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Episode185



仕事を終えて帰宅すると、美菜はすぐに支度を済ませ、ひと息ついた。


シャワーを浴び、軽くストレッチをして疲れをほぐし、髪を乾かしながら心を落ち着ける。


今日の仕事も充実していた。瀬良と話して、自分の気持ちを整理できたのも大きい。


けれど、今からかける電話は、それ以上に緊張するものだった。


(本当にこれでいいんだよね)


自分にそう問いかけながら、美菜は深呼吸をする。


スマホを手に取り、伊月の連絡先を開いた。


軽く指先が震えたが、迷いを振り払うように発信ボタンを押す。


コール音が何度か鳴ったあと、穏やかな声が電話越しに響いた。


『やあ、連絡待ってたよ』


その声音には、どこか微笑んでいるような余裕があった。


「お疲れ様です、伊月さん。今、お時間よろしいでしょうか?」


『うん、大丈夫だよ。というか、そんなにかしこまらないでよ!もっと美菜ちゃんらしく話してくれたらいいのに』


「そんな事言われても……」


美菜は少し困ったように言葉を濁した。


正直、伊月とどんな距離感で話せばいいのか、自分でもよく分かっていなかった。


一応、仕事の話だから敬語のほうがいいのだろうけれど、伊月のフランクな態度に引っ張られてしまう。


かといって、完全に砕けた話し方をするのも何だか違和感がある。


(結局、敬語とため口の中間くらいで話すのがちょうどいいんだろうなぁ)


そんな風に考えながら、美菜は本題に入った。


「えっと……この間の件なんですけど、私……やっぱりやってみたいなって思ってて!」


『うん、ならお願いできるかな?僕としては嬉しいよ』


「私、上手くできるか分からないけど……でも、こんなチャンス二度と来ないかもしれないし、できるところまでやってみたいです!」


その言葉に、伊月はくすっと笑った。


『えー?僕と一緒にいたら、好きなだけ芸能界の仕事なんか振れるのに』


冗談めかした言い方に、美菜は一瞬言葉を詰まらせる。


(……こんな言い方されて……もしかして、伊月さんってまだ私のこと……?)


一瞬、過去の出来事が脳裏をよぎる。


でも、すぐに首を振ってその考えを振り払った。


(……自惚れすぎ!自意識過剰!)


そんなわけない、と心の中で自分にツッコミを入れる。


田鶴屋に「河北さんは社交辞令に弱いね〜」とからかわれたことを思い出す。


あの時、冗談半分で「騙されやすいぞ」なんて言われたせいで、それ以来、美菜は過度に期待しないように気をつけている。


きっと今のも、軽いジョークの一環だ。


「えっと……芸能界には興味ないですけど、今回だけ!今回だけ……失礼かもしれないですけど、勉強がしてみたいんです!」


『いいんじゃない?美菜ちゃんにとって、いい刺激になると思うよ』


「……はい!」


伊月の言葉に、美菜はホッとしたように笑う。


瀬良とはまた違った形だけれど、こうして応援してくれる人がいるのは心強い。


瀬良の言葉は、恋人としての安心感があった。


伊月の言葉は、田鶴屋と同じように”仲間”としての応援に近い。


それぞれ違うけれど、どちらも美菜にとって嬉しいものだった。


『あ、そうそう。仕事内容なんだけどさ、僕の撮影の担当メイクとヘアセットがメインなんだけど……よかったら、うちの事務所のモデル数名の撮影メイクとセットもお願いできるかな?』


「はい!大丈夫です!」


『よかったー、人が足りなくて困ってたんだよねー』


美菜は、思わず声を弾ませる。


メインは伊月の担当とはいえ、他のモデルのメイクにも関われるのは嬉しかった。


どんな仕事になるんだろう?

どんな人たちが来るんだろう?


考えるだけでワクワクしてくる。


『ふふっ、美菜ちゃん、声が嬉しそう』


「あっ……分かります? 実は結構楽しみで!」


『いいね、僕も楽しみだよ』


以前の伊月なら、こんな穏やかな会話はできなかっただろう。


美菜は、ふとそんなことを思う。


きっと少しずつ、いい関係が築けているのだろう。


「あ、そういえば田鶴屋さんが、打ち合わせとかあるなら仕事中に出ても大丈夫って言ってくれて、お店の営業時間内なら研修って形で働かせてくれるそうです」


『へぇー、いい職場だね。むしろこっちからお願いしたいくらいだよ』


「田鶴屋さんが応援してくれてるので、頑張らないと!」


電話越しに張り切ってみせると、伊月は嬉しそうに笑った。


『なら、とりあえず打ち合わせは来週の月曜日のお昼過ぎで大丈夫?』


「はい!大丈夫です!」


『あとで事務所の場所送っておくね』


「おっけーです!」


話もまとまり、そろそろ電話を切ろうかと思ったその時——


『……あ、そうだ』


伊月がふと思い出したように声を上げる。


『美菜ちゃんさ、僕にメイクしてくれるときの顔……最高にプロって感じで僕大好きなんだぁ』


「……え?」


『だってさ、美菜ちゃんって、僕の事正直まだ苦手意識はあるでしょ?でも大会の時に見た美菜ちゃんは、そんな事は関係なく仕事してたよね。私情を持ち込まずに仕事をできるのはやっぱりプロだよ。あの時の真剣な顔、本当にかっこよくて、美しかったよ』


