表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
106/227

Episode105



朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中をぼんやりと照らしていた。


美菜はゆっくりとまぶたを開く。柔らかな毛布の温もりと、すぐそばで感じる体温に意識が引き戻される。


(……あ)


昨夜のことを思い出し、軽く瞬きをする。瀬良の腕の中で目覚めるのは初めてで、なんとも言えない安心感と少しの恥ずかしさが胸を満たした。


「……おはよ」


静かな声が耳元で響く。瀬良もすでに目を覚ましていたようで、美菜を見下ろしていた。


「おはよう……」


美菜が小さく返すと、瀬良はゆっくりと腕を解いた。


「そろそろ起きて準備しないと遅刻するぞ」


「うん……」


まだ少し夢見心地のまま、美菜はベッドから起き上がった。



***



「今日も練習するよね?」


出勤準備をしながら美菜が提案すると、瀬良は頷いた。


「うん。練習しないと落ち着かないし」


「じゃあ、早めに出よっか」


朝の静かな街を歩きながら、二人はサロンへと向かった。


(……瀬良くん、いつもこんな早い時間から練習してたんだ)


改めて瀬良のストイックさに感心する美菜だった。



***



店のシャッターを開け、鍵をかける。誰もいないサロンの空気はひんやりと静かで、二人の足音が心地よく響いた。


それぞれウィッグをセットし、準備を整える。特に言葉は交わさず、ただ淡々とカットの練習に集中する。


ハサミのリズム、髪を梳く音、わずかな息遣い。二人の間にあるのは、その音だけだった。


瀬良は無駄のない手つきで、ウィッグの髪を切り進めていく。美菜もまた、自分の技術と向き合いながら、慎重にハサミを動かす。


数十分が過ぎたころ、瀬良がふと手を止め、美菜の様子を見た。


「……ここ、重すぎる」


そう言って、美菜のウィッグの後頭部を指差す。


「え? でも、シルエット的には——」


「見ろ。トップの長さと繋がってない。ここに重さが溜まって、全体のバランスが崩れてる」


瀬良はコームでその部分を軽く持ち上げながら、説明する。


「レイヤーを入れるなら、こっちをもう少し馴染ませたほうがいい」


「なるほど……」


美菜は指摘された部分をもう一度確認し、納得したように頷いた。


「こう……かな?」


慎重にハサミを入れ、調整を加える。


「そう。それで、こっちも少しだけ梳いてやると、さらに馴染む」


瀬良が横から手を伸ばし、美菜のハサミを持つ手に軽く触れる。その感覚に少し緊張しながらも、美菜は彼の動きをじっと見つめた。


瀬良はほんの数ミリ単位で髪を切り、最後に指先で毛流れを確認する。


「これで完成形に近づいた」


「……すごい、全然違う」


美菜は驚きながらウィッグの全体を眺めた。ほんの少しの違いで、全体の印象が変わる。


「瀬良くん、やっぱりすごいな……」


「お前だって悪くない。ただ、細かい調整がまだ甘い」


「うん……もっと練習する」


美菜は新たにウィッグをセットし、もう一度カットを始めた。

瀬良も黙って隣で手を動かし続ける。


お互いの技術を高め合うように、ただひたすらに。



***



気づけば、店内に朝の光が差し込み始めていた。

練習を終えた二人は、ふぅ、と息をつきながらハサミを置く。


