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Episode181



タクシーのシートに身を沈め、美菜は静かに息を吐いた。微かに残るアルコールの余韻に、身体がぽかぽかと心地よい。

窓にもたれかかりながら、夜の街並みをぼんやりと眺める。

信号の光がゆっくりと流れ、遠くのビルの明かりがぼやけて滲んで見えた。


けれど、美菜の頭の中はまったく穏やかではなかった。


タクシーに乗り込む前に聞いた伊月の言葉が、ぐるぐると頭の中を回っている。


『東谷詩音……って子。知ってるよね?』


忘れようにも忘れられない名前だった。


東谷詩音――美菜と同じサロンで働く後輩。少し前に瀬良のことで揉めたことはあったが、それ以来特に問題が起こったわけでもなく、今では普通に仕事仲間として接している。むしろ、あの一件をきっかけに少しずつ打ち解け、瀬良や木嶋とも以前より距離が縮まってきたように見えていた。


なのに、どうして――


(……なんで詩音ちゃんの名前が出てくるの?)


瀬良がネット活動をしていることは、詩音には話していないはずだった。美菜も、サロンの誰にもそのことを明かしていない。なのに、詩音が記者にリークできるとしたら、どういう経緯なのか。


(盗み聞き……?いや、それとも……)


可能性を考えればいくらでも浮かぶ。でも、どれも決定打に欠ける。もしかしたら伊月が適当なことを言っているだけかもしれない。美菜を揺さぶるために、わざと無関係な名前を出した可能性だってある。


(……信じられない)


だけど、信じたくないと思うほどに、不安はじわじわと膨れ上がる。もし伊月の言葉が本当だったら? もし詩音が本当に瀬良の情報を流したのだとしたら――?


「着きましたよ」


タクシーの運転手の声に、美菜は我に返った。


「あ……ありがとうございます。おいくらですか?」


「お代は先に男性の方から頂いてますよ。こちら、お釣りになります」


「え……?」


美菜は、運転手が差し出したお釣りを受け取りながら、少し驚いた顔をする。伊月が先に支払っていたらしい。


「……そうですか、ありがとうございます」


「お気をつけて」


タクシーを降りると、夜の静けさが身体に染みた。ビルの明かりが疎らに灯る住宅街のマンション。エントランスのオートロックを開け、エレベーターに乗り込む。鏡に映る自分の顔を見て、ふっとため息をついた。


(……なんだか疲れたな)


お酒のせいだけじゃない。伊月の言葉が、美菜の心を重たくしていた。


エレベーターが静かに開き、部屋の鍵を回す。


引越しの準備でまとめたダンボールがいくつも積まれていて、部屋の中は少し散らかったままだった。


(今のこのタイミングで同棲なんかして、それがバレて、更に炎上したら……)


想像するだけで、胃の奥がぎゅっと縮む。

現状、瀬良はただでさえ注目されているのに、もしも同棲が公になったら、彼にどんな影響が出るのか。


(……瀬良くん、どうなるんだろ)


瀬良のことを思うと、不安が募る。それだけじゃない。詩音のことをどうすればいいのかも分からない。


(もし私が瀬良くんたちに詩音ちゃんのことを話したら……)


詩音は、もうサロンで働けなくなるかもしれない。それどころか、美菜が詩音を問い詰めれば、彼女は職を失う可能性すらある。


(……私が直接本人に確認しなきゃ)


伊月の言葉をそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。彼は平気で人の心を掻き乱すようなことをする。今回だって、美菜を不安にさせるために言った可能性もある。


(でも……もし本当だったら……)


美菜はぎゅっと拳を握りしめた。


詩音を信じたい。でも、それ以上に確かめなければならない。


答えを知るのが怖い。でも、このまま知らないふりをするのはもっと怖い。


美菜は、ゆっくりと目を閉じて、深く息を吐いた。


――どうか、嘘でありますように。



***



翌朝、美菜は目覚ましの音で目を覚ました。


昨夜はなかなか寝つけず、布団の中で何度も伊月の言葉を思い出していた。結局、まともに眠れたのは数時間程度。頭がぼんやりとしているが、仕事を休むわけにはいかない。しかしもう朝練には間に合わない時間だった。


「……よし」


気持ちを切り替え、身支度を整える。寝不足の顔をメイクでカバーし、髪を整えて、服に袖を通す。玄関で深呼吸をしてから、マンションを出た。


サロンに到着すると、いつものようにスタッフたちが準備を進めていた。店内はドライヤーの音やシザーの軽快な音が響き、慌ただしくも活気のある朝だった。美菜はいつもと変わらない笑顔を作り、自然な動作で準備を始める。


(……いつも通り、いつも通り)


そう自分に言い聞かせながら、仕事に集中する。


そして、視線の先に詩音の姿を捉えた。


詩音はカットの練習をしていた。鏡越しに映る彼女の表情は真剣そのもので、何かを隠しているようには見えない。仕草や態度も普段と変わらない。


(……本当に、何も知らないのかな)