「ちょっ……そんなこと……!」


『ふふっ、今、顔赤くしてるでしょ?』


「……っ! し、してません!」


伊月のからかうような声音に、美菜は真っ赤になりながら、慌てて電話を切った。


(もう!伊月さんってば、最後にあんなこと言うなんて!)


恥ずかしさと、少しの悔しさを感じながら、美菜はスマホをぎゅっと握りしめる。


でも、それと同時に——


これから始まる新しい仕事への期待が、胸の奥で高まっていた。



***



月曜日、美菜は打ち合わせのため、指定された場所へと向かっていた。


今日はもともと休みだったので、仕事の調整をする必要もなく気兼ねなく行ける。


しかし、その前日──瀬良から散々釘を刺されたことを思い出して、美菜は苦笑した。


「……伊月の家には絶対に上がるな」


「困ったらすぐ連絡しろ、あとこれも持ってけ」


瀬良は本気で心配しているらしく、防犯ブザーやら緊急用の笛やら、色々な防犯グッズを美菜に渡そうとしてきた。あまりにも過保護すぎて、美菜は思わず笑いながら「大丈夫だってば」と言って、なんとかその場を収めた。


(瀬良くんって、恋人としてめちゃくちゃヤキモチ焼きなのかなぁ……)


普段はクールで落ち着いている瀬良だが、伊月のことになると途端に過敏になる。

それを考えると、どうしても瀬良が伊月に対して特別に警戒しているように思えてしまう。


(……いや、伊月さん相手だから?)


他の男性と話してもここまで言われたことはない。

思い返してみると、瀬良のこの過剰な警戒心は、伊月に対してだけ向けられている気がしてきた。

美菜は「考えても答えが出なさそう」と思い、深く考えるのをやめた。


(二人がもうちょっと仲良くしてくれたらいいのになぁ)


美菜にとって、伊月はたしかに色々あった相手ではあるが、それでも「ちゃんとしている」と思っていた。

あくまで仕事仲間として、これからはいい関係を築けそうな気がしている。

もちろん、瀬良の気持ちを考えれば簡単にそうはいかないのかもしれないが、それでも仲良くしてほしいとは思う。


──そんなことを考えているうちに、美菜は目的地に到着した。


事前に伊月から送られてきた地図と、直前のメッセージを確認する。


『事務所の場所ここだから、分からなかったら迎えに行くよ』


そう書かれたメッセージを何度も見返しながら、ふと顔を上げた瞬間──

美菜は思わず目を見開いた。


(んんんんんんんん!!!???)


目の前にあるのは、明らかに高級感漂うオシャレなマンション。

それも、よく見る「オフィスビル」ではなく、どう見ても「高級住宅マンション」だ。


(えっ……ここ……事務所……?)


一抹の不安が胸をよぎる。

そして、美菜の中で「心の瀬良」が不機嫌そうに腕を組んでいるのが見えた気がした。


(いやいやいやいや、絶対これ伊月さんの家でしょ!!!)


いくら考えても、どう見てもここが「事務所」には思えない。

普通に考えて、芸能事務所ならもっとそれっぽいビルのワンフロアとかにあるはず。


(……もしかして、この話自体が嘘で、家に連れ込まれて……)


──あんなことや、こんなことをされて……!?


美菜の警戒心が一気に跳ね上がる。

瀬良のあの過保護な忠告が、今になってリアルに感じられてきた。

思わずスマホを握りしめたその瞬間、タイミングよく着信が鳴る。


「……!」


驚いて画面を見ると、伊月からの電話だった。

一瞬ためらったが、とりあえず出ることにする。


『あ、美菜ちゃん?今どの辺?』


「……えっと、この地図の指してるところって、普通に住宅マンションなんですけど……本当にここで合ってます?」


美菜は疑念を込めた声で問いかける。

すると、伊月は至って軽い口調で答えた。


『うん、合ってるよー?一昨日から住み始めた事務所兼家だけど』


「…………んんん!!」


美菜は思わず耳に当てていたスマホをぎゅっと握りしめた。


(だから先に言っておいてよ伊月さんッッ!!!)


