Episode172
――それから数時間後。
開店してしばらくは、いつも通りの営業だった。
予約表がいっぱいになっているとはいえ、もともと瀬良の指名は人気があったし、変な客さえいなければ問題はないはずだった。
「すみません、お待たせいたしました」
瀬良が淡々と予約客を案内していく。
彼の手際の良さは相変わらずで、カットの最中も無駄な動きがない。
美菜もそれとなく様子をうかがっていたが、今のところは特に問題はなさそうだった。
しかし――
「わぁ……本当に本人なんですね……!」
予約客の一人が、カット中にスマホを取り出し、瀬良の顔をじっと見つめた。
「……?」
瀬良の手が一瞬止まる。
「えっと、あの……やっぱりIrisさんですよね? ニュース見ました!」
「……仕事中なんで、そういうのはやめてもらえますか」
瀬良が冷静に言うと、客は少し気まずそうな顔をしたが、それでもスマホをいじり続けている。
その動きに、美菜は嫌な予感がした。
(もしかして、撮ってる……?)
「すみません、店内での撮影は禁止となっております」
すかさず田鶴屋が割って入り、客に注意する。
「えっ……!? いや、撮ってないですよ! ただ、ニュースが気になって」
「確認しますね」
田鶴屋はにこやかに言いながら、客のスマホを覗き込んだ。
すると、画面にはカメラアプリが開かれたまま、瀬良の姿が映っているのが見えた。
「……うちのサロンでは、プライバシー保護のため、無断撮影は禁止なんですよ」
「えっ、あ……す、すみません……」
客は慌ててスマホを伏せたが、その動揺ぶりから、すでに何枚か撮影されていた可能性は高い。
「削除してもらえます?」
田鶴屋の穏やかな声には、有無を言わせぬ圧があった。
客は観念したように、カメラロールを開き、撮影したと思われる写真を削除していく。
「はい……消しました……」
「確認しますね」
田鶴屋がしっかりと確認し、ようやく引き下がる。
しかし、こういうことが一度起こると、また別の客がやらないとも限らない。
(これ、しばらく続きそう……)
美菜は唇をかみしめた。
――そして、その予感は当たった。
それからも、瀬良を指名した客の中には、明らかに髪を切りに来たというより、彼を見に来たような人間が混ざっていた。
直接話しかけようとする人、何度もスマホをちらつかせる人、妙に興奮している人。
今までの常連とは明らかに違う雰囲気の客が増え、サロンの空気も少しずつ変わっていく。
「はぁ……やっぱ、こうなるよなぁ……」
木嶋がぼそっとつぶやく。
彼も普段から瀬良を指名する客を見ているだけに、この異様な状況には苦笑するしかなかった。
「ねぇ、田鶴屋さん。これ、本格的に対応考えた方がいいんじゃ……?」
「そうだねぇ……。さっきの新規制限、すぐにでも導入するか」
「うん……」
美菜が頷いたその時――
「ねぇねぇ、Irisさんって、本当に美容師さんなんですね!」
またしても、瀬良の客が興奮気味に声を上げた。
瀬良は眉をひそめたが、無言のまま仕事を続けている。
「前からプロゲーマーのIrisさんのファンで! え、ていうか本物だ! すごい! え、髪切ってもらえるのヤバくないですか!?」
「……施術中ですので、あまり動かないでください」
「すみません、でも本当に感激で! えっと、写真とかって……」
「ダメです」
瀬良がぴしゃりと遮る。
「撮影は禁止です。施術に集中してください」
「あ……は、はい……」
さすがに空気を読んだのか、客はようやく大人しくなったが、こうしたことが何度も続けば、仕事にならなくなるのは明らかだった。
「はぁ……」
美菜は心の中でため息をつく。
瀬良の負担が増えるのは間違いないし、それに……
(私だって、瀬良くんのこと見に来た人たちがいっぱい押し寄せるの、嫌だ……)
自分でも驚くほど、胸の奥にじわりとした感情が広がる。
瀬良は、私の彼氏なのに――そんな気持ちが、ふとよぎった。
「……ねぇ、瀬良くん、大丈夫?」
瀬良が次の客を見送ったタイミングで、美菜はそっと声をかけた。
「……大丈夫じゃねぇけど、大丈夫にするしかねぇだろ」
淡々とした口調だったが、疲れの色は隠せない。
「……」
何か言いたいのに、言葉が出てこない。
美菜は、ぎゅっと拳を握った。
「……瀬良くん、今日の営業終わったら、ちょっと話そ」
「……あぁ」
瀬良は小さく頷いた。
このまま、何もしないわけにはいかない。
