬良と美菜の二人だけの特別な時間だ。
朝練をするために早く出勤し、互いの技術を磨き合う。
瀬良はカットウィッグを濡らしながら、はさみを入れる準備を進めていた。
一方、美菜はブロッキングの練習をしながら、楽しげに昨日の出来事を話し始めた。
「それでね、雑誌とかで有名な笹原ローズさんにメイクまでしてもらえて……!」
美菜の声はいつもより弾んでいた。
「笹原ローズ?」
瀬良がふと顔を上げる。
「うん!あの有名なメイクアップアーティストの!最初は怖かったんだけど、話していくにつれてすごく気さくな人で、メイクしながら色んな話をしてくれたの」
美菜は昨日の出来事を思い出しながら、ウキウキと話を続ける。
「最初は緊張したんだけど、笹原さんが『あなたの顔、すごくいいわね!』って言ってくれて……もう、びっくりしちゃった!」
「ふーん」
瀬良は相槌を打ちながら、スプレイヤーでウィッグを軽く湿らせる。
美菜が楽しそうに話す姿を横目で見ながら、その様子に微笑ましさを感じていた。
(こうやって無邪気に喜んでる美菜、やっぱり可愛いな)
瀬良はそんなことを思いながら、手を動かし続ける。
「それでね、伊月さんと一緒に撮影して、なんだかモデルまで誘われちゃって……」
「………ん?」
瀬良の手がピタリと止まる。
美菜は一瞬、息をのんだ。
(あっ……)
しまった、と思った。
伊月と一緒に写真を撮った、なんてことを言うのは、瀬良にとっては面白くない話題かもしれない。
瀬良は伊月のことをあまりよく思っていないのを、美菜も知っていた。
「いや、いいんだよ。別に誰と美菜が写真撮っても」
少しの間の後、瀬良は淡々とそう言った。
「……でも瀬良くん、伊月さんのこと苦手でしょ?」
美菜は慎重に尋ねる。
「俺が伊月を嫌いでも、美菜には関係ないだろ」
瀬良は優しく微笑み、そっと美菜の頭を撫でた。
その仕草に、美菜は少し驚いた。
(怒るんじゃなくて、こんなに優しくするんだ……)
もしかしたら、瀬良はもっと束縛するタイプなのかもしれない、と思っていた自分を恥じる。
彼は、自分の感情を押しつけるようなことはしない。
それどころか、美菜の気持ちを尊重しようとしてくれている。
(瀬良くん、なんかごめんね)
ひそかに心の中で謝る。
「というか、伊月よりその後のモデルの話の方が気になるんだけど」
瀬良は少し表情を変え、話題を変えた。
「美菜、モデルとかしたいの?」
「え!? あ、モデルの話ね!」
美菜は慌てて話の軌道を修正する。
「……美容師辞めて、芸能界に行きたいとか?」
瀬良は、どこか不安そうに美菜を見つめた。
その目に浮かぶのは、冗談でもなく、心からの問いかけだった。
「し、しないよ!! ちゃんと断るつもり!! 撮影とかは楽しかったけど、私は美容師だから!」
美菜はまっすぐに瀬良を見て、はっきりと答えた。
その言葉を聞いて、瀬良の表情が少し緩む。
「……よかった」
小さく呟いた後、瀬良はふっと微笑んだ。
「俺、美菜と一緒に働くの好きだよ」
「私も瀬良くんと働くの大好き! 毎日楽しいよ!」
「美菜……」
瀬良は自然と美菜の手を取り、ぎゅっと握った。
美菜もその手を優しく握り返す。
その瞬間、まるで世界に二人しかいないような気がした。
(瀬良くんと一緒に働けることが、私にとって何よりの幸せなんだ)
美菜は心の中で、改めてそう思った。
しかし——
「はいはーい、あんまりサロン内でイチャついてると罰金とるからねー」
田鶴屋の明るい声が、二人の空気をあっさりと断ち切る。
「……おはようございます」
瀬良は気まずそうに手を離し、美菜も顔を赤らめながら慌てて振り向いた。
「あ! えっと! ごめんなさい! おはようございます田鶴屋さん!」
「おはよう! 河北さん、昨日どうだったー?」
田鶴屋は荷物を抱えながら、にやにやと美菜を見ている。
「はい! えっと……」
田鶴屋はそのままスタッフルームへと向かっていく。
報告するタイミングを逃す前に、美菜は彼を追いかけた。
「田鶴屋さん! 実は昨日——」
彼女の声が少しずつ遠ざかる。
瀬良は二人を見送り、静かに深呼吸をした。
「……朝練しよ」
誰に言うわけでもなく、自分に言い聞かせるように呟いた。
気持ちを切り替え、再びウィッグに向き直る。
(美菜がどこへ行こうと、何をしようと……俺は俺の仕事をするだけだ)
そう思いながら、瀬良は黙々とハサミを動かし始めた。
***
午前中のサロンは比較的落ち着いており、客足も穏やかだった。そのため、スタッフ全員が順番に昼休憩を取ることができた。
美菜は久々に一人でコンビニへ向かい、お昼ご飯を買うことにした。普段は誰かと一緒に食べることが多かったが、今日は気まぐれに一人の時間を楽しもうと思ったのだ。
