Episode101
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「……悪いな」
夜の空気はまだ冷たさが残るものの、どこか春の気配を含んでいた。街路樹の枝には小さな蕾が膨らみ始め、風が吹くたびにかすかに花の香りが混じる。
瀬良は申し訳なさそうに言いながら、美菜の隣を歩いていた。
「何が?」
「せっかく泊まる流れだったのに、実琴が邪魔したから」
「ふふっ、別に気にしてないよ。むしろ、色々聞けて楽しかったし」
美菜は笑いながら、コートのポケットに手を入れる。指先は少し冷えていたけれど、胸の奥は妙に温かい。
「色々って……」
「瀬良くんがデートとか、色々調べてくれてたこととか。そういうの、可愛いなって思った」
「……お前、本当にそればっか言うよな」
瀬良は不機嫌そうに眉を寄せるが、その耳は相変わらず赤い。
「だって、本当に可愛いと思ったんだもん」
「……」
「でも、もうこれからはネットじゃなくて、私と一緒に経験して覚えていけばいいんじゃない?」
そう言うと、瀬良はわずかに目を伏せ、ポケットに突っ込んでいた手をゆっくりと出す。そして、ためらうようにしながらも、美菜の手をそっと握った。
「……そうだな」
彼の手は少し温かくて、でもどこかぎこちない。
美菜はそんな不器用な優しさが嬉しくて、指を絡めるように握り返した。
「ん」
「……お前、すぐそうやって調子乗る」
「だって、恋人なんだから、これくらい普通でしょ?」
「……まあな」
夜の静けさの中、2人はしばらく手を繋いだまま歩く。
やがて、美菜の家の前に着くと、瀬良は名残惜しそうに手を離した。
「……じゃあな」
「うん。またね」
「……次は、最後までいけるようにしとく」
「……え?」
不意に瀬良がぼそっと呟き、美菜は一瞬固まる。
「な、何の話……?」
「……さあな」
瀬良は美菜の反応を見て、わずかに口角を上げる。
「美菜が言ったんだろ、実践で覚えていこうって」
「~~っ!」
美菜は思わず頬を手で覆う。
「な、なんでそういうことだけ素直に……!」
「美菜のせいだろ」
「……もう!」
ぷいっと顔を背けると、瀬良はくすっと小さく笑った。
「じゃあな」
「……バカ」
美菜は小さく呟いて、そっとドアを開けた。
家の中に入ると、さっきまで繋いでいた手が妙に熱を持っているように感じる。
「……次は、どうなるのかな」
ぽつりと呟いて、春の訪れを感じる夜の風をそっと背に受けた。
***
次の日。
美菜はゆっくりとベッドから起き上がり、大きく伸びをした。今日は久しぶりの休み。何をしようかと考えながらスマホを手に取ると、昨夜の瀬良とのやり取りがふと蘇る。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれる。
昨夜、瀬良の家を出るとき、彼は何度も「悪かったな」と言っていたけど、美菜にとってはむしろ嬉しいことばかりだった。瀬良の不器用な優しさや、彼なりに努力していたことを知れたのだから。
そんなことを思いながらぼんやりしていると、突然スマホが振動する。
画面を見ると、瀬良からの電話だった。
「……?」
珍しいな、と思いながら通話ボタンを押す。
『起きてるか』
「うん、今起きたとこ」
『……そうか』
瀬良の声はいつも通り淡々としているけど、どことなく迷いが感じられる。
「どうしたの?」
『……今日、買い物行ける?』
その問いに、美菜は少し驚いた。
「うん、行けるけど……」
『じゃあ、行くか』
一瞬、スマホを持つ手が止まる。
「何か欲しいものでもあるの?」
『……食器とか、いつでも美菜の物があればいいかなって』
「あ……!なるほどね!?ありがとう!」
美菜は嬉しかった。
いつでも泊まっていいと瀬良から言ってくれると、安心感がある。
『……昨日、悪かったからな』
瀬良のぼそっとした声が耳に届く。
美菜はその言葉に少し笑いながら、優しく返す。
「悪くなんてないよ。むしろ、色々知れて嬉しかったし」
『……そうか』
「うん。だから、買い物一緒に行こ?」
『……ああ』
美菜は小さく笑って、スマホを握りしめた。
「じゃあ、どこ行く?」
『考えてないけど、前伊賀上が見てた雑貨屋があるショッピングモールでも行く?』
「うーん……」
美菜は少し考えてから、ふと閃いた。
「じゃあ、昨日の続きで……ネットで調べてみる?」
『……お前な』
電話越しでも、瀬良が呆れているのがわかる。でも、その向こうに微かに笑っている気配がして、美菜はくすっと笑った。
「ふふ、冗談。いいよ!そこにしよっか!」
『……おう、じゃあ1時間半後くらいに』
「はーい」
通話が切れる。
画面を見つめながら、美菜は心がじんわりと温まるのを感じた。
昨日よりも、少しだけ近づけた気がする。
そんな期待を胸に、美菜は支度を始めた。
***
待ち合わせ場所に到着すると、瀬良は既に壁にもたれて待っていた。
黒のジャケットにシンプルなジーンズ。いつも通りのラフな服装なのに、どこか様になっているのは彼の雰囲気のせいだろうか。
「おはよう、待った?」
「全然」
瀬良はポケットに手を突っ込み、視線を逸らしたまま言った。
その様子が何となく照れ臭そうに見えて、美菜は思わず笑みを浮かべる。
「じゃあ、行こっか」
「……ああ」
二人は並んで歩き始めた。
街路樹の蕾は少しずつ膨らみ、風に乗って春の香りが漂っている。
「天気、良くてよかったね」
「……そうだな」
瀬良は短く答える。会話は途切れがちだけれど、隣にいるだけで十分だった。
前よりも少しだけ近く感じる距離が、心地よい。
「ねぇ、あそこに新しいカフェできてる。今度行ってみない?」
「……別にいいけど」
「ふふ、ありがとう」
軽い雑談を交わしながら、二人はショッピングモールへと向かって歩いていく。
美菜はふと、ポケットの中で手を握りしめた。
昨夜、繋いだ手の温もりが蘇る。思い出すだけで、頬が熱くなるのを感じた。
「……何ニヤついてんだよ」
「えっ、べ、別に!」
「……ふーん」
瀬良は胡散臭そうに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
少し歩きづらそうにしているのが気になって、美菜は遠慮がちに尋ねる。
「……あの、手、繋ぐ?」
「……っ」
瀬良の耳が、わずかに赤くなった。
すぐには答えず、ちらりと美菜の方を見る。
「……美菜がそうしたいなら」
「う、うん」
美菜は勇気を出して、そっと手を差し出した。
一瞬、ためらったように見えたが、瀬良はゆっくりとその手を握った。
温かくて、少しだけ汗ばんでいる。ぎこちないけれど、優しい力加減だった。
「……変な感じ」
「そう?私は、嬉しいけど」
「……美菜は、本当そういうの恥ずかしくねぇのか」
「だって、恋人なんだから、これくらい普通でしょ?」
「……まぁな」
瀬良は小さく息を吐き、照れくさそうに前を向く。
美菜はその横顔を見て、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
手を繋いで歩く距離は、まるで二人の心の距離を縮めているかのようだった。
やがて、ショッピングモールが見えてくる。
美菜は少し名残惜しさを感じつつ、手を離そうとしたが、瀬良はその手を離さなかった。
「……もう少し、このままでいいだろ」
「……うん」
美菜は顔を赤らめながら、繋いだ手の温もりを確かめるように握り返した。
春の訪れを感じる風が、二人の間をそっと吹き抜けていった。




