Episode115
翌朝、まだ薄暗い店内。営業前の静かな時間帯に木嶋は詩音を呼び出して、裏手の休憩室に足を踏み入れた。ドアを静かに閉め、詩音を振り返ると、少し躊躇いながら言葉を切り出す。
「昨日、瀬良くんとの距離、ちょっと近かったんじゃないか?」
詩音は驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んで手をひらひらと振った。
「えー、そんなことないですよ。気にしすぎですよ、木嶋さん。」
木嶋は優しくも真剣な目を向け、言葉を続けた。
「でも、気をつけたほうがいいよ。ああ見えて、瀬良くん、誰かに本気で近づかれるのはあまり好きじゃないから。もし、東谷ちゃんが本当に何かを考えてるなら、もうちょっと距離感を大事にしたほうがいいよ。」
詩音は軽く肩をすくめながら、少し楽しげに答えた。
「大丈夫ですって。まだ瀬良くんのこと好きとかじゃないし。ただ、ちょっと気になるだけですよ。そんなに心配しないでください。」
木嶋は眉をひそめ、さらに真剣な表情になった。
「分かってるって言っても、あんなふうに近づくのはちょっと危ないよ。サロンの雰囲気とかも壊しかねないし……。気持ちが本気になる前に、少し冷静になったほうがいい。」
「本当に大丈夫ですよ、木嶋さん。心配してくれてありがとうございます!でも、そんなに気を使わなくてもいいですから。」
詩音は軽く笑って、その場を和ませた。
「いやそうじゃなくて……!」
木嶋は少し不安そうに詩音を見つめる。詩音はもう少し楽しげに「じゃあ、もう準備始めますねー」と軽く手を振ると、そのまま扉を開けて出て行った。
木嶋は一人、詩音の背中を見送りながら心配そうにため息をついた。詩音が本当に大丈夫なのか、まだその心の中にどんな感情が渦巻いているのか、木嶋はわからなかった。
***
「瀬良きゅーーん……言ったのは言ったんだけどぉ、ぜぇーーんぜんひびいてなさそうでぇ……」
「…………」
瀬良の肩にのしかかりながら報告をする。
瀬良はこのなんとも言えないだる絡み感と話を通すと言った木嶋の結果に少し呆れていた。
木嶋は体制を変え、瀬良の肩に頬をつけるようにして少し不満げな顔をしている。言いたいことがあるのに、どこか手応えが感じられない様子で言葉を続けた。
「ねぇ、瀬良くん、どう思う?あの子、全然分かってなさそうなんだよね。少しは気をつけたほうがいいって言ったんだけど、まったく効いてない感じでさ。」
瀬良は無言で、ただ木嶋の頭をちらっと見て、小さなため息をついた。
「まあそんなに心配することないか。東谷さんはまだ何も考えてないって言ってたんだろう?」
木嶋は頬を膨らませて、それでもなお心配そうに言った。
「でもさ、瀬良くん、あの距離感。普通に考えたら、ちょっと危ないと思うんだよね。」
「……まあな」
瀬良は冷静に答える。
「変な事になりそうならその時はその時だ」
木嶋は不安げな顔で瀬良を見上げる。
「でも、もし東谷ちゃんが本気になったらどうすんの?本当に瀬良くんが好きって思ったら、危なくない?」
瀬良は少し考え、そして静かに答えた。
「俺が本気で気をつけるよ。お前が言うように、東谷さんが俺に近づいてきたら、しっかり距離を取るから。」
木嶋はまだ不安そうな表情を崩さない。
「うーん、でも、美菜ちゃんにはちゃんと言っておいたほうがいいんじゃない?美菜ちゃん不安がってたら可哀想じゃん」
瀬良はしばらく黙って考えた後、少し優しげな表情を見せた。
「木嶋、お前が心配してくれるのはわかる。でも、美菜に何か言う必要はない。逆に心配させてもだからな。美菜は俺のことをわかってくれてる。」
木嶋は少し驚いた顔で瀬良を見つめた。
「あ、そうなんだ。信頼度高めぇ!……まあでも瀬良くんからそう言うなら、わかるけど。」
瀬良は「ああ」と短く答え、木嶋の不安を和らげようと少し笑みを浮かべた。
「美菜は俺のこと、ちゃんと信じてくれてる。俺も彼女のこと、大事に思ってるし。」
木嶋はその言葉に少し安心したように息を吐いた。
「そっか。じゃあそっちはもう心配しないでおくよ。」
「そのほうがいい。」
瀬良は冷静に答えながらも、木嶋にもう一度言った。
「美菜のことを守るのは俺の役目だから。」
木嶋はそれに頷き、軽く笑いながら言った。
「わかった、瀬良くん。あんまり心配しても仕方ないか。」
瀬良はその後も木嶋に目を合わせ、少し微笑んだ。
