Episode160
瀬良の部屋に戻った美菜は、先ほどのやり取りが気になって仕方がなかった。
「結婚」――その言葉が頭の中をぐるぐると回る。瀬良の真意を聞きたいような、でも踏み込みすぎるのが怖いような、そんな複雑な気持ちでそっと彼を盗み見る。
瀬良は部屋の明かりをつけると、軽く息をつきながら髪をかき上げた。美菜の視線に気づいたのか、ちらりとこちらを見る。そして、少しだけ目をそらしながら、静かに口を開いた。
「……美菜、さっきの、あんまり気にしないで」
その声はどこか照れくさそうで、微かに頬を赤らめているようにも見える。
「あ、うん!気にしてないよ!大丈夫!全然!」
美菜は慌てて手を振るが、余計に挙動不審になってしまう。
「け、結婚とかまだ早いよね!? うん、早いよね!? はは……」
無理に笑って取り繕うが、口に出した瞬間、自分が思った以上に“結婚”という言葉を意識していることに気づいた。鼓動が強くなるのを感じる。
瀬良はそんな美菜を見て、ふっと小さく息をついた。
「今日はあんな言い方になったけど、そのうちまた俺から言うから」
そう言って、美菜の瞳をまっすぐに見つめる。
「俺は美菜と……」
彼の手がそっと美菜の頬に触れた。大きくて、少しだけひんやりとした指先が、緊張で熱くなっていた美菜の肌に心地よく感じる。
美菜はどくん、と跳ねるように心臓が鳴るのを感じながら、彼の言葉を待った。
「……うん……」
小さく頷くと、瀬良が口を開こうとした――その瞬間。
「新羅ァ〜? 母さんが美菜ちゃんの布団置き忘れてたんだけど〜って私に預けてきたんだけど開けていい〜?」
扉の向こうから実琴の明るい声が響いた。
「っ……!」
美菜と瀬良はお互いにびくっと体を強張らせた。そして、まるでバネ仕掛けのように素早く距離を取る。
「ちょっ……開ける前に聞けよ……!」
瀬良が苦い顔をして言うが、時すでに遅し。
「お邪魔しまーす」
そんな言葉とともに、実琴は当たり前のように扉を開けた。
美菜はあわてて荷物をあさるふりをしながらそっぽを向き、瀬良は勢いよく実琴から布団を受け取る。
「美菜ちゃん、私の部屋で寝る? 女子トークまだまだしたりなくない?」
実琴はにっこりと笑いながら、美菜に提案した。その顔は純粋に楽しそうで、まったく空気を読んでいない。
「なんのために布団運んできたんだよ」
瀬良が呆れたように突っ込みながら、畳の上に布団を敷く。
「それもそうだね!」
実琴は笑いながらあっさりと納得し、「おやすみ〜」と軽やかに自室へ戻って行った。
瀬良は苦笑しながら布団を整え、ふと美菜のほうを見た。
「美菜、ベッドがいい? 敷布団がいい?」
「ど!どっちでも……大丈夫」
まだドキドキが収まらない美菜は、声が裏返ってしまう。慌てて口を押さえるが、瀬良はそれを見て、ふっと笑った。
「トイレ行ってくるから、その間に決めてて」
そう言い残し、瀬良は部屋を出て行った。
美菜は大きく息をつき、そっと自分の胸に手を当てる。
(もう、今日は心臓がいくつあっても足りない……!)
