Episode159
家に帰ると、玄関を開けた瞬間にふわりとお酒の香りがした。
見れば、広い居間のテーブルにはすでに四人分のお酒やジュース、そしてたくさんのおつまみが並べられている。
その中心にいるのは、嬉しそうに笑って迎え入れる那月だった。
「おかえり。温泉良かったか?」
「うん、めっちゃ気持ちよかったよー!」
「そりゃよかった」
那月はゆったりと微笑みながら、グラスを並べ始める。
「俺は明日仕事だからジュースだけど、お前らは飲むか?」
「お、いいねぇ〜! 兄さん準備ありがとっ!」
さっそく実琴がビールの缶を手に取り、勢いよくプルタブを開けた。
そしてグラスに注ぐこともせず、そのまま豪快に喉へと流し込む。
「ちょっと待て、せめて乾杯してから飲めよ」
瀬良が呆れたように美琴を見る。
実琴は「細かいなぁ」と笑いながらも、グラスを持ち直した。
瀬良はそんな姉を横目で見つつ、美菜の手を引いて自分の隣に座らせる。
「よし、改めて――乾杯」
「かんぱーい!」
四人のグラスが軽く音を立てて触れ合う。
那月はおつまみの皿を指さしながら、「美菜ちゃん、こっちの魚めちゃくちゃ美味いから、たくさん食べていきなよ」とすすめた。
そこには新鮮な鯛の刺身が並んでおり、透き通るような美しい色をしている。
美菜は箸を伸ばし、ひと切れを口に運んだ。
「……お、おいひぃです……!」
言葉にならない美味しさに、思わず頬が緩む。
「ははっ、いい反応するねぇ」
那月は満足そうに微笑んだ。
美菜も少し緊張が解け、改めて那月の優しさを感じる。
小児科医をしているだけあって、どこか柔らかく包み込むような雰囲気を持っている人だった。
「てか、兄さん明日仕事なの?」
実琴がビールを片手に驚いたように聞く。
「てっきり休みだと思ってたのに……四人で観光する予定だったじゃん」
「午前中だけな。午後には空く予定だから、午後からなら行ける」
「えー? でも午前中からじゃないと、美菜ちゃんに全部見せてあげられないじゃん」
実琴は一人でぶつぶつと予定を考え直している。
「美菜をゆっくり休ませてやれよ」
「えー、だって見せたいものかなりあるんだよ?」
「一気にじゃなくていいだろ」
「はいはい、姉弟喧嘩はするなよー」
那月が宥めるように言いながら、笑ってグラスを傾ける。
美菜はそのやり取りを見ながら、ふと田鶴屋のことを思い出した。
田鶴屋もサロンではみんなをまとめるお兄さん的な立場だ。
やはり、店長というのはどこか兄貴分のような雰囲気になるものなのかもしれない。
そんなことを考えながら、無意識に視線を落としていたらしい。
「……美菜、疲れてる?」
隣にいた瀬良が小さく眉を寄せながら、心配そうに覗き込んできた。
「えっ!? ううん、全然! ちょっと別のこと考えてただけだよ!」
美菜は慌てて顔を上げ、愛媛の地酒をグラスに注いで口にする。
「いい飲みっぷりだ!」
実琴と那月が同時に声をあげると、立て続けに美菜のグラスに酒を注いできた。
「え、ちょっ……!?」
美菜は次々と注がれるグラスを空けていく。
飲み干せば那月か実琴に酒を注がれる。
(……このペース……よ、酔っちゃう……)
しかし、それを見ていた瀬良がすっと美菜の前のグラスを取り上げ、代わりに自分が飲み干した。
「……そのくらいでやめとけよ」
瀬良は少し呆れたように言いながら、美菜の飲み過ぎを制止する。
「なんだぁ、新羅も飲むの? じゃあはい!」
実琴は楽しそうに笑いながら、今度は瀬良のグラスに次々と酒を注ぎ始める。
「美菜ちゃん、こんな家族だけど仲良くしてね」
その合間に、那月が小声で美菜に囁いた。
「はい! こちらこそ、お願いします!」
美菜は嬉しそうに答えた。
それを聞いた那月は満足そうに微笑む。
しばらく楽しく飲んでいると、ふと瀬良が部屋を見回して言った。
「……そういや、兄貴、リフォーム頑張りすぎじゃね?」
「そうか? 旅館みたいな家に住みたいってリフォーム会社に相談したら、こうなっちゃったんだよなぁ」
「いいじゃん! 私はこの家好きだよ!」
実琴が頷きながら言うと、瀬良も仕方なさそうに肩をすくめる。
「庭の鯉とか、兄貴の趣味だろ」
「そうそう、あとそのうち“ししおどし”も置きたいと思ってるんだよね」
「どこまで和風にするつもりだよ……」
瀬良が苦笑する中、実琴がふと美菜に尋ねた。
「美菜ちゃんは、この家どう思った?」
「えっと……すごく素敵すぎて、本当に旅館かと思いました!」
美菜が素直に答えると、那月が嬉しそうに微笑みながら家のこだわりについて語り出した。
リフォームの話、庭の話、昔の思い出話――
そんな話をしながら、夜は静かに更けていった。
***
夜も更け、そろそろ寝ようかと四人が時計を見て話し始めた。
「……もうこんな時間か」
那月が腕時計を確認しながら、軽く伸びをする。
「そろそろ寝るか。明日も朝から動くんだし」
瀬良もグラスを置きながら言うと、実琴も頷いた。
「そうね。温泉も入ったし、気持ちよく寝られそう」
美菜も「そうですね」と微笑みながら立ち上がろうとした、その瞬間――
