Episode122
朝のサロンは、すでにドライヤーの音やハサミのリズミカルな音が響き、慌ただしく動くスタッフたちで活気づいていた。
「……田鶴屋さん、今日休みじゃなかったです?」
シフト表を確認していた千花が、受付のカウンター越しに眉をひそめる。そこには、なぜか仕事をしている田鶴屋の姿があった。
「ん? ああ、まあね。でも新人の教育がまだ途中だったし、予約の調整も気になってたから」
パソコンを叩きながら、田鶴屋は軽く肩をすくめる。
「それ、もう仕事大好きってレベルじゃないと思うんですけど……もはやサイボーグですね!」
「自覚はある。でも俺がいないと困るだろ?」
「たしかに……でも、田鶴屋さんが壊れたら駄目なんですから、休む時は休んでくださいね!」
さらりとした言葉に、千花は「大丈夫かなー?」と心配するが、忙しそうなスタッフたちの様子を見れば、あながち間違いでもないのかもしれない。
「……サイボーグかよ……」
瀬良はケロッとしている田鶴屋を見て少し顔をひきつらせた。
美菜と昨日飲んでいた田鶴屋はかなりの量を飲んでいたと美菜は言っていたはずだ。
田鶴屋は午前休、午後休などを時折取りながらほぼ定休日以外はいる。
「えー、サイボーグじゃないんだから休まないと潰れちゃいますよ!」
木嶋がほうきで掃きながら田鶴屋を見て心配する。
「みんな大丈夫だから!俺ちゃんと休んでるから!あと俺サイボーグじゃないから!!」
心配は皆しているものの、ちょっとしたノリで遊んだ事を皆で笑い合う。
スタッフとしては心地良い職場だった。
***
営業終了後のサロンはBGMも消え、昼間の賑わいが嘘のように静まりかえっている。
スタッフは全員帰り、サロンには誰もいないはずだった。
千花は入口の前で立ち止まり、小さく息をついた。
ガラス越しに、カウンターでパソコンを叩く田鶴屋の姿が見える。
「……やっぱり、まだいるし」
予想はしていた。
このところ田鶴屋は、営業後も店に残って事務作業をしていることが多い。
スタッフには「帰る」と言っておきながら、いつの間にかまたパソコン作業に戻っているのだ。
千花は手に持った紙袋を見下ろし、意を決して店のドアを開けた。
「 帰るって言っていたはずの田鶴屋さんがまだ働いてるとか、まさかの仕事の亡霊が私には見えますね〜!私疲れてるのかなぁ〜?」
ぎくりと一瞬体が跳ねる田鶴屋。
カタカタと響いていたキーボードの音が止まり、田鶴屋が作り笑いをして顔を上げる。
「お? 千花ちゃん。どうした?」
「どうした? じゃないですよ、田鶴屋さんこそ! なんでまだここにいるんですか?」
田鶴屋は肩をすくめ、モニターを指差した。
「ちょっとデータ整理してた。新しく教育メニューのプラン立てるついでにな」
「いやいや、ついでのレベルじゃないですから! もう営業時間終わってますよ! わかってます? 夜ですよ!」
千花は呆れたようにため息をつきながら、手に持っていた紙袋をカウンターの上に置く。
「はい、これ!」
「……なんだ?」
「さっきそこのキッチンカーで買ってきたハンバーガーとコーヒーです!どうせ田鶴屋さん、また何も食べてないでしょ?」
田鶴屋は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それからゆるく笑った。
「さすが千花ちゃん、気が利くな」
「でしょー? えらいでしょ? もっと褒めてくれてもいいんですよ?」
「はいはい、ありがとな」
「もっとこう……『千花ちゃんのおかげで俺は救われました、千花ちゃんまじ天使』くらい言ってくれてもいいのになぁ~」
「そこまで言ったら嘘くさくなるじゃない」
「あはは!たしかに!」
千花は頬をふくらませながらも、自分の分のハンバーガーを取り出し、隣の席に腰を下ろす。
ふたりで並んで、黙々とハンバーガーをかじる。
ふと、田鶴屋が千花を横目で見た。
「千花ちゃんって本当に人の事見てるよね」
「ん? なんですか、急に」
千花は口の端にソースがついたまま、田鶴屋を見上げる。
「いや、俺が飯食ってないのとか、帰ったフリしてまた仕事してるのとか、普通そこまで気にしないだろ」
田鶴屋は苦笑しながら、コーヒーを一口飲む。
「まあ……田鶴屋さん、ほんとに仕事ばっかしてるから。誰かが気にしてあげないと、本当にサロンに住み着いちゃいそうだし」
「そこまでじゃないって」
「いやいや、もうすぐ寝袋持ってきそうな勢いですよ? それで朝起きて、そのまま仕事始めるんですよ、絶対!」
「さすがにそこまではしねぇよ」
「うそだー! 田鶴屋さんならやりかねないもん!」
千花はじとっとした目で田鶴屋を見つめる。
「もうちょっと、自分のことも大事にしてくださいよー。せめて、夜くらいはちゃんと休まないと」
田鶴屋は千花の言葉にふっと笑う。
「……お前、ほんと面倒見いいな」
「えっ、今さらですか? 私、超世話焼きなんですよ?」
「うん、知ってる」
田鶴屋は柔らかく微笑みながら、千花の頭をぽんっと軽く撫でた。
「ちょっ……!? なに急に!」
「感謝の気持ち」
「な、なんか……ズルいなぁ……」
千花はむっとしながらも、どこか嬉しそうに頬を染める。
「……まあ、こうやって一緒に飯食うのも悪くないな」
「え?」
「落ち着くっていうか……千花ちゃん、なんか家族っぽいんだよな」
田鶴屋の何気ない言葉に、千花の心臓が跳ねる。
「……か、家族?」
「うん。小言言いながらも、ちゃんと世話してくれる感じが」
「……っ」
千花は手元のハンバーガーをぎゅっと握る。
(なんで……そんなことサラッと言うかなぁ……)
不満そうに頬を膨らませつつ、千花は田鶴屋をじっと見つめる。
「……だったら、もうちょっと私の言うこと聞いてくれてもいいと思うんですけど?」
「え? なんで?」
「だって私、田鶴屋さんの家族なんでしょ?」
「……あ」
田鶴屋は千花の言葉に気づき、一瞬固まる。
千花はそれを見て、ニヤリと笑った。
「じゃあ、私の言うことちゃんと聞いて、今日はもう帰りましょ! ほらほら、帰る準備して!」
「……千花ちゃん、今のはずるいだろ」
「えー? 何がですかー?」
千花はとぼけた顔をしながら、田鶴屋の腕を軽く引っ張る。
「あらあら!あらららら!もう夜ですよ! 仕事の亡霊になる前に、お家帰りましょう!」
「……はいはい」
田鶴屋は苦笑しながら、渋々パソコンを閉じる。
千花の手は温かくて、心なしか力強い。
(こいつには、ほんと敵わねぇな……)
そんなことを思いながら、田鶴屋は千花と並んで、ゆっくりと店を出た。
***
サロンを出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。
「うわっ、夜ってこんな寒かったっけ? まだ冬って感じしますね」
千花は両腕をさすりながら、歩くペースを少し速める。
「まあ、もうすぐ春だからな。昼は暖かいけど、夜はまだ冷える」
田鶴屋はコーヒーのカップを片手に、歩幅を合わせながら隣を歩いていた。
「桜とか咲いたら、みーんなでお花見行きたいなぁ。田鶴屋さんも、たまにはそういうの行きません?」
「花見か……まあ、店の予定次第だな」
「絶対『忙しいから無理』とか言うじゃないですかー。新人の子とか誘えば、歓迎会も兼ねられるし、いいと思うんですけどね」
千花は何気なく言ったつもりだったが、田鶴屋は少しだけ考えるように視線を前へ向けた。
「……そうだな。新人といえば、今年は二人入るぞ」
「えっ、新人二人ですか!? どんな子ですか?」
千花が興味津々に目を輝かせると、田鶴屋はコーヒーを一口飲んでから答える。
「二人とも美容学校を卒業したばかりの子。どっちも美容師としてはこれからって感じの新人だな」
「へぇー、フレッシュですねぇ。ってことは、また教育係が必要になりそうですね」
「まあ、そうなるな」
田鶴屋は当たり前のように言うが、千花は「また仕事増えるじゃないですか!」とツッコミを入れずにはいられなかった。
「田鶴屋さん、絶対自分が教育係する気でしょ? だーめ!だめですからね!ちゃんと役割分担しましょ!」
「もちろん、俺だけで見るわけじゃない。千花ちゃんや河北さんにも任せるつもりだよ」
「それならいいですけど……でも、新人二人かぁ。ちゃんと馴染めるかなぁ」
千花はふと、先日入ったばかりの詩音のことを思い出す。
「そういえば、詩音ちゃんはどうですか? 仕事、慣れてきた感じあります?」
「それがな……」
田鶴屋は少し歩調を落とし、空を見上げる。
「まだ完全には馴染めてない感じがある。明るい性格だから表には出さないけど、今日なんかは細かいところで緊張してるのがわかったよ。」
「そっかぁ……詩音ちゃん、意外と頑張り屋さんなんですね」
「そうだな。仕事に対しても真剣だし、努力する姿勢もある。ただ、人間関係がちょっと下手だなぁとは感じるよ。」
(……んー、やっぱり美菜先輩と瀬良先輩と揉めたかな?)
