Episode117
昼の忙しさがひと段落し、美菜はスタッフルームへと向かった。ほんの数分の休憩。喉も乾いたし、少し座って息を整えたい。
扉を開けると、すでに先客がいた。
「……あ」
詩音はカウンターに腰を掛け、ジュースのストローを唇に当てながら何かを話していた。瀬良はそれを軽く聞き流しているように見えたが、話を聞いているのは分かる。
(まあ、別に……)
恋人とはいえ、瀬良が誰と仲良くしようと美菜が気にすることじゃない。そんなの、当たり前のこと。
そう言い聞かせながら、できるだけ自然な声を出した。
「おつかれさまー。先に休憩してたんだね」
「おつかれ。今日指名多かったけど疲れてないか?」
「大丈夫だよ、ありがとう!」
瀬良は軽く頷き、優しく美菜に微笑む。
美菜はその優しい気持ちに触れ、さっきまでのもやもやした気持ちが少し吹き飛んだ。
詩音はちらりと美菜を見て何か言いたげな、探るような視線をおくる。そのまま何も言わず、美菜が冷蔵庫から飲み物を取り出していると……
カタン、と小さな音がした。
「きゃっ……!」
詩音の小さな悲鳴。
振り返ると、瀬良の膝の上にジュースがこぼれていた。瀬良は少し驚いたように視線を落とし、状況を確認する。
「ご、ごめんなさい!手が滑っちゃって……」
「……っ、あ、ああ」
詩音が焦ったように言いながら、急いで近くのタオルを掴む。詩音は申し訳なさそうに瀬良のズボンの汚れを拭き取った。
(わざと……? いや、そんなこと……)
美菜はほんの一瞬、そんな考えをよぎらせた。でも、詩音の表情は真剣で、あくまで誤ってこぼしてしまったように見える。
瀬良は「気にしなくていい」と言いながら立ち上がろうとしたが——
「でも、ちゃんと拭かないと染みになっちゃうかも……」
詩音がそう言って、手際よく汚れた部分を押さえる。指先が瀬良くんの服に触れ、距離が近づく。その動きはあくまで自然で、でもどこか計算されたような……
(なんか今の私…東谷さんを疑ってばっかだ……。それって失礼だよね……最低だ。実際何も無いんだし……)
美菜は、視線を逸らした。
(なんで、こんな気持ちになるんだろう)
別に、何でもない。何でもないのに。
「……私ドライヤー持ってくるね」
そう言って、二人のそばを離れる。
ほんの少し、胸の奥が痛んでいることに気づかないふりをして。
***
スタッフルームを出て廊下を歩く間も、美菜の心は落ち着かなかった。
(私……心狭いよなぁ)
瀬良は「気にしなくていい」と言ったし、詩音も本当に焦っていたように見えた。だったら、それ以上考えることなんてないはずなのに。
だけど——あの距離の近さを見てしまったら、どうしようもなく心がざわつく。
美菜は深く息を吐き出し、バックルームの棚からドライヤーを取り出した。
(仕事中なのに、私、何してるんだろ)
小さく苦笑しながらスタッフルームへ戻ると、瀬良はすでに席を立っていて、詩音がまだタオルを手に持っていた。
「ごめんね、お待たせ」
そう言って美菜がドライヤーのスイッチを入れると、温風が瀬良のズボンに当たる。
「助かる」
瀬良くんが短く礼を言い、美菜は「うん」とだけ返した。
詩音はそれを横目で見ながら、「本当にごめんなさい」ともう一度謝った。
「まあわざとじゃないんだし、そんなに気にしなくても……ね、瀬良くん」
「ああ、もう気にしないでいいよ」
美菜が安心させるように詩音に笑顔を向けると、詩音は二人を見て嬉しそうに笑い返した。
「……美菜さん、美菜さんも優しいですね」
その言葉に、美菜は一瞬言葉に詰まる。
(優しい……? 私、そんなつもりじゃ……)
詩音の言葉の裏を考えそうになり、慌てて頭を振る。今はそんなことを考える時間じゃない。
ドライヤーを当てながら、さっき感じた胸の奥の痛みを誤魔化すように、美菜は静かに目を伏せた。
***
その後も仕事をこなし……いや、寧ろ雑念を消すように仕事に打ち込んだ1日だった。
(仕事中はカットに打ち込めるからいいな……)
営業が終わり、スタッフたちはそれぞれ帰り支度をしていた。
美菜も片付けを終え、そろそろ帰ろうかと考えていたとき——
「かーわきーたさんっ!」
田鶴屋の声が、背後から聞こえた。
「はい?」
振り返ると、彼は腕を組みながらじっと美菜を見つめていた。
「……今日はちょっとオーバーワークなの分かってる?」
「え?」
「いやいや、“え?” じゃないよ。今日もずっと様子見てたけど、明らかにオーバーワーク気味。指名もフリーも入りすぎてどうしたの?」
そう言われても、美菜自身はそんなつもりはなかった。確かに少し忙しかったけど、いつものことだし、ちゃんとこなせていたはずだ。
「そんなこと……」
「うん、ダメだね。そういうの自覚ないのが一番よくない」
