Episode18
朝のサロンはまだ静かで、ドライヤーの音も聞こえない。
鏡越しに映る自分の顔を見つめながら、美菜はぼんやりと考え込んでいた。
(……私、ちゃんと吹っ切れたのかな……)
店長に身バレしたことは、もうどうしようもない。
でも、田鶴屋が「みなみちゃん」としての自分を覚えていて、あんなにも感謝してくれていたことを思うと、やっぱり少し複雑な気持ちになる。
「……河北さん」
不意に呼ばれ、はっと顔を上げる。
瀬良が、少し眉をひそめながらこちらを見ていた。
「……また何か悩んでる?」
「え?」
「最近ずっと何か考え込んでる顔してるから」
言われてみれば、瀬良は最近よく美菜の様子を気にかけてくれている。
「そ、そんなことないよ!」
慌てて否定するが、瀬良の鋭い視線はそれを簡単には受け入れない。
「仕事のことなら……俺にできることがあるなら言えよ」
静かな声だった。
他のスタッフには聞こえないように、少しだけ距離を詰めて言う。
「えっ……」
美容のことなら、瀬良に相談できることは山ほどある。
でも――これは美容のことじゃない。
瀬良の期待するような答えは、今の美菜には出せなかった。
「……違うんです」
「違う?」
「仕事のことじゃなくて……えっと……その……」
VTuberのことも言えない。
田鶴屋店長に身バレしたことも言えない。
言葉を探しているうちに、美菜はどんどん口ごもってしまう。
そんな美菜を見て、瀬良はふっと息をついた。
「言いたくないなら、無理に話す必要はない」
「……え?」
「俺だって、みんなには言ってないことがある」
瀬良は少し遠くを見るような目をして、ゆっくりと言葉を続ける。
「別に、わざわざ言う必要もないし、誰かに探られるのも好きじゃない」
それは、自分のことを言っているのだろうか。
それとも、美菜に対しての励ましなのだろうか。
「……結局、自分のことは自分で決めるしかないしな」
「……」
その言葉が、美菜の心にすっと染み込んでいく。
(そうだ……話さなくたっていい。私は私のままでいい)
「ありがとう、瀬良くん」
自然と笑みがこぼれた。
***
朝練の後、二人で器具を片付けていると、サロンの入り口から見慣れた背の高いシルエットが現れた。
「おはよー」
田鶴屋だった。
(珍しい……いつもギリギリに来るのに)
「おはようございます、店長」
挨拶しながら、美菜はふと顔を上げる。
田鶴屋と目が合った瞬間、美菜は少しだけ口角を上げ、そっと店長の横を通り過ぎながら、小さな声で囁く。
「これからも応援してくださいね」
田鶴屋の足が一瞬止まる。
驚いたように目を瞬かせたが、すぐに「おう」と短く返し、いつもの軽い調子で肩をすくめた。
それを見て、美菜はようやく、完全に吹っ切れた気がした。
***
一方、片付けを終えてバックヤードに戻ってきた瀬良は、その光景を目の端で捉えていた。
(……今、河北、店長に何か言った?)
田鶴屋は驚いたような顔をしていた。
そして、美菜は微笑んでいた。
――まるで、特別な関係にあるみたいに。
(……いや)
自分の中に生まれた感情に、瀬良は戸惑った。
(河北さんの悩みって、まさか……店長のことか?)
瀬良は、さっきの美菜と田鶴屋のやり取りを思い返す。
美菜のあの小さな笑顔。
田鶴屋の驚いた顔。
(店長と……何かある?)
仕事の相談なら普通に話せばいい。
それなのに、あんなふうにわざわざ耳打ちして、田鶴屋が驚くようなことを言う必要があるのか。
――秘密にしたいこと。
――誰にも言えない悩み。
(もしかして、店長と付き合ってる……?)
瀬良の心臓が、妙にうるさく鳴る。
(いや、でも……)
美菜と田鶴屋の関係が、ただの店長と部下なら問題ない。
でももし――社内恋愛で、秘密にしたいなら?
そう思った瞬間、瀬良の中でモヤモヤした感情が膨れ上がる。
(……なんだよ、それ)
田鶴屋に取られたくない?
いや、そんなことを考えるのはおかしい。
でも、もし美菜が田鶴屋とそういう関係なら、あの笑顔も、悩んでいた理由も、すべて納得できる。
瀬良は無意識に拳を握っていた。
(……なんで俺、こんなに気になるんだ?)
自分の胸の奥に生まれた違和感を、瀬良はまだ整理できずにいた。
***
「瀬良くん、どうしたの?」
唐突に声をかけられ、瀬良はハッとする。
振り返ると、そこには美菜が立っていた。
朝練が終わり、ヘアセットをした美菜は、いつもの明るい雰囲気を取り戻しているように見えた。
「……いや、別に」
「なんか難しい顔してましたけど?」
「考え事してただけ」
「ふーん?」
美菜はじっと瀬良の顔を覗き込む。
瀬良はそれが妙に落ち着かなくて、視線を逸らした。
「河北さんこそ、すっきりした顔してるな」
「……まあ、いろいろ吹っ切れたので!」
「そっか」
瀬良は短く返したが、心の中ではまだモヤモヤしていた。
美菜が吹っ切れた理由が、田鶴屋と関係あるのだとしたら?
(……なんか、面白くねぇな)
自分でも驚くほどはっきりとした感情が胸にあった。