Episode119
瀬良の家から近めの居酒屋の前。暖簾をくぐった瀬良は、すぐに店内の奥に視線を向けた。
(あの人……こうなるの分かって近くで飲んだな…)
従業員が案内した個室には、美菜がぐったりと突っ伏している。その横で、田鶴屋が苦笑しながらグラスを傾けていた。
瀬良が近づくと、田鶴屋は軽く片手を挙げて「おつかれ」といつも通りの調子で言った。
「ご迷惑おかけしました」
瀬良は美菜の隣に立ち、田鶴屋に深く頭を下げた。
「いや、迷惑どころか、河北さんを酔いつぶしたの俺だから」
田鶴屋は肩をすくめてから、美菜の寝顔をちらりと見やる。顔を赤らめて無防備に眠る彼女は、どこか幼く見えた。
「……もう少しだけ甘えさせてあげなよ」
田鶴屋の声は、いつもの軽やかなものではなかった。どこか切なく、少しだけ苦さを含んでいる。
瀬良は無意識に拳を握る。言葉がすぐには出てこなかった。
「……」
田鶴屋はそんな瀬良の沈黙を受け入れるように微笑んだ。
「俺も店長として、サロン内、もうちょっと気をつけて見てまわるよ」
冗談めかした言い方だったが、その目の奥には、いくつもの記憶が去来しているような色が滲んでいた。美菜がどんなふうに日々を過ごし、何を抱えていたのか。仕事中の彼女の様子を見てきた田鶴屋は、きっとわかっていたのだろう。
瀬良は目を伏せ、静かに息を吐く。
「……田鶴屋さん、本当に感謝してますよ」
「ん?」
「田鶴屋さんと働けてること」
田鶴屋は目を瞬かせたあと、ふっと笑った。
「おまえ、河北さんと同じこと言うんだな」
「そうなんですか?」
「うん、やっぱ似てるよ、おまえら」
田鶴屋はそう言うと、事前に準備していた数枚の紙幣を瀬良の手に押し込んだ。
「はいこれ、タクシー代だから」
「いや、いらないですよ!大丈夫です!」
「いいからいいから〜!それで河北さんを瀬良くんの家で今日泊めてあげて〜。俺もさっさと帰るし、はい!今日はかいさーーん!」
瀬良が返そうとするより早く、田鶴屋は立ち上がった。そして、美菜の髪をひとつ撫でてから、振り返らずに店を出ていった。
残された瀬良は、美菜の寝顔を見つめる。
「……やっぱり我慢させてたよな。ごめん、美菜」
微かに息を吐き、瀬良は表に待たせているタクシーまでおぶっていった。
***
「……な、み……な、美菜」
「……あれぇ?瀬良くん?」
遠くの方から瀬良の声が聞こえる。少しだけ重い瞼を開けると横になった瀬良がいた。自分がいたのはたしか居酒屋だったはず。田鶴屋はどこに行ったのか。何も分からないまま、ふにゃふにゃと笑う美菜。
「瀬良くんがいる……?まあいいかぁ」
夢を見ているのだろうか。
自分が今日一番近くにいたかった人が今一番近くにいる。
「美菜、我慢させてたんだろ?ごめんね」
瀬良が美菜を強く抱きしめる。
シーツの擦れる音が美菜の耳にも聞こえ、自分はやはり夢をベッドでみているのかと思う。
「我慢……?我慢なんてできれないよ。瀬良くんと東谷さんが距離が近くて……不安で嫉妬して、幼稚なの。私はぁ……心の狭い女でしゅ……」
ろれつが回ってないのも分からないまま、美菜は自分の気持ちを少しずつ瀬良にぶつける。
瀬良の背中に手を回し、美菜は目を瞑って夢の中の瀬良に伝えた。
「やらよぉ……瀬良くんは私のだもん……」
「うん……」
「私だけがあんなに近くていいの……!瀬良くんはかっこよくてモテちゃうからぁ……」
「うん、美菜だけだよ」
「し、信じてるって思ってりゅのに、何も信じきれてない自分がきらい……」
「大丈夫、そう不安にさせたのは俺も美菜を理解したつもりでいたんだ。話さなくても大丈夫って。でもちゃんと言葉で説明して伝えておけば良かったな。」
「瀬良くんは悪くないの……私が……瀬良くんを……」
瀬良は美菜の頭を何度も優しく撫でながら美菜を落ち着かせる。美菜は少し目に涙をためながら瀬良にまわした手を強めた。
「瀬良くん……だいすきなの」
「俺もだよ」
「東谷さんとのあの距離感……私、やなの。わがままでごめん……」
「美菜がそう思うならそうなんだろ。間違ってない。俺も嫌な気持ちにさせたんだ、ごめん。」
「瀬良くんは謝らないでぇ……」
美菜のぐちゃぐちゃになった感情を受け取りながら、瀬良は美菜に口付けた。
美菜は嫌がることなく、むしろ求めるように応えた。
「俺は美菜だけだよ。美菜しかみてない」
「……ツッ」
見つめる距離は近い。
抱きしめるお互い鼓動を感じる。
「………………瀬良くん」
「………………美菜、まさか」
「……ぎもぢわるい……吐く……」
「だよな!?」
瀬良は美菜を急いでトイレに運び込んだ。