田鶴屋はため息混じりにそう言うと、受付にいた瀬良に向かって声を上げた。
「瀬良くーん!河北さん借りるよー!」
「——は?」
美菜が驚くよりも早く、田鶴屋は問答無用で美菜の荷物を手に取った。
「ちょ、田鶴屋さん?」
「いいから、行くよ。ほら、帰りの支度して」
「えっ、いや、私……」
「ダメ。もう決定事項」
瀬良は一瞬美菜を見たが、田鶴屋の勢いに気圧されたのか、「……まあ、気をつけて」とだけ言った。
それが、美菜が飲みに連れ出されるまでの一部始終だった。
***
「好きなだけ飲みなさい! そしてなんでも話しなさい! 今日の話は他言無用でいこう!!」
威勢のいい声が、居酒屋の個室に響く。
「えぇ……」
美菜は呆れながらも、目の前に並べられた料理とお酒を見て、小さく息をついた。
「田鶴屋さん、こんなに頼んで……」
「いいのいいの。今日は俺のおごりだから!とにかく、飲め」
そう言われて、差し出されたレモンサワーを手に取る。
(……まあ、今日は……いいよね)
そう思って、一気に喉を鳴らした。
「おおっ、飲むねぇ!」
田鶴屋が驚きつつも、自分も負けじとレモンサワーを一気にあおる。
「……っ、ぷはっ! よし、追加注文しよっか!」
「いやいや、そんなに飲んで大丈夫なんですか?」
「河北さんが飲むなら俺も飲むでしょ?」
「えぇ……」
呆れながらも、美菜はじんわりと広がる酔いに身を任せた。
***
お酒が進むにつれて、美菜はようやく口を開いた。
「……私、心が狭いんです」
「ん?」
田鶴屋は手に持っていた唐揚げを口に運びながら、美菜を見た。
「今日……瀬良くんと東谷さんが話してるのを見て、なんか、すごく気になっちゃって……」
「ふむふむ?」
「……そんなの、どうでもいいことなのに。私、いちいち気にするのが嫌で……」
「なるほどねぇ」
田鶴屋は適度に相槌を打ちながら、美菜の言葉を待っている。
「瀬良くんは何も悪くないし、東谷さんだって悪気があったわけじゃない。でも、私……気になってしまう自分が嫌で……」
グラスの中で氷がカランと音を立てる。
「それに、私……なんだかんだ未熟すぎて……」
「未熟?」
「こんなことで悩んでるなんて、子どもみたいじゃないですか」
「いやいや、別にそんなことないでしょ」
田鶴屋は笑いながらレモンサワーを口に運んだ。
「恋人が他の女の子と仲良くしてたら、そりゃ気になるよ。むしろ気にならない方が問題じゃない?」
「……でも」
「でもも何も、気にするのは仕方ないことでしょ。河北さん、今までずっと仕事ばっかで、こういうことで悩むことなかったんじゃない?」
「……」
「恋愛ってさ、理屈じゃ割り切れないもんでしょ」
田鶴屋の言葉は妙に説得力があった。
美菜はグラスの中をじっと見つめ、ぽつりとつぶやく。
「……私、どうしたらいいんでしょう」
「うーん……」
田鶴屋は少し考えたあと、ニッと笑った。
「とりあえず、もう一杯飲む?」
「……飲んだら解決するんですか?」
「しないけど、飲んだら少しは気が楽になるよ」
「……ふふっ」
美菜は苦笑しながら、田鶴屋が追加で注文したレモンサワーを受け取った。
「……じゃあ、もう一杯だけ」
「そうそう、それでいいのよ!」
***
時間が経つにつれて、お酒も料理も進み、二人ともすっかり酔っていた。「もう一杯だけ」を何度か繰り返し、二人はお酒と話が進む。
そして田鶴屋は頬を少しだけ赤くしながら、ぽつりとつぶやいた。
「……まあ、俺だってさ、大変なんだよ」
「え?」
「店長としてさ、スタッフ全員を守りたいけど、みんな好き勝手やっていなくなったりするし」
「……田鶴屋さん」
「俺は別に、辞めるなとか言いたいわけじゃないんだけど……なんつーか、寂しいんだよな」
美菜はしばらく黙っていたが、そっとグラスを置いた。
「……田鶴屋さん、すごくみんなの事想ってくれてますよね」
「……」
「私も、ちゃんと分かってますよ。田鶴屋さんの優しさは伝わってます。田鶴屋さんが店長でよかったです……いつもありがとうございます!」
「河北さぁぁん、いや、みなみちゃぁぁん、やっぱり君は俺の女神だよぉぉ!」
「あはっ、そんな事……、でも私は田鶴屋さんにいつも助けてもらってますよ。今日も……ありがとうございます。だから田鶴屋さんも1人で抱え込みすぎないでくださいね?私や他のスタッフ全員、田鶴屋さんを支えたいと思ってますから。」
田鶴屋は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと笑った。
「そっか」
「はい」
二人は静かにグラスを持ち上げた。
「じゃあ、もう一杯いっとく?」
「……はい、お願いします」
この夜は、きっとお互いにとって、少しだけ肩の力を抜けた時間だった。




