Episode190
「はーい、OKでーす」
撮影スタジオに響くカメラマンの斯波英介の声。彼はモデルの女性を何枚か撮影し、モニターでデータを確認する。しかし、どこか納得がいかない表情でため息をついた。
(伊月くんが選んだモデルだけど……なんというかノらないんだよなぁ)
何かが足りない。確かに美しいモデルたちだが、斯波の胸を高鳴らせるものがない。
初めて伊月海星を撮影した時のことを思い出す。
あの時の衝撃は今でも忘れられない。カメラマンとしてのキャリアの中で、あれほど心が躍った瞬間はなかった。彼の存在は、写真の中でいつも異彩を放ち、斯波の感覚を刺激する。伊月を撮るたびに、新しいインスピレーションが湧き上がった。しかし、それは伊月以外のモデルには感じられない。
「斯波さん、撮影ありがとうございました」
伊月がモニターの前に立ち、斯波の肩越しに写真を覗き込む。
「いーえ、どういたしまして」
「いいの、撮れました?」
「伊月くんが選んだモデルだから、綺麗な子ばっかりだよ」
「でも、楽しそうじゃないですね」
伊月は微笑を浮かべながら、斯波の表情を見抜いたように言う。斯波は苦笑し、カメラをいじる手を止めた。
「伊月くんくらいの潜在……いや、それを超えるモデルにはもう会えないのかもしれないなあ」
「ふふっ、ご冗談を」
伊月は冗談めかして言うが、その瞳は何かを見透かしているようだった。斯波は心の中でため息をつく。カメラを握るたびに感じていた熱い衝動が、今はもうほとんど残っていない。伊月を撮影する時だけ、かろうじてそれが蘇る。それが寂しくもあり、また伊月という存在の特別さを痛感する瞬間だった。
「おじさんはねぇ、伊月くん以外にも心踊りたいのよ」
「えー、浮気ですか?」
冗談を交えながら話す二人。しかし斯波は、伊月の瞳に潜む何かに気づいた。まるで、すべてを見通しているようなその目に。
「ふふっ、斯波さんが気にいる子……用意できたって言ったらどうします?」
「……俺は女紹介されても別に嬉しかねーよ」
「そういう事じゃないですよ。キャバクラの女の子紹介してる訳じゃないんですから」
伊月は斯波の胸ポケットに手を伸ばし、さっと名刺を抜き取る。
「あっ……!ちょ!」
慌てる斯波を見て、伊月はくすくすと笑った。
「へー、キララちゃん。斯波さん結局こういうところ好きですもんね」
「……おじさんもちやほやされたい時もあるんだよ」
斯波はそっぽを向きながら、名刺を取り返して胸ポケットにしまう。
「斯波さん、まだ時間ありますよね?」
「まあ、撤収まであと1時間くらいは……」
「なら、もう少ししたらきっといいことが起きますよ」
伊月の言葉に、斯波は眉をひそめる。伊月がこういう時に何かを企んでいることは、長い付き合いの中で嫌というほど知っていた。
「はいはーい!おっまたーーー!主役のご登場でぇーす!」
「ちょ、笹原さん!?」
唐突な笹原の声とともに、美菜が強制的に前に押し出される。スタジオにいたスタッフ全員の視線が、一斉に彼女へと注がれる。
「………ッ!」
斯波の目が見開かれる。
(……これは……)
一瞬で空気が変わった。美菜が放つ独特の雰囲気に、斯波の枯れかけていた心が揺さぶられる。
「ね?僕の言った通りでしょ?」
斯波の耳元で怪しく囁き、満面の笑みで美菜のもとへと歩み寄る伊月。
「……綺麗だね、美菜ちゃん。まるでモデルみたいだ」
「伊月さん……あの、勝手に服着ちゃってごめんなさい」
「いいんだよ。その服、美菜ちゃんにプレゼントしようかと思ってたから」
「ええ……」
美菜はワンピースの裾を軽くつまみ、素材の感触を確かめる。
「メイクも可愛いね。あ、美菜ちゃんはいつでも可愛いけどね」
伊月がさらりと言うと、美菜は途端に赤面する。
「せっかくだし、記念に撮ってもらおうよ」
「……ええ!?わ、私がですか!?」
「笹原さんのメイクと、僕のデザインした服、そして斯波さんという一流のカメラマン。こんな機会、滅多にないよ?」
伊月が指した先では、斯波が既にカメラを構え、美菜を見つめていた。
「……マジかよ」
斯波は無意識に美菜へと歩み寄り、カメラを覗き込む。
「カメラマンの斯波英介だ。君、新しいモデルの子?」
「あ、美容師の河北美菜です。よろしくお願いします」
「……美容師?モデルじゃなくて?」
斯波は目を見開き、信じられないような表情を浮かべる。
「せっかくだから撮ってもらおうよ?」
「あっ、ちょっと!」
伊月に手を引かれ、美菜は半ば強引に撮影ブースへと移動する。
「斯波さーん、お願いしまーす!」
伊月が手を振り、斯波は無言でシャッターを切る。
最初はぎこちなかった美菜の表情も、伊月の言葉や仕草に導かれ、次第に自然な笑顔に変わっていく。
「瀬良くんが見たら怒るだろうね」
