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Episode180



静まり返った深夜。


伊月は上機嫌で鼻歌を口ずさみながら、紅茶を淹れていた。


湯気が立ち上り、ほのかなベルガモットの香りが部屋に広がる。


どこか落ち着く香りだった。


──いや、違う。


これは彼が意識的に選んだ香りだ。


美菜の好きな、アールグレイ。


彼女の残り香がまだ自身のシャツにうっすらと染みついている。


目を閉じると、鮮やかに蘇る。


──あの表情、仕草、体温、匂い


伊月は軽く目を細めた。


扉の向こうで、インターホンが鳴る。


彼は一度息を吐き、丁寧にカップを置いた。


「いらっしゃい」


ドアを開けると、そこには期待に満ちた笑顔の女が立っていた。


伊月を見るなり、彼女の顔がぱっと華やぐ。


「……伊月さんっ」


耳に心地よい、高めの声。


まるで恋人に駆け寄るような勢いで、彼女は一歩近づく。


伊月は目を細めた。


夜の薄暗い廊下の明かりが、彼女の装いを際立たせる。

髪は普段よりも整えられ、艶やかに光を反射していた。


鎖骨を覗かせた胸元の開いた服は、彼女なりの「意識」を見せつけるようだった。


そして──


ふわり、と香る香水の匂い。


甘ったるく、少しだけ刺激的な香り。


伊月の表情が、一瞬だけ引き攣った。


──違う。


違う、違う、違う。


せっかく、美菜の匂いで満ちていたのに。

さっきまで確かに、あの子の体温が残っていたのに。


それなのに──


伊月は気づかれないように、静かに唇を噛む。

怒りが喉の奥でじわりと沸き上がるのを感じた。


(あーあ、壊したくなる)


せっかくのものを、何の許しもなく上書きしようとする存在が、無性に腹立たしい。


だが、それを表に出すわけにはいかない。


伊月は一瞬だけ目を伏せ、そして完璧な笑顔を作った。


「待ってたよ」


声色は柔らかく、まるで彼女だけを求めていたかのように。


抱きついてくる腕の感触を感じながら、伊月は静かにその背中を撫でた。


「……さあ、中に入って?」


「はいっ……!」


彼女は嬉しそうに頷き、無防備に足を踏み入れる。


その瞬間、伊月の瞳から、感情がすっと消えた。


(……本当にバカな女)


この女もまた、利用価値はある。


「さあ、紅茶でも飲もうか。僕の好きな紅茶なんだ」


柔らかな声でそう囁くと、女は恥ずかしそうに笑い、伊月の隣へと身を寄せた。



***



「伊月さん、あの件……お役に立ちました?」


紅茶のカップを両手で包み込みながら、女はどこか褒めてもらいたげに上目遣いで伊月を見つめた。


揺れる湯気が彼女の長い睫毛の影をぼんやりと滲ませる。


伊月はゆっくりと紅茶を一口飲み、舌の上に広がる柑橘の香りを確かめながら、にっこりと微笑んだ。


「……ああ、バッチリだよ。さすがだね」


柔らかく、けれど絶妙な温度を保った声色。


ほんの少しの甘さと、計算された称賛。


その言葉を聞いた途端、女の顔が一気に赤く染まる。


「伊月さんに頼られて、私……すごい嬉しかったんですよ?」


紅茶をそっと口に運びながら、彼女は幸せそうに微笑んだ。


カップの縁にわずかに残る薄桃色のリップ。


伊月はにっこりと笑ったまま、何も言わなかった。


ただ、そのまま微笑んでいればいい。


必要なのは、言葉よりも「演出」だった。


「……あの……前回は失敗しちゃいましたけど、今回は大丈夫でしたよね?」


今度は不安そうな顔で、伊月の表情を窺ってくる。


彼女は前回、伊月の言いつけを完璧には守れなかった。


だからこそ、今回こそは、と必死なのだろう。


伊月はわざと少しだけ間を空けて、ゆっくりと頷いた。


「……大丈夫だよ、ゆっくり、ゆっくりでいいんだ。君は僕の言いつけ通りに動いてくれてるし、失敗したって大丈夫なんだよ。君は悪くない」


その瞬間、彼女の顔がぱっと輝く。


「伊月さん……!」


嬉しさを隠しきれない声音。


伊月はその反応を楽しむように微笑み、ゆっくりと席を立った。


「別に前回だって、成功するなんて思ってなかったよ。ただ、上手く入り込んでほしかっただけで。そのついでみたいなものだったし」


そう言いながら、女の手を取る。


彼女の指先はほんのりと温かかった。


引かれるままに立ち上がった女の瞳には、期待の色が浮かんでいる。


伊月は、その表情に一切の興味を示さず、ただゆっくりとベッドの方へと導いた。


手を引かれる彼女は、まるで運命を受け入れるように身を任せていた。


伊月は淡々と、慣れた手つきで女の服の紐を解く。


さらりと落ちる布地。


それを見届けるように、一度ゆっくりと目を閉じた。


──役に入り込む。


それは、彼にとって必要な「儀式」だった。


(……どうか、はやく終わりますように)


心の奥で、淡々とした願いを浮かべる。


目を開けば、彼を見つめる女の瞳がある。


──違う。


そこにあるのは、自分が望む光景ではない。


それなのに、彼女は甘い声を漏らしながら、伊月の手に身を委ねる。


伊月は、完璧な「役」を演じながら、淡々とその声を聞いた。


「……伊月さんっ……」


「……気持ちいい?」


「はいっ……」


「そっか、なら良かった……ねえ、今日はお願いがあるんだけど」


「なんですか……?」


「声、我慢して欲しいのと、上に乗ってくれるかな?」


「……あっ……はい……!」


まるで従順な子供のように、彼女は素直に伊月の言葉を受け入れる。


その瞳には、何の疑いも浮かんでいない。


伊月はゆっくりと目を閉じる。


──今日、感じた美菜の全てを思い出す。


手のひらに残る温もり。


指先に感じた、細い骨の感触。


肩にかかる柔らかい髪。


そして、微かに漂う、あの香り。


雑音はいらない。


目の前にいる女の存在など、どうでもいい。


伊月にとって大切なのは、ただ「美菜を感じること」だった。


今まで想像の中でしか得られなかった情報が、今日初めて現実として手に入った。


この距離、この温度、この質感。


伊月は、誰にも悟られぬように、静かに笑みを深めた。


(……忘れるものか)


これは、彼にとって最高の夜だった。


美菜の痕跡を、自分の中に刻み込んだ夜。


目の前で声を殺しながら身を震わせる女など、最初から彼の世界には存在しなかった。



***



肌を重ねるたび、伊月の意識は目の前の女ではなく、遠く離れた美菜の幻影へと沈んでいった。


唇に触れるのは、美菜のものではない。


髪に指を絡めても、それは美菜の柔らかさとは違う。


それでも、目を閉じれば、心の中では美菜だけがそこにいた。


(美菜ちゃん……)


彼女の声を思い出す。


気の強い口調、時折見せる柔らかな声音、仕事中の真剣な眼差し。

今まで関わってきた全ての美菜を丁寧に一つ一つ思い出す。


指先が触れたのは、目の前の女の頬だ。


だが、それすらも伊月は美菜のものだと錯覚しようとする。


目の前の女が喘ぎ声を押し殺す。


伊月の命令通りに。


(それでいい……)


本当は美菜の声以外、耳に入れたくなかった。


本当は美菜の匂い以外、嗅ぎたくなかった。


本当は美菜の温もり以外、感じたくなかった。


伊月は静かに息を吐く。


「……いい子だね」


優しく囁くと、女は嬉しそうに微笑む。


(愚かだ……)


だが、それでいい。


この夜に意味などない。


これは、ただの“消費”