コンビニでパンとコーヒーを買い、サロン近くの公園のベンチに腰掛ける。まだ日差しは強いものの、風には少しだけ秋の気配が混じっていた。
(少しだけ肌寒くなってきたなあ……)
夏の終わりを感じながら、美菜は手に持ったパンを一口かじる。カリッとした食感の後に、じんわりとした甘さが広がった。
「……あら? 美菜チャン?」
突然、背後から聞き覚えのある声がした。思わぬタイミングで声をかけられ、美菜は驚いて喉にパンを詰まらせてしまう。
「んぐっ!?」
「ギャァア! 美菜チャン! 大丈夫!?」
慌てふためく相手の声がさらに焦りを煽る。美菜は必死に咳き込みながら、手に持っていたコーヒーを口に運び、一気に飲み込んだ。
「……ぷはっ! だ、大丈夫です!」
なんとか呼吸を整え、咳をおさえた美菜は、ようやく落ち着きを取り戻す。振り向くと、そこに立っていたのは、派手な金髪をくるくると巻いたスタイリッシュな女性(?)――笹原ローズだった。
「昨日ぶりですね、笹原さん」
「あらっ、もうっ! ローズでいいわよっ、美菜チャン!」
にっこりと微笑む笹原は、嬉しそうに美菜の肩をポンポンと叩いた。だが、本人は軽く叩いたつもりかもしれないが、美菜にとっては思いのほか力強かった。
「あはは……ありがとうございます。ところで、ローズさんはどうしてこんなところに?」
美菜は不思議に思いながら尋ねる。すると、笹原は得意げに胸を張りながら言った。
「あら? 海星チャンから聞いてないのォ? 今日はドラマの撮影よっ! ド・ラ・マのっ!」
「ドラマの撮影?」
美菜は目を瞬かせる。
「そうよぉ、しかも海星チャンが主役! モデルも役者も、なんでもこなせちゃうんだから凄いわよねぇ……」
伊月が主役のドラマ。引退してからもその人気は衰えず、こうして新たな仕事をこなしているのだから、やはり彼は本物のスターなのだろう。
「へぇ……伊月さん、ドラマにも出るんですね」
「そぉよぉ! しかも今回は純愛ドラマなの! 期待されてるわぁ!」
笹原は楽しそうに語る。確かに伊月のようなカリスマモデルが俳優業で演技をすれば、話題にならないわけがない。
「でも、ローズさんは現場から離れて大丈夫なんですか?」
「アタシは休憩中っ!」
「なるほど」
ならば問題はないのだろう。美菜は安心したように頷く。
すると、笹原は急にいたずらっぽい笑みを浮かべ、美菜の顔を覗き込んだ。
「……ねぇ、美菜チャン。せっかくだからドラマ撮影、ちょっと見に行ってみない?」
「えっ?」
突然の提案に美菜は戸惑う。だが、確かに撮影現場というのはなかなか見る機会がないし、伊月の演技というのも少し興味があった。ミーハーな気もするが、せっかくの機会だ。
「……じゃあ、ちょっとだけ覗いてみようかな?」
「うふふ、決まりね! じゃ、レッツゴー!」
ノリノリの笹原に引っ張られるようにして、美菜はベンチから立ち上がった。コーヒーのカップをゴミ箱に捨て、二人は撮影現場へと足を向けた。
***
笹原に連れられて向かった撮影現場には、数多くのカメラマンやスタッフが慌ただしく動き回っていた。機材のコードが張り巡らされ、照明の位置を微調整するスタッフの姿も見える。美菜は圧倒されながらも、少し興味をそそられて辺りを見渡した。
ちょうど今、撮影が進行している最中のようだった。
その中心にいるのは伊月海星。そして、彼が向き合っているのは若い女性の女優だ。
伊月は切なげな表情を浮かべながら、その女性を抱きしめる。
「……あら、そういえば美菜チャン平気?」
笹原が、ふいに美菜の耳元で囁くように聞いてきた。
「ん?何がですか?」
「海星チャンのこんなシーン見たら、嫉妬しちゃうんじゃない?」
笹原は唇に手を当てながら、いたずらっぽく微笑む。
美菜は一瞬きょとんとしたが、すぐに理解し、苦笑いを浮かべた。
「……ローズさん、私、伊月さんのこと恋愛対象として見てないですよ。それに、私、彼氏いますから」
「まぁ!そうだったの!?」
笹原は思わず大きな声を上げそうになり、ハッとして口を押さえた。美菜も慌てて「しっ!」とジェスチャーをする。二人は周囲を気にしながら、再び小声で会話を続けた。
伊月の撮影は進んでいる。
『もうアイツの所に行くなよ……』
『結衣くん……』
その台詞と共に、伊月は女性を後ろから抱きしめ──そして、彼女の肩をそっと掴み、顔を近づけ、唇を重ねた。
美菜は思わず息をのんだ。
「……」
笹原はそんな美菜の横顔を見て、小さく笑った。
「カット!確認しまーす!」
監督らしき人物の声と同時に、スタッフたちが一斉に動き出す。モニターをチェックする者、照明を微調整する者、脚本を確認する者。忙しない動きが場を支配していた。
