Episode153
夜の静けさがサロンを包む頃、美菜は田鶴屋と一緒に撮影した写真を見ていた。ディスプレイに映し出されるのは、伊月の整った顔立ちと、彼の髪型を際立たせるために撮られた写真の数々だ。
「本当に整った顔だねぇ」
田鶴屋が感嘆の声を漏らす。
「そうですね」
美菜も同意するが、視線は写真の中の伊月に釘付けだった。本来なら髪型が主役のはずなのに、どうしても彼の顔のほうが目立ってしまう。目鼻立ちのバランス、角度ごとの印象の作り方、どこを切り取ってもモデルとして完璧すぎる。
「なるほどねぇ……瀬良くんがカットしたアシメの髪型から、サイドを合わせて俺が切ったけど……彼をモデルにして髪の主張をする時は、規格外じゃないと確かに通用しないね」
田鶴屋は苦笑しながら、悔しそうに腕を組む。
田鶴屋のカット技術は一流だ。しかし、伊月の圧倒的なビジュアルの前では、カットの良さがやや霞んでしまうように見える。写真を通して見ると、その印象はより顕著だった。
「撮ってみて俺は分かったけど、瀬良くんはこれをすぐに大会の時判断したんでしょぉ? やんじゃん」
田鶴屋は瀬良の腕を素直に称賛しながらも、その判断の速さに若干の悔しさを滲ませている。
美菜はそんな田鶴屋の表情を見て、つい微笑んでしまう。
「これはこれで似合ってるんですけどね」
「違うよ河北さん、これは伊月さんが合わせにきてるから撮れた写真」
「……? どういうことですか?」
田鶴屋の言葉に首を傾げる美菜。
「伊月さんは、こちらのイメージを掴んで、表情やポーズを言わなくても作ってくれる。今日の髪型に対して、彼自身が最適な顔を作ったから、こんなに完成度が高く見えるんだよ」
田鶴屋の説明を聞いて、美菜は思わず写真を見返す。
確かに、どの写真も髪型と伊月の表情が完璧に調和している。ただ美形なだけではなく、モデルとして求められるものを察知し、それに合わせる能力を持っているということだ。
「なんか瀬良くんと伊月さんって似てるよね」
田鶴屋がふと呟いた。
「……そうですかね?」
美菜は考え込む。二人とも寡黙で、周囲との距離感を独自に測るタイプではある。ただ、性格や感性はまるで違うように思えた。伊月はどこか掴みどころのない雰囲気を持ち、人を惑わせるような言動をする。一方、瀬良はどちらかといえばストレートな物言いで、感情をあまり表に出さない。
「強いて言うなら……他人の気持ちの理解度が高いとかですかね?」
「そうだね」
田鶴屋は満足そうに頷くと、写真の編集作業に戻っていく。
そんな中、サロンの奥から瀬良の声が聞こえてきた。
「美菜、お待たせ」
「あ、パーマあてる?」
「うん、お願い」
今日の営業後、美菜が瀬良のパーマを担当する約束をしていた。瀬良は普段からクセ毛を活かしたスタイルをしているが、定期的にパーマをあてて整えている。
「田鶴屋さん、お店お借りします」
「はいはーい」
田鶴屋は軽く手をひらひらと振ると、再びパソコン画面に向かった。美菜も改めて田鶴屋に一言断り、瀬良の施術に入る。
瀬良の髪に触れながら、美菜は先ほどの会話を思い出していた。
(瀬良くんと伊月さんが似てる、か……)
施術用のチェアに座る瀬良は、相変わらず無表情のまま、美菜の手に身を任せている。その自然な信頼感が、彼らしいなと美菜は思った。
伊月のように自在に表情を作るわけではないけれど、瀬良もまた、相手の意図を汲み取りながら、その場に最適な振る舞いをすることができる人なのかもしれない。
「美菜?」
「ん?」
「考えごと?」
「ちょっとね」
美菜は軽く笑いながら、ロッドを巻いていった。
***
ロッドを巻き終え、美菜は薬剤を塗布しながら瀬良の髪を丁寧にチェックする。
「最近、パーマのもちが良くなってきた気がする」
瀬良がぼそりと呟く。
「うん、髪の状態が安定してきたからだと思う。最初にかけた頃よりダメージも少なくなってるし」
「なら良かった」
短く返す瀬良の声は落ち着いていて、美菜の施術に信頼を置いているのが伝わってくる。瀬良の髪質はやや硬めで、適度なボリュームを出すにはパーマがちょうどいい。しかし、強すぎると不自然になり、弱すぎると持ちが悪い。そのバランスを見極めるのが、美菜の腕の見せどころだった。
薬剤をなじませながら、ふと美菜は先ほどの田鶴屋の言葉を思い出す。
「瀬良くんってさ、自分の髪型にこだわりある?」
「ある程度は。でも、美菜がやりやすいように任せてる」
「ふふっ、ありがとう」
