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Episode106



朝の慌ただしさが少し落ち着いた頃、美菜たちは店へ戻ってきた。営業前の準備を進めるスタッフたちが、それぞれの持ち場で忙しく動いている。


瀬良はロッカールームへと足を向け、そこで材料係の津田 日和(つだ ひより)を見つけた。彼は瀬良と美菜の一つ下の後輩だ。スタイリストではあるがあまり入客が得意ではないようで、ヘッドスパやシャンプーなどのアシスタント業務の方を率先してしている。


丁度備品のチェックをしている最中だったらしく、手元のタブレットを操作しながら、在庫の確認をしている。


「津田さん」


瀬良が短く声をかけると、津田は顔を上げた。真面目な性格が表れた落ち着いた表情で、軽く頷く。


「何でしょうか?」


「ロッカーの鍵って、スペアは誰が持ってる?」


唐突な質問にも関わらず、津田は特に怪訝な顔をすることもなく、淡々と答えた。


「店長と俺と星乃です。材料を補充したりするのに使うので」


「なるほど」


「何か?」


「いや、ちょっと確認したかっただけ」


瀬良はそれ以上は踏み込まず、軽く頷いて会話を終えた。



***



一方、美菜はフロント近くで星乃 朱里(ほしの あかり)に話しかけていた。彼女は美菜と瀬良の先輩スタイリストで、面倒見の良い後輩想いの先輩だ。特に“美人”という言葉を当てはめるとしっくりくる容姿をしており、男性の顧客からの指名率が高い人だ。


星乃は受付のチェックを終えたところで、長い髪を指で梳きながら美菜に視線を向ける。


「星乃さん、お疲れ様です。あの、ちょっと聞いても大丈夫ですか?」


「うん?大丈夫だよ。何?」


「ロッカーの鍵のことなんですけど……材料係がスペアを持ってるって聞いて」


「ああ、そうだよ。私と津田くんで管理してるの。普段は津田くんが持ってるけど、お休みのときは私が預かることもあるよ」


「そうなんですね。どっちが持ってるかって、スタッフみんな知ってる感じですか?」


「んー、知ってる人もいるとは思うけど、意識してる人はあまりいないかも。鍵が必要なら私たちに言えばいいだけだし」


星乃はさらりとした口調で言いながら、軽く微笑んだ。


「ですねー…。なるほど、ありがとうございます!」


「どういたしまして」


美菜は星乃の言葉を頭の中で整理しながら、その場を離れた。



***



瀬良と合流すると、彼は小さく頷いた。


「特に不審な点はなさそうだな」


「うん。でも、知ってる人は限られるってことね」


二人は静かに視線を交わしながら、営業開始前の店内は少しずつ活気づいていた。


瀬良と美菜は、それぞれ津田と星乃に話を聞き、ロッカーの鍵の管理について確認を終えた。大きな違和感はなかったが、知っている人が限られているという点は気になる。


二人がフロント近くで合流すると、そこへ田鶴屋が近づいてきた。


「……とりあえず、今日は注意深く見てみよう。気になったことがあれば、営業後にまた話す」


低い声でそう言いながら、田鶴屋はちらりと周囲を見渡した。ここではあまり長く話せない。美菜と瀬良は軽く頷き、それぞれの持ち場へと向かった。


そして、営業が始まった。



***



営業中、美菜は意識的にスタッフの動きを観察していた。


津田はいつも通りの真面目な仕事ぶりだった。スタイリストではあるものの、アシスタント業務を率先してこなすため、ロッカールームに出入りする機会も多い。顧客対応の合間に在庫チェックをしている姿も何度か見かけた。彼の仕事ぶりに不審な点は感じられなかった。


一方の星乃も、普段と変わらない様子だった。指名の多い彼女は、終始忙しそうに動き回っていたが、合間に材料係の仕事もこなしていた。ロッカーを開ける姿も見たが、それは単に届いた荷物を整理するためだったように見える。


