Episode156
朝礼の時間、店内には程よい緊張感が漂っていた。スタッフ全員が集まり、田鶴屋の話に耳を傾ける。
「はい、今日の確認は以上です」
田鶴屋は手元のメモを閉じると、少し表情を和らげた。
「もうすぐお盆休みですね。うちもお店を4日間休みにします。しっかり休んでリフレッシュするためにも、残り1日、お客様にご迷惑がかからないよう頑張りましょう!」
「はい!」
全員の返事がそろい、朝礼が締めくくられる。
美菜が働くこの美容室では、お盆やお正月にはしっかりとした長期休暇が設けられていた。美容業界では珍しいことかもしれないが、その分、休み前後は忙しくなる。とはいえ、美菜にとってはこの休みが楽しみだった。普段、仕事やVTuber活動で忙しくしている分、長期休暇はゆっくりできる貴重な時間だ。
(今年はどうしようかな……)
シフト表を眺めながら、なんとなくお盆休みの予定を考える。家でのんびり過ごすのもいいし、どこかに出かけるのもいいかもしれない。そんなことを考えていると、ふと隣にいる瀬良のことが気になった。
「瀬良くんはお盆休みどうするの?」
軽い気持ちで聞いたつもりだった。もしかしたら日が合えば、一緒に出かけることもできるかもしれない。
しかし、瀬良はなぜか妙に気まずそうな顔をして、美菜を見た。
「……あー…………」
「……? どうしたの?」
「逆にさ、美菜ってお盆休みどうするんだ?」
「んー、特に決めてないけど、ゆっくり過ごそうかなーとは思ってるよ」
「………………じゃあさ、」
瀬良は、どこか言いにくそうに口を開く。
「お盆休み、俺の実家来てくんない?」
「…………はい?」
突然の申し出に、美菜は思わず聞き返してしまった。
***
愛媛の海沿いの道を歩きながら、美菜は目の前に広がる景色に見惚れていた。
「わあ〜、すごい、海綺麗だねぇ……」
空は澄み渡り、太陽の光が水面に反射してキラキラと輝いている。都会ではなかなか見られないこの景色に、美菜は自然と笑顔になった。
「美菜、突然にはなったけど、来てくれてありがとう」
横を歩く瀬良が、ふっと笑いながら呟く。
今回、瀬良の実家に来ることになったのは、かなり突然のことだった。
少し前に瀬良の母親から連絡があり、父親の体調が優れないことを知らされたのがきっかけだったようだ。
病気というほどではないものの、年齢もあってか、少し心配な状態らしい。そんな中、電話口で父親が泣きながらこう言ったそうだ。
「新羅に結婚相手はいないのか……」
その言葉に、瀬良は面倒くさそうにしながらも、美菜の存在を伝えた。すると――
「生きてる間に挨拶をしておきたい!!!」
そう駄々をこねたらしい。
結果、瀬良の父親は飛行機の往復チケットを二枚手配し、「連れてこい」と強引に話を進めてしまったのだった。
(瀬良くん……ずっと私に言えなかったのかなぁ)
美菜としては急な話だったが、瀬良の両親が自分に会いたがっていると聞いて断る理由もなく、こうして愛媛まで来ることになったのだった。
「全然! 私なんかが瀬良くんのご両親に会っていいのか分からないけど……なんだかチケットまでとってもらっちゃって申し訳ないくらいだよ!」
「美菜だから会ってほしいんだよ」
その一言に、美菜は思わずドキッとする。
(……美菜だから……)
瀬良が自分のことを、どれだけ真剣に考えてくれているのかが伝わってくるようだった。
恋人の両親に会う――それはつまり、瀬良が自分との関係を大切に思っているという証拠でもある。
(なんだか突然こうなっちゃったけど……失礼のないようにしなきゃな!)
