Episode138
美菜はいつものようにシザーケースからハサミを取り出した。
しかし、手にした瞬間、違和感が走る。
(…小指掛けがない…!?)
思わずハサミをじっと見つめた。小指を支えるための小さなパーツが、いつの間にか外れてしまっている。
もちろん、取り外し可能なものではあるが、そう簡単に外れるものでもない。
(緩んでたのかな…気づかなかった)
どこで落としたのかもわからない。店のどこかに転がっているのかもしれないし、最悪の場合、もう見つからないかもしれない。
「…どうかしましたか?」
不意にお客様が心配そうに顔を覗き込んできた。
「いえ、大丈夫です」
慌てて微笑みながら誤魔化す。
瀬良からもらったお揃いのハサミなのに、こんな風に壊してしまうなんて情けない。でも、小指掛けくらいなら買い直せば済むことだ。気を取り直して、別のハサミを使ってカットを進めることにした。
(あとで探してみよう……)
***
カットも終盤に差し掛かり、そろそろ仕上げに入ろうとした、その瞬間だった。
シュッ——
鋭い痛みが指先を走る。
(——っ!?)
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
でも、じわじわと広がる熱と、指先から伝わる生々しい感触で、すぐに理解した。
(切った…!?)
美容師のハサミは、普通のハサミとはわけが違う。髪の毛を一瞬で断ち切るほどの切れ味を持つその刃で、誤って自分の指を傷つけてしまった。
(くっ…)
かなりの激痛が走る。しかし、顔には絶対に出せない。
「すみません、少し席を外してもよろしいでしょうか?」
できるだけ冷静な声を保ち、お客様に伝える。
お客様は美菜が手を切った事には気づいておらず、すぐに了承をもらえた。
近くにいたアシスタントにドライヤーを任せると、痛む指を押さえながらバックルームへ急いだ。
***
思ったよりも傷は浅かった。
(よかった…これなら絆創膏でどうにかなる)
だが、鋭く切れた傷口は生々しく、血の筋が細く浮かんでいた。さすがにこのままではまずいので、すぐに止血して絆創膏を貼る。
美容師にとって手は命。こんなところで仕事に支障を出している場合ではない。
(次は縮毛矯正の2液塗布だったな…)
絆創膏を貼った指を確かめ、急いで手袋をはめる。
大丈夫。問題ない。
美菜は深く息を吸い込み、何事もなかったかのように、お客様の元へ戻っていく。
「お待たせいたしました。最後のお薬塗っていきますね」
お客様と時々会話をしながら施術を進める。
多少痛むが塗る分には問題無さそうだ。
「……はい、ではこれで少ししたら流しますね。」
手の空いてそうなアシスタントに流しとトリートメントの指示をして美菜はカラーブースにカップを置きに行く。
次の作業に移るため、何気なく手袋を外そうとして——ふと、違和感を覚えた。
(…あ、なんか思ったより血が出てる…)
指先にじわりと広がる湿った感触。恐る恐る手袋越しに傷口を押さえてみると、予想以上に出血していることがわかった。
(これ、手袋外したら絶対痛いやつ…)
鋭く切れた傷は、見た目よりも厄介だ。動かすたびにじんじんと疼くし、下手に見てしまうと余計に痛みを意識してしまいそうだった。
(よし、見なかったことにしよう)
軽く深呼吸して気持ちを切り替える。
幸いにも、今担当しているお客様のカットはほとんど終わっているし、残りの予約もカラーのみ。カットの予定はもう入っていない。
(営業後までなんとかなる…)
そう自分に言い聞かせながら、何事もなかったかのように左手に新しい手袋をはめ直す。
そのまま、美菜は誤魔化しながら最後の仕事を終わらせることにした。
***
閉店作業もほぼ終わり、美菜はカラーブースで道具を片付けながら、そっと指先を確認した。
(うん、大丈夫そう…)
営業中はじんじんと痛んでいたが、今はそこまで気にならない。思ったより傷は浅かったし、これなら明日には普通に仕事できそうだ——そう思っていた、その時だった。
「……おい」
低い声にギクッと肩を震わせる。振り向くと、そこには明らかに機嫌の悪そうな瀬良が立っていた。
「瀬良くん?」
「お前、手どうした」
「え、いや…ちょっと切っただけで——」
「どれくらい」
遮るように問われ、思わず口を噤む。瀬良の目が鋭い。