突然の事実に、美菜の中の「心の瀬良」がますます不機嫌になった気がする。

やっぱり、瀬良の心配はあながち間違いではなかったのでは……?


『下まで迎えに行くから待ってて』


「あ、はい……」


そう返事をしたものの、美菜の胸の中にはまだ警戒心が残っていた。

でも、これは「仕事」だ。

事務所と言っている以上、変なことは起きないはず。


(うん……仕事と割り切ってやるしかない!)


心の中で自分に言い聞かせながら、美菜は伊月を待つことにした。

少し緊張しながら、オシャレなマンションの入り口で立ち尽くしていると、エントランスの向こうから軽やかな足取りで降りてくる伊月の姿が見えた。


「あ、いたいた!ごめんね〜、待たせちゃったね」


美菜は思わず目を瞬かせた。


オシャレなマンションのエントランスから現れた伊月は、いつもの派手なファッションとは打って変わって、シンプルなカジュアルスーツを着ていた。


(……え?)


美菜の頭の中で、一瞬情報がうまく処理されなかった。


伊月といえば、どこへ行くにもファッション雑誌に載っていそうなオシャレな服装をしているイメージだった。

実際、この間会った時も、派手めのジャケットにスタイリッシュなアクセサリーをつけていて「この人はなんか芸能関係の人なんだな」と思わされたくらいだ。

だからこそ、シンプルなスーツ姿の伊月は、どこか新鮮に見えた。


(意外と普通にビジネスマンっぽい格好するんだ……)


スーツと言っても、ガチガチのフォーマルなものではなく、ジャケットとパンツをラフに組み合わせたカジュアルなスタイルだが、それでも普段の伊月とはかなり違う印象だった。


そんな美菜の視線に気づいたのか、伊月はニヤリと笑いながら近づいてくる。


「ふふ、美菜ちゃん、そんなに僕に見惚れちゃった?」


「えっ!? いやいやいやいや!」


思わず全力で首を横に振る。

そう、この人はいつもこうだ。


美菜が驚いたり戸惑ったりすると、すぐにそうやってからかってくる。


「冗談冗談。でも、そんなに見つめられると、僕もドキドキしちゃうなぁ」


伊月は軽くジャケットの袖を直しながら、少し意味ありげな笑みを浮かべた。

だが、その表情はどこか余裕がありつつも、以前よりは節度を感じさせるものだった。


(……んんん?)


美菜は心の中で首をかしげる。


伊月は相変わらずの調子で口説いてくるように見えるが、なんとなく”決定的な一線”を越えようとはしていない気がした。

以前なら、もっと直接的な言葉で距離を詰めようとしてきたはずなのに、今日はどこかスマートな立ち回りをしている。


(……私の考えすぎだったのかな……?)


さっきまで散々、“伊月さんが私を騙して家に連れ込むつもりなのでは?” なんて警戒していたが、実際にこうして会ってみると、そこまであからさまな態度を取ってくるわけでもない。

むしろ、仕事仲間としての距離感をしっかり保っているようにも感じる。


「どうしたの?」


「──!! いや! 全然!? 何も!?!?」


伊月に怪訝そうに聞かれて、美菜は思わず大声で否定してしまった。

内心、動揺しまくりである。


(しまった……! まるで何かやましいことを考えていたみたいじゃん……!)


実際、ついさっきまで「このまま家に連れ込まれたらどうしよう……」なんて、ドラマみたいな妄想を繰り広げていたのだから、正直後ろめたい気持ちしかない。

でも、まさかそんなことを口に出せるはずもなく、何もなかったフリをするしかなかった。


「……美菜ちゃん、なんか挙動不審になってるけど?」


「な、なってないです!! さ、早く行きましょう!!」


誤魔化すように話を切り上げると、伊月は「ふふ」と小さく笑って、軽く肩をすくめた。


「はいはい。そんなに焦らなくても、ちゃんと仕事の話しかしないよ?」


「そ、そうですよね!? 当然ですよね!?」


余計なことを言われたくなくて、食い気味に返事をする。


そのやりとりをしながら、美菜は決意した。


もう伊月さんが自分を”そういう目”で見ていると思うのはやめよう。


もちろん、冗談めかした言動はあるけれど、それをいちいち気にしていたらキリがない。

それに、もし本当に伊月にその気があったのなら、もっとあからさまに仕掛けてきていたはずだ。

それがない以上、自分が勝手に意識しすぎているだけなのかもしれない。


(……私って、意外と自意識過剰だったのかも)


瀬良の過保護ぶりに影響されて、必要以上に警戒しすぎていたのかもしれない。


そんな風に自分を納得させながら、美菜はマンションの中へと足を踏み入れた。


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