美菜はカットの合間にさりげなく様子をうかがいながら、それぞれの行動を頭の中で整理していった。


一方、木嶋は普段と変わらない明るいテンションを保っていた。


「おっ、お兄さんイメチェンですね! めちゃくちゃいい感じですよ!」


「いやー、こんなに仕上がりよくしてもらえるとは!」


「でしょー? 俺、結構いい仕事できるんですよ! まぁ、でもお兄さん元がいいからですよ!」


冗談めかした口調で客と会話しながら、確実に仕上げていく。その接客ぶりは、いつもの木嶋そのものだった。


だが、美菜は気づいていた。


彼の笑顔には、どこか無理がある。テンションこそ高いが、ほんの僅かに空回りしているように感じた。


(……やっぱり無理はしてるよね。でもさすが木嶋さん)


心の中でそう思う。どんな状況でも、プロとしてお客様には不安を悟らせない。自然な会話と巧みな技術で、いつも通りの自分を演じ切っている。そこに美菜は、木嶋のプロ意識の高さを改めて実感した。



***



営業後——。


閉店作業が終わると、田鶴屋の呼びかけで美菜、瀬良、木嶋の三人がフロントの奥へと集まった。


「どうだった?」


田鶴屋の問いに、それぞれが報告をする。


「津田さんも星乃さんも、特に怪しい動きはなかったと思う」


「俺も同じ意見だ。鍵の管理は徹底されているように見えた」


「そっすね……他のスタッフの動きも見てたけど、怪しい奴はいなかったような……」


木嶋が言葉を濁しながら、少し考え込む。


「つまり、今のところ手がかりなし、ってことか」


田鶴屋は腕を組んで考え込んだ。


「まぁ、今日一日で何かわかるとは思ってなかったけどな。引き続き様子を見て、何か気づいたらまた報告してくれ」


そう言って話を締めようとしたとき、美菜はふと木嶋の様子を見た。


営業スイッチが切れたのか、彼の表情には明らかな疲れが滲んでいた。普段の明るさはあるものの、どこか辛そうな雰囲気が漂っている。


(木嶋さん大丈夫…じゃないよね)


誰が、何のためにそんなことをしたのかはまだ分からない。

だが、このまま放っておくわけにはいかない。


「……木嶋さん、大丈夫だよ。絶対解決するから!私たちは味方だよ!」


ふと、美菜はそう声をかけた。


木嶋は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐにいつもの調子を取り戻し、「おー、ありがと! 美菜ちゃん!」と、少し無理をした笑顔を見せた。


その表情を見ながら、美菜は心の中で誓った。


——必ず、真実を突き止める。



***



それぞれが報告を終え、一旦解散しようとしたときだった。

ロッカールームで帰り支度をしていた木嶋が、自分のロッカーを開けて、ふと動きを止めた。


「……っ」


微かに息をのむ音がした。


美菜と瀬良、田鶴屋も、何か異変を察して彼の方を見る。

木嶋の手には、一枚の紙が握られていた。


白いコピー用紙に、大きく印刷された文字——。


『お前は要らない』

『会社辞めろ』


目にした瞬間、美菜の心がぎゅっと締めつけられる。


「……なんだよ、これ」


田鶴屋の低い声がロッカールームに響く。

瀬良が眉をひそめた瞬間、木嶋はその紙を急いで握りつぶした。


「っ、何でもないっす! こんなの気にしないで——」


「渡せ」


瀬良が鋭く言い放つ。


木嶋は一瞬躊躇ったが、次の瞬間、瀬良は強引に木嶋の手を取って、丸められた紙を奪い取った。


「おい、瀬良くん……!」


木嶋が困ったように笑いながらも、さすがに押し切れず、瀬良はその紙を広げて文字を確認する。


その目が、明らかに険しくなった。


「……クソが」


低く絞り出すような声だった。


美菜が瀬良の横から覗き込むと、そこには間違いなく、あの悪意に満ちた言葉が書かれていた。

田鶴屋もそれを確認し、深くため息をつく。


「確実に悪意のある行為だな……こんなの、ただの嫌がらせじゃ済まされない」


「……いや、でも、もしかしたら冗談で——」


「冗談でこんなことするかよ」


瀬良の声が鋭い。


普段冷静な彼が、明らかに苛立っているのがわかった。


美菜は、怒りよりも、ただただ悲しくなった。


(木嶋さん、こんなことされる理由なんてないのに……)