「……見せろ」
「だ、大丈夫だから」
「いいから」
有無を言わせぬ口調に押され、美菜は観念して手を差し出した。瀬良が絆創膏をそっと剥がし、傷口を確認すると——一瞬、息を呑む音がした。
「……っ、バカかお前」
次の瞬間、鋭い声が飛んできた。
「こんな傷でよく仕事してたな!? なんで言わねえんだよ」
「ちょっと切っただけだし……」
「ちょっとじゃねえだろ! 結構深く切れてる…。しかもこれ、今日ずっと動かしてたんだろ?開いて悪化してるじゃねえか」
「……でも血、止まってるし……」
「そういう問題じゃねえよ!」
思った以上に怒られて、美菜は肩をすくめる。
瀬良がこんなにも怒っているのを初めて見た。
「お前、美容師が手を怪我することのヤバさ、わかってんのか?」
「……わかってるよ。でも……」
「わかってねえからこんなことしてんだろ」
瀬良は大きく息を吐くと、苛立ちを抑えるように髪をかき上げた。そして——
「田鶴屋さんに許可取ってくる。病院行くぞ」
「えっ!?」
「動かしすぎたせいで悪化してんだろ。縫うレベルか分からないからちゃんと診てもらえ」
「え、でも……」
「ダメ」
「……っ」
強い口調に、美菜は反論できなくなる。
そのまま瀬良は田鶴屋のもとへ向かい、ストレートに切り出した。
「店長、美菜が手を結構深く切ってて、悪化してます。病院に連れてくんで、早めに上がらせてもらっていいですか?」
「河北さんが?」
田鶴屋は驚いた顔をして美菜を見る。
「……あらら、これは確かに痛そうだねぇ。…で、河北さん、なんで早く言わねえの」
田鶴屋は美菜の手を確認すると笑顔で怒っているのが分かる。
「いや、その……大丈夫だと思ってたので……」
「こういうのは大丈夫じゃなくなる前に言えよ」
呆れたようにため息をつきながら、田鶴屋は腕を組んだ。
「タクシー呼ぼうか?俺がついて行っても良いけど……いや、伊月さんがこの後契約の書類車で持ってくるって連絡あったな。」
「伊月さんが?」
「今こっち向かってるらしい。あと少しでつくってさっき連絡が…」
その言葉を聞いたちょうどその時、タイミングよくサロンの自動ドアが開いた。
「お疲れさまです、田鶴屋さんいますか?」
落ち着いた声とともに、伊月海星が店内に入ってくる。手には茶封筒があり、それを田鶴屋に渡した。
「頼まれていた契約書類、持ってきました」
「助かる。……ちなみになんだけど、これから時間あるか?」
「? まあ、特に予定はないですが」
「こいつら、今から病院行くんだけど、良かったら乗せてくんね?」
「……病院?」
伊月の視線が、美菜と瀬良を交互に見る。そして、美菜の手元に目を落とすと——スッと眉をひそめた。
「……どうしたの、その手」
「あっ、いや…ちょっと切っちゃって」
「いや、ちょっとで済んでないだろ。あと伊月、勝手に美菜の手に触るな」
瀬良の言葉に伊月が目を細める。
「美菜ちゃん、病院に行こっか。車、前に停めてるから乗って?」
そう言うが早いか、伊月は美菜の手をひいてさっさと店の外へ向かう。
「ちょ、ちょっと待って!」
「待たないよ。」
「だから、病院なんて大袈裟で……!」
「大袈裟じゃないよ。ほら、行くよ。瀬良くんも乗りたかったら乗れば?」
「……っ、別にタクシーで行くからお前の…」
「今日はタクシー時間かかると思うよー?僕もタクシー捕まえれなくてわざわざ自分で運転してきたんだから」
何も言い返せないまま、瀬良と美菜は車に乗せられる。
エンジンがかかり、車内に静かな空気が流れる。
「……こういう時って何科?」
「とりあえず近場の病院で何処でもいい。縫うレベルか診てもらわねえとわかんねえし」
「了解です」
伊月はスムーズに車を発進させる。
バックミラー越しに映る彼の表情は、いつもの穏やかさとは違い、少しだけ険しく見えた。
(……なんか、大ごとになっちゃったな)
そう思いながらも、二人の雰囲気に逆らえず、美菜は黙って病院へ向かう車の揺れに身を任せた。
***
病院に着くと、受付を済ませた美菜は処置室へと案内された。
「では、傷を診せてください」
医師に言われ、恐る恐る手を差し出す。
「……結構深いですね。これは縫ったほうがいいでしょう」
「えっ」
「2針ほど縫います。すぐに終わりますので、我慢してくださいね」
(縫うの…!?)
