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Episode186



「お邪魔します……」


美菜は少し緊張しながら、伊月の案内で部屋の中へと足を踏み入れた。


家兼事務所と言っていただけあって、伊月のオフィスにはどこか生活感が漂っていた。とはいえ、そこらに適当に物が散らかっているわけではなく、全体のインテリアに溶け込むように、さりげなく日常を感じさせるアイテムが配置されている。


(田鶴屋さんの家もすごくおしゃれだったけど……伊月さんの家?事務所?って、それ以上に洗練されてるなぁ……)


美菜は天井を見上げ、高い天井の空間に堂々と吊るされたシャンデリアを眺める。


(いやいや、シャンデリアがある家って何……!?)


心の中で思わずツッコミを入れながらも、センスの良さには感心してしまう。どこを見ても雑な部分がなく、まるで高級ホテルの一室のような雰囲気だ。


「紅茶飲む?コーヒー?」


「えっ、あ、じゃあ……紅茶で」


「おっけ、紅茶ね。適当に座ってていいよ」


紅茶の準備をする伊月の声に促され、美菜は部屋の中央にあるソファへと歩み寄る。


(……わぁ、ふかふか……)


座った瞬間、柔らかさに包み込まれるような感触が全身に伝わり、美菜は思わず頬を緩める。座り心地の良さに少しだけ身を沈め、心地よさを堪能していると、ほどなくして伊月が嬉しそうに紅茶を差し出した。


「はい、どうぞ」


「わぁ……いい香り……」


立ち上る湯気とともに、アールグレイ特有の柑橘系の爽やかな香りがふわりと鼻をくすぐる。美菜はアールグレイが大好きだ。思わず目を輝かせながらカップを受け取り、そっと一口含む。


「……美味しい……!」


口の中に広がる芳醇な香りと、まろやかな味わい。その一口で、美菜の表情がぱっと明るくなる。今まで飲んできたアールグレイよりもはるかに上質で、香りの広がり方が違う。


「ははっ、気に入ってくれてよかった!僕もこれ、大好きなんだ。よかったら持って帰る?」


「えっ、いいんですか?」


「もちろん。遠慮なく持って帰りなよ。ちょっと待ってね……あ、瀬良くんの分も持って帰る?」


「え、いや、そんな気を使ってもらわなくても……」


「いいのいいの、たくさんあるから」


伊月は軽い調子で、新品の茶葉が入った袋を取り出し、美菜に手渡す。その動作に一切のためらいはなく、心から気に入ったものを勧めたいという気持ちが伝わってくる。


「ありがとう……」


「どういたしまして」


そして、伊月は美菜の向かい側に座ると、タブレットを取り出した。


「さっそくだけど仕事の話をするね。これ、見てくれる?」


「はい!よろしくお願いします!」


仕事に対しては、伊月も美菜も真剣だ。

メイクの方針や撮影当日の流れ、モデルとの相性、照明の影響など、細かく打ち合わせを進めていく。


「……あれ?この服って……」


「ん? ああ……」


タブレットの画面に映る衣装の写真を見つめ、美菜はあることに気がつく。

共通点の多い衣装。

造り手がかなりこだわっているのだろうか。

何枚かめくってみるが、どのデザインも目を引くものばかりだった。


「実は、これ僕のデザインの服なんだよね」


「えっ!? 伊月さん、デザイナーもできるんですか!?」


「いや、まだ勉強中だよ。でもずっと……してみたかったんだ、こういうの」


どこか照れくさそうに言う伊月の姿に、美菜は驚く。


芸能界に嫌気がさしていたはずの伊月が、どうして今もここにいるのか――。

それは、やはり彼が持つ類まれな才能のせいなのかもしれない。周囲から求められる存在だからこそ、完全には離れられなかったのだろう。


でも、今の彼は新しい可能性に挑戦しようとしている。その事実を知り、美菜はどこか尊敬の念を抱いた。


「……伊月さん、すごいですね」


「すごい? 何もすごくないよ。まだまだだし、なんならこれがスタートラインだからね」


伊月は謙遜しながらも、どこか嬉しそうに笑う。その表情は、美菜にとってとても素敵に見えた。


(伊月さん、したいことが見つかった顔してる……)


どこか晴れやかで、決意を秘めたその瞳。美菜は思わず、その姿をじっと見つめてしまう。


「私、明日楽しみです!全力で頑張りますね!!」


「ありがとう。美菜ちゃんがいると心強いよ」


「あははっ、伊月さんはそうやっていつも……」


「本当だよ。僕は美菜ちゃんが居てくれたら無敵なんだ」


また冗談を――そう言おうとした瞬間、美菜はふと息をのんだ。


伊月の目が、一瞬だけ鋭く、真っ直ぐになった気がした。普段の柔らかな雰囲気とは異なる、何か別の感情が垣間見えた気がする。それは、危ういほどに真剣で――。


「……明日、いい仕事になるといいね」


だが、伊月は穏やかに笑い、紅茶を口に運ぶ。


(……気のせい、かな)


