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Episode167



ふと美菜が目を覚ますと、先に起きていた瀬良が片手で美菜を抱き寄せたままスマホを見ていた。温かい腕の中、穏やかな鼓動が耳に心地よく響く。ぼんやりとした意識のまま瞬きを繰り返しながら、美菜は口を開いた。


「……あれ、今何時?」


「ん? 17時20分くらい」


瀬良がスマホから目を離さずに答える。


「え!? 17時!?」


美菜は一気に目を覚まし、勢いよく瀬良の腕の中から飛び退いた。最後に時計を見たのは確か13時40分くらいだったはず。それからほんの少し横になったつもりが、まさかこんなに時間が経っているとは思わなかった。


「私、ずっとこの体勢で寝てたの!? 瀬良くんも!?」


驚いて自分の寝ていた状態を思い返す。瀬良の胸にしがみつくように向かい合わせで寝ていたようだ。寝る前に外したホックも、いつの間にか元どおりになっている。


「ずっと寝てたな。俺も30分くらい前に起きたとこ」


瀬良は欠伸を噛み殺しながら、ゆったりと背伸びをした。そのまま何事もなかったように立ち上がり、トイレへと向かっていく。


「え!? ずっとあの体勢だったんだよね!? お、重たかったよね!? ごめんね!!」


慌てて後ろを追うように問いかける美菜。しかし、瀬良は振り向きもせずにひと言。


「重くなかったよ。役得だし」


フッと笑ったその横顔があまりに自然で、さらっとした言葉が妙に胸に響いた。


(てか、どんだけ人の上で寝てんの私……!)


美菜は内心で頭を抱えながら、せめてものお詫びにと麦茶を入れにキッチンへ向かった。グラスに冷たい麦茶を注ぎながら、ぼんやりと外の空を見上げる。陽の光はすっかり柔らかくなり、茜色に染まりつつある。


(もう夕方かぁ……瀬良くんといると安心しちゃうからなぁ)


ふわりと微笑みながら、麦茶の入ったコップを二つ持ってリビングへ戻る。ちょうど瀬良がトイレから戻ってきたところだった。美菜が手渡した麦茶を受け取ると、瀬良は軽く会釈して「ありがと」と短く礼を言った。


コップを傾け、ひと口麦茶を飲んだ後、美菜は少し迷ったように唇を噛む。そして、意を決したように口を開いた。


「ちょっとだけさ……瀬良くんに、ワールド・リーゼのコーチングとか受けてみたいなーって思ってたんだけど……」


もじもじと照れくさそうに視線を逸らしながら、恐る恐る言葉を紡ぐ。瀬良の実力を知っているからこそ、軽く頼めることではないと分かっていた。


「いいよ」


瀬良は何の迷いもなく即答した。そのあまりにもあっさりとした返事に、美菜は一瞬ぽかんとした後、パッと明るく笑った。


「ほんとに!? やった!」


ぱっと立ち上がると、急いでパソコンの電源を入れる。モニターが立ち上がる間も落ち着かず、そわそわと落ち着かない様子で指を動かしている美菜を見て、瀬良は小さく笑った。


「そんなに楽しみ?」


「そりゃ楽しみだよ! 瀬良くんに教えてもらえるなんて、絶対上手くなれる気しかしないもん!」


目を輝かせながら振り返る美菜に、瀬良は「ふーん」と軽く肩をすくめた。その何気ない仕草が、どこか微笑ましくて、美菜はますます頑張ろうという気持ちが湧いてきたのだった。



***



パソコンの起動音が部屋に響く。美菜はすぐにゲームを立ち上げ、ログイン画面を前にしてそわそわと瀬良の方を見た。


「えっと……まず何からすればいい?」


「とりあえず試合を見せて。いつも通りやってみて」


瀬良はソファに腰を下ろし、美菜の横に自然と座った。画面を覗き込みながら、麦茶をひと口飲む。その落ち着いた雰囲気に、美菜は緊張しながらもマウスを握りしめた。


「よし……じゃあ、やってみるね」


少し深呼吸して、いつものランクマッチに潜る。


試合が始まると、美菜は集中してマウスを動かし、キャラクターを操作した。序盤の立ち回りは悪くない。しかし、相手チームが本格的に動き出すと、美菜は押され始め、次第に焦りが見え始めた。


「うわっ、やば……!」


前線を押し上げようとした矢先、敵の奇襲を受けてしまい、美菜のキャラは倒された。


「んー……今のは?」


瀬良が画面を指差しながら、少しだけ首をかしげる。


「えっと……詰めようと思ったんだけど、相手の動きが予想と違って……」


「うん。それで?」


瀬良の問いに、美菜は自分のプレイを振り返る。なんとなく突っ込んだわけではない。でも、結果的にやられてしまったということは、何かが間違っていたはずだ。


「……たぶん、視界を取らずに動いちゃったのがダメだったかも?」


「正解」


瀬良は満足そうにうなずいた。


「相手の位置を把握せずに前に出ると、こうやって簡単に落とされる。美菜は反応速度も悪くないし、判断も早いけど、情報を取るのが甘い。もう少し敵の位置を予測して動くといい」


