王都とテイラー領の今① 突然の工作員宣言
アメリアと護衛二人、山犬夫妻は一旦自室へと下がった。
「ミカ、体調はどうですか」
廊下に出て皆を見送ると、ザコルが私に左腕を差し出しながら言った。
「ジャム作りは手間はかかりますが、水の量としては大樽二、三杯になるかどうかだろうと考えて止めませんでしたが…」
「そうですね、私も同じように考えていました。単純に水を沸かすより集中力はまあまあ要るんですが、芋も薪も林檎も水分量では大した事ないですからね。きっと大丈夫です」
その言葉に、ザコルとエビーが顔を見合わせる。
「……何か今、すげー嫌な予感したんですけどお…」
「……同感です。単純に水を沸かすより余計な魔力を使っているかもしれませんし、今日はもう…」
「もう、大丈夫ですってばー」
するっ。
「あっ、待て姉貴!」
「待ちなさいミカ! 廊下は走ってはいけません!」
護衛を振り切り、夕食前で忙しくする使用人達の間をすり抜けて庭に出る。日が落ちたせいか冷気が一層鋭さを増し、容赦なく身体を刺した。
薄暗くなった庭に、明かりが灯された入浴テントが浮かび上がっている。チラチラと舞う粉雪が明かりに照らされ、物語の一幕のような光景だった。
ぎゅむ、後ろから腕を回されて捕まえられる。…短い逃亡劇だったな。
はあ、と背後から吐き出された白い息が私を包み込むように漂った。
「…逃げないでください。逃げられると、気持ちが急く」
「ふふ、犬みたいな事言って」
「笑い事じゃありません!」
エビーもドタドタと追ってくる。
「もおー姐さんは!! マジで何なんすか、その人混みすり抜け術! ほらコート忘れてますよ、外、すげー寒いでしょ」
エビーが差し出した外套を受け取る。高原の街で買った深緑色の初冬用コートだ。いい加減に買い直さないとこれを着ても寒い。
「ありがとエビー。この寒さじゃお風呂入る人も湯冷めするね。せめてテントをもっと入り口近くに持ってきてもらおうか」
入浴用テントは庭の隅の方に建ててある。庭の入り口や、入り口近くに設置された井戸と離れているのには一応理由がある。井戸は洗濯などでも使用するので、そうした作業の邪魔にならないように離れた所に立てたのだ。
これ以上魔法を使うのはと渋る護衛二人を説得し、湯の張り替えに向かう。足元にはうっすらとだが雪が積もっていて、踏めば足跡がついた。
「ミカ殿、ザコル殿。お疲れ様でございます」
タイタとハコネが入浴用テントに並んでいる。中にはまだ誰か入っていたようで、順番待ちしているそうだ。女湯の方も誰か入っている。私達は今の利用者が出たタイミングで湯を張り替える事にした。
ちなみに、いつの間にか入浴者がセルフで足し湯する方式に変更されたようで、足し湯用の樽はテントの中に設置され、足し湯番もいなかった。ここでは待機するのも寒かったのだろう。
足し湯が冷めた時に私がいなかった場合には、入浴希望者が自ら調理場から湯を運んだりもしていたようだ。皆、段々と入浴がこなれてきている。
「タイタもお疲れ様。…わあ、派手にやったねえ…」
薄暗くて視界が悪いのに、それでも黒々とした染みがはっきりと見える。
「全くだ。だがお陰で捗った。タイタを寄越してくれた事、礼を言おう。ホッター殿」
タイタ程ではないにしろ、そこそこに汚れたハコネが会釈程度の礼をする。
二人がここまで血に汚れているという事は、今日尋問を行った護衛隊の中に、カニタ以外の『クロ』が見つかってしまったという事なのだろう。
「タイタが自分で行くって言ったんです。こっちはカッツォとラーゲが大活躍でしたよ。ジャムが五百瓶くらい出来ました」
ハコネは一瞬きょとんとして、すぐに笑った。
「はは、五百瓶とは随分な数だな」
「…団長、冗談だと思ってるっしょ。後で一階の食堂覗いてくださいよ」
「何、本当に五百瓶も作ったのか?」
「マジすよ。しかもこんなちっちゃい瓶じゃなくて、瓜くらいある大瓶で五百っすからね」
エビーが手振りで瓶の大きさをアピールする。
「コタはどうしたんすか」
「ああ、あいつは見張りに残した。後で交代させる」
ざっくり聞いた所によれば、カニタ以外のクロ、それもカニタと共犯関係にあったと断じられたのは二人いたそうだ。
残りは釈放されたものの、まだ相互監視は続けさせるつもりでいるらしい。昨日野営だった彼らは、今日から山の民が出ていった空き家を提供してもらえる事になった。
「…情けないな、こうも易々と裏切りを許すとは」
ハコネが自分を責めるように俯き、握り締めた自分の手を見た。
「このサカシータ領でさえ潜り込む者は潜り込むんです。そうした者は基本的にどこにでもいると思った方がいい」
ザコルがフォローともつかぬ事を言った。
「被災者のふりして潜り込んでた邪教徒の彼は凄かったですよねえ。フラッペ届けた当時は本当に満身創痍でしたもん。あの根性にはちょっぴり感心しちゃいました」
「何を感心なんてしているんです。あの男、ミカに施されておきながら…。舐めているにも程がある」
