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Episode142



(……やっちゃった……)


美菜はベッドの上でぼんやりと天井を見つめた。

昨日、疲れすぎてそのまま寝落ちしてしまったようだ。メイクも落とさず、シャワーも浴びず、ベッドに倒れ込んで数秒で眠りに落ちたのをうっすら覚えている。


時刻は朝5時前。

体の重さを感じながらも、美菜はシャワーを浴び、念入りにパックで保湿をする。


(27歳の肌は手を抜いたらすぐに出る……これから歳を重ねるのに、油断は禁物……)


そんなことを考えながら、ふと流しっぱなしにしていたテレビのニュース番組に意識を向ける。


『8月7日、朝6時のニュースです』


「…………あっ」


美菜は思わず息をのんだ。



***



いつものように出勤し、すでに朝練に来ていた瀬良と合流する。


「手、大丈夫なのかよ」


「うん!全然平気!」


「……無理して開かせるなよ」


瀬良のさりげない気遣いに、美菜はじんわりと優しさを感じながら、ハサミを取り出す。だが、握った瞬間、違和感に気づいた。


「あっ……」


「どうした?」


「いや、そういえば子の小指掛けが取れちゃったみたいで……昨日、久しぶりに違うハサミで切ったら、サクッと……」


「……なるほどな。小指掛け、俺の余ってるのが確かあるぞ」


そう言うと、瀬良は自分のロッカーを開け、小指掛けを取り出して戻ってきた。


「ありがとう……!」


「おう」


美菜は受け取った小指掛けを嬉しそうに見たあと、瀬良に謝らないといけない事を思い出し、眉を下げて謝る。


「せっかく瀬良くんからもらったのになくしてごめんね」


「別に、故意になくしたわけじゃないだろ」


瀬良は気にした様子もなく、淡々とそう返す。その何気ない言葉に、美菜の胸が少しだけ温かくなった。


「うん……気づいたら取れてて」


申し訳なさそうにしながらも、美菜は受け取った小指掛けをハサミに取り付ける。しっかりとはめ込むと、ようやく手に馴染む感覚が戻ってきた。


「やっぱり慣れてるのが一番だよな」


瀬良が淡々と言う。


「そうだね。切って、やっぱり慣れたハサミが一番だなって思ったよ」


昨日は久々に違うハサミを使ったせいで、感覚が狂ってしまった。やっぱり、普段使っている道具はそれだけ自分の手に馴染んでいる。


「やっぱりこれが一番しっくりくるかも」


美菜がそう言うと、瀬良は軽く頷き、自分のハサミをひとつ開閉してみせる。


「だろうな」


「うん。……本当にありがとう、瀬良くん」


素直にお礼を伝えると、瀬良は少しだけ視線をそらしながら「おう」と短く返した。



***



営業が終わり、店内には片付けをするスタッフたちの足音と、掃除機の低い駆動音が響いていた。


受付では、美菜と田鶴屋が並んでカルテ整理を進めている。


朝、出勤した田鶴屋に、昨日のことを改めて謝った美菜は、その流れで伊月や瀬良と話したこと、そしてゲームで一緒になり、無事に和解できたことを報告していた。


「そうか、それならよかったよ」


田鶴屋はそう言いながら、手際よくカルテを整理していく。厚みのあるファイルを一枚ずつ確認し、必要なものを抜き出して仕分けていく様子は、無駄がなく洗練されていた。


美菜もそれに倣いながら作業を続けるが、どこか考え込むような表情をしていた。


やがてカルテ整理が終わると、田鶴屋はパソコン作業へと移った。画面に向かいながらも、ふと手を止め、美菜の方を見やる。


「無理はするなよ」


その一言に、美菜はわずかに肩をすくめた。


「……はい」


田鶴屋が自分を気にかけてくれているのは分かっている。でも、それでも、もっとできるようになりたいと思ってしまうのだ。


「田鶴屋さんみたいな美容師になりたくて、やっていただいたことをそのまま真似していたんですけど……やっぱり、私にはまだ無理でした」


カルテを閉じながら、小さく笑う美菜。


その言葉に、田鶴屋は一瞬だけ驚いたような表情を見せた。


「……そうか」


小さく呟いた後、彼は少し目を細める。そして、美菜の方へと視線を向け、静かに口を開いた。


「それは嬉しいけどな。でも、自分の限界くらい、ちゃんと見極めろ」


「……はい」


美菜は素直に頷く。


田鶴屋の言葉は決して厳しいものではなかった。むしろ、それは彼なりの優しさだった。


どこまでも店長らしく、どこまでも美菜やスタッフを気にかける、その姿勢に、美菜は改めて尊敬の念を抱く。


(やっぱり、田鶴屋さんはすごい人だな――。)


そんなことを思いながら、美菜はカルテを棚に戻し、受付のカウンターを丁寧に拭き上げた。



***



夜の静けさが店内を包み始める中、田鶴屋の声が響いた。


「全員出てー、帰るよーー」


鍵を閉めるため、最後まで残っていた美菜、瀬良、千花、木嶋が慌ただしく準備を整え、受付へと向かう。


「はいはーい、今行きますよー!」


「すぐ行きます」


「待ってくださーい!」


それぞれ荷物を持ち、ロッカールームから出ようとする中、美菜だけは少し焦り気味だった。


(早くしないと……田鶴屋さん、待たせちゃう……)


急いで荷物をまとめ、バッグのチャックを閉めずにそのまま駆け足で出口へ向かおうとした


――その瞬間だった。


ガシャッ!


「あっ……! 最悪……!」


美菜の手からバッグが滑り落ち、中身が床に散らばる。しかも、開いていたチャックから財布が飛び出し、その勢いで小銭が四方八方へ転がってしまった。


「ありゃりゃ! も〜何やってるんですかっ!」


千花が呆れたように言いながら、すぐに床へしゃがみ込む。


「手も怪我してるんですから、美菜先輩はゆっくりで良かったんですよ!」


「ごめんね……」


申し訳なさそうに呟く美菜を気遣いながら、千花はテキパキと小銭を拾い集める。


「はい!」


満面の笑みで手のひらいっぱいの小銭を差し出す千花。その明るさに、美菜も自然と笑顔になる。


「ありがとね、千花ちゃん」


「えへへ、こんなの、お安い御用ですよぉ〜……って、あれ?」


床を見ていた千花の動きが止まり、何かを拾い上げる。


「なんか落ちてますよ! これも美菜先輩のですか?」


手にしていたのは、一枚のカード――保険証だった。


「あっ、危なっ……! 良かったですね、美菜先輩、なくさなくて!」


「そうだね! 助かったよー」


美菜が手を伸ばし、それを受け取ろうとする。しかし、千花がなぜか手を離さないまま、じっと保険証を見つめていた。


「……千花ちゃん?」


不思議に思いながら、美菜が千花の顔を覗き込む。


「どうしたの?」


千花は真剣な表情のまま、ゆっくりと顔を上げる。

そして、小さな声で確認するように呟いた。


「美菜先輩……美菜先輩の()()()って……」


「ん? あ、あー……誕生日?」


千花の視線に気まずくなり、美菜は目を逸らす。


その様子を見て、千花は一瞬息をのむと、次の瞬間、全力疾走で受付へ向かって駆け出した。


「千花ちゃん!? え、ちょっ……!」


美菜の制止も聞かず、千花は受付へ向かい、すでに荷物をまとめ終えて談笑していた瀬良、田鶴屋、木嶋の元へと飛び込むように走り込む。


━━━━━━ドンッ!


「お、おお……!? どったの!?」


突然の千花の勢いに、木嶋が驚いて目を丸くする。


「まさか河北さんの手が開いたとか!?」


真っ先にそう考えた田鶴屋が、険しい顔で身を乗り出した。


その言葉に、瀬良と木嶋も一気に緊張する。


(昨日縫ったばかりなのに……また無理して、傷口が開いた……!?)