伊月が美菜の腰に手を回し、軽く抱き寄せる。
「……か、からかわないでくださいっ!」
「ふふっ、本気なんだけどなぁ〜?」
シャボン玉が舞い、光が反射する中、美菜の表情はますます輝きを増す。斯波は息を呑んだ。
(……この子だ)
美菜という存在が、斯波の枯れかけた情熱に再び火を灯す。伊月はそれを見抜いていたのだろう。
(伊月くん……お前ってやつは……)
斯波の手が、夢中でシャッターを切る。
それはまるで、再び心が躍る感覚を取り戻すかのように——。
***
シャッター音が響き続ける。
美菜の表情が変わるたびに、光の加減が変わるたびに、斯波の指は自然と動いていた。
(やばい……止まらねぇ……)
モデルとしての経験がないはずなのに、美菜の表情はどこか惹きつけられるものがあった。
カメラ越しに彼女を見れば見るほど、彼女の「美しさ」をもっと切り取りたくなる。
「河北ちゃん、少しだけ顔を左に向けてみて」
斯波が声をかけると、美菜は少し戸惑いながらも、言われた通りに顔を傾ける。
「おぉ、いいね。そのまま」
(なんかすごい見られてる……)
美菜は頬を紅潮させながら、カメラの前でおずおずと動く。
伊月がそっと美菜の髪を整え、微笑んだ。
「美菜ちゃん、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「でも、やっぱり私、モデルじゃないし……」
「関係ないよ。君は綺麗だから」
「……っ!」
伊月の言葉に、美菜はますます顔を赤くする。
「河北ちゃん、その恥ずかしそうな表情、すごくいいよ」
「ちょ、斯波さんまで!?」
「ほら、自然な笑顔が一番だよ」
斯波は一瞬たりともシャッターチャンスを逃さない。
照れながらも、伊月の軽口に思わず微笑む美菜。
その笑顔があまりにも魅力的で、斯波は興奮を隠せなかった。
(この子……まさに、俺が探してた“光”だ……!)
美菜の無防備な仕草、優しげな微笑み、ふとした瞬間の真剣な表情——すべてが写真に収まるたびに、斯波の心は高鳴った。
「うーん、こりゃあ傑作だな」
シャッターを切り終えた斯波が、モニターに映し出された写真を見つめながら呟く。
「どれどれ?」
伊月が覗き込み、美菜も恐る恐る覗く。
「わ……」
美菜の目が見開かれる。
そこに映っていたのは、自分とは思えないほど輝いている自分だった。
「これ……本当に私……?」
「もちろん。加工も何もしてない、そのまんまの君だよ」
「信じられない……」
美菜は呆然としながら、写真を見つめ続けた。
確かに、普段の自分よりも綺麗に見える。だけど、それは作られたものじゃない。
そこに映っていたのは、確かに「河北美菜」だった。
「ね、斯波さん。美菜ちゃん、すごいでしょ?」
伊月が得意げに笑う。
「……ああ、文句なしだ。伊月くんの目はやっぱり確かだな」
斯波は腕を組み、しみじみと呟く。
「河北ちゃん……いや、美菜ちゃんって呼ばせてもらうよ。君、俺のミューズにならない?」
「ミューズ……?」
「そう。俺がカメラマンとして追いかけたくなる存在ってことだ」
「ええええっ!?!?」
思いがけない申し出に、美菜は完全に固まった。
「いやいやいや、私、ただの美容師ですし!モデルとか無理ですよ!」
「美容師だろうと関係ない。モデルなんて肩書きは後からついてくるもんだ。問題は、俺が撮りたいかどうか——で、その答えはもう決まってる」
斯波の瞳には、熱い情熱が宿っていた。
「いや、でも……私……」
美菜が戸惑っていると、伊月がそっと彼女の肩に手を置いた。
「美菜ちゃん、楽しかった?」
「え……?」
「撮影されるの、嫌じゃなかったでしょ?」
「それは……まあ……」
「なら、試しにやってみたら?君がどう感じるか、それから決めても遅くないよ」
伊月の言葉に、美菜は少し考え込む。
(確かに、撮影されるのが嫌だったわけじゃない。でも……)
ふと、瀬良の顔が頭に浮かぶ。
(瀬良くん……こんな私を見たら、なんて言うだろう……)
彼の反応が、なぜか気になった。
「……ちょっと、考えさせてください」
美菜はそう言って、申し出を一旦保留にした。
斯波は少し残念そうな顔をしたが、すぐに笑って言った。
「OK。俺はいつでも待ってるよ。だけど、俺の勘は当たるんだ。君はきっと、またカメラの前に立ちたくなる」
「……そんなこと、ないですよ」
美菜は苦笑しながらも、モニターに映る自分の姿から目を離せなかった。
(こんな私が、本当にモデルになんて……)
だけど、その「もしも」を否定しきれない自分もいた。
——そして、この日撮られた写真が、後に思わぬ波紋を呼ぶことになるとは、美菜はまだ知らなかった。
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