美菜は気を引き締め、瀬良の実家へと向かうのだった。
***
瀬良の実家は、どこかドラマや小説に出てくるようなのどかな場所にあった。
青く澄んだ空の下、広がる田園風景と、その向こうには穏やかに波打つ海が見える。
畑と山に囲まれた風景は都会とはまるで違い、時間がゆったりと流れているように感じられた。
飛行機を降りてから車に乗り、しばらく細道を歩いて進むと立派な門構えの家が見えてきた。
「……なんか、田舎の日本家屋みたいな感じを想像してたけど……」
まるで高級旅館のような佇まいで、美菜は思わず目を見開く
呆然としたまま、隣にいる瀬良を見上げる。
「俺もここまでとは思ってなかった……」
瀬良は苦笑しながら、美琴から聞いていた話を思い出した。
「兄貴が実家に戻ってきたときに、かなりのリフォームをしたらしいって美琴が言ってた。俺も五年ぶりに帰るから、こんな立派になってるとは思わなかったけど」
「え、お兄さんいたの!? しかも五年ぶりって……」
「うん、一番上に兄貴がいて、次に姉貴がいて、俺が末っ子」
「それもっと早く言ってよ!」
美菜は驚きながらも、瀬良の家族構成を初めて知る。美琴とは一度会ったことがあったが、まさか兄もいるとは思わなかった。
(……なんか庭に鯉が泳いでる……)
門の先には、手入れの行き届いた和の庭園が広がり、池には立派な鯉が悠々と泳いでいた。
美菜はこの家の立派さに圧倒され、だんだん自分が場違いのような気がしてくる。
「……心配しなくていいから。美菜は普通にしてて」
瀬良が優しく手を引き、美菜を玄関へと導いた。
***
「ただいま」
瀬良の声が家の中に響くと、奥から軽快な足音が聞こえた。
「あらー! 早かったのね! もっとかかるかと思ってたわ!」
出てきたのは、柔らかい笑顔を浮かべた女性だった。品のある佇まいで、どこか実琴と雰囲気が似ている。
(この方が……瀬良くんのお母さん)
美菜は深く息を吸い込み、きちんと挨拶をする。
「……あの、お世話になります。新羅さんとお付き合いさせていただいております、河北美菜と申します。これ、つまらないものですが、皆様で召し上がっていただければと思います」
手土産を差し出すと、瀬良の母は「あらー、悪いわねぇ」と申し訳なさそうにしながらも、嬉しそうに受け取った。
「新羅の母の瀬良真由美です。よろしくお願いしますね」
温かみのある声に、美菜の緊張が少しだけ和らぐ。
「……てか、玄関でそんな堅苦しくしないで、とりあえず上がってからでいいよ」
瀬良が苦笑しながら、美菜の手を取る。そして家の奥へと進みながら「もはや実家じゃないみたいだな」と呟いた。
***
案内された部屋は、かつて瀬良が使っていたものだったが、リフォームによって雰囲気が変わっていた。
「ここが俺の部屋……だった所。たぶん。まあ荷物とかここに置いといて」
瀬良が持っていた美菜の荷物を部屋の隅に置く。
部屋の壁には、学生時代の瀬良の写真やトロフィーが飾られていた。ふと目に入った一枚の写真に美菜は目を留める。
「……瀬良くんって剣道してたの?」
四国大会の垂れ幕の下で、優勝トロフィーを掲げた瀬良が写っている。幼いながらも誇らしげな笑顔を浮かべており、その姿がなんとも可愛らしかった。
「……してたけど、あんま見んな」
瀬良は視線を逸らし、少し頬を染める。
「えー? なんで?」
「……なんか恥ずかしい」
美菜は思わず吹き出す。普段クールな瀬良が照れる姿は、なんだかとても新鮮だった。
そんなやり取りをしていると、遠くから低く響く声が聞こえてきた。
「新羅ァ〜? 帰ってきたのかぁ?」
その声に瀬良が「あ、親父だ」と呟く。
「おおおおお父さん!!!」
美菜は一気に緊張し、背筋を伸ばす。
「普通にしてていいって。かしこまらないで」
瀬良がクスッと笑いながら襖を開けると、そこには貫禄のある男性が立っていた。
「……元気そうだな」
「そっちこそ」
二人は短く言葉を交わし、視線を交わす。
「彼女は?」
瀬良が美菜を手招きし、紹介する。
「はじめまして、新羅さんとお付き合いさせていただいております、河北美菜です。よろしくお願いいたします」
「おお……私は父の瀬良誠です。息子共々よろしくお願いします」
美菜は少し緊張していたが、思ったよりも穏やかな声にほっとする。
(体調があまり優れないとは聞いていたけど……)
見た目は元気そうだが、実際のところは分からない。
「とりあえず飯だな、飯!」
どこかそわそわした様子で瀬良の父親はリビングの方へ戻っていった。
「なんか思ったより元気そうだな」
「……だね。でも良かったね」
美菜と瀬良は顔を見合わせ、微笑む。
「二人ともご飯できてるからいらっしゃーい」
瀬良の母が優しく声をかけると、美菜は気を引き締めて食卓へと向かった。




