Episode141
美菜は瀬良に送り届けてもらい、玄関の前で立ち止まった。
「今日はありがとう、瀬良くん」
「ん。じゃあな」
瀬良がいつも通り軽く手を上げて帰ろうとするのを、美菜は無意識に袖を掴んで引き留める。
「……おやすみ」
小さく囁いたその瞬間、瀬良が一歩踏み出し、美菜の顎をすっと持ち上げた。
「っ……」
驚く間もなく、唇が重なる。
最初はいつも通りのキスだった。だが、すぐにそれは違うものへと変わっていった。
いつもより深く、熱を帯びた口づけ。
逃がさないように、確かめるように、美菜の全てを奪うような感触。
「っ……ん、」
美菜は息が苦しくなり、無意識に瀬良の服を掴む。
けれど瀬良は少しも離してくれず、美菜が震えだした頃、ようやく唇を離した。
「……っ、」
酸素を取り込むように荒い息を整えながら、美菜は顔を真っ赤に染める。
「……し、しん...ら?」
問いかけるように名前を呼ぶと、瀬良は美菜の耳元に顔を寄せて口を動かす。
「美菜、伊月にはあんまり隙見せんなよ」
低く囁かれたその言葉に、胸が強く跳ねる。
「……は、はい……」
照れて目も合わせられない美菜の顎を、瀬良が再び持ち上げる。
逃げられないように、けれど決して乱暴ではなく、むしろ優しく包み込むような手つきだった。
「おやすみ。ちゃんと鍵かけて寝ろよ」
「うっ、うん、お、おやすみ!」
やっとの思いで返事をすると、瀬良は満足そうに目を細め、静かに踵を返した。
美菜はその背中を見送ることしかできず、ドアの取っ手を握る手がわずかに震える。
(ずるい。あんなキス、反則だよ……)
いつもと違うキス。
ただ触れるだけじゃなく、確かめるように深く奪われた口づけ。
それは、美菜が瀬良のものなのだと教え込むようなキスだった。
「……もう、恥ずかしい……」
自分の頬を手で覆いながら、まだ鳴りやまない鼓動に困惑する。
瀬良の嫉妬心の深さに気づいてしまった。
嬉しいような、恥ずかしいような、なんとも言えない気持ちが胸の奥を占めていく。
(ねぇ、瀬良くん。そんなに嫉妬するほど、私のこと……)
そこまで考えて、恥ずかしさに耐えられなくなり、思わずバタンとドアを閉める。
「……もう!」
誰もいない玄関で、一人身悶えする美菜。
瀬良の唇の感触が、まだ離れない。
美菜は鍵をかける手が少し震えているのに気づき、深く息を吸った。
(……落ち着いて、私。瀬良くん、もう帰ったんだから)
そう思いながらも、やはりさっきのキスの余韻がじわじわと広がっていく。
唇がまだ熱を持ったまま、体の奥まで甘く痺れていた。
「……もう、ダメ……」
自分の頬を両手で覆いながら、その場にしゃがみ込む。
膝が妙に力が入らなくて、まともに立っていられなかった。
(……こんなの、反則)
いつもなら優しく触れるだけのキスなのに、今日のは全然違った。
強引なのに、どこか余裕がある。
そして、はっきりと伝わってくるものがあった。
「……私、瀬良くんの彼女なんだよね……」
改めてそう口にしてみると、胸がくすぐったいような、恥ずかしいような気持ちになる。
━━━━お前は俺のものだ
瀬良のキスは、そう言っているようだった。
「……嫉妬してくれてる、のかな……」
美菜はゆっくりと立ち上がり、顔の熱を逃がそうとリビングへ向かう。
だけど、一度火がついた心は簡単には冷めてくれそうになかった。
美菜はベットに寝転び、何気なくスマホを開く。
瀬良から何かメッセージが来ているかと思ったけれど、当然のように何もない。
(……瀬良くん、帰ったらゲームするのかな……)
そんなことを考えながら、ふと、少し意地悪な彼の表情を思い出す。
「……もう、バカ……」
甘えるように触れてくる時もあれば、今日みたいに強引な時もある。
どちらにしても、瀬良はずるい。
(こんなに私の心を乱しておいて、何もなかったみたいに帰っていくなんて)
「……おやすみなさい、瀬良くん……」
小さく呟きながら、美菜はそっとスマホを置き、胸に手を当て瞼を閉じる。
いつもよりもうるさい鼓動は、しばらく収まりそうになかった。
***
夜の静けさの中、瀬良はポケットに手を突っ込みながら、美菜の家を後にした。
(……やりすぎたか?)
さっきの美菜の顔を思い出す。
驚きと恥じらいで真っ赤になり、目を泳がせていた彼女。
腰が抜けたのか、ドアを閉める前に小さく震えていたのも、見逃してはいない。
(でも、たまにはこういうのもいいだろ)
美菜の柔らかい唇の感触が、まだ鮮明に残っている。
いつもより深く、熱を込めたキス。
ただの挨拶や気まぐれなんかじゃなくて、美菜にわからせるためのものだった。
──お前の彼氏は、俺だって。
ゆっくりと歩きながら、夜風を受ける。
火照った体を冷ますにはちょうどいいが、頭の中はまだ冷めきらない。
(美菜、伊月のこと気にしてなかったって言ってたけど……)
心のどこかで引っかかっていた。
伊月の執着は普通じゃない。
仕事の話にかこつけて、美菜にちょっかいを出してくるのは目に見えてる。
(……あんまり、あいつに隙見せるなよ)
さっきの言葉は、美菜への忠告のつもりだった。
けど──本当は、ただの独占欲かもしれない。
「……はぁ」
ため息をつきながら、スマホを取り出す。
画面を見ても、特に通知はない。
美菜からのメッセージも、何もなかった。
(……送ってこないよな)
あんなふうにされたあと、すぐに何か言えるわけがない。
照れすぎて、スマホどころじゃないのは想像に難くない。
(……可愛かったな)
頬を染めて、目をそらして、それでもちゃんと俺を見てくれた。
素直で、嘘がつけなくて、俺の言葉にいちいち反応してくれる。
そういうところが、たまらなく愛おしい。
「……帰ったら、ゲームでもするか」
そう呟きながら、スマホをポケットにしまう。
今日はなんとなく寝れない気持ちだ。
眠くなるまでゲームで誤魔化そうとした。
だけど、ゲームの前にすることが一つあった。
瀬良は少し歩みを緩め、スマホを取り出してメッセージを打つ。
『好きだよ。おやすみ。』
送信ボタンを押して、再びポケットに突っ込む。
美菜の顔を思い浮かべながら、少しだけ口元が緩んだ。