驚いて瀬良のほうを見ると、彼は腕を組んだまま、いつもの無表情でじっとこちらを見ていた。
「……やっぱり縫うほどじゃねえか」
「…へへへ……」
「いや、笑い事じゃないから」
「すみません……」
思わず呟くと、瀬良は小さくため息をついて、美菜の頭にポンと手を置いた。
「痛いのは一瞬だろ。終わったらなんか甘いもんでも奢ってやるからとりあえず縫っておけ」
「……ほんと?」
「嘘ついてどうすんだよ」
「……じゃあ、頑張る」
意を決してうなずくと、医師は「では、始めますね」と手際よく準備を進める。
局所麻酔の注射はチクッとした痛みがあったが、麻酔が効いてしまえば縫われている感覚はほぼなかった。
(……思ったより痛くないかも)
そう思っているうちに、あっという間に処置は終わった。
「はい、お疲れさまでした。抜糸は1週間後に来てくださいね」
「……ありがとうございます」
指にはしっかりとガーゼが巻かれ、これでひとまず安心だ。
処置室を出ると、待合室で待っていた伊月がすぐにこちらに目を向ける。
「終わった?」
「……うん、2針縫っちゃった」
「えぇ…」
隣でやれやれといった表情の瀬良とは対照的に、伊月はじっと美菜の手を見つめていた。
「……もうちょっと、気をつけたほうがいいよ」
「……うん」
「美菜ちゃんの手はたくさんの人を幸せにする手なんだからね」
低く静かな声に、美菜は少し照れながらこくんとうなずく。
(伊月さんってこういう恥ずかしいセリフをサラッと言ってくるから、ちょっと聞いててドラマみたい…)
伊月との会話を聞いていた瀬良はムスッとしながら間に経つ。
「ほら、帰るぞ。伊月、送ってくれ助かった。もう帰りは大丈夫だから帰っていいぞ」
瀬良がさっさと話を終わらせようとすると、伊月がじとっとした視線を向ける。
「……なんか、ずいぶん邪険に扱うよね」
「別にそういうわけじゃねえけど?」
「あー、でもわかるな。ワールド・リーゼのプレイヤーって、結構冷たい人多いもんね」
「……は?」
明らかに棘のある言葉に、瀬良の目つきが鋭くなる。
「いやいや、ただの感想だから。深い意味はないよ?」
「お前、俺が何やってようが関係ねえだろ」
「うん、そうだね。でも、そんなのだから負けるんじゃないかな?」
「……あ?」
「ちょ、ちょっと! 二人ともここ病院だから!」
険悪な空気を感じ取り、美菜が慌てて二人の間に手を伸ばす。
(そういえばまだチョコパンの事も、伊月さんの事も何も話してないんだった!!!)
美菜は「まずい!」と呟くと、咄嗟に思いついた案でその場を凌ぐ。
「ほら、もういいでしょ?とりあえず、甘いもの!
甘いものでも食べに行こっか!カフェ行こ?」
「…………」
「いいじゃん、ちょうど僕ものど渇いてたし」
伊月がニヤリと笑って肩をすくめると、瀬良は舌打ちをして顔を背けた。
「チッ……好きにしろ」
「じゃあ決まりねー」
少し強引に場を収めながら、美菜は二人を引き連れて病院を後にした。




