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Episode178



伊月はゆっくりと席を立ち、足元を確かめるように一歩踏み出した。振り返ることなく、静かに廊下へと出る。障子越しに漏れる灯りが彼の影を長く伸ばしていた。


廊下は静まり返っていた。先ほどまでのざわめきや、美菜の悔しそうな声がまるで幻だったかのように思えるほど、外の世界は冷静だった。


ふと、伊月は通りがかったスタッフに声をかける。


「今日はありがとうございました。まだ部屋で酔いを覚ましてますので、時間差で帰りますね」


彼の言葉に、和服姿の女性は恭しく一礼する。


「承知いたしました」


その所作は滑らかで、まるで舞うような美しさがあった。伊月は軽く笑い、ポケットに手を差し入れると、小さな物を指先で転がす。それから、さりげなく女性の掌にそれを渡した。


「こっちは返しておきますね」


女性はそっと手を広げ、掌の上に転がるサイコロを一瞥する。木製のそれは、使い込まれた艶を帯びていた。


「かしこまりました」


柔らかく微笑むと、女性はすぐさま和服の袖口にサイコロをしまう。その仕草には無駄がなく、まるで最初から何もなかったかのような自然さだった。


「……伊月様が恋人をお連れになられたと、料理長も大変喜んでおられましたよ」


ふいに、女性が穏やかに告げる。


「へえ、そうなんだ?」


伊月はくすりと笑い、涼やかな声で答える。


「でも、彼女は恋人ではないですよ」


「……あら、それは失礼いたしました」


女性は微かに目を伏せ、静かに頭を下げた。だが、その顔に驚きの色はない。


伊月は、彼女が驚いたり慌てたりする姿を見たことがなかった。どんな時も感情を乱さず、必要な情報を伝え、ただ淡々と仕事をこなす。その完璧なまでの姿勢に、伊月はひそかに敬意すら抱いていた。


「ある程度したらタクシーに乗せて帰らせてもらえる?僕は送れないから」


「……承知いたしました」


女性は一瞬だけ視線を伊月に向けた。だが、すぐに深々と一礼し、何も問わず、何も追及せず、ただ彼の言葉に従った。


伊月はその様子を静かに見つめた後、満足げに微笑む。


「ありがとう。じゃあ、また」


そう言い残し、彼はゆるやかに歩き出した。


廊下の先には闇が広がっている。月明かりが淡く床を照らし、彼の影を揺らしていた。


──彼は一人、静かに微笑む。


まるで、この世界のすべてを掌握しているかのように。



***



伊月は静かに部屋の扉を閉めた。鍵がかかる音が、妙に大きく響く。外の世界から切り離された密室。そこには、彼だけの時間が広がっている。


ソファに腰を下ろし、目を閉じる。


──美菜。


彼の脳内に、先ほどの情景がありありと蘇る。


テキーラの熱で上気した頬。呂律の回らない拙い言葉。勝利に酔いしれた無邪気な笑顔。


そして、自分の上に跨るという、彼女にとっては無意味なはずの行為。


伊月はゆっくりと息を吐いた。


“認知的不協和”


彼の頭に、一つの心理学用語が浮かぶ。


人は、自分の行動と言動が一致しないとき、無意識に整合性を取ろうとする。


「瀬良くんが好き」だと自覚している美菜は、本来ならば自分にこんな隙を見せるはずがない。


それなのに、彼女は自ら膝を折り、太ももに腰を下ろした。


──いや、違う。


彼女は「犯人を知るため」だったと言い聞かせていた。そうすることで、自己矛盾を解消しようとしたのだ。


だが、それは本当に正しい認識だったのだろうか?