美菜は心の中で問いかけたが、答えは出ない。もし詩音が何かを知っているのなら、少しくらい動揺を見せてもいいはずなのに、そんな素振りはまったくない。


「今日のお客様、すごく喜んで帰られましたね!」


「ん? あぁ、よかった。リクエスト通りにできたかな」


「はい! めちゃくちゃ満足そうでした!」


詩音は満面の笑みでそう言う。


――無邪気なその表情を見ていると、彼女を疑っている自分が嫌になる。


(……でも、確認しなきゃ)


そう決めていた。



***



昼休憩になったタイミングで、美菜は詩音をランチに誘った。


「詩音ちゃん、今日のお昼、一緒に行かない?」


「えっ、いいんですか!? 先輩とランチなんて久しぶりですね!」


詩音は目を輝かせ、嬉しそうに頷いた。その反応は、まるで何も知らない純粋な後輩のようだった。


(……こんな子が、瀬良くんの情報を記者に?)


頭の中で疑念と違和感が交差する。だが、今は考えすぎないようにして、自然な笑顔を作った。


「じゃあ、近くのカフェ行こっか」


「はい!」


詩音は嬉しそうにエプロンを外し、バッグを手に取る。その様子を見ながら、美菜はゆっくりと息を吐いた。


(……まずは、話を聞こう)


二人は連れ立ってサロンを出た。春の風が心地よく頬を撫でる。


向かうのは、サロンのすぐ近くにある落ち着いた雰囲気のカフェ。いつもはスタッフみんなで行くことが多いが、今日は二人きり。


美菜はカフェのドアを開けながら、胸の奥にある緊張を押し殺した。



***



カフェに入り、二人は窓際の席に座った。


ランチタイムということもあり、店内はほどよく賑わっている。落ち着いたBGMが流れ、コーヒーの香ばしい香りが漂っていた。美菜はメニューを開きながら、詩音の顔をちらりと見た。


詩音は特に違和感なく、いつも通りの表情をしている。メニューを眺めながら「何にしようかな~」と呟く様子も自然そのものだった。


(本当に、何も知らないのかな……)


美菜の中で、疑念と違和感が交錯する。だが、焦っても仕方ない。まずは、慎重に探りを入れることから始めよう。


「最近、何か変わったことなかった?」


美菜はできるだけさりげなく尋ねた。


「え? 変わったことですか?」


詩音は首を傾げる。


「うーん……特にはないかなぁ。相変わらず仕事は忙しいし、カットモデル探すのも大変だし……あっ! でも、この前木嶋さんにすごく褒められました! もうすぐデビューできるかもって!」


「そうなんだ、それはすごいね」


美菜は笑顔を作りながらも、心の中では複雑な気持ちだった。


(こんなに無邪気に話してるけど、本当に何も知らないの? それとも、知らないふりをしてる?)


自分の疑いが間違いであってほしい。そう願う反面、もし詩音が本当に何かを知っているなら、このまま見過ごすわけにはいかない。


一度、大きく息を吸い、意を決して口を開いた。


「……実はね、瀬良くんのことなんだけど」


美菜の真剣な表情を見て、詩音は少し驚いた様子を見せた。


「瀬良先輩? どうかしました?」


「今、大変なことになってるの。ネットに彼のことが広まって、炎上してる」


詩音の表情が一瞬固まった。しかし、それはほんの一瞬で、すぐに困惑したような顔になった。


「え……そうなんですか?」


「うん。サロンのみんなも、何人かもう知ってると思う。ネットで色々言われてて……瀬良くん自身もすごく大変な状況になってる」


詩音は少し考えるように視線を落とした後、顔を上げた。


「だからあんな予約表になってたんですね……知らなかったです。瀬良先輩、いつもと変わらない感じだったから……」


「うん。でも、今回の件は、誰かが情報を流したみたいなの」


美菜は詩音の反応をじっと観察しながら続ける。


「それで、どうしてそんなことが起こったのか、色々考えてるんだけど……詩音ちゃんは、何か知らない?」


詩音は目を丸くした。


「えっ、私ですか? いえ、全然……本当に何も知らないです」


「……本当に?」


美菜は静かに問いかける。


「うん、本当に。私、瀬良先輩のプライベートとか全然知らないし……そもそも、どうやったらそんな情報が流出するのかも分からないし……」


詩音は戸惑ったように眉を寄せた。


「でも、誰かが流したのは確かなんだよね。だから、もし何か少しでも心当たりがあれば教えてほしいの」


「でも、本当に何も……私、全然分からなくて……」


詩音は困惑した表情のまま、美菜の言葉に何度も首を振った。その反応は、嘘をついているようにも、ただ混乱しているだけのようにも見える。


(……どうなんだろう)


美菜の中で、ますます判断がつかなくなっていく。詩音は本当に何も知らないのか、それとも上手く取り繕っているのか。


「……そっか」


とりあえず、今はこれ以上問い詰めても意味がなさそうだった。


「ごめんね、突然こんな話して」


「い、いえ……私も驚いちゃって……でも、瀬良先輩、大丈夫なんですか?」


詩音の言葉には心配の色が滲んでいた。


「まだ分からない……でも、何とかしないと」


美菜はそう答えながら、詩音の表情をもう一度じっくりと観察した。


(……本当に、何も知らないの?)


