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Episode171



朝の冷たい空気を感じながら、美菜は足取り軽く店へと向かった。


同棲する新しい家も決まり、気持ちはすっかり浮き足立っている。


(引越しの準備とか色々大変だよなぁ……でも、新しい家のレイアウト考えたり、家具選びするのって楽しそう!)


そんなことを考えながら店のドアを開けると、すでに朝練が始まっているかと思いきや、そこに瀬良の姿はあったものの、ウィッグはまだ出されていない。


代わりに目に入ったのは、珍しく早めに来ていた木嶋と向かい合っている瀬良の姿だった。

だが、その様子に違和感を覚える。


「……だよな」

「…………だと思うけど……だから……」


二人が何かを話しているのは分かるが、その会話の内容までは聞き取れない。

しかし、明らかに様子がおかしい。


瀬良の表情はひどく青ざめ、木嶋もいつもの軽い雰囲気ではなく、どこか真剣な顔をしていた。

何かあったのだろうか。


声をかけるべきかどうか迷っていると、ふと瀬良と目が合った。


「あ、おはよう……」


その声は、いつもよりもずっと低く、張りがなかった。


木嶋も美菜の方へ顔を向け、少しだけ口角を上げながら挨拶をする。


「おはよー美菜ちゃん」

「おはよう……」


二人の雰囲気に違和感を覚えながらも、思い切って尋ねてみた。


「……何かあったの?」


すると、木嶋が「いやー……それがさ」と言いながらスマホを手渡してくる。

画面にはネットニュースが表示されていた。


《速報》ワールド・リーゼのプロゲーマー“Iris”

