Episode184
あれから数日が過ぎ、店は少しずつではあるが、いつもの穏やかな空気を取り戻しつつあった。
瀬良の予約表も以前のような混雑を見せることはなくなり、落ち着いてきている。ネット上でも、あの騒ぎはすっかり沈静化していた。消された記事の影響もあってか、今では「Irisの正体が瀬良ではなかったのではないか」といった誤報説が囁かれる程度になり、検索しても確たる証拠は何も出てこない。
ひとまず安心、と言ったところだろうか。
そんなある日の午後、美菜は休憩室で紅茶を片手にぼんやりとしていた。そこへ、田鶴屋が欠伸をしながら隣の席に腰を下ろす。
「いやー、身バレの恐ろしさを改めて思い知らされる事件だったねぇ」
湯気の立つカップを持ち上げながら、軽い調子で言う田鶴屋。美菜は小さく頷きながら、紅茶に視線を落とす。
「そうですね……私も気をつけます」
「河北さんがバレたら、また瀬良くんとは違った騒ぎになりそうだよねぇ」
「……」
二人は冗談めかして笑い合ったが、すぐに言葉を失った。
想像しただけで、笑えなくなる。
美菜はネット上での炎上騒ぎの恐ろしさを改めて実感した。身バレがもたらす影響は計り知れない。特に自分はVTuberという「顔を出さない」存在だからこそ、正体が露見すれば、ただの美容師が巻き込まれるよりも、より大きな騒ぎになるだろう。
気をつけなければ——。
そう思いながら、カップの中の紅茶をそっと揺らす。
「……そーいえば、伊月さんの件、俺にも『是非』って連絡が来てたんだけど、どうするの?」
唐突に田鶴屋が話題を変えた。その声色は先ほどよりも幾分真剣だった。
美菜は、カップを持つ手を止める。
「……興味が無いわけではないですけど……瀬良くんに心配をかけたくもないし、お断りしようかと……」
そう答えながらも、どこか自分の言葉に迷いを感じていた。
「……ごめん、これはさ、先輩美容師としてのただの一意見だから、聞き流してくれていいんだけどさ」
それまでヘラヘラしていた田鶴屋の表情がふっと引き締まる。
「河北さんってさ、周りに合わせたり空気読んだりできるタイプで、それはすごくいいことなんだけど……もっと自分の『やってみたい!』って気持ちを大切にした方がいいと思うんだよね」
「……私の気持ち……」
思わず、美菜は繰り返してしまった。
「そりゃ瀬良くんのことを考えたら、慎重になるのも分かるよ。でもさ、今こうやって芸能界とツテができたっていうのは、この東京で美容師やってる人間にとっては、相当なチャンスだと思うんだよね」
「……」
「まあ、伊月さんを警戒する気持ちも分かるし、最終的に決めるのは河北さんなんだけどさ」
「……はい……」
田鶴屋の言うことは正論だった。
確かにこんな機会は滅多にない。美菜自身、有名になりたいわけでも、芸能界に飛び込みたいわけでもない。けれど、これまでの自分の技術がどこまで通じるのか、プロの世界にいる美容師たちはどんな腕を持っているのか、興味が無いと言えば嘘になる。
——しかし、相手が伊月なのが引っかかる。
それが、美菜の正直な気持ちだった。
「河北さんが利用されるのが嫌なら、逆に河北さんが伊月さんを利用しちゃいなよ」
「……利用って……」
「結局、がめつい奴が一番得するんだよね。意欲がなきゃ、実るものも実らないんだからさ」
軽い口調でそう言いながら、田鶴屋はカップを空にして立ち上がった。
美菜の肩をポンと叩くと、少し笑ってこう続ける。
「後悔のないように」
それだけ言い残し、いつものようにひらひらと手を振って仕事に戻っていった。
残された美菜は、紅茶の残りを見つめながら、静かに考え込んでいた。
***
営業後の静かな時間
夜の店内は、昼間の慌ただしさが嘘のように静まり返っていた。
営業が終わり、スタッフが帰路についた後、美菜と瀬良は二人でシャンプー台の片付けをしていた。
水滴がついたシャンプーボトルを拭きながら、美菜は心の中で何度も言葉を選んでいた。
(今話すべきかな。いや、でも瀬良くんならきっと……)
自分の気持ちを伝えようと決めたはずなのに、いざとなると少し躊躇してしまう。
瀬良は黙々と作業をこなし、無駄な言葉を発することはない。それが彼のスタイルだった。だが、美菜にとってはその沈黙が逆に心地よく、だからこそ話しやすい相手でもあった。
深呼吸をして、意を決して口を開く。
「瀬良くん……」
瀬良が手を止め、美菜の方を向く。
「……ん?」
「私……伊月さんの件、やってみようかと思うの」
その一言に、瀬良の表情がわずかに険しくなった。
「……いいのか?」
美菜は少し考えて、頷く。
「うん。最初は断ろうかと思った。でも田鶴屋さんと話してるうちに、私、美容師として挑戦してみたいって気持ちに気づいたの」
「……」
「芸能人のヘアメイクなんて普通の美容師にはなかなかできないことだし、どんな技術が求められるのか知りたいって思った。今まで、目の前のお客さんのことばかり考えてたけど、美容師としてもっと成長したいって思ったの」
瀬良はしばらく何も言わずに美菜の話を聞いていたが、やがて小さく息をついた。
「……そうか」
「瀬良くんは……どう思う?」
瀬良はシャンプーボトルを元の位置に戻しながら、静かに口を開く。
「美容師としての考えなら、俺は応援する。お前がそうやって成長したいと思うなら、きっとそれが正解なんだろうし、挑戦する価値はあると思う」
美菜はその言葉を聞いて、胸がじんわりと温かくなった。
——やっぱり、瀬良くんは私のことをちゃんと見てくれてる。
「ありがとう」
「でも——」
瀬良は美菜の方に向き直り、真剣な眼差しを向ける。
「彼氏としては、正直、すげぇ心配」
「えっ……」
「伊月さんがどういうつもりか分からないし、向こうの業界は甘くない。いい話ばかりじゃないし、利用されることだってある」
「……うん、それは分かってる」
「だからこそ、ちゃんと自分で線を引けよ。自分のペースを崩さずに、美菜のやりたいようにやれ。もし何かあったらすぐ言え」
「……瀬良くん……」
「お前がやりたいことをやるのは応援する。でも、絶対に無理はするな。お前が大変な思いするくらいなら、俺が止めるからな」
その言葉は、どこか優しく、けれど強く美菜の心に響いた。
美菜はふっと息を吐いて、小さく笑った。
「……うん。ありがとう、瀬良くん」
「何がありがとうだよ。……お前がやりたいならやればいい。俺は……ただ、見守るだけだ」
照れくさそうに目をそらす瀬良を見て、美菜の胸がじんと温かくなる。
背中を押してくれる人がいる。それだけで、こんなにも安心できるものなんだ。
「私……がんばるね」
「まあ、適度にな」
二人は最後のシャンプー台を拭き終えると、店の明かりを落とした。
これから先、どんなことが待ち受けているのかは分からない。
けれど、美菜の中には新たな挑戦への意欲が芽生えていた。