「そうだな。もし東谷さんが本気で俺に近づいてきたら、ちゃんと話すから。」
木嶋は若干まだ心配そうな気持ちを隠しきれないまま、頷いた。
「わかったよ。じゃあ、気をつけてね。」
瀬良はその後、少しだけ真剣な表情を見せながら、木嶋に向かって言った。
「お前も、あまり心配しすぎるな。美菜が俺のことを信じてくれてるってことは、ちゃんとわかってるから。」
木嶋は少し照れくさそうに笑った。
「あー、わかった!分かったから!惚気けおなかいっぱいだから!!じゃ、頼んだよ、瀬良くん!」
その言葉に、瀬良は軽く頷き、二人の会話は自然と終わりを迎えた。木嶋は少し気が楽にはなったが、心の中で未だに詩音のことが気になっていた。
***
営業中、今日の美菜はひっきりなしに指名のお客様を担当していた。
特に美菜への指名が集中していて、千花をはじめ、何人ものアシスタントがサポートに入っている。それでもすべてを回しきるのは難しく、店内は慌ただしく動いていた。
「では、シャンプーから始めますので、少々お待ちください」
カウンセリングを終えた美菜がそう伝えると、すでに千花がスタンバイしていた。
「アシスタントの伊賀上です。シャンプーを担当いたします。よろしくお願いします」
千花の丁寧な挨拶に、お客様も穏やかに頷く。
美菜と千花のコンビはかなり息が合っている。いちいち細かい指示を出さなくても、千花は美菜の動きを先回りしてフォローしてくれる。そのおかげで美菜も流れを止めることなく施術に集中できるのだった。
一方で、別のアシスタントがシャンプーを終えたお客様を席へと案内していた。美菜はすぐにそちらへ向かい、軽く挨拶を済ませてカットに入る。
(うん、いい感じ。こういう忙しさなら、むしろ楽しい)
指名が多い日は確かに大変だけど、それ以上にやりがいがある。
——ただ、問題はアシスタントの数だった。
どれだけフォローがあっても、アシスタントの数には限りがある。もちろん、美菜だけがアシスタントを独占できるわけじゃない。他のスタイリストだってサポートを必要としているし、無理を言うわけにもいかない。
(あの席のお客様、ちょっと待たせちゃうかも……。ドリンク、持っていきたいな……)
ふと視線を向けると、まだドリンクを提供できていないお客様がいた。でも、今のタイミングではさすがに動けない。
どうしようかと考えていたそのとき——
「失礼します。お待たせしてしまい申し訳ございません。もう少々お待ちください。よろしければお飲み物いかがですか?」
さりげなく、しかし確実にその場をフォローするように、瀬良がドリンクを聞きに行っていた。
(……気づいてくれたんだ)
美菜はカットを続けながら、心の中でひそかに感謝した。
***
一通りの指名が落ち着いたころ、美菜はカラー剤を作っている瀬良のもとへ向かった。
「さっきはありがとね。助かったよ」
瀬良は手を止めることなく、ちらりと美菜を一瞥する。
「ちょうど手が空いたタイミングだっただけだ。気にするな」
言葉はそっけないけれど、彼がサロン全体を見て行動しているのは知っている。自分の担当客だけじゃなく、必要とあれば自然に手を貸す。それが瀬良の仕事の仕方だった。
「手空いたから、そのカラー、一緒に塗るよ!」
「ならお願いしようかな」
ちょうど美菜も一息つける時間ができたので、一緒にカラーを塗ることにする。
——しかし、そのときだった。
「あ!それ、私やりますよー!」
明るい声とともに、詩音がひょいっと背後から現れた。
「私、今ちょうど手が空いてるので!」
そう言うや否や、詩音は美菜の手から当然のようにカラーのボウルを手に取った。
(……別に、私が塗ってもよかったのに)
ほんの少し、モヤモヤとした感情が胸の奥に残る。だが、ここで変に張り合うのも面倒だった。
「……じゃぁ、お願いしようかな」
短くそう告げて、美菜はその場を離れる。
「はーい!瀬良さん!お客さん待たせてますし先に私塗ってますね!」
瀬良は何か言いたげに詩音を見たが、美菜がすぐに去ったため、それ以上は何も言わなかった。詩音に急かされるように、黙って施術に戻る。
その様子を横目に見ながら、美菜は小さく息を吐いた。
(……なんだろう、この感じ)
仕事中に余計なことを考えても仕方がない。そう思いながらも、心の奥にわずかに残る違和感を拭いきれないまま、美菜は別のスタイリストを手伝う事にした。




