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Episode161



薄暗い部屋の中、瀬良はゆっくりと目を覚ました。

窓の外はまだ夜の名残を残し、静寂が支配している。

隣では美菜が小さく寝息を立てながら、穏やかな表情で眠っていた。


(……寝てるな)


瀬良はそっと布団を抜け出し、美菜を起こさないように足音を忍ばせながら部屋を出た。


襖を静かに閉めると、一度息を吐き、廊下を進む。


朝の冷え込んだ空気が、まだ温もりの残る身体をゆっくりと覚醒させる。


洗面所で顔を洗い、簡単に身支度を整えた後、玄関へ向かった。


そこにはすでに実琴が待っており、靴を履いている最中だった。


「おはよう。準備できた?」


「……あぁ」


瀬良が小さく頷くと、実琴は微笑みながら頷き返した。


「じゃあ行こうか」


そう言って玄関の扉に手をかけた瞬間、瀬良はふと違和感を覚えた。


(スマホ、持ったか……?)


一瞬考え、ポケットを探る。


(……忘れたな)


「スマホ忘れた」


「ん、早くしてよねー」


ため息をつきながら、瀬良は踵を返し、自分の部屋へと戻る。

襖の前で立ち止まり、静かに開ける。


だが、その瞬間、瀬良の動きが止まった。


部屋の中には、すでに身支度を整えた美菜が立っていた。


髪を簡単にまとめ、布団も畳まれてある。


そして、腕を組みながら、ほんの少しだけ頬を膨らませて瀬良を睨んでいた。


「……なんでだよ」


瀬良がぼそっと呟くと、美菜は少し不機嫌そうに口を開いた。


「私も行く」


「……なんで」


「昨日、トイレに行こうとして歩いてたら聞こえちゃった」


「なるほど」


瀬良は小さくため息をつくと、目的のスマホを手に取り、何も言わずに部屋を出た。


美菜も当然のようについてくる。


玄関に戻ると、実琴が不思議そうに二人を見つめた。


「ありゃ? 美菜ちゃん起きちゃったの?」


美菜はぺこりと頭を下げ、真剣な表情で言った。


「お姉さんおはようございます。私も一緒にお墓参りさせてください」


実琴は驚いたように一瞬目を瞬かせたが、すぐに優しく微笑んだ。


「ありがとう」


そう言いながら、美菜にお線香の束を手渡す。

美菜はそれを両手でしっかりと受け取り、大事そうに握りしめた。


「じゃあ、行きますかー!」


実琴の明るい声を合図に、三人はゆっくりと玄関を出た。

朝の冷たい風が頬をかすめ、これから向かう場所の静けさを思わせるようだった。



***



車のエンジン音が静寂を切り裂くように響く中、三人を乗せた車はまだ薄暗い道を進んでいった。


美菜は後部座席でお線香を抱えながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。

街灯がまばらに灯る早朝の街は、人影もなく、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。


「眠くない?」


助手席の実琴が、ルームミラー越しに美菜を見ながら優しく問いかけた。


「大丈夫です」


美菜は微笑みながら答えたが、実際には少し眠気が残っている。

それでも、どうしても今日の墓参りには一緒に行きたかった。


「俺が起こしたわけじゃねぇのに、勝手に起きてついてくるんだからな」


瀬良が隣でぼそっと呟く。


「勝手じゃないもん。瀬良くんがこっそり行こうとするからでしょ」


美菜が少し拗ねたように言うと、実琴がくすっと笑った。


「仲がいいんだね」


「……おう」


「ほんとにね」


瀬良と美菜が同時に返し、実琴はさらに楽しそうに笑った。



***



車はやがて霊園の駐車場に到着し、三人は降りた。


空はようやく明るくなり始め、朝の冷えた空気の中に鳥のさえずりが響いている。

静かで落ち着いた雰囲気の中、三人はゆっくりと墓地へと歩みを進めた。


瀬良と実琴が慣れた様子で掃除を始め、美菜もそれにならって墓石を丁寧に拭き始める。

手にした布越しにひんやりとした感触が伝わってきた。


「美菜ちゃん、ありがとうね」


「いえ、私なんて大したことしてないです」


「そんなことないよ。こうやって来てくれるだけでも嬉しいから」


実琴は優しく微笑みながら、美菜にお線香を手渡した。


瀬良は何も言わず、静かに花を添え、マッチで火をつける。

線香の煙がふわりと上がり、清らかな香りが辺りに広がった。


三人は並んで手を合わせ、それぞれの思いを胸に静かに目を閉じる。


「……久しぶりだな」


瀬良がぽつりと呟いた。


美菜はそっと彼の横顔を見つめる。

普段は感情をあまり表に出さない瀬良が、こうして静かに語りかける姿はどこか新鮮だった。


「……来れてよかったね」


美菜が小さく呟くと、瀬良はちらりと美菜の方を見たが、何も言わず再び手を合わせた。


しばらくの間、静寂が流れた後、実琴が優しく微笑みながら手を合わせたまま言った。


「これからも、私たちのこと見守っててね」


風がそよぎ、木々の葉がさらさらと揺れる音が響いた。

どこか、応えるような優しい気配を感じた気がした。



***



お墓参りを終えた三人は、霊園の出口へと向かって歩いていた。

朝日がゆっくりと昇り始め、霊園全体をやわらかな光が包み込む。

ひんやりとした空気も少しずつ和らぎ、穏やかな朝の訪れを感じさせる。