瀬良は入社当時から大きく髪型を変えない。美菜が担当するようになってからも、基本的にはナチュラルなスタイルをベースにしたまま、細かいニュアンスを調整しているだけだった。とはいえ、その「調整」が意外と難しい。瀬良の髪型はシンプルだからこそ、細部の仕上がりが全体の印象を大きく左右する。
「でもさ、たまにはガラッと変えてみたくならない?」
「んー……どうだろうな。俺にそういうガラッと変えるイメージがないだろ」
「まぁ、そうだけど……思い切ってイメチェンするのも楽しいよ?」
「……美菜がやるなら、考えてもいい」
瀬良は静かにそう言うと、軽く目を閉じた。その言葉に、美菜の手が一瞬止まる。
「……そう?」
思わず顔が熱くなるのを感じながら、美菜は慌てて作業に集中し直す。
「私が勝手に切っても怒らない?」
「怒らない」
「じゃあ……いつか、ガラッと変えるかもね?」
「いいよ」
美菜は瀬良の素直な返事に、なんとなくくすぐったい気持ちになった。彼はこういうところがある。人に任せることをあまり躊躇しないし、信頼した相手にはすっと身を委ねる。
(田鶴屋さんが言ってた“似てる”って、こういうところなのかな)
瀬良と伊月。一見すると正反対のように思える二人だけど、根っこの部分ではどこか通じるものがあるのかもしれない。
「美菜」
「ん?」
「そろそろ時間」
「あ、ほんとだ。流そっか」
何度か薬剤を塗布した後いつの間にか時間が経っていたようだ。ロッドを外し、シャンプー台へ移動しながら、美菜は自然と瀬良の後ろを歩いていた。お互いに気を遣わない、この距離感。日を追う事に少しずつだが確かに縮まっている気がする。
「カットはどうする?」
「美菜が決めていい」
「……ふふっ、じゃあ今日はあんまり変えずに切っておくね」
瀬良がゆるく頷くのを見て、美菜は小さく笑った。
***
瀬良の髪を流しながら、美菜は指先に伝わる感触を確かめる。
「……うん、ちょうどいいかも」
髪がやわらかくなり、カールのかかり具合も狙い通りだった。瀬良の髪質に合わせて調整した配合が、今回も上手く作用している。
「流すね」
瀬良は軽く頷き、目を閉じる。水の音だけが響く静かな空間。美菜は優しくお湯を当てながら、薬剤を丁寧に落としていった。
「この長さ、しばらくキープする?」
「そうだな。扱いやすいし、特に不満はない」
「じゃあ、パーマの強さはどう?」
「ちょうどいい」
即答する瀬良に、美菜は満足そうに微笑んだ。彼は自分の髪のことをあまり細かく言わないが、仕上がりには敏感だ。納得しているのがわかると、自然と嬉しくなる。
トリートメントをつけ流し終えると、タオルで軽く水分を拭き取る最中、瀬良が目を開けてこちらを見た。
「美菜」
「ん?」
「いつか“ガラッと”変えるなら、どんな感じにするつもり?」
「え?」
予想していなかった質問に、一瞬言葉が詰まる。
「んー……そうだなぁ。瀬良くん、意外と金髪とか似合うと思うんだけど」
「……俺が金髪?」
「うん、外国人みたいなミルクティーベージュとか、ちょっとくすんだシルバー系とか」
「……派手すぎないか?」
「そうかな?もし自由にできるならしてみたいけどなぁ」
美菜が楽しそうに話すのを聞きながら、瀬良は静かに考え込んでいるようだった。
「まぁ、瀬良くんは黒髪が一番しっくりくるけどね」
「……なら、それでいい」
「ふふっ、そう言うと思った」
瀬良の髪を乾かしながら、美菜はドライヤーの熱が均等に当たるように指先で調整する。柔らかく揺れる髪を見ていると、自然と指が馴染むのを感じた。
「セット、どうする?」
「軽く流すくらいでいい」
「了解。ワックスつけるね」
指先に少量のワックスを取り、髪の流れを整えながら馴染ませる。瀬良の髪はカットの形がしっかりしているから、少し動きをつけるだけで雰囲気が出る。
「……うん、いい感じ」
鏡越しに仕上がりを確認すると、瀬良がふっと目を細めた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
シンプルなやり取りだけど、施術の後にこうして感謝を伝えてくれるのが瀬良らしい。
「またしばらくしたら、かけ直そうね」
「その時も頼む」
美菜は軽く笑って、片付けに取り掛かった。
瀬良の髪を整えるこの時間。お互いに余計なことは話さないけれど、だからこそ心地よい距離感がある。美容師として、そしてそれ以上の彼女として。
(彼女として瀬良くんをカッコよくできるのって……美容師冥利に尽きるよなぁ)
ふと、美菜はそんなことを考えながら、瀬良の後ろ姿を見送った。




