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Episode151



「はぁ……やれやれ、やっと帰ってくれたねぇ」


田鶴屋は肩をすくめながら、受付カウンターに寄りかかる。


「伊月さんもありがとね。おかげで助かったよ」


「いえ、僕も少し気になったので」


伊月は相変わらず穏やかな笑顔を浮かべているが、美菜はさっきの一件を思い出し、やはり少し怖いと感じた。


「いやーでも、せっかく来てくれたんだし、お礼に髪でも切ってく?」


田鶴屋が軽い調子で提案すると、伊月は少し考えてから頷いた。


「じゃあ、せっかくなので……あ、でも僕、今そこまで伸びてないですよ?」


「いいのいいの、軽く整えるくらいで。……河北さん、お願いね〜」


「えっ、私!?」


美菜は驚いたが、田鶴屋が当然のようにシャンプー台を指さすので、仕方なく伊月を案内することにした。


「じゃあ、こちらにどうぞ……」


伊月は素直に従い、シャンプー台に横たわる。美菜は少し緊張しながらも、手際よくお湯の温度を確認し、髪を濡らしていった。


「さっきのこと、ごめんね」


目を閉じたまま、伊月が静かに謝る。


「え……?」


「僕のせいで、ちょっと面倒なことになっちゃったから」


「そんなことないよ! むしろ助けてもらったのに、謝るのはこっちの方というか……」


美菜は少し驚きつつも、泡立てたシャンプーを指に絡め、優しく伊月の頭皮をマッサージしながら答えた。


「……そっか、そう言ってもらえるならよかった」


伊月の声が少し和らいだ気がして、美菜もほっとする。そして、いつも通りのリズムでシャンプーを続けていると、伊月がふと口を開いた。


「美菜ちゃんのシャンプー、気持ちがいいね。すごく上手」


「えっ、あ……ありがとうございます」


不意の褒め言葉に、美菜は一瞬戸惑ったが、素直に嬉しくなった。美容師として長くやってきたが、お客様に直接褒められるのはやはり特別なものがある。


「シャンプーだけでここまで気持ちいいのはすごいよ。美菜ちゃんの手、温かいし」


「……そんなに言われると、なんだか照れるな」


美菜は少し頬を染めながらも、いつも通り丁寧にシャンプーを仕上げる。


(……でも、素直に喜んでいいよね)


自分の技術を認めてもらえるのは嬉しい。シャンプー台の向こうでは、瀬良が相変わらず鏡越しにこちらを睨んでいるのに気づいたが、今はそれよりも目の前のお客様をしっかり仕上げることが大事だった。



***



シャンプーが終わり、美菜はタオルで伊月の髪を軽く拭きながら、


「では、カットに移りますね」


と声をかけた。


伊月はシャンプー台から起き上がり、美菜の方を見て微笑む。


「美菜ちゃんのスパとか今度受けてみたいな」


「ふふ、是非お願いします」


そう言われ、美菜は微笑んだ。


セット面に伊月を案内しようと席を見ると、すでにセット面で待ち構えていた田鶴屋がいた。


「ほい、こっちこっちー」


田鶴屋が椅子を軽く叩きながら手招きしている。


(……あれ? 私が切るんじゃないんだ)


てっきり自分が担当するのかと思っていた美菜は、少し拍子抜けした。


「えっと、私じゃなくて田鶴屋さんが?」


「そりゃそうでしょー。伊月さん、俺が呼んだわけだし。」


「そうですけど……なんか、ちょっと驚いちゃって……」


美菜はクロスをつけ、タオルを片付けようとすると、伊月がくすりと笑った。


「美菜ちゃんに切ってもらうのもよかったけど……店長に切って貰えれるのも楽しみだな」


「いやー、割とレアだからね? さ、座って座って」


田鶴屋が軽く伊月の肩を押しながらセット面に座らせる。その様子を見て、美菜は少しだけ安堵する気持ちと、ほんの少しの残念な気持ちが入り混じった。


(……田鶴屋さん、一応それなりに私と伊月さん距離は離してはくれてるのかな)


そんな事を思ってしまった自分に気づいて、美菜は小さく息を吐いた。


「じゃ、カットするねー。希望は?」


「任せます」


「りょーかい」


田鶴屋は軽快な手つきでカットを始める。


美菜はその様子をちらりと見ながら、伊月が先程何を言ったのかも気になっていた。


(まぁ……あの話は、今は気にしないでおこう)


少し距離を取って、サポートに回ることにした。



***



カットの音だけが静かに響く。


田鶴屋は何気ない調子で口を開いた。


「それにしても、伊月さんがうちとこんなに関わるとはねぇ。正直、意外だったなぁ」


「そうですか?」


伊月は鏡越しに田鶴屋を見つめ、微かに微笑む。


「ちょっとね、まあ色々あったし……お世話になったから」


田鶴屋は軽く眉を上げ、ハサミを止めることなく続ける。


「はは、お世話ですか……」


「……うちがモデルの件でお世話になったのもあるけど、迷惑かけた分、ちゃんとそこはしなきゃと思ってさ」


「そうですか」


田鶴屋はあくまで飄々とした口調を崩さない。


「でもさ、正直気になるんだよねぇ。こういうのって、変わるのに時間かかるもんじゃない?」


「ええ、そうですね」


伊月は頷き、ふっと目を細める。


「でも、変わろうって思う瞬間って、案外一瞬だったり、ちょっとしたきっかけで思うのじゃないですか?」


「なるほど」


田鶴屋は口元に小さく笑みを浮かべながら、ハサミを動かし続ける。


「で? その一瞬って、いつだったわけ?」


伊月は鏡の向こうの自分をじっと見つめる。


「……秘密です」


「秘密かぁ」


伊月は穏やかにそう言ったが、その言葉の裏に含みがあるのは明らかだった。


田鶴屋は笑う。


「うちのスタッフはみんな腕がいいからねぇ。河北さんのシャンプー、良かったでしょ」


「ええ。……彼女は間違いなくプロの技術力ですね。指先から伝わってきます。」


伊月の口調は変わらず柔らかいが、言葉の奥には別の意味が隠されているようだった。


田鶴屋はわずかに目を細める。


「確かに、シャンプーってのは技術だけじゃなくて、気持ちが出るもんだ」


「そう。……だからこそ、面白いですよね。」


伊月はふっと笑みを深める。


「その人が、何を考えてるのか、どう思ってるのか……手から、伝わってくることもある」


「ふぅん」


田鶴屋は軽く鼻を鳴らし、何気なくハサミを鳴らす。


「で? 何か伝わった?」


伊月はしばらく鏡越しに田鶴屋を見つめていたが、やがて目を伏せ、小さく笑った。


「さあ?」


田鶴屋もそれ以上は聞かず、ただ静かにカットを続けた。


二人の間には言葉にならないやりとりが流れ、どちらもそれを深く追及することはなかった。


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