確かに彼はこの店に来てまだ日が浅い。

けれど、前の店からの指名客も多く、ここでも新規の指名がどんどん増えている。

それでも彼は決して奢ることなく、周囲に気を配りながら、真剣に仕事に取り組んでいた。


何より——彼は、お客様を大切にしている。

おちゃらけながらも、その根本には誠実さがあると、美菜は知っている。

まだ長い付き合いではないけれど、それだけは分かっているつもりだった。


それなのに——。


気づけば、美菜の頬を涙が伝っていた。


「……っ、美菜?」


瀬良が驚いたように顔を覗き込む。


田鶴屋も木嶋も、一瞬言葉を失った。


「……っひどいよ、こんなの……」


自分でも驚くほど、声が震えていた。


「木嶋さん、すごく頑張ってるのに……お客様にも、スタッフにも気を遣って……それなのに……っ、こんなことするなんて……」


悔しさがこみ上げる。

木嶋くんは、ただ一生懸命仕事をしていただけなのに。


「……美菜ちゃん……」


木嶋が、少し驚いたような、申し訳なさそうな表情を浮かべる。


「……っ、ごめんね……俺のことで、そんなに……泣かせちゃって……」


「違う……っ、木嶋さんが謝ることじゃないよ……!」


美菜が涙を拭おうとするが、止まらなかった。


「……美菜」


瀬良がそっと肩に手を置く。


田鶴屋は腕を組みながら、深く息をついた。


「……とにかく、こんなことをする奴は、絶対に許さない。店長としても、これは見過ごせない問題だ」


「……ですね」


瀬良も低く頷く。


木嶋はそんな二人を見ながら、しばらく沈黙したあと——

ふっと、力を抜いたように微笑んだ。


「……いやー、俺ってば、こんなに想ってくれる人がいるとか……めちゃくちゃ幸せ者っすね?」


美菜の涙を拭うように、ひょうきんな調子で言う。


「本当にありがと、美菜ちゃん。マジで嬉しいっすわ」


そう言って、空気を変えるように、ふいに冗談めかした口調で——


「……瀬良くんの彼女じゃなかったら、落ちてたわー!」


にっと笑いながら言った。


「は?」


瀬良の眉がわずかに動く。


「だってさー、美菜ちゃん、可愛いし優しいし、こんなに俺のこと思ってくれるとか、惚れるでしょ普通! まじ瀬良くん、いい彼女持ったねー!」


軽く肩をすくめて笑う木嶋に、美菜は「ちょっ……」と顔を赤くする。


すると——。


「……まあな」


瀬良が、当然のように言った。


「っ!?」


美菜は一瞬、頭が真っ白になった。


「美菜は、俺の自慢だから」


さらっとした口調で言いながら、瀬良は美菜の頭をぽんっと軽く叩く。


「……瀬良くん……」


木嶋が「うわー、惚気かよー!」と笑いながら茶化すが、美菜は恥ずかしさのあまり顔を伏せた。


(……も、もう、瀬良くん……!)


その後、田鶴屋が「はいはい、解散!」と場を締めて、ようやくその場は落ち着いた。


けれど、美菜の胸の奥にはまだ小さな炎のようなものが燃えていた。


(……絶対に許さない。こんなことする人)


木嶋の笑顔を、曇らせないために。


美菜は、そっと拳を握った。


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