今の伊月に必要なのは、目の前の女の愛ではない。


ただ、美菜を想う時間を、少しでも長く引き伸ばすこと。


(──終わらせたくない)


もっと、もっと、深く美菜に浸りたい。

美菜が喜ぶ姿、美菜が求める姿、美菜が絶える姿……

今日はいつもより鮮明に想像できる。


だからこそ、伊月は役を演じ続けれた。


偽りの愛を囁きながら、頭の中ではただ、美菜のことだけを考える。


「……伊月さん?」


不意に、女の声がした。


伊月はゆっくりと目を開ける。


見れば、女が不安げに自分を見つめていた。


「どうしたの?」


「……なんか、すごく切なそうな顔してました」


伊月は一瞬だけ動きを止め、次の瞬間には柔らかく微笑んだ。


「……ごめんね、ちょっと考え事してた」


その言葉に、女はほっとしたように笑う。


「考え事……? 私のこと?」


「……もちろん」


伊月の声は、驚くほど甘かった。


彼女はまた、安心したように笑う。


伊月はその笑顔をじっと見つめた。


何も感じない。


冷めた視線を悟られないように、もう一度優しく微笑む。


「……ねえ、もう少し頑張れる?」


「……はい」


女は嬉しそうに伊月に身を預ける。


伊月はまた静かに目を閉じた。


意識を完全に、想像の世界へ沈める。


──美菜が、自分のものだったら。


──美菜が、自分だけを見ていたら。


──美菜が、自分に触れられることを許してくれたら。


何度も、何度も、頭の中で美菜の姿を作り直す。


もう、止められない。


この狂気を。


この欲望を。


この執着を。


(……僕は、美菜ちゃんが欲しい)


伊月は、目を開けた。


その瞳は、狂おしいほどに熱を帯びていた。



***



「はい、水」


伊月は、ベッドの端に腰掛けながら、冷えたペットボトルを女に手渡した。


「……ありがとうございます」


女は受け取り、喉を潤す。


唇の端に雫が光るのを見て、伊月は微笑んだ。


「……無理してない?」


優しく問いかけると、女は僅かに目を伏せ、恥ずかしそうに微笑む。


「ううん、大丈夫です……伊月さんが優しくしてくれるから」


「そっか。……でも、無理は禁物だよ?」


言葉は柔らかく、けれどどこか包み込むような甘さがある。


女はその声音に酔いしれたように、また笑う。


(……チョロいな)


伊月は心の奥で冷たく呟く。


けれど、その表情に冷淡さは微塵もない。


女の頬を撫でながら、囁くように続けた。


「君がいてくれて、すごく助かってるよ」


「……伊月さん」


女の目が揺れる。


完全に心を許している証拠だ。


伊月は静かに彼女を抱き寄せる。


その腕の中で、女は甘えるように体を預ける。


──そう、これでいい。


思う通りに動いてもらうためには、まず「心」を縛ることが大事だ。


身体だけでは、決して支配は完結しない。


心を、思考を、行動を、すべて伊月の望む形へと作り変えていく。


そして、女の耳元で優しく囁く。


「ねえ……これからも、僕の頼みを聞いてくれる?」


「……もちろんです」


即答だった。


伊月は満足げに笑う。


「良かった。君がいてくれると、本当に助かるんだ」


「伊月さんのためなら、なんでもします……!」


(うんうん、いい子だ)


伊月は優しく彼女の髪を撫でながら、静かに話を続ける。


「次の計画だけどね……」


甘く、ゆっくりと、けれど確実に、彼女の耳へと新たな指示を流し込んでいく。


心地よい声で、まるで愛の言葉を囁くかのように。


女の表情は、次第に陶酔へと染まっていく。


伊月は、その様子を満足げに眺めながら、静かに目を細めた。


(さあ、もっと深く沈んで……僕の望むままに)


今夜もまた、伊月の世界は彼の思い通りに動き始めていた。
































「ありがとう、詩音ちゃん」


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