瀬良のためにも、サロンのためにも――そして、何より自分のためにも。
美菜は、心を決めた。
***
ようやく一日の営業が終わり、サロンには静けさが戻っていた。
スタッフたちは後片付けをしながら、それぞれ仕事の疲れを癒している。
しかし、美菜と瀬良はまだ落ち着ける気分ではなかった。
特に瀬良は、いつも以上に無口で、深く考え込んでいる様子だった。
「……瀬良くん」
美菜がそっと呼びかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
「……今日、やっぱり大変だったね」
「まぁな」
「お客さんも……瀬良くんに髪を切ってもらいたいっていうより、ただ見に来てる感じの人、多かったよね」
「……ああ」
瀬良は目を伏せたまま、肩をすくめる。
「元々指名は多かったけど、今日のは明らかに雰囲気が違ったな」
「うん……。撮影しようとする人もいたし、SNSに書き込んでた人もいたし……」
美菜は今日の光景を思い出して、改めてため息をついた。
普通の予約客の中に、明らかに”興味本位”で来た人が混ざっていたのは一目瞭然だった。
それに、無断撮影の問題もあったし、今後もっと増える可能性もある。
「……このままじゃ仕事にならないよね」
「だな」
「何か対策考えないと……」
二人の会話を聞いていた田鶴屋が、近くのソファに腰を下ろしながら口を開いた。
「とりあえず、新規予約の制限はすぐにかけるとして……。あとは、指名客の管理も厳しくしないとダメだね」
「管理って?」
「新規の指名予約をもっと厳しくチェックするんだよ。例えば、SNSの話題に飛びついただけっぽい人の予約は受けないとか、過去にキャンセルを繰り返してる人はブロックするとか」
「なるほど……」
「あと、サロンの公式アカウントでも注意喚起した方がいいかな。『スタッフのプライバシーを尊重してください』的なやつをね」
「……それでどこまで効果があるかはわからねぇけどな」
瀬良がぼそりとつぶやく。
「まぁ、完全には防げなくても、何もしないよりはマシでしょ。何より、瀬良くんが仕事しやすい環境を作らないと」
美菜が真剣な表情で言うと、瀬良は少しだけ目を細めた。
「……悪いな」
「何が?」
「お前にまで気を使わせて」
「……気を使うとかじゃなくて、私は瀬良くんのことが心配だから。大変なのに、そのまま放っとくなんてできないよ」
「……」
瀬良は黙って美菜を見つめたあと、ふっと小さく息をついた。
「……そういうとこ、お前らしいよな」
「え?」
「ありがとな、美菜」
珍しく素直に礼を言われて、美菜は少し驚いた。
でも、それ以上に嬉しくて、自然と微笑む。
「うん……」
「じゃあ、俺も俺でできること考えるわ」
瀬良はスマホを手に取りながら、何か考え込んでいるようだった。
しばらく沈黙が続いたあと、ふと美菜の方を見て、ぽつりとつぶやく。
「……正直、もうゲームもやめた方がいいのかって思った」
「……え?」
美菜の表情が、一瞬で強張る。
「やめるって……本気で言ってるの?」
「このままじゃ、美容師の仕事にも支障が出るかもしれねぇし……。これ以上、周りに迷惑かけるなら、いっそ――」
「ダメ!」
美菜は思わず大きな声を出した。
瀬良も驚いたように目を見開く。
「ダメだよ、そんなの……!」
「……でも」
「瀬良くんがずっと続けてきたことなんだよね? Irisとして戦ってきたんだよね? それを、こんなことでやめちゃうの……?」
「……でも、今のままじゃ――」
「だったら、やめない方法を考えようよ!」
美菜は必死に言葉を続けた。
「どうしても大変なら、少し休んでもいい。でも、簡単にやめるなんて言わないで」
「……」
瀬良は美菜をじっと見つめる。
「私は……瀬良くんがIrisとして戦ってるの、すごいと思ってるし、応援してるから……」
小さな声でそう告げると、瀬良はふっと目を伏せ、短く息を吐いた。
「……悪い。変なこと言った」
「……ううん」
「もう少し、考えてみる」
それだけ言って、瀬良はソファにもたれかかった。
――簡単に解決できる問題ではない。
だけど、少なくとも彼がすぐに投げ出すつもりはないとわかっただけで、美菜は少しだけ安心した。
(この先、どうなっていくんだろう……)
彼の正体が世間に知られたことで、二人の関係もまた、少しずつ変わっていく気がして、美菜は少し不安だった。