布団の上にぽすんと倒れ込みながら、頬の熱を必死に冷まそうとするのだった。
***
瀬良は実家のトイレに入った瞬間、一瞬「ここ、本当に実家のトイレか?」と思った。
旅館のように落ち着いた間接照明が灯り、柔らかい光が壁や床に反射している。以前来たときとは違い、まるで高級旅館のトイレのような雰囲気に変わっていた。
(間接照明っていいな……)
瀬良は手を洗いながら、ふと自分の家のインテリアにも取り入れようかと考える。
ほんのりとした暖かい光が部屋にあるだけで、ずいぶんと雰囲気が変わるものだ。
そんなことを考えていると、ちょうどトイレに来た実琴がそっと近づいてきた。
周囲を気にするような素振りを見せながら、小さな声で話しかけてくる。
「新羅……明日ちょっと早く起きれる?」
瀬良は手を拭きながら、実琴の顔を見る。
「……?」
「お墓参り、行こうよ」
「ああ……」
お盆だから当然行くつもりではいたが、美菜を連れてきたこともあり、どのタイミングで行こうか少し悩んでいたところだった。
そんな瀬良の考えを見透かしたように、実琴は続ける。
「美菜ちゃん起こさないように準備しなよ」
珍しく、実琴がふざけずにまっすぐな口調で言う。
「……ん」
瀬良は軽くうなずいた。
祖父母はもういない。
小学生の頃まではいたけれど、二人ともその後すぐに亡くなってしまった。
そんなことを思いながら、瀬良はトイレを後にした。
***
部屋に戻ると、美菜が敷布団に包まりながら、嬉しそうに顔を出していた。
「おかえり〜、私敷布団で寝てもいい?」
ふわふわの布団の感触を確かめるように、彼女は小さく身を動かす。
その姿があまりにも無邪気で、瀬良は思わず微笑んだ。
「いいけど」
そう言いながら、瀬良は布団に包まる美菜の上からそっと覆い被さるように抱きしめる。
「わぁ、ちょっと!」
驚きながらも、美菜はくすくすと笑う。
「……充電」
瀬良は甘えるように美菜の頬に顔を寄せ、すりすりと頬ずりする。
最近、美菜の前ではこうして甘えることが増えた。
不思議なことに、美菜のそばにいると肩の力が抜けて、自然とこうしたくなってしまう。
「もうっ、瀬良くんって甘えん坊だね。さすが末っ子」
美菜がくすぐったそうに笑いながら、少し意地悪そうに言うと、瀬良はもぞもぞと動きながら彼女のお腹のあたりに頭を埋めた。
「……だめ?」
「んん……ダメじゃないです」
美菜は小さく笑いながら、瀬良の髪を優しく撫でた。
「美菜、本当にありがとう」
「ん?なにが?」
「……内緒」
美菜は瀬良が何に対してお礼を言ったのか分からなかったが、
彼がそういうときは、きっと深い意味があるのだろう。
そっと瀬良の頭を撫でながら、美菜も彼の存在を愛おしく感じる。
しばらく静かに抱き合っていたが、美菜がふと瀬良の顔を覗き込む。
「瀬良くん」
「なに?」
「キスして?」
美菜の甘えた声に、瀬良は少し考えるような素振りを見せると、彼女の手を取り、指先にそっとキスを落とした。
次に手の甲に、もう一度優しく唇を寄せる。
「んっ……もうっ!」
美菜は少し不満そうに口を尖らせる。
「ごめんごめん」
瀬良は軽く笑いながら、愛おしそうに美菜を見つめると、今度は唇に優しくキスをした。
そのまま、それは少しずつ深くなっていく。
「……好きだよ」
「私もす……」
そのとき、ふと廊下から足音が聞こえてきた。
瀬良と美菜は一瞬、動きを止める。
そして、次の瞬間——
「ごめーん!美菜ちゃん!枕私忘れてたァ〜!」
襖が勢いよく開き、実琴がにこにこしながら立っていた。
瀬良は一瞬でベッドへ移動し、美菜は慌てて立ち上がると、枕を受け取った。
「ありがとうございます。助かります」
「どういたしまして〜じゃぁまた明日ねぇ〜」
実琴は大あくびをしながら、のんびりと部屋へ戻っていく。
「……ふふっ、もう寝よっか」
美菜が微笑みながら言うと、瀬良は若干不機嫌そうに布団に包まる。
「……おう」
美菜は布団の中に潜り込みながら、そっと瀬良の顔を覗き込む。
「おやすみ、好きだよ、瀬良くん」
そう言って、そっと瀬良の頬にキスを落とす。
「……おやすみ」
暗闇の中、瀬良の低く優しい声が聞こえた。
美菜はその声に安心しながら、静かに目を閉じた。
心が温かく満たされるのを感じながら、やがて眠りについた。




