Episode170
休日の朝、待ち合わせの時間より少し早めに家を出た美菜は、どこかそわそわしていた。
瀬良と一緒に新しい部屋を探す。
それだけのことなのに、まるで初めてのデートみたいに緊張している自分がいる。
「……おはよう」
集合場所の駅前に立っていた瀬良は、いつもと変わらないクールな表情だった。
でも、よく見れば耳がほんのり赤い。
「おはよう! 今日よろしくね」
そう言って並んで歩き出すと、どこか落ち着かない空気が流れた。
美菜も瀬良も、意識しないようにしているつもりなのに、無意識に視線が合ってしまう。
「……なんか緊張するな」
ぽつりと瀬良が呟いた。
その一言で、美菜は少しだけ肩の力が抜ける。
「わかる……なんか、改めて考えるとすごいことしてる気がする」
「まぁ、同棲だからな」
そんな他愛ない会話をしながら、不動産屋で待ち合わせをしている場所へ向かった。
***
不動産屋のオフィスに到着すると、担当の営業マンがにこやかに迎えてくれた。
「瀬良さん、河北さん、本日はよろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
「今日は3件ほど、条件に合いそうなお部屋をご案内しますね」
事前に伝えていた希望条件——職場からの距離、間取り、家賃の範囲内で選ばれた3つの物件。
それぞれに良し悪しがあるだろうけど、ふたりとも気に入る部屋が見つかるといいな、と美菜は願った。
営業マンの車に乗り込み、まずは1件目へ向かう。
***
1件目:駅チカの新築マンション
「こちらは駅から徒歩5分、新築で設備も最新のものが揃っています」
エントランスを抜け、エレベーターで上がり、部屋の扉が開く。
中に入ると、白を基調としたシンプルな内装で、床もキレイに輝いている。
「うわぁ、新しいって感じ……!」
「確かにキレイだな」
キッチンも広く、カウンター付き。収納も充実していて、住みやすそうだった。
ただ、家賃は少し高め。
「悪くないな」
瀬良は腕を組んで真剣に考えている様子。
美菜も悪くないと思ったが、どこか「決定打」に欠ける気がした。
「ここもいいけど……まだ他も見たいかも」
「そうだな、他も見てから決めよう」
⸻
2件目:広めの築浅マンション
「こちらは築5年ほどのマンションで、先ほどの物件よりも少し広めです」
部屋に入ると、確かに先ほどよりもゆとりのある空間が広がっていた。
リビングも広く、日当たりもいい。
「ここ、結構いいかも」
「収納も多いですね。お二人で住まれるなら、このくらいのスペースがあると便利ですよ」
営業マンの説明に頷きながら、美菜と瀬良は部屋を見て回った。
お風呂も広く、洗面台もダブルシンク。
「ここなら、朝の準備とか楽そうだな」
瀬良の言葉に、美菜はふと「あぁ、本当に一緒に住むんだな」と実感する。
毎朝、一緒に準備して、一緒に出かける。
そんな日常が待っているのかと思うと、胸が少し高鳴った。
「うん、いい感じだね!」
⸻
3件目:少し古めだが雰囲気の良いマンション
「最後の物件ですが、築年数は少し経っていますが、リノベーションされていて雰囲気のいいお部屋です」
確かに、見た目は少し古い。
けれど、中に入ると温かみのあるウッド調の内装で、どこか落ち着く空間だった。
「……ここ、いいな」
瀬良が小さく呟いた。
「うん、なんか落ち着く感じ……」
リビングの窓が大きく、開放感がある。
ベランダも広く、そこから見える街の景色も悪くない。
「それに、ここなら職場からも近いですね」
営業マンの言葉に、美菜と瀬良は顔を見合わせる。
お互いに「ここがいいかも」と思っているのが伝わった。
「……どうする?」
「うん……私、ここがいい」
美菜がそう言うと、瀬良も頷いた。
「じゃあ、ここにしよう」
***
物件を決めた後、不動産屋で契約手続きを進めた。
初めてのことばかりで緊張したが、瀬良が隣にいることで、どこか安心感もあった。
「これで……本当に一緒に住むんだね」
帰り道、美菜がぽつりと言うと、瀬良はふっと小さく笑った。
「そうだな」
当たり前のように、だけどどこか照れくさそうに答える瀬良の横顔を見て、美菜は自然と笑みをこぼした。
(これから先、楽しいことも、大変なことも、きっとたくさんあるんだろうな)
それでも——
「……楽しみだね」
「……ああ」
繋いだ手のぬくもりが、そっと未来を照らしてくれる気がした。
***
部屋を決めた帰り道、美菜は心地よい疲れを感じながら瀬良と並んで歩いていた。いくつかの物件を見て回り、ようやく二人が納得できる場所を見つけた。駅からの距離、部屋の広さ、日当たり……どれも希望通りとは言えないけれど、それでも「ここなら」と思える部屋だった。
「契約、来週にはできるってさ」
隣で歩く瀬良が、ポケットに手を突っ込みながらぽつりと言う。
「うん……なんか、いよいよって感じするね」
美菜は少し笑いながら答えた。まだ実感が湧かないけれど、もうすぐ自分たちの新しい生活が始まる。二人で決めた部屋に、二人で家具を置いて、一緒に朝を迎えて、一緒に夜を過ごす。想像するだけで、胸が高鳴った。
そんなふわふわした気持ちで歩いていたとき、不意に瀬良が立ち止まる。
「あ、ちゃんと言えてなかったけどさ……」
「ん?」
振り向いた美菜の目の前で、瀬良は少しだけ視線を落とし、どこか気まずそうに言葉を続けた。
「結婚前提に同棲する予定なんだけど、大丈夫?」
一瞬、言葉の意味を考えて、美菜は思わず吹き出しそうになった。
「えっ、もちろんだよ! というか……私もそのつもりだったし!」
「……そっか」
瀬良はどこか安心したように目を細める。
「もう……なんで今さらそんな確認するの?」
「……いや、なんとなく……はっきり言っといた方がいいかなって思って」
そう言う瀬良の耳は、ほんのり赤くなっている。改めて言葉にするのが少し照れくさかったのかもしれない。
でも——
「順番バラバラすぎだよ」
美菜はくすっと笑ってしまう。
「子どもほしいか聞かれて、その次に同棲しようって言われて、今日部屋を決めて……で、今さら結婚の意思確認?」
言われてみれば確かに、順序がめちゃくちゃだった。普通なら結婚を決めてから同棲を考えて、将来の話をしていくのが一般的かもしれない。けれど、瀬良との関係は、気づけば自然とそういう未来へ進んでいた。
「……しょうがないだろ、彼女も同棲も……初めてなんだし」
「——っ!」
その言葉に、美菜の心がぎゅっとなった。
瀬良にとって、彼女も、同棲も、すべてが初めて。だから彼は、自分なりに考えて、順番がどうであれ、美菜と一緒に一歩ずつ進もうとしている。そう思うと、嬉しくて仕方なかった。
「……あはは! そうだね」
美菜は、どうしようもないくらい幸せな気持ちで、瀬良の腕にそっと触れる。
「でも、そのバラバラな順番も、私は好きかも」
「……なんだよ、それ」
小さく呟きながら、瀬良はほんの少しだけ、恥ずかしそうに目を逸らした。
こんなふうに、不器用ながらも確かに未来へ進んでいく彼となら、どんな順番だって構わない。むしろ、そのすべてが美菜にとって、大切な思い出になる気がしていた。




