Episode176
タクシーが静かに停車し、美菜は何気なく窓の外を見た。
そこに広がっていたのは、どこか格式のある佇まいの建物だった。
(……え?ここ……?)
車を降りた瞬間、さらに驚いた。
街の喧騒から少し離れた場所にひっそりと建つ、日本家屋のような風格のある飲食店。大きな木の門があり、その奥には手入れの行き届いた庭が広がっている。照明の明かりが柔らかく石畳を照らし、静かで落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
美菜は思わず息を飲む。
(……いや!ここ!めちゃくちゃ有名な、予約の取れない日本食屋さんじゃん!!!)
一度でも来たことがあるわけではないが、噂なら何度も耳にしていた。政治家や企業の重役など、いわゆる「特別な人たち」が利用する高級料亭。食通の間でも話題に上ることが多く、「庶民には一生縁がない店」とまで言われている。
そんな場所に、まさか自分が足を踏み入れることになるとは——。
「おーい?美菜ちゃーん?」
ふと名前を呼ばれ、ハッと我に返る。
見ると、伊月が少し先でこちらを振り返っていた。彼の横には、和服姿の女性が立っており、静かに微笑んでいる。
「……あ!今行きます!」
慌てて歩み寄ると、和服の女性が美しい所作で一礼した。
「いらっしゃいませ、伊月様」
まるで常連客を迎えるような、慣れた口調。
美菜は驚いた。
(……え?待って、伊月さん、ここに通ってるの……?)
伊月は和服の女性に軽く会釈しながら、「今日もよろしくお願いします」とさらりと返し、そのまま先へと進んでいく。
(……何者なの、この人……)
驚きを隠しきれないまま、美菜も伊月の後ろについて店の中へと足を踏み入れた。
***
案内されたのは、広々とした和室の個室だった。
一歩足を踏み入れた瞬間、美菜は息をのむ。
(……広すぎない?)
二人で食事をするには明らかに贅沢すぎる空間。畳敷きの部屋には、品のある木目のテーブルと椅子がセットされ、壁には繊細な筆致の掛け軸が飾られている。ふと視線を向けると、大きな窓の向こうに手入れの行き届いた庭が広がっていた。
石灯籠がほのかに灯り、季節の花々がライトアップされている。まるで絵画のような風景に、美菜は思わず見とれてしまった。
(……すごい、こんな場所、本当に来る機会なんてなかったのに)
どこか落ち着かない気持ちで部屋の真ん中に立っていると、伊月がくすっと笑いながら椅子を引く。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ?」
「いや、無理です!私、こんなところ初めてで……!もしマナー違反とかしちゃったらどうしましょう!?」
思わず慌てふためく美菜を、伊月は机の向かいから愉快そうに眺め、くつくつと笑った。
「ふふっ、僕と二人なんだから、そんなに気にしなくていいよ。好きなように食べてくれたらいいから」
その言葉に少し気が楽になったものの、やはり場違いな気がして落ち着かない。
すると、襖の向こうから先ほどの和服の女性が「失礼いたします」と上品な声で告げ、料理と飲み物を順番に運んできた。
美菜はその様子を目の当たりにし、思わず心の中で叫ぶ。
(で、出た……!高級店のちょっとずつ出てくる料理システム……!!)