田鶴屋がすぐに動こうとし、瀬良と木嶋も一斉に美菜の元へ向かおうとしたその瞬間、千花が慌てて手を広げて三人を止めた。


「違います……!」


呼吸を整えるように大きく息を吸い、千花は真剣な眼差しで三人を見つめる。




「美菜先輩……今日誕生日です……!」





「「「…………ッッ!?!?」」」



沈黙が落ちる。


次の瞬間、まるで爆弾が爆発したかのように、三人の表情が一気に変わった。


「えっっっ!?!? ちょ、マジで!?」


「……河北さん……誕生日なのかッ……!」


「……………………」


完全に動揺する田鶴屋と木嶋。そして、瀬良は呆れと驚きをにじませながら、深く息をついた。


まさかの事実。


それは、美菜が自ら口にしなければ、誰も知らないままだった事実だった。



***



「……おい」


瀬良が呆れたように受付に戻ってきた美菜の方へ視線を向ける。


「なんで黙ってた」


「え、いや……なんか、わざわざ言うのも変かなって……」


美菜はばつが悪そうに目をそらす。


「変じゃねえよ。普通言うだろ」


「いやいやいや! 言わないでしょ!?」


「言うよ美菜ちゃん!!普通に!!ちなみに俺は11月28日だからッッ!!」


木嶋が全力でツッコミを入れる。


「そうですよー! なんで私たちに隠してたんですか!」


千花も腕を組み、ぷんすかと頬を膨らませる。


「いや、だって……別にお祝いしてほしいとか、そういうのじゃなくて……」


「そういう問題じゃない」


田鶴屋が静かに言った。


「お前がどう思っていようと、誕生日ってのは特別な日だ。」


「うっ……」


鋭い指摘に、美菜はぐうの音も出なかった。


「……それにしても」


瀬良がふっと息をつきながら、美菜をまっすぐ見つめる。


「なんでこんな大事なこと、俺...伊賀上から聞かされるんだよ」


「え、えーっと……」


彼氏として知っておくべきだったと落ち込む瀬良。

あまりにもショックを受けているか、瀬良は見るからにガッカリしている。


美菜はしどろもどろになりながら、ちらりと千花を見た。


「だって、保険証に書いてあったんですもん!」


千花は胸を張って言い放った。


「千花ちゃん……普通そこまで見る……?」


「見ちゃいました! てへっ!」


悪びれない千花に、美菜は思わず頭を抱えた。


「で、美菜先輩」


千花が腕を組みながらにやりと笑う。


「誕生日を黙っていた罰として――」


「罰!?」


「お祝いさせてもらいます!」


「えっ……いや、ほんと、そういうの気を使わせるの申し訳ないから……!」


「気を使わせるも何も、もう決まってます!」


千花はビシッと指をさす。


「今から!! みんなでお祝いします!!」


「そうだそうだー!俺たちはお祝いするぞー!」


「……は?」


美菜は目を瞬かせた。


「お祝いって……え、今から!?」


「当たり前ですよ!」


「いやいや、もうお店閉める時間だし……」


「だったらどこかでやればいいじゃないですか!」


「えっ、でも……」


「おいおい、千花ちゃん」


田鶴屋が呆れたようにため息をつく。


「さすがに今から店を出てどこかに行くのは現実的じゃない」


「えー……じゃあ、どうします?」


「……仕方ない」


田鶴屋は腕を組み、一瞬考えた後、静かに言った。


「俺の家に来い」


「えっ」


「えっ」


「えぇぇぇぇ!?」


美菜、千花、木嶋が声をそろえる。


「ちょっ、田鶴屋さん!? それはさすがに……!」


「別にいいだろ。今から店を探しても遅くなるし、俺の家なら気兼ねなくできる」


「いや、でも……!」


「河北さん」


田鶴屋は淡々とした口調で続ける。


「誕生日を祝わせろ。これは命令だ」


「…………」


美菜はぐっと言葉に詰まる。


田鶴屋の真剣な目を見て、断ることはできなかった。


「……わかりました」


観念したように美菜が頷くと、千花がガッツポーズをした。


「やったー! じゃあ決まりですね!チキンとケーキとシャンパン買いましょう!」


「いやクリスマスみたいな祝い方だな」


「あはは……ほんとに行くんだ……」


美菜は苦笑しながら、それでも心の奥でじんわりとした温かさを感じていた。


自分の誕生日を、こんなにもみんなが大事にしてくれるなんて。


「……ありがとね、みんな」


そう小さく呟いた声は、静かな店内にそっと溶けていった。


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