田鶴屋の言葉に、千花は小さく頷いた。
「うーん、詩音ちゃんに限らず、新人さんって最初はみんなそうなりますよね。周りと馴染みたいって思うほど、逆に気を張っちゃって疲れちゃうんですよねぇ……。」
「そうなんだよな。だからこそ、新しく入る二人とどう絡ませるかが大事になってくる」
「なるほど……でも、新人同士がいると『私だけじゃない』って思えて、ちょっと気が楽になったりするかも?」
「そうだな。東谷さんにとっても、いい刺激になるといいんだが」
田鶴屋の目はどこまでも冷静で、淡々と未来を見据えていた。
千花は、そんな彼の横顔をちらりと盗み見る。
(田鶴屋さんって、ほんと仕事のことばっか考えてるんだよなぁ……)
愚痴を言うわけでもなく、不満をこぼすわけでもなく、ただ淡々と、どうすれば新人が馴染みやすくなるか、どうやってサロンの環境を良くするかを考え続ける。
(こういうところが、やっぱり店長なんだよなぁ)
千花はほんの少しだけ、彼の歩幅に自分の足を合わせる。
「でも、田鶴屋さんってこういう時、全然弱音吐かないですよね」
「ん?」
「いや、普通だったら『新人の教育大変だな~』とか、『また忙しくなるな~』とか言ってもいいのに、田鶴屋さんっていつも『どうするか』しか考えてないじゃないですか」
田鶴屋は苦笑しながら、ポケットに手を突っ込む。
「弱音吐いたら、千花ちゃんが説教してくるだろ?」
「え、私そんな怖いです?」
「めちゃくちゃ怖い」
「もー!!!」
「ほぉら!ぷくぷく千花ちゃんだー!」
千花はぷくっと頬を膨らませるが、その目はどこか楽しげだった。
「でもさ、別に弱音吐いてもいいと思うんですよ? 田鶴屋さんだって人間なんだから、たまには『大変だー!』って言ってもいいんですよ?」
「……そうかもね」
田鶴屋は少しだけ考えるように目を細めたが、すぐに小さく笑う。
田鶴屋が弱音を吐ける場所……本当は全てを預けて甘えてみたかった女の子の隣、そこには今はもう別の人が座ってしまった。
しかしそれが田鶴屋を苦しめる事は無かった。
「でも、俺は弱音を吐くよりも、どうすれば上手く回るかを考える方が好きなんだよ」
「……もう、ほんとに仕事バカなんだから」
千花は呆れたようにため息をつくが、同時に少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
「でも、まぁ……そういう田鶴屋さんだから、みんなついてくるんですけどね」
「……ありがとな」
「おっ、素直にお礼言いましたね? これは雪でも降るかなー?」
「春なのに降るかよ」
「あははっ、たしかに!」
そんな他愛のないやりとりをしながら、二人は並んで夜道を歩いていく。
春はもうすぐそこまで来ていた。
そして、それと同時に、新しい風もまた、彼らのもとへと吹き込もうとしていた。




