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Episode155



――夜の銀座。喧騒から切り離された一角に佇む、格式高い寿司屋。暖簾をくぐると、木の香りが仄かに漂い、凛とした静寂が店内を包んでいる。


店は貸切だった。カウンターに並べられた漆黒の皿に、熟練の職人が握った寿司が一貫ずつ丁寧に置かれていく。


その場に座る二人の男――片方は微笑みながら、もう片方は必死に言葉を紡いでいた。


「……という事があったんですよ。渡邊さん、やりすぎじゃないですか?」


穏やかに問いかける声。しかし、その裏に隠された威圧感は、場の空気を重くするには十分だった。


伊月海星は、にこやかに微笑みながらも、その目は一切の感情を許さない冷たさを宿している。隣に座る男――芸能事務所の社長である荒川は、冷や汗を滲ませながら必死に頭を下げる。


「い、いや、渡邊の方にはきつく言っておきます!この度は本当に申し訳ございませんでした!!」


伊月はゆっくりと視線を移し、荒川を見つめた。


「頼みますよ、荒川社長」


その言葉には、決して軽視できない圧がある。


伊月が芸能界を去ってからも、荒川の事務所は彼の支援なしには成り立たなかった。

伊月が抜けた後、事務所の価値は急落し、あの栄光の日々は一瞬にして崩れ去った。伊月一人で、事務所を支える何人分もの売上を担っていたのだ。


その伊月が、電話をかけてきた時の荒川の驚きは今でも鮮明に覚えている。


――資金繰りに窮する会社をどうにかできるかもしれない。


そんな淡い期待を抱いた荒川は、すぐにその申し出に飛びついた。しかし、それはあくまでも「伊月が望むことを遂行する限り」という条件付きだった。


「渡邊さんが下手に動き回って、僕の人間関係にヒビが入ったら元も子もないですよね。僕の指示以外、しないで欲しいな」


そう言って、伊月は軽く微笑む。その顔は優雅で、どこか慈愛すら感じさせる。しかし、その実、絶対的な支配者の目をしていた。


「もちろん……伊月くんがいいように……」


荒川は必死に頷く。


しかし、その言葉を遮るように、伊月の声が降りかかる。


「頼んでもない事をする勝手な人は要らないです」


その一言に、荒川の背筋が凍る。


伊月は、目の前の寿司をつまみ、ゆっくりと口に運ぶ。その動作には何の迷いもない。まるで、荒川の反応など気にもしていないかのように。


沈黙の中、荒川は苦しげに言葉を絞り出す。


「渡邊の方は……自主退職という形で進めます」


伊月は満足げに微笑む。


「ふふ、大変だ」


「……本当に申し訳ないです」


荒川は項垂れ、拳を握る。


かつて、事務所に入ったばかりの伊月は、ただの一タレントに過ぎなかった。寧ろ親の多額の借金を肩代わりしている青年……。それが今では、完全に立場が逆転してしまっている。


この寿司屋の空間も、伊月の発言も、全てが彼の支配下にある。


伊月は、ゆったりと席を立った。


「ごちそうさまでした。僕は帰るので、どうぞ荒川社長はゆっくり食べてください」


それだけを言い残し、伊月は会計を済ませ、店を後にする。


荒川は、彼が完全に姿を消した後、深々とため息をついた。


(渡邊さえ……上手くやっていれば……)


後悔が渦巻く中、目の前の寿司を一貫、口に運ぶ。しかし、その味を感じる余裕など、今の彼にはない。


あの日、突然の伊月からの電話。


荒川は、あれを「救い」だと思った。伊月の支援がなければ、事務所は潰れていたかもしれない。


伊月が持っていたのは、事務所の株のほとんど。そして、彼の一言で事務所の運命は決まる。


それでも、伊月の要求は難しいものではなかった。

ただ

「雑誌モデルとして瀬良新羅に声をかけてほしい」

それだけだった。


それをどうして、渡邊は間違えたのか。


ただ誘うだけでよかった。モデル契約を強要するなど、誰も命じていない。


渡邊は伊月の意図を知らなかった。だから勝手に動いたのだろう。会社のためを思い、必死に成果を出そうとしたのかもしれない。


だが――


それが、伊月の逆鱗に触れてしまった。


伊月の要求は単純だった。ただ、それだけを遂行すればよかった。


それなのに……


「クソッ!!」


荒川は誰に言うでもなく、拳をテーブルに叩きつけた。


伊月を切り捨てることは、今の事務所にとっては不可能。


――ならば、どうするべきか。


荒川の脳裏に浮かぶのは、冷酷に微笑む伊月の姿だった。



***



伊月は寿司屋を出ると、夜風を受けながら静かに歩き始めた。銀座の街は煌びやかに輝いている。どこもかしこも高級感に満ち、上流の人間たちが酒を片手に夜を謳歌している。


だが、伊月にとってはどこか退屈な景色だった。


この街の華やかさも、人々の喧騒も、すべてはただの舞台装置に過ぎない。自分が動かせるコマがどこにいるのか――それだけを把握していればいい。


(さて、彼はどう動いてくれるのかな?)


暗い夜道を歩きながら、伊月は静かに笑った。


“雑誌モデルとしてスカウト”


――表向きはそれだけの話だった。瀬良を無理に引きずり込もうとは思っていない。ただ、興味を持つきっかけを作るだけでよかった。


だが、それを渡邊が台無しにした。あの男の焦りが、瀬良の警戒心を強める結果になったのは明白だ。


まあ、それならそれでいい。


伊月はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をスワイプする。そこには瀬良の情報が並んでいた。


美容師としての経歴。出場したコンテストの記録。SNSでの評判。そして、彼の人間関係。


瀬良新羅――伊月が彼に興味を持ったのは、単なる気まぐれではない。


彼は、まるで整えられたピースのようだった。


突出したカリスマ性はないが、腕は確か。業界内での評価も高く、クールで落ち着いた雰囲気がある。さらに、彼の過去には一切の汚点がない。


そして何より、彼のもう一つの顔を知っているのは、ごく限られた人間だけだ。


(“Iris”、君はもっと表舞台に出るべきだと思わない?)


伊月はスマホを操作し、あるデータを開いた。


――とあるゲーム大会の記録。


そこには”Iris“という名前が刻まれている。圧倒的な戦績、鮮やかなプレイング。そして、彼の存在感を象徴するかのような静かなカリスマ。


「君は表に出たくないのかもしれない。でも、世の中っていうのはね、出たくなくても出される時があるんだよ」


伊月はスマホをしまい、ポケットに手を突っ込む。


何も焦る必要はない。


少しずつ美菜の周りから遠ざけていければいい。


伊月はただ、選択肢を増やしてあげるだけだ。


彼がどの道を選ぶかは自由。


しかし――その道を作るのは、伊月自身である。


(じっくり、時間をかけていこう)


瀬良新羅という人間を、もっと深く知るために。


そして、彼が最適な位置に収まるように。


(美菜ちゃんの隣に彼は収まるべき人じゃない)


伊月の笑みは、夜の闇に溶けていった。


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