「……きゃっ!!!」
美菜の視線の先、襖の隙間から何かが覗いているのが見えたのだ。驚きのあまり思わず小さな悲鳴を上げると、他の三人も一斉にそちらを振り向く。
「うおっ!?」
那月が驚いて勢いよく襖を開けると、中から出てきたのは、どこかバツが悪そうにしている父・誠だった。
「と、父さんも皆と飲みたかったんやけど……出るタイミングが分からんくて……」
申し訳なさそうに頭をかく誠に、実琴が呆れたように言う。
「ええ!ずっと見てたの!?こわっ!!」
「……入ればよかったのに」
瀬良も半ば呆れたように言い、美菜は苦笑しながらも誠のために席を一つ開けた。
「お義父さん、良かったらこちらで一緒に今から飲みませんか?」
「えぇ……!いいの?」
美菜が優しく声をかけると、誠は目を輝かせ、そそくさと席についた。その姿に実琴は「お父さん照れてるわ」と小さく笑う。
「嬉しいんだろ」
瀬良がぼそりと呟くと、美菜は笑顔で誠にお酌をした。誠はそれがよほど嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべる。
「飲みたかったなら最初から入れば良かったんだよ、父さん」
那月がジュースのグラスを口に運びながら呆れたように言うと、誠は少し照れたように頭をかく。
「いやー、なんか恥ずかしくて……」
「ふふっ、私、お義父さんとも飲めて嬉しいです」
「美菜ちゃん……!」
誠はじーんとした表情を浮かべ、美菜の言葉に安心したように酒を飲み始めた。
美菜は改めてお酌をし、逆に誠からもお酌を受けながら楽しく会話を交わす。しかし、ふと美菜の脳裏に疑問がよぎった。
(……あれ?お義父さんって確か体調悪いんじゃ……)
ここに来る前、そんな話を聞いたはずだ。
だが、こうして酒を飲みながら楽しそうにしている誠の様子を見る限り、とても体調が悪いようには思えない。
美菜がちらりと那月に視線を送ると、彼は察して気まずそうな顔をしながら口を開いた。
「あー……父さんなんだけど、体調悪いって言ったの……あれ、嘘なんだ」
「え!?」
「は!?」
美菜と瀬良は驚きの声を上げる。
「いや、あの!父さんは新羅に彼女ができたって実琴から聞いたからさ!!どうしても会ってみたくて……!」
誠は言い訳するように慌てて言葉を重ねる。
「だって那月も実琴も結婚しないって言ってるし!孫の顔見てみたいって思ったら、なんか母さんも見たいって言い出して……」
「えっ」
美菜が目を丸くしていると、不意に奥から別の人影が現れた。
「だってどこ向いても結婚しないやら彼女はいないやら!新羅だって初めて彼女できたんでしょ!?これ逃したらうちは結婚全員しなくなるでしょ!!」
そこに立っていたのは、母・真由美だった。
「……母さんも聞いてたんだ……」
実琴は呆れたようにため息をつきながら、真由美のために席を空け、酒を手渡した。
「私だって美菜ちゃんと飲んで仲良くなりたかったけど、親が出ると気を使っちゃうかなーって思ったのよ?」
そう言いながら、真由美は手にしたグラスを一気に飲み干した。
「……誰も結婚するから帰ってきたわけじゃねーけど」
瀬良がぼそっと言うと、すかさず実琴が反応する。
「え!?新羅結婚しないのぉ!?」
「……いや、結婚とかの話までまだしてないし、これからというか……」
「これから!!母さん!新羅はこれから結婚の話をするみたい!」
「まぁ!これからなのね!」
実琴と真由美は息ぴったりに瀬良を煽る。
「でも美菜ちゃんはどうなのかしら?うちの子じゃ結婚なんて考えれないかもしれないわよ?」
「いやいや、さっき温泉で新羅の惚気話聞いてきた限りでは大丈夫そうだったよ?ね?美菜ちゃん?」
「……!は、はい!私、新羅のこと大好きですっ!」
酔った勢いもあって、つい瀬良を”新羅”と呼んでしまう。その瞬間、恥ずかしさが一気に込み上げてきた。
「きゃー!大好きですって!美菜ちゃん!これからも新羅と仲良くしてね!」
「うんうん、こりゃ本当に妹になる日も近いな」
「結婚とか、俺より先に美菜に言うな」
「でも結婚も視野に入れてるんだろ?」
先程まで黙っていた誠まで会話に参入してくる。
「……いれては……いるけどっ……!」
「…………っ!!!」
瀬良の小さな声に美菜は真っ赤になり、瀬良も顔を赤くする。
「はいはいはいはい!皆飲みすぎ!今日はこれで寝るよーーー!」
那月が手を叩き、強制的に宴を締めくくった。
「……美菜ちゃん、こんな家族だけど……改めてよろしくね」
誠が深々と頭を下げると、美菜も慌てて頭を下げる。
「いや!あの!ふつつか者ですが、こちらこそよろしくお願いします!」
「美菜ちゃんもう嫁入りみたいになってんじゃーん」
実琴が笑うと、美菜の顔はさらに赤くなった。
「……美菜で遊ぶな」
瀬良が軽く小突くと、実琴は笑いながら自室へ戻って行った。
「……美菜、部屋戻るぞ」
「はい……」
瀬良と共に部屋へ戻る美菜は、今日一日で自分の立場が随分と変わった気がして、心の中でそっとため息をついた。