「なるほど……」


真剣に頷きながら、瀬良の言葉を頭に刻み込む。今までなんとなく感覚でプレイしていた部分があったが、こうして指摘されると、自分の弱点が明確に見えてくる。


「じゃあ次は、この場面での動きを見直してみようか」


瀬良がリプレイを巻き戻しながら、美菜の動きを細かく分析していく。その横顔は、いつもの無口でクールな美容師の瀬良ではなく、プロゲーマー『Iris』としての姿だった。


(瀬良くん、やっぱりすごい……)


プロの視点からの的確なアドバイスに、美菜の胸が高鳴る。教えてもらうだけじゃなく、もっと上手くなりたい。この人の隣に立てるくらい、成長したい。


「よし、次の試合行ってみようか」


瀬良の声に、気持ちを引き締める。


「うん! 次こそは、もっといい動き見せる!」


美菜は改めてマウスを握り、再び試合へと挑んだ。



***


ゲームのコーチングが進むにつれ、美菜も瀬良も次第に熱が入り、無言になる時間が増えていった。美菜は、瀬良の指摘をすぐに実践しようと何度もマウスを動かし、瀬良はそんな美菜のプレイを真剣に観察しながら、的確なアドバイスを送る。


「今の、よかったな」


瀬良の低い声が静かな部屋に響く。美菜は、一瞬手を止めて瀬良の方を見ると、満足そうにうなずいているのがわかった。


「ほんと!? やった!」


「前の試合より、ちゃんと周りを見ながら動けてた」


瀬良はそう言いながら、美菜のプレイを振り返りつつ、「あと少しだな」と小さくつぶやく。その言葉に、美菜のやる気はさらに上がった。


「もう一戦やる?」


「やる!」


二人とも、上手くなりたい一心で集中し、気づけば時間はあっという間に過ぎていった。



***



「ちょっと休憩しよっか」


瀬良の提案で、一旦手を止めることにした。美菜は軽く伸びをしながら、ソファの背もたれに体を預ける。


「……ふぅー、ちょっと夢中になりすぎちゃったかも」


「まぁ、こういうのは集中したもん勝ちだからな」


「とりあえず今日教えてもらった事はメモ取らなきゃね!」


「真面目だな」


瀬良はそう言いながら、麦茶の入ったコップを手に取り、一口飲む。美菜はスマホのメモ機能を起動し、ふと昔のことを思い出していた。


(あー……昔こうやってカット講習してたなぁ)


美容師としての技術を磨くために、同期たちと講習をよく受けに行っていた頃。

瀬良とは特別親しく話す間柄ではなかったが、一度だけその日は二人でカットの講習を受けに行ったことがある。


講師の先生は業界では有名なベテランだったが、説明がやたらと比喩的で、いまいち要点が掴めなかった。

「髪にリズムを刻むように」「ハサミの動きに魂を込めて」といった抽象的な言葉ばかりが飛び交い、技術的な具体例が少なかったため、美菜は困惑しながらノートを取るしかなかった。


(結局、何をどうすればいいのか分からない……)


そんなときだった。隣に座っていた瀬良が、ノートにさっと何かを書き込んで、美菜の方にそっと見せてくれた。


「毛流れに沿ってラインを作るって意味」


「この場合は、セニングの入れ方を調整しろってこと」


美菜が戸惑っていた部分を、瀬良は簡潔に、しかも的確に言葉にしてくれていた。そのおかげで、美菜はすぐに理解し、実際のカット練習でも迷わず手を動かせたのを覚えている。


(瀬良くんの教え方って、ほんと分かりやすいんだよなぁ)


怒ることはなく、感情的に否定することもなく、必要なヒントだけをくれる。そして、自分で答えを見つけさせてくれるような教え方をしてくれる。


今も昔も変わらず、瀬良は指導力が高い。美菜が尊敬できる部分の一つだった。


そんなことを思い出していたちょうどその時——。


「……なんか昔、講習でこんな感じで教えたことあったよな」


瀬良がふとつぶやきながら、麦茶を一口飲んだ。


「えっ! 私もそれ、さっき思ってた!」


思わず声を弾ませる美菜。瀬良は「だよな」と軽く笑い、コップをテーブルに置いた。


「昔から、美菜って飲み込み早いよな」


「え、そうかな?」


「お前が迷った時、ちょっとヒントを出せばすぐに理解するだろ。そういうとこ、変わんねぇな」


「う……なんか照れる」


嬉しいけれど、真顔で言われるとやけに恥ずかしい。美菜はそっと顔をそむけ、照れ隠しのようにコップを口に運んだ。麦茶の冷たさが、少し火照った頬を落ち着かせてくれる気がした。


「……じゃあ、そろそろ再開するか」


「うん!」


美菜は気持ちを切り替え、再びゲーム画面に向き直る。


過去の講習と同じように、今もまた瀬良の言葉が美菜を導いてくれる。変わったようで、変わらない。そんな関係が、美菜には心地よく感じられていた。


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