伊月はスタッフと何かを話した後、その場をすっと離れていく。
「あれ?伊月さん、どこかに行っちゃいましたね?」
「……」
笹原は少し考え込んだ後、ふと何かを思いついたように美菜の背中を軽く押した。
「海星チャンにこのお水、渡してきてちょーだい!アタシは他の演者のメイクを直してくるから!」
「えっ?」
気づけば、美菜の手の中には冷たいペットボトルが握らされていた。
「えぇ……」
どうやら断る暇すら与えられなかったらしい。仕方なく、美菜は撮影現場の外へと向かい、伊月の姿を探した。
***
「伊月さーん、どこですかー?」
名前を呼びながら歩くものの、ふと口を押さえる。
(芸能人の名前を大声で呼んだらまずいよね……)
とはいえ、なんと呼べばいいのかもわからず、仕方なく周囲を見回しながら進む。
──そして、公園の蛇口のそばで何かをしている伊月を見つけた。
彼は蛇口から水を出し、何度も口をゆすいでいるようだ。
美菜は伊月の姿を見つけ、そっと近づいた。公園の片隅、撮影現場から少し離れたところにある水飲み場で、伊月は蛇口の水を手ですくい、静かに口をゆすいでいた。その横顔はどこか物憂げで、普段の華やかさとは違う雰囲気をまとっている。
「お疲れ様です、伊月さん」
遠慮がちに声をかけると、伊月はゆっくりと顔を上げた。目が合うと、一瞬驚いたような表情を見せる。
「……美菜ちゃん?なんでこんなところに?」
美菜は手に持っていたペットボトルを見せながら、少しだけ微笑んだ。
「ローズさんと偶然お会いして、撮影の話を聞いたんです。それで、見学させてもらいました」
「…………見てたの?」
伊月の表情がほんのわずかに曇る。眉がわずかに寄せられ、目線が少しだけ逸れた。その反応に、美菜は戸惑う。
「……嫌なところ、見られたな……」
小さく漏れたその言葉は、かすれていて美菜の耳にははっきり届かなかった。ただ、伊月が手に持ったタオルで何度も口元を拭っているのを見て、美菜はなんとなく察した。
(もしかして、あのキスシーン……あんまりやりたくなかったのかな)
「なんか、勝手に見ちゃってすみません」
そう言うと、伊月は軽く首を振った。
「いや、別に……」
その言葉とともに、伊月は口元を拭う手を止める。そして、いつものように柔らかい笑顔を浮かべた。
「ところで、美菜ちゃんはまだ時間ある?」
「いや、そろそろ戻ろうかと」
「なら、途中まで送るよ」
伊月がさらりと言うが、美菜はそれよりも気になることがあった。なんとなく、伊月の様子がいつもと違う気がする。
「……なんか、伊月さん今日体調悪いんですか?」
「……え?いや?」
伊月はとぼけるように首を傾げるが、その仕草とは裏腹に、顔色は少し悪い。撮影のときはそうでもなかったのに、今はどこか疲れたような雰囲気すら感じる。
美菜は迷った末に、そっと伊月の頬に手を当てた。
「……ッ!」
突然の接触に、伊月は息を呑んだ。途端に顔が赤くなる。
(え……熱あるのかな?)
美菜はそう思って、少し心配になる。けれど伊月は、すぐに美菜の手をそっと握り、ゆっくりと自分の頬から下ろした。
「大丈夫だよ」
伊月は微笑む。しかし、その笑顔の奥に、何か隠しているような違和感があった。
美菜は完全には納得できなかったが、そこまでしつこく聞くのも悪い気がして、軽く頷いた。
「……ならいいんですけど」
そう言って帰ろうとしたとき、不意に伊月の声が優しく響いた。
「……美菜ちゃん」
「はい?」
美菜が振り向くと、伊月はどこか迷うような表情をしていた。そして、少しの間、言葉を探すように沈黙した後、意を決したように口を開いた。
「美菜ちゃん、あのね、僕……」
しかし、その瞬間——
遠くから瀬良の声が聞こえた。
「……あれ? 瀬良くんが呼んでる?」
美菜は驚いてあたりを見回す。少し離れた場所に、瀬良が立っているのが見えた。
(探しに来てくれたのかな)
安心したように、美菜は瀬良に向かって手を上げようとした。そのとき——
「……わっ!」
突然、伊月が美菜の手を強く引いた。
体勢を崩した美菜は、そのまま伊月の胸に背中を預ける形になる。思わぬ力強さに、美菜は一瞬息を呑んだ。
「……ごめん、美菜ちゃん」
伊月の声は静かだった。
次の瞬間、美菜の手がそっと解放され、ふわりと距離が戻る。
「……あ……えっと、私、そろそろ戻りますね」
動揺したまま、美菜は急いで瀬良の元へ駆け出した。
(……なんで、あんなことしたんだろう)
胸の奥に、ざわざわとした感情が渦巻く。
でも今は、それを考えている暇はなかった。早く、瀬良のところに戻りたかった。