胸の奥に、まだ拭えない疑念が残ったままだった。


美菜は詩音の困惑した表情をじっと見つめながら、一度コーヒーを口に運んだ。カップの縁に触れる熱が、微かに指先を刺激する。


詩音は「何も知らない」と繰り返しているが、その反応はどこかぎこちなくも見える。何かを隠しているのか、それともただ驚いているだけなのか——美菜にはまだ判断がつかなかった。


(……でも、もう少しだけ探ってみよう)


そう決めた美菜は、何気ない口調を装いながら、ふとある名前を口にした。


「そういえば……伊月さんっているでしょ?」


その瞬間、詩音の表情が一瞬強張った。


「……え?」


それまでの困惑とは違う、明らかに反応が変わったのが分かる。ほんの一瞬だったが、美菜はその変化を見逃さなかった。


(やっぱり……何か知ってる?)


「この前、偶然会ったんだよね。伊月さんが、瀬良くんの件で何か知ってるみたいなこと言っててさ」


美菜はあえて慎重に言葉を選びながら、詩音の反応を探るように続けた。


「……伊月さんが?」


詩音はぎこちなく笑いながら、少し視線を泳がせた。


「うーん……でも、伊月さんって瀬良先輩とは関係ないんじゃ……?」


「うん、そうなんだけど。でも、なんか瀬良くんのこと、やけに詳しかったんだよね」


美菜はあえて核心には触れず、遠回しに詩音の様子をうかがう。


詩音は少し考え込むような素振りを見せた後、「へぇ……」と曖昧な相槌を打った。


「伊月さんってそういうの、仕事柄詳しいのかも……?」


「そうかもね。でも、普通なら知らないようなことまで知ってる感じだったなぁ」


美菜はじわりじわりと追い詰めるように言葉を重ねていく。


詩音は口元に笑みを浮かべていたが、その指先が微かに震えているのを美菜は見逃さなかった。


「……うーん、でも、私も本当に分からないんです」


「そっかぁ……」


美菜は、詩音の言葉を受け入れるように頷きながらも、その瞳の奥を探る。


詩音は確かに「知らない」と言った。けれど、その態度はどこか不自然だった。まるで、何かを隠しているように。


(やっぱり……何かある)


美菜の中で、疑念はますます強くなっていく。


「とりあえず……私もネット記事見てみますね」


詩音はスマートフォンを取り出し、何気なく画面をスクロールしながら、美菜の視線を気にするようにネットの記事をチェックし始めた。


「……ほんとだ、すごいことになってる……」


小さく息をつきながら、詩音はネット掲示板のスクリーンショットを美菜に見せる。


美菜は画面を覗き込み、そこに書かれた文字を一つひとつ慎重に目で追った。


(……これは、ひどい)


瀬良の名前はもちろん、木嶋のことまで書かれている。大した根拠もなく、好き勝手な憶測が飛び交い、事実とは異なる情報まで拡散されていた。


「……こんなことまで書かれてるんだ」


美菜は苦々しい気持ちで画面をスクロールしていく。だが、そのとき——


【みなみちゃんってもしかしてIrisか木嶋の彼女とか?ww】


美菜の指が止まる。


一瞬、心臓が跳ねた。


「……っ」


さらにスクロールすると、もっと悪いことが書かれていた。


【てかみなみちゃんも同じサロンにいたりしてwww】


一気に背中に冷たい汗が流れる。


(まずい……)


これまで、美菜のVTuber活動と美容師としての仕事は完全に別のものとして扱われていた。それが少しずつ、こうしてつながりかけている。


まだ「確定」ではない。けれど、このまま放っておけば、いずれ本当に誰かが気づくかもしれない。


(もしバレたら……私だけじゃなくて、瀬良くんも、木嶋さんも……)


美菜は冷静さを保とうとするが、指先が震えているのを自分でも感じた。


「……大丈夫ですか?」


詩音が、心配そうに美菜の顔を覗き込む。


「あ、うん……」


なんとか笑顔を作るが、上手くいっていないのが自分でも分かる。


「ちょっと、戻るね」


美菜はそう言って立ち上がった。


「え? もう?」


詩音が驚いたように言うが、美菜は頷くだけでカフェの席を後にする。


(瀬良くんに……相談しないと)


今、一番頼れるのは瀬良だった。


サロンに向かう道すがら、美菜はスマートフォンを取り出し、瀬良にメッセージを打とうとした。だが、何を書けばいいのか分からず、一度ため息をつく。


(どう伝えればいいんだろ……)


結局、何も打たないまま、美菜は足早にサロンへと戻っていった。


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