さっきの一瞬の違和感は、ただの錯覚だったのかもしれない。あまり深く考えるのはやめよう。そう思いながら、美菜も紅茶を飲み干す。


「よろしくお願いします。頑張りますね」


席を立とうとすると、伊月がふと声をかけた。


「あ、ちょっと待って」


「はい?」


「お願いがあるんだけど……」


少し言いにくそうに、伊月は言葉を探るような仕草を見せる。


「あのさ、この後時間大丈夫なら……僕のデザインした服、仕立て上がってて、何着か美菜ちゃんに着て欲しいなって……」


「私が……ですか?」


「うん、ダメ……かな?」


いつもの自信満々な伊月とは違い、どこか不安げな表情を浮かべる。こんな伊月を見るのは初めてだった。


「私で良ければ、喜んで」


美菜がそう答えた途端、伊月の顔がパッと明るくなる。それはまるで、子供のような純粋な喜びを表した笑顔だった。


美菜はそんな伊月を見て、少しだけ可愛く思えた。



***



渡された服は、繊細なレースが施されたエレガントなワンピースだった。


「まだこの服は試作なんだけど、着心地とか教えてくれるかな?」


伊月は優しく微笑みながら、美菜にワンピースを手渡した。


「分かりました」


美菜はワンピースを大切そうに受け取り、隣の部屋へと移動する。


更衣室代わりに使われている部屋は、他の場所と同じように洗練されたデザインで、姿見が大きく設置されていた。美菜は慎重にワンピースに袖を通し、そっと身体を通していく。


(サイズは大丈夫そう……)


布が肌に触れた瞬間、心地よい質感に思わずほっと息をつく。滑らかな生地が優しく肌を包み込み、締め付け感もなく、それでいてシルエットは美しく決まる。


(……この服、結構私好みなんだよね……)


鏡越しにワンピース姿の自分をじっと見つめる。控えめながらも上品なレースの装飾が施されており、デザインはシンプルながらも細部まで計算されているのが分かる。


(発売したら欲しいかも……)


後ろのファスナーを上げて、鏡に映る自分の姿をくるくると角度を変えて確認する。どの角度から見ても美しく、動きに合わせてふわりと裾が揺れる様子に思わず見惚れてしまう。


「……可愛い服」


着るだけで心が弾み、いつもの自分とは少し違う気分になれる。


(服って、こういう魔法みたいな力があるんだよね)


美菜は軽く頬を染めながら、伊月の元へ戻った。


「……どう、ですか?」


少し恥ずかしそうにスカートの端を摘みながら尋ねると、伊月は一瞬驚いたような表情を浮かべ、それから目を大きく見開いた。


「……え、あ!」


美菜の視線に気づき、慌てて顔をほころばせる。


「ごめん、すごく似合ってる!」


伊月は笑いながら、美菜の姿を上から下まで何度も確認する。


「へぇ……すごい……」


美菜に見惚れていたのがあまりにも露骨で、彼女は思わず頬を染めた。


(なんか、こんなに見られると恥ずかしいな……)


視線がくすぐったくて、思わず指先がスカートの裾を弄る。


「動きにくさとかない?」


「無いですね。すごく生地もいいし、むしろ動きやすいワンピースかも」


「ファスナー上げにくくなかった?」


「大丈夫……だけど、ファスナーはもう少し目立たない方がいいかも?」


「なるほど」


真剣な眼差しで美菜の姿をチェックしながら、伊月は小さく頷く。そして、ふと後ろに回ると、ファスナー部分にそっと指を伸ばした。


「ここ、当たってて痛くない?」


「……ひゃぁっ……!」


思わず美菜の身体がぴくりと震え、可愛らしい声が漏れた。


伊月としてはあくまで真面目に確認しただけだったが、美菜は不意を突かれてしまい、一気に顔が熱くなる。


「えっ……と、ごめんね……?」


少し困惑したように伊月が覗き込んでくるが、美菜は余計に恥ずかしくなり、顔を伏せる。


(どう考えても、こんな声を出していい状況じゃなかった……!)


伊月は心底申し訳なさそうな顔をしているし、完全に悪気がなかったのは分かる。それでも恥ずかしくて顔を上げられない。


「……ごめんなさい、こしょばくて……なんか変な声出ました」


「………………ッ」


美菜の羞恥に赤く染まった顔を見て、伊月は一瞬息をのんだ。


「かわッ……んん”!」


思わずクラッときそうになるのを、必死に抑え込む。


「いや、ごめんね。いきなり触った僕の配慮が足りなかったよ」


「いえ……」


なんとも言えない空気になり、美菜は小さく咳払いをする。


(この雰囲気、変えないと……!)


まだ耳まで赤いままだが、自分のせいで変な空気になったのは間違いない。無理やりにでも話題を切り替えなければ。


「すみません、触る時は教えてください」


「うん、ごめんね」


伊月はくすくすと笑いながら、美菜の顔を覗き込む。その仕草がまた余計に恥ずかしく、美菜はさらに顔を背けた。


「で、このファスナーの内側が肌に当たってると思うんだけど、しんどくない?」


「大丈夫ですよ。内側に保護の布もあるし」


「なら良かった……あ、ごめん、ウエストの余裕を見たいから触るね?」


「どうぞ」


伊月は美菜のウエスト部分の布を軽く引っ張りながら、シルエットの調整を確認していく。


(……こそばゆい……)


布越しとはいえ、伊月の指先が横腹を何度か撫でる感触が伝わり、美菜はくすぐったさを必死に耐える。


「…………〜ッ」


(今度は絶対に変な声を出さない……!)