駐車場へ戻る途中、実琴がふと足を止めた。


「あれ、向日葵……?」


その言葉に美菜と瀬良も立ち止まり、彼女が指差した方を見る。

霊園の少し奥の方に、鮮やかな黄色の向日葵畑が広がっていた。


「こんなところに向日葵畑なんてあったんだな」


瀬良が少し意外そうに呟くと、美菜は目を輝かせた。


「すごい……! まだ朝早いのに、もうこんなに太陽の方を向いてる」


「ちょっと見に行ってみる?」


実琴の提案に、美菜は嬉しそうに頷いた。

瀬良は特に何も言わなかったが、美菜が自然と歩き出したのを見て、仕方なく後を追う。


向日葵畑に近づくと、背の高い花々が朝日に照らされて、ゆっくりと揺れていた。

夏の終わりを感じさせる、少しだけ寂しげな雰囲気もあるが、それがまた美しい。


美菜は目の前の向日葵を見つめながら、そっと手を伸ばした。


「……なんか、元気をもらえるね」


瀬良はそんな美菜を横目で見ながら、小さく息をつく。


「単純だな」


「いいでしょ、別に」


美菜はちょっと拗ねたように瀬良を睨むが、その顔も朝日に照らされてどこか柔らかく見える。


そんな二人の様子を、実琴は少し後ろから微笑ましそうに眺めていた。

ふと、バッグからスマホを取り出し、カメラを起動する。


(これは撮らないとね〜)


瀬良と美菜の距離感、自然な表情、そして向日葵の鮮やかな色彩。

すべてがちょうどいいバランスで、素敵な雰囲気を作り出していた。


シャッター音を鳴らさないように、そっと何枚か撮影する。

画面を確認すると、瀬良が少し伏し目がちに美菜の方を見ている瞬間が映っていた。

美菜はそんなことに気づかず、向日葵に手を伸ばしたまま微笑んでいる。


(……いい感じじゃない)


実琴は満足げに微笑み、スマホをそっとしまった。


ちょうどその時、瀬良のスマホが振動した。


「……ん」


ポケットから取り出し、画面を見ると「母親」と表示されている。

無言で通話ボタンを押すと、すぐに元気な声が飛び込んできた。


『朝ごはんできてるから、早く帰ってきて〜』


「あぁ、わかった」


瀬良がため息をつきながら通話を終えると、美菜がくすっと笑った。


「じゃあ、そろそろ戻ろっか」


「そうだね。朝ごはん、楽しみだな〜」


実琴が軽やかに言いながら車へと歩き出す。

瀬良と美菜もそれに続くように、ゆっくりと向日葵畑を後にした。


朝の澄んだ空気の中、三人の背中に向日葵が揺れながら、そっと見送っていた。



***



朝食の席には、真由美や誠、那月も加わり、賑やかな雰囲気に包まれていた。


食卓には炊き立てのご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、そして漬物が並び、和やかな朝のひとときを彩っている。


「美菜ちゃん、ちゃんと食べてる? これも食べなさいね」


真由美が笑顔で煮物を美菜の皿に盛る。


「あ、ありがとうございます。すごく美味しいです!」


美菜は嬉しそうに箸を進め、出汁の染みた煮物を口に運んだ。

優しい味が口いっぱいに広がり、自然と頬が緩む。


「美菜ちゃんが来てくれたおかげで、食卓が華やかになったわね」


「いや、張り切りすぎだけどな」


瀬良がぼそっと呟くと、実琴が即座に突っ込んだ。


「はいはい、新羅は黙ってこれも食べてて」


「……自分の苦手なもんこっち持ってくんな」


美菜はそんな二人のやりとりを見て微笑む。

瀬良の家族は、みんな温かくて居心地がいい。



***



朝食を終えた後、瀬良と美菜は海へと続く道を散歩していた。

潮風が心地よく、波の音が静かに響いている。


瀬良の隣を歩きながら、美菜はふと口を開いた。


「前にさ、みんなで飲んだ時に居酒屋の外で、海でも見ながらゆっくりしたいって言ったの……覚えてる?」


瀬良は少し視線を前に向けたまま、短く返した。


「うん、覚えてる」


「かなっちゃったや。ありがとう、瀬良くん」


美菜は柔らかく微笑み、潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


「本当に来られてよかった」


目の前に広がる海はどこまでも青く、静かに波が寄せては返している。

少しだけ海水を触ると、その冷たさに美菜は笑う。

普段の都会の喧騒とは違う、穏やかで包み込むような空気に心が解けていくようだった。


瀬良はそんな美菜の横顔をちらりと見て、少しだけ口元を緩める。


「いつでも来れるよ」


「…………うん!」


瀬良の何気ない一言に、美菜の心臓が少しだけ跳ねた。

それが「またいつでも一緒に来よう」という意味だと気づいて、思わず頬が赤くなる。


(……ずるいなぁ、瀬良くん)


少し照れながら、けれど嬉しそうに笑った美菜を見て、瀬良は満足げに前を向いた。


「そろそろ戻るか。兄貴も帰ってそうだし」


「おっけー」


瀬良が軽く手を差し出すと、美菜は自然とその手を取った。

指と指が絡み合い、温もりがじんわりと伝わる。


「……手、冷えてる」


「瀬良くんのが温かいんだよ」


そんな何気ないやりとりを交わしながら、二人はまたゆっくりと歩き出した。

寄せては返す波の音が、どこまでも優しく二人を包んでいた。


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