「……ふふ、かわいいね、美菜ちゃん」


伊月は薄く笑う。


自己正当化とは、時に人間の認識すら捻じ曲げる。


「これは遊び」

「これは仕方なかった」

「これは目的のため」


そんな言い訳を積み重ねながら、人は少しずつ「できること」を増やしていく。


今日、美菜は確かに一線を越えた。


自分を「異性」として認識し、最低限の防衛本能すら働かせなかった。


(……いい傾向だ)


緊張状態や興奮状態にあると、人は目の前の相手に恋愛感情を抱きやすくなる。


テキーラのアルコール作用、勝負のスリル、そして不安定な関係性。


彼女の脳は、きっと混乱していただろう。


『本当に、伊月さんは見方なの?』


『本当に、私はこの人を悪だと思っているの?』


そんな無意識の問いが、彼女の心に新たな疑念を生んだはずだ。


「……いいよ。焦らなくても」


愛着とは、少しずつ変容していくもの。


美菜は、自分を「友人」として認識していた。


だが、今日の一件で、その認識に小さな「ひび」が入った。

そのひび割れを、時間をかけてゆっくり広げていけばいい。


一度生まれた認知の揺らぎは、決して元には戻らない。


──あとは、美菜自身に考えさせるだけ。


呼吸を整えながら、さっきまで目の前にいた彼女を何度も思い浮かべる。


酔って頬を紅潮させ、目を潤ませながらも勝ち誇っていた美菜。

ふらつく身体を支えたとき、指先に伝わった彼女の体温。

耳元で囁いた瞬間、微かに震えた細い首筋。


「……はは」


低く笑い、伊月は深々と背を預けた。


美菜は、今日も最高に可愛かった。


どうしようもなく惹かれる。心が軋むほどに、彼女に触れたくなる。


けれど、美菜は自分のものではない。


彼女の肌は、自分のために熱を帯びるのではなく。

彼女の唇は、自分の名前を甘く紡ぐものではなく。

彼女の心は、決して自分に向いてはいない。


「……でもさ」


伊月は指先で唇をなぞる。


美菜は、自分に触れられることを拒まなかった。


勝負の勢いとはいえ、彼の太ももに腰を下ろし、距離を詰めても逃げなかった。

むしろ、無防備なほどに心を開き、まるで彼を試すかのように瞳を揺らしていた。


「ねえ、美菜ちゃん……僕のこと、嫌いじゃないよね?」


ふっと笑う。


もちろん、答えはわかっている。


美菜の心には、いつも瀬良がいる。

それでも、彼女は自分を避けることはしない。


むしろ、こうして距離を詰めるたびに、戸惑いながらも向き合おうとしてくれる。


その曖昧さが、たまらなく愛しい。


「ふふ……いいよ。焦らなくていい。いいんだ、ゆっくり、ゆっくり……ね?」


伊月はそっと目を閉じ、誰に言うわけでもなく言い聞かせる。

そして今日の夜のことをもう一度刻み込むように思い出す。


彼女の唇が、もし、自分だけの名前を愛しげに呼ぶ日が来るなら。


「あぁ……想像しただけでゾクゾクするね……」


指先で喉を撫でながら、伊月はくすりと笑った。


酔った美菜の姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。

美菜の仕草、声、表情、指先の動き──すべてが、鮮明に蘇る。そして忘れないように、記憶に刻む。


あの可愛らしい唇が、自分を求めて震える瞬間を見てみたい。


あの無邪気な瞳が、甘く潤んで、自分以外を見れなくなる瞬間を知りたい。


そしてあの美菜が、絶望して縋りついてくる姿が見てみたい。


「……ふふ、ねえ、美菜ちゃん」


月明かりの下、伊月の唇が微かに歪む。


「……いつまで瀬良くんに夢中でいられるのかな?」


独りごちるように呟く。


美菜の心は、まだ瀬良に向いている。


けれど、人の心は「絶対」ではない。


少しずつ、ゆっくりと侵食していけばいい。


何度も接することで、相手への好感度が上がるという心理作用なんてものもある。


彼女にとって、自分はもう「嫌な相手」ではない。


むしろ、困ったときに頼れる相手として、徐々に存在感を増している。


「……ふふ、本当に本当に本当に可愛いなあ、美菜ちゃん」


伊月は小さく笑った。


焦る必要はない。


人の心は、環境と経験によって容易に変化する。

その変化の兆しを、今日は確かに感じ取ることができた。


「次は、どんなふうに揺らしてあげようか?」


美菜の反応を思い出しながら、伊月は静かに瞼を閉じた。


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