先ほどの失態を繰り返すまいと、唇を軽く噛んでこらえる。


しかし――。


「美菜ちゃん、横腹も弱いんだね」


「えっ、ちょっ――」


「こうしたら……ほら、どうなる?」


「あひゃひゃひゃひゃひゃ!!」


突然、伊月が意地悪く美菜の横腹をこしょばし始めた。


「ちょっ……あははっ、やめて……ひゃ、ひゃめっ……!!」


美菜は思わず身をよじり、笑いながら逃げようとするが、伊月の手は容赦なく追いかけてくる。


「えっ、これ可愛すぎない?もっと聞きたいかも」


「やっ……!!バカぁ!!あははは!!」


必死に抵抗しようとするも、笑いすぎて力が入らない。


「伊月さんっ!ほんとにやめてっ!!」


「ふふっ、ごめんごめん、でもさ……めちゃくちゃ可愛かった」


「もぉぉぉ!!」


顔を真っ赤にして怒る美菜を見て、伊月は満足そうに笑った。


美菜は大きく息を吐きながら、乱れた呼吸を整える。


(なんで試着してるだけなのに、こんなに疲れるの……)


横腹をくすぐられた余韻で、まだ身体の感覚がふわふわする。伊月はどこか楽しそうな笑みを浮かべながら、美菜の様子をじっと見つめていた。


「もう……ほんとにやめてください……」


「ごめんごめん、ついね。でも、ちゃんとフィット感も確認できたし、収穫はあったよ」


「収穫って……」


美菜は頬を膨らませながら、ワンピースのウエスト部分をさりげなく撫でる。先ほど伊月の指が触れた部分が、なんとなくまだくすぐったい気がする。


(絶対、からかうためにやったでしょ……)


伊月はそんな美菜の反応に満足したように微笑みながら、ノートを取り出して試着の感想をメモし始める。


「ファスナーの位置は少し改良が必要かもね。あとは、動きやすさは問題なさそうだけど……スカートの広がりはどう?」


「うーん……」


美菜はスカートの裾を軽くつまみ、ひらりと揺らしてみる。程よく広がるシルエットが美しく、可愛らしさと上品さのバランスが絶妙だ。


「すごくちょうどいいです。広がりすぎず、でも動いたときに綺麗に揺れる感じで……」


「そっか、よかった」


伊月は満足げに頷きながら、美菜の姿をまたじっと見つめる。


「……そんなに見られると、恥ずかしいんですけど」


美菜がそっと視線をそらすと、伊月は苦笑しながら肩をすくめた。


「だって、美菜ちゃんにすごく似合ってるんだもん。自分で見てもそう思わない?」


「……まあ、確かに可愛い服だなとは思いますけど」


「ほらね。じゃあ、自信持っていいと思うよ」


「別に、そういう話じゃなくて……!」


美菜は少しむくれたように視線を逸らす。


伊月はそんな彼女の反応にクスッと笑いながら、メモ帳に何かを書き込む。


「このデザイン、試作じゃなくて正式に商品化してもいいかもなぁ……美菜ちゃんみたいに、こういう雰囲気の服が似合う人は結構いると思うし」


「発売するんですか?」


「うん。元々、量産するつもりで作ってたんだけど、実際に着てもらうとイメージがもっと具体的になるね。あと、もし改良点があればどんどん教えてほしいな」


「うーん……」


美菜は改めてワンピースの細部を確認しながら、軽く身体をひねって動きを確かめる。


「今のところ、大きな問題はないですね。でも、ウエストの部分がもう少し調整できると、もっと体型にフィットしやすくなるかも……?」


「なるほど。調整用のリボンをつけるとか?」


「それ、いいと思います!」


美菜がぱっと顔を上げると、伊月は嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、それも検討してみるね。やっぱり実際に着てもらうと参考になるなぁ」


「私の意見、役に立ちました?」


「もちろん。むしろ、美菜ちゃんのために作った服みたいになっちゃったかも」


「えっ……」


突然の言葉に、美菜は思わず固まる。


伊月は軽く笑いながら、「冗談だよ」と付け足したが、どこか本気にも聞こえる言い方だった。


(……なんか、変に意識しちゃう……)


美菜は照れを隠すように、スカートの裾をそっとつまむ。


「ありがとね!それじゃ、着替えてきていいよ」


「はい……」


美菜は少し落ち着かない気持ちを抱えながら、再び別室へと向かった。


伊月の言葉が頭の中に残ったまま、ワンピースを脱ぎながらそっと呟く。


「……やっぱり、この服、欲しいかも」


服を畳みながら、そっと頬を染める美菜だった。


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