ふん、とザコルが鼻を鳴らす。態度は強気に見えるが、私の腕を掴んで自分の方に引き寄せている。私が消えた時の事を思って不安になったのかもしれない。
あの誘拐時の事は安易にネタにしない方がいいなと反省した。
カニタと共謀し、私を狙おうとしていた彼らは、何を思って外部勢力と取引したのだろう。
カニタには一応『氷姫を猟犬から救う』という大義名分があった。もちろん私欲もあっての事だろうが、私という存在がなければ彼らもテイラーを裏切る機会などなく、今も団員の一人として職務を全うしていたのかもしれない、と思ってしまうのだ。そう、相手にも人生があって…。
「ミカ、敵に同情はいりません。極端な事を言えば、テイラー伯は氷姫を護った方が利があると考えて動いている。そのお考えを無視し、勝手な行動をしたのは彼らの資質に問題があるせいだ。そう、あくまでもこれはテイラー伯に対する背信行為であって、あなたが責任を感じるような事ではない」
「…ええ。解っています、頭では」
言葉を尽くしてくれようとするザコルに、小さく首を横に振ってみせる。
ハコネが顔を上げた。
「おい、どうしてホッター殿が責任を感じている? これは俺の力不足だぞ。貴殿が気にするような事は何も」
「ミカは繊細なんですよ、あなたが思うよりずっと」
「またそれか。貴殿だけには言われたくないぞ! この変態無頓着め。大体今朝も」
ハコネとザコルが口喧嘩を始める。この二人ってこんなに喧々してたっけ…。
「はいはい、どっちもどっちすよ! 姐さんは気にしすぎ! 疲れが溜まってんだろ、今日もさっさと寝ろよ」
安眠法も見つかった事だしな、とエビーがニヤつく。直後にドングリがエビーの額に直撃した。
◇ ◇ ◇
「ミカ殿。エビーの言う安眠法とはどのようなものでしょうか。俺も寝付きが悪い日があるので参考にお聞かせくださいませんか」
「う、うーん…そ、そうだねえ…。や、やっぱり牛乳かな。牛乳にはリラックス効果があって」
「なるほど! 寝る前に牛乳を! 厨房で分けていただけないか後で声をかけてみます!」
嘘は言っていない。寝る前に牛乳を飲むのは定番の安眠対策だし。とはいえ善良なタイタを騙しているようで気が引ける。
もし添い寝させているなどと知れたらどういう反応をするんだろうか。真面目な彼のことだ、最低でもハコネとアメリアに報告するだろうし、最悪本気でザコルを排除しにかかるかもしれない。執行人の本領発揮となるだろう。
夕食には、昼食で余ったふかし芋を牛乳とバターでなめらかにしたマッシュポテトが出た。それとミートボールに林檎ジャム。まるで北欧の家庭で出てくる一皿みたいだ。
「へへっ、今日のメニューはほぼ俺らが作ったようなもんすね」
エビーが食堂の脇に積み上げられたジャム瓶の箱を眺めながら言った。確かに芋もジャムも私達が頑張って加工したものだ。
「ふふ、役に立ってるって感じがしていいじゃない。美味しく出来てるよ」
「肉にジャムとマッシュポテトを合わせるのはモナ風ですね。前モナ男爵夫妻がお泊まりになられているからでしょうか」
「へえ、タイタは流石よく知ってるねえ」
「峠の山犬亭からの帰り、高原の街のレストランでいただいたメニューもこのような感じで」
きっと楽しい家族旅行だったのだろう。峠の山犬亭やモナ領について語る時のタイタは心なしか浮き足だって見える。そんな幸せな時間を過ごしていた家族でさえ、粛清などという物騒な事に巻き込まれたりするのだ。
人生とはかくも儚く、過酷なものなのか。
「……言っておきますが。この中で一番過酷な人生を送っているのはミカですからね?」
「えっ、どこがですか?」
「どこが…? どこもかしこもですが…?」
ザコルが怪訝な顔をする。
「ふへ。その顔好きです」
「やめろ。眉間を揉もうとするな」
ザコルはティスから預けられた図鑑をめくりながら私をシッシッと追い払った。そのうち本をパタンと閉じると、ジョーやティスが納得しやすいようにか、査定の内訳を紙に書き出し始めた。
紙と装丁の質、ページ数、内容や挿絵の点数、そうしたものから客観的に割り出した値段に、取り寄せ代金などサラサラと書き付けていく。合計には金貨四十枚強相当の値段が記された。
「この図鑑、本にするまでにきっと、何十年もかけて各地を回って、研究を重ねたんでしょうねえ…。凄いなあ」
私もその薬草図鑑を手に取り、パラパラとめくって目についたページを読む。
この世界にも活版は存在する。新聞や、何百冊も出回っているような人気の物語などには一部取り入れられているようだが、この国ではまだまだ普及し始めといった段階のようだ。よって、こうしたマイナーな図鑑などはほぼほぼ手仕事である。この図鑑は線画こそ一部木版のようだが、文字と彩色は全て手作業によるものだった。
ザコルが美しい筆致で書いた査定書は丁寧に畳まれ、封筒に入れられた。それを金貨とともに預かったエビーがティスのいる部屋まで届けにいく。しばらくしