Episode118
「おーい、河北さーん?」
田鶴屋は何度か呼びかけたが、美菜から返事はなかった。
頬を軽くつついても、肩を揺らしても、まるで反応がない。テーブルに突っ伏したまま、彼女は完全に夢の世界へと落ちていた。
「……飲ませすぎちゃったなぁ」
苦笑しつつも、田鶴屋は美菜の顔を覗き込む。頬はほんのり赤く染まり、長いまつ毛がかすかに震えている。普段はきりっとした美菜も、こうして酔いつぶれてしまうと、まるで無防備な子供のようだった。
「しゃーない……」
そう呟いて、田鶴屋はスマホを取り出す。
——ここは瀬良を呼ぶしかない。
コール音が数回鳴ったところで、電話の向こうから聞き慣れた声がした。
『お疲れ様です』
「あ、おつかれぇ〜。あのさー、瀬良くん……」
田鶴屋が事情を説明するよりも先に、瀬良は淡々と告げた。
『大丈夫ですよ。場所送ってくれたら迎えに行くんで』
その即答ぶりに、田鶴屋は思わず苦笑する。
「……さすがだねぇ」
『すぐ行きますね』
そう言って、瀬良は電話を切った。まるで最初からこうなることを分かっていたかのような、迷いのない返答だった。
田鶴屋は少しだけ感心しながら、美菜の隣に腰を下ろす。瀬良に現在地を送った後、改めて美菜の寝顔を見つめた。
改めて、無防備だ。
「……」
ふと、過去の感情が心の奥底からふわりと浮かび上がる。
——自分が推しているみなみちゃん。
ずっと前に整理したはずの気持ちだった。
美菜とみなみちゃんが同一人物だと気づいた時、最初は動揺した。けれど、それでも彼女を応援しようと思った。彼女が頑張る姿を、ずっと近くで見守りたかった。
ファンとして——いや、それとも親のような気持ちで……
千花とはそんな話をしたことがあった。
(……ちゃんと消した気持ちだったんだけどな)
だというのに、酔いつぶれて無防備に眠る美菜を前にすると、胸の奥がほんの少しだけ、痛んだ。
——美菜には瀬良がいる。
それはもう、どうしようもない事実だ。
二人を応援しようと決めたのは自分なのに、まだこんな感情が残っていたなんて、今日まで気づかなかった。
「……ごめんね、これで本当に最後にするから……」
美菜の柔らかな髪を指先でそっと撫でる。サラサラとした手触りが心地よくて、ほんの少しだけ、名残惜しさを覚えた。
(バカだな、俺)
田鶴屋は自嘲気味に笑う。
それでも、心の奥に秘めていた気持ちを、最後にほんの少しだけ、言葉にしてしまいたくなった。
「……好きだよ、美菜ちゃん」
届かないと分かっている告白だった。
ただの自己満足でしかない呟きだった。
それでも、美菜はもうぐっすりと眠っている。
彼女の夢の中に、この言葉が届くことはない。
それでいい。
それで、いいんだ。
田鶴屋はふっと息を吐き、そっと美菜の髪から手を離した。
まるで、その感情ごと手放すように——。




