Episode13
「お疲れ!」
営業終了後のサロンに響く田鶴屋の声。
「河北さん、ちょっと時間ある?」
手に数枚の資料を持ちながら、彼は美菜のほうへ歩いてくる。
(今日は帰って配信したかったのにぃ……)
そう思いつつも、笑顔で「はい」と返事をしておいた。
***
スタッフルームに資料を広げながら、田鶴屋は軽い口調で説明を始める。
「今日ディーラーさんが持ってきてくれてさー。河北さんのお客さんって結構ヘッドスパとかしてくれる人多いじゃん? だから河北さん中心に、ヘッドスパをもっとアピールしていきたいんだよねぇー」
「ヘッドスパ、ですか……」
美菜は資料に目を通しながら、少し考え込む。
確かに美菜のお客さんの中には、定期的にヘッドスパを受ける人が多い。だが、スタイリストである美菜自身は、スパを施術することはほとんどなく、アシスタントに任せることが多かった。もちろん、技術指導はしているが、自分が全面に立ってアピールするとなると、少し勝手が違う気がする。
「とりあえず河北さんがうちのスタッフ全員にスパ講習してみてくんない?」
「えっ」
美菜は驚き、思わず田鶴屋を見た。
「講習……ですか?」
「そ。ヘッドスパって個人差出るし、お客さんの満足度もスタッフによって違ったりするしさ。河北さんの技術を共有できたら、サロン全体のレベルも上がるかなーって」
「それは……まあ、いいですけど……」
美菜は少し戸惑いながらも了承した。
しかし、上手く伝えられるだろうかという不安がよぎる。ヘッドスパには基本の流れはあるものの、施術者ごとに細かな違いがあり、最終的には「お客様が満足すること」が重要になる。美菜も、ベースはあるが自分なりのアレンジを加えており、それを言葉で説明するのは難しいと感じていた。
「大丈夫大丈夫、実演でしたらいいわけだし!」
田鶴屋は軽い調子で言いながら、持っていたコンビニおにぎりを一口かじる。
「そうだ、河北さん、腹減ってるだろ? 食う?」
そう言いながら、おにぎりをもう一つ差し出してくる。
「いえ、大丈夫です……っていうか田鶴屋さん、もしかして昼ご飯食べてないんじゃ」
「まーね。忙しかったし」
そう言いながらも、彼は自分でおにぎりを頬張ると、満足げに手を払った。
「よし、とりあえず俺と実演練習しとこっか!」
***
「河北さぁぁあん……お前すげーなぁ……」
「ありがとうございます」
美菜は淡々と答えながらも、内心では「この人、ヘッドスパを受けたかっただけなんじゃ……」と疑っていた。
みんなが帰った後の静かなサロンで、ホットタオルとアロマの香りが漂う中、美菜は田鶴屋の施術を終えようとしていた。
「……河北さんってさ、」
髪を拭こうとした瞬間、田鶴屋が目元のガーゼをずらし、横になったまま美菜をじっと見つめてくる。
(……なんか、この人ほんと整った顔してるな……)
普段はあまり意識しないが、改めて見ると、田鶴屋が女性客からの人気が高い理由がよく分かる。
「なんですか?」
美菜が問い返すと、田鶴屋はニヤリと笑い――
「河北さんって、みなみちゃん?」
「ひょ……ッッ!?」
あまりの驚きに、自分でも聞いたことのない声が出た。
(いや今日だけで2回も……!)
内心の混乱を隠しながら、何とか冷静さを装おうとするが、目の前の田鶴屋はとんでもなく楽しそうな顔をしている。
(……悪魔だ……)
美菜は心の中でそう呟きながら、ヘッドスパの手を止めた。
「ち、違いま……」
「あってるでしょ?」
「……なんでそう思うんですか?」
「んー? やっぱりぃ? いや〜、なんかさー、ずっとそうだと思ってたんだよねぇー!」
「えっ……!?」
美菜は愕然とする。
一応VTuberとして、顔出しは一切していないし、美容師をしていることも公言していない。何故バレたのか。……声か?
「え、でも……田鶴屋さん、今ずっとって……」
彼は「ずっと」そう思っていたと言った。
(まさか……)
「うん、ずっとだよ。俺、みなみちゃんの古参リスナーなんだ」
「ええ!!?」
美菜は、ヘッドスパ用のタオルを握りしめたまま叫んだ。
(いやいや、そんなバカな……!)
目の前の田鶴屋は、楽しそうに美菜の反応を眺めながら、ゆっくりとシャンプー台から起き上がる。
「名前……、ハンドルネームはなんですか!?」
美菜の配信しているサイトでは、コメントの前にハンドルネームが表示される。何年も配信を続けてきた美菜は、古参リスナーの名前を何人か覚えているが、どれが田鶴屋なのかは分からない。
「…………」
田鶴屋は少し考えた後、ニヤリと笑い――
「コメント欄から見つけて〜」
そう言い残し、手を振りながらスタッフルームへと消えていった。
「……」
取り残された美菜は、ぐったりとシャンプー台に突っ伏した。
(もう……勘弁してよぉ……)
今日一日で、心臓に悪い出来事が二度も起こった。
――瀬良くんと田鶴屋店長。
どちらも、美菜の秘密に妙に近づいてくる。
この先どうなるのか、美菜は不安と焦りを抱えながら、大きなため息をついたのだった。