その素顔がイケメンすぎる


「……なに、これ?」


スクロールすると、瀬良の写真や美容師としての仕事について、さらには大会の成績まで事細かに書かれていた。


『これはイケメン』

『Irisこんな顔してたの』

『プロゲーマーで美容師か』

『これマジ?』


コメント欄には驚きや称賛の声が並んでいる。

だが、美菜の手の中のスマホが重く感じるほどに、状況の重大さが伝わってくる。


「……いや、これダメでしょ……」


ぽつりと漏らすと、木嶋も大きく頷く。


「個人特定が酷すぎるよね」


記事はおおむね好意的な内容だったが、それ以上に瀬良の情報が世間に広まってしまったことの方が問題だった。

それこそ、職場が特定され、日常に支障が出る可能性も十分にある。


「……………………」


沈黙する瀬良。

その表情には焦りや苛立ち、そして少しの諦めが混じっていた。


一応、中には


『ソースどこ』

『これホントだったら個人情報漏洩で怒られるのでは』

『この記事大丈夫?これでIrisじゃなかったらどーすんの?ww』


といった冷静な意見もあったが、もはや火消しにはならなそうだ。

むしろ、この騒動がさらに拡散される可能性の方が高い。


「こんなに大々的に載せられて拡散されちゃうとさー、リアルに困っちゃう事とかも出てくるんだよねぇ……」


木嶋が呆れたようにスマホを軽く振る。


「うん……」


美菜も不安を隠せない。

そして瀬良は、より険しい表情でぽつりと漏らした。


「てか既に迷惑出始めてるけどな」


そう言って、自分のスマホを取り出し、画面を美菜の前に向ける。

そこには、サロンの予約ボードが映し出されていた。


「……っ!」


美菜は思わず息をのむ。


瀬良の予約枠だけが異様な数になっていて、これ以上予約が入らないように“予約不可”状態にされていた。


「……顔バレ、身バレ……どっちもどころか大会のことまで書かれたら、そりゃ調べられてファンなら予約入れるよねぇ」


木嶋が肩をすくめながら言う。


「それこそ興味本位で来るだけだしな」


瀬良は不服そうに腕を組む。


「……でも、指名が増えたって思えたら楽なんじゃ?」


一応のポジティブな考えを口にしてみるが、瀬良はそれをすぐに否定した。


「指名だけならいいけど、これ見て」


そう言って、今度はスマホのメール欄を見せてくる。


「……」


そこには「ご予約を受け付けました」というメールと、「キャンセルされました」というメールが交互に並んでいた。


「……嫌がらせだよな」


瀬良の声が低く沈む。


「…………ひどい」


美菜は思わず眉を寄せた。


「だよなぁ〜。朝起きてこれはマジでビビったわ」


木嶋はため息混じりに笑うが、明らかに内心は穏やかではない。


これからどうすればいいのか。

ただ待てばこの騒動は収まるのか、それとも何か対策を講じるべきなのか。


しかし、下手に動けば火に油を注ぐ可能性もある。


「とりあえず……田鶴屋さんに相談しよっか」


美菜がそう提案すると、瀬良と木嶋も頷いた。


「そうだな」

「だねぇ。こんな時こそボスに頼ろう」


こうして三人は、事態を整理するためにも、一度田鶴屋に相談することに決めた。



***



「や〜、こりゃあ大事だね!」


田鶴屋が店に入るなり、瀬良たちから話を聞き終え、すぐに大きく息を吐いた。

彼の手には、スマホの画面が映し出されている。そこには、先ほど瀬良と木嶋が見せていたネットニュースの記事がそのまま開かれていた。


「いやぁ、こりゃ派手にやらかされたねぇ。よりによって、こんなでかいメディアに載っちゃうとは」


田鶴屋はスマホを指でスクロールしながら、呆れたような、それでいて冷静な口調で言った。


「……まぁ、褒められてる内容ばっかだからまだマシっちゃマシだけど、問題は特定の速さと拡散力だよね」


「ですよね……」


美菜は思わずうなずいた。

瀬良が美容師をやっていること、大会の成績、そして顔写真までが世間に広まってしまった今、興味本位で来店する客が増えるのは当然だろう。


「しかも、すでに予約状況がカオスっていうね」


木嶋が軽く肩をすくめながら、サロンの予約システムを見せる。

やはり、瀬良の指名予約だけが異常に集中しており、さらにキャンセルと再予約が繰り返されるという嫌がらせも続いていた。


「うわ〜、こりゃ面倒だねぇ……まったく、世の中には暇な人が多いもんだ」


田鶴屋は眉をひそめ、腕を組んだ。


「これ、どうすればいいんでしょうか……?」


美菜が不安そうに尋ねると、田鶴屋は一瞬考え込み、それからゆっくりと口を開いた。


「とりあえず、予約に関しては制限をかけるしかないね。瀬良くんの指名は完全紹介制にするとか、既存のお客様しか受け付けないようにするとか」


「……紹介制?」


「そう。新規は一時的に制限して、信頼できるお客さんからの紹介がある場合のみ受け付ける。これなら、興味本位の客はほぼ弾けるでしょ?」


「なるほど……」


「キャンセル嫌がらせに関しては、しばらく予約時の事前決済を必須にするのもありだね。キャンセルされても料金は返さないっていう条件にしておけば、適当な予約を入れるやつは減るはず」


田鶴屋の冷静な対応に、美菜は少しほっとした。

確かに、新規制限と事前決済を導入すれば、少なくとも無駄な予約や冷やかしは減るかもしれない。


「……ただ、問題はそれだけじゃないよね」


「……」


田鶴屋の言葉に、瀬良の表情がさらに険しくなる。


「このまま収まればいいけど、もっとややこしいことになったら……たとえば、記者が取材に来るとか、客が勝手に写真撮ってネットに上げるとか、そういうリスクもあるわけで」


「……っ」


美菜は思わず息をのんだ。

それは十分にあり得ることだった。


「サロンとしては、お客様のプライバシーを守るためにも、店内での撮影禁止をもうちょっと厳しくした方がいいかもね。下手したら、瀬良のくんことを撮影して拡散する人間も出てくるかもしれないし」


「……面倒くせぇな……」


瀬良が珍しく小さく舌打ちし、腕を組んだ。


「まぁな。でも、こうなっちゃった以上、できる対策はしておいた方がいいよ」


田鶴屋はそう言いながら、スマホをポケットにしまった。


「とりあえず、今日は通常通り営業するけど、瀬良くんはちょっと様子見ながら仕事して。もし変な客が来たら、すぐに対応するから」


「……わかりました」


「木嶋くんも河北さんも、何かあったらすぐ報告してね」


「了解っす」

「はい」


ひとまずの対応策が決まり、美菜は少しだけ安心した。

しかし、問題が完全に解決したわけではない。


「……大丈夫かな」


瀬良のことが心配で、美菜は無意識に彼の顔を見つめていた。

彼は相変わらず険しい表情のままだったが、美菜と視線が合うと、少しだけ力を抜いたように見えた。


「まぁ、なるようになるだろ」


そう言いながらも、瀬良の声にはまだ重みが残っていた。


美菜は、そっと彼の腕に触れ、小さな声で言った。


「……困ったことがあったら、ちゃんと言ってね」


瀬良は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに小さく頷いた。


「……ああ」


それだけの言葉だったが、美菜には十分だった。


問題はまだ続くかもしれない。

でも、みんなで乗り越えていけば、きっと大丈夫。


そんな風に、自分に言い聞かせながら、美菜は静かに息を整えた。


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