「……やっぱり朝から練習するの、いいね!」


美菜が軽く笑うと、瀬良もわずかに口元を緩めた。


「だよな」


そう言って、美菜のカットしたウィッグをもう一度見つめる。


「さっきより、だいぶ良くなった」


「本当?」


「美菜は上手だと思うよ」


瀬良の言葉に、美菜の胸がじんわりと温かくなる。


「……うん、ありがとう。頑張る!」


こうして、二人の一日は静かに、そして確かに始まった。

言葉は少なくても、お互いを高め合える関係。

それが何よりも心地よかった。



***



スタッフが次々と出勤してくる時間になり、サロンの中に少しずつ活気が戻ってきた。


「おはようございまーす!」


元気な声とともに扉が開き、スタッフたちが入ってくる。その中に、いつもと雰囲気の違う木嶋がいた。


「……おはよー」


いつもなら軽快な調子で挨拶をする彼が、今日は妙に静かだった。テンションが低く、どこか思い詰めたような表情をしている。


美菜はふと手を止め、木嶋を見た。


「木嶋さん?」


声をかけると、木嶋はゆっくりと顔を上げたが、すぐに目をそらしてしまう。


「……ああ、おはよう、美菜ちゃん」


無理に笑おうとしているのがわかる。彼の明るさが作られたものであることに、美菜はすぐ気づいた。

瀬良も黙ったまま木嶋を見ていたが、やがて静かに口を開いた。


「どうした?」


単刀直入な問いかけだったが、瀬良の言葉には強い詮索の意図はなく、ただ純粋に木嶋を気にかけているのがわかった。


「あ……」


木嶋は一瞬驚いたように目を瞬かせるが、すぐに表情を曇らせた。


「……いや、なんでもねぇよ!」


そう言って無理に笑おうとするが、その笑顔はぎこちない。


美菜は瀬良と目を合わせ、再び木嶋に向き直った。


「木嶋さん、何かあったなら話してくれないかな? いつもと違うから……気になるよ」


彼女の優しい声に、木嶋の肩がわずかに揺れた。そのまま黙り込むかと思われたその時——


「おっはよー! いやぁ、朝からしんみりしてるなぁ!」


店の扉が勢いよく開き、田鶴屋が軽快な足取りで入ってきた。


「……店長」


木嶋が小さく呟く。


田鶴屋は状況を察したのか、ちらりと木嶋の表情を見てから、おどけたように手を叩いた。


「よし、朝のコーヒータイムでも行くとしよう! どうせまだ開店準備の時間だしな!」


突然の提案に、美菜は一瞬驚いたが、すぐに田鶴屋の意図を理解した。


(きっと、空気を変えようとしてくれてるんだ……)


「いいですね、それ!」


美菜が賛同すると、瀬良も黙って頷いた。


「ほら、木嶋も行くぞ! たまには甘いのでも飲んで、元気チャージしとけ!」


田鶴屋が木嶋の肩を軽く叩く。木嶋は少し驚いたような顔をしたが、やがてふっと表情を緩めた。


「……店長ありがとうございます、2人も…ありがとう」



***



開店時間が早い、いつものコーヒー屋に入ると、まだ朝の静けさが店内に残っていた。カウンターの奥では店員が慣れた手つきでエスプレッソマシンを扱い、ほのかに漂うコーヒーの香りが心を落ち着かせる。


「お好きな席へどうぞー」


店員の声を背に、四人は窓際のテーブルへと向かった。


「何にする?」


田鶴屋がメニューを手に取りながら訊ねると、美菜はカフェラテ、瀬良はブラック、木嶋はカフェモカを選んだ。田鶴屋はカフェインを避けるようにホットミルクを注文し、注文を済ませると、ふと木嶋を見た。


「で? お前、なんかあったんだろ?」


真っ直ぐな問いかけに、美菜と瀬良も木嶋を見つめる。木嶋は少し俯き、テーブルの端を指でなぞりながら、ゆっくりと口を開いた。


「……実はさ、この頃、俺の仕事道具が無くなってるんだよ」


その言葉に、美菜と瀬良は目を見開いた。


「仕事道具って……」


「最初は、ダッカールとかコームとか、小さいものだった。まあ、よくあることだし、最初は気にしてなかったんだけど……」


木嶋は手を握りしめ、深いため息をつく。


「昨日、営業後に気づいたんだ。鍵のついた俺のロッカーに入れてたハサミまで無くなってた」


「……ロッカーの中?」


美菜が思わず聞き返す。コームやダッカールなら、カット中にどこかに置き忘れることもある。しかし、ロッカーの中にしまっていたハサミまでとなると話は違う。


「それって……誰かが鍵を開けたってこと?」


瀬良が低い声で問いかけると、木嶋は小さく頷いた。


「俺のロッカー、鍵はちゃんとかけてた。でも、昨日の夜、帰る前に確認したら、鍵は開いてて……ハサミだけが無くなってた」


「木嶋くん、鍵を落としたり、誰かに貸したりしたことは?」


田鶴屋が慎重に訊ねる。


「ないです。鍵はずっと持ってたし、そもそも俺以外に開ける理由がある人なんていないだろうし…」


木嶋の声には、怒りというよりも困惑と落胆がにじんでいた。彼は自分の仕事道具を大切にしている。それを誰かに持ち去られることが、どれほどショックだったかが伝わってくる。


「昨日の営業後ってことは、俺たちは店にいなかったから……」


美菜は自分と瀬良の休日を思い出しながら言葉を継ぐ。


「そう、だからお前たちのことは疑ってないよ。店長だって、そんなことをするはずがないし……」


「じゃあ、残るスタッフの誰かが?」


瀬良の言葉に、木嶋は沈黙する。


「……そうなるよな」


コーヒーが運ばれてきても、誰も手をつけようとしなかった。


「何か、心当たりはあるのか?」


田鶴屋が改めて問いかける。


「……正直、わからない。でも、最近妙に視線を感じることが多くて……。あと、俺の仕事の邪魔をされてる気がするんだ」


「邪魔?」


美菜が眉をひそめる。


「例えば、カットの途中で置いてたハサミが無くなったり、準備してたカラー剤が違うものにすり替えられてたり……。気のせいかと思ってたけど、こうも続くとさすがに……」


「それ、完全に嫌がらせじゃねえか」


田鶴屋が苛立たしげにテーブルを軽く叩く。


「でも、どうして木嶋さんが狙われるの?」


美菜が首をかしげると、木嶋は困ったように笑った。


「さあ?新入りのくせに指名増えてるからとかかな?そーゆーのが気に入らないのかもしれない」


「……まさか、そんなことで?」


美菜は驚きを隠せなかった。


「でも、あり得る話だな」


瀬良が低く言う。


「美容業界って、言わないけど案外そういう妬みとか競争があるからな。特に同じ職場で指名数が伸びてると、周りがプレッシャーを感じることもある。ましてや自分の指名顧客が木嶋に流れてたりしたら…まあ揉めるわな」


「だけど、それで嫌がらせなんて……やることが陰湿すぎる」


美菜は悔しそうに拳を握る。


「誰がやってるのか、はっきりさせたほうがいい」


瀬良の声には冷静さがあった。


「このまま放っておくと、もっとひどいことになるかもしれない」


「でも、どうやって証拠をつかむ?」


木嶋が真剣な表情で尋ねると、田鶴屋が腕を組んで考え込んだ。


「……監視カメラは?」


「バックヤードにはついてない。設置されてるのはフロアと入り口だけ」


「じゃあ、誰がロッカーを開けたのか、記録は残ってないのか……」


「でも、何か方法はあるはず」


美菜は思案しながら、コーヒーに口をつける。


「とりあえず、まずは様子を見るか。犯人がまた何かやるかもしれないし」


瀬良の提案に、木嶋も小さく頷いた。


「……あんまり気分のいい話じゃねえけど、仕方ないな」


「俺も協力する。店長としては見過ごせない案件だ。何かあったらすぐに言えよ」


田鶴屋が真剣な表情で言う。


「ありがとうございます、店長」


木嶋の表情が少しだけ柔らいだ。


こうして四人は、それぞれの思いを胸に店を後にした。


誰が、何のために木嶋を狙っているのか——。


その答えを見つけるために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