美しく整えられた料理が次々と目の前に並べられる。
小さな器に盛られた前菜の数々。繊細にあしらわれた花びらまで飾られている。見ただけで高級感が伝わる料理に、美菜は驚きを隠せなかった。
「まあ、とりあえず乾杯しようか」
伊月がそう言って、グラスを軽く掲げる。
「あ、はい!」
美菜も慌てて食前酒のグラスを持ち、カチンと音を鳴らして口をつける。
「……わぁ」
思わず声が漏れた。
詳しくは分からないが、普段飲んでいるお酒とは明らかに違う。ふわっと口の中に広がる柔らかな味わいと、余韻が心地よい。
「……気に入ってもらえて何より」
伊月が満足そうに微笑む。その視線がまっすぐすぎて、美菜は思わず目を逸らした。
そんな彼女の仕草を、伊月はまた愛おしそうに眺める。
「……すみません、ある程度したらお酒の追加をお願いします。料理は今日はいつもよりゆっくりめで大丈夫です」
「かしこまりました」
和服の女性が手際よく料理を並べながら、静かに返事をする。その所作すら美しく、一流の店にふさわしいものだった。
(……すごい。もうなんか、別世界すぎる……)
圧倒されながらも、どこか現実感がない気がする。
そんな中、和服の女性が美菜の前に小さな箱をそっと置いた。
「お客様、こちらスマホの充電器でございます。よろしければお使いくださいませ」
「あ!ありがとうございます!」
伊月が気を利かせて用意してくれたのだろう。
礼を言いながら、机の横に備え付けられているコンセントにスマホを繋ぐ。そうしているうちに、女性が深々と一礼し、襖を静かに閉めた。
静まり返った個室に、伊月の穏やかな声が響く。
「さ、美菜ちゃん。好きなだけ食べてね」
嬉しそうに微笑む伊月に、美菜もようやく少し肩の力を抜くことができた。
「……あ、はい!いただきます!」
そう言って箸を手に取り、一品目を口に運ぶ。
——途端に、美菜の中の何かが弾けた。
「……お、美味しいぃぃぃ!!」
思わず身を乗り出し、感動のあまり叫んでしまう。
素材の味が際立ち、舌の上でとろけるような食感。今まで食べたどの料理よりも、一口ごとに驚きと感動が広がる。
「ははっ、美菜ちゃんのそんな顔が見られる日が来るなんて……幸せだなぁ」
伊月はそんな美菜の様子を、心から愛おしそうに眺めながら、自分のグラスを傾ける。そして、さりげなく美菜のグラスにお酒を注いだ。
美菜はそんな伊月の様子にほんの一瞬だけ我に返るが——。
(…………と、とりあえず!ご飯は楽しんでもいいよね!!?とりあえずね!!)
心の中で自分に言い訳をしつつ、スマホの充電がたまるまでの間、贅沢な料理を存分に堪能することに決めた。
***
「これ……何のお魚ですか?」
美菜は目の前に並んだ料理のひとつを指しながら、恐る恐る尋ねた。
透き通るように美しい白身に、上品な黄金色のソースがかかっている。見た目だけでも絶対に美味しいと確信できる一皿だが、今まで見たことがない魚だった。
「クエだよ」
伊月がさらりと答える。
「クエ……? あの、すごく高級な……?」
「そう、高級魚のクエ。脂が乗ってるのにしつこくなくて、美味しいんだよ」
美菜はごくりと唾を飲み込んだ。こんな機会でもなければ、一生食べることがなかったかもしれない。恐る恐る箸でつまみ、口に運ぶ。
「……っ!!」
一瞬で、幸福感が口いっぱいに広がった。
ふわりとした食感と、上品な旨み。舌の上でとろけるのに、あと味は驚くほどすっきりしている。
「……美味しすぎる……!」
心の底から感動してしまい、思わず両手で頬を押さえる。
「ふふ、美菜ちゃん、本当に素直だね」
伊月が微笑ましそうに笑い、グラスを傾けた。
「だ、だってこんなの食べたことないですもん……!」
「そっか。じゃあ今日はたくさん味わってね」
そう言いながら、伊月は美菜のグラスに再びお酒を注ぐ。
「わっ、ありがとうございます……」
美菜も自然と受け取り、再びグラスを合わせた。口に含むと、お酒の芳醇な香りがふわりと広がる。すっきりとした後味が、料理の味を引き立てるのが分かる。
「……こんな美味しいものばっかり食べてたら、もう普通のご飯に戻れないかも……」
美菜が冗談めかして笑うと、伊月はくすくすと笑った。
「それなら、また連れてきてあげるよ」
「えっ!? いいんですか!?」
思わず身を乗り出すと、伊月は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、すぐに優しく笑った。
「うん。美菜ちゃんが喜んでくれるなら、それだけで嬉しいからね」
そんなふうにさらっと言われ、思わず視線を泳がせる。
(……い、いけない……!美味しさに思わずいいんですか!?なんて聞いちゃった…!しっかりしろ自分!!)
ここに来るまでは、伊月のことを探るつもりだったのに——。
気がつけば、すっかり食事に夢中になってしまっていた。
(……とりあえず、ご飯は楽しんでもいいよね!? とりあえず!!)
心の中でそう言い訳をしながら、美菜は目の前の料理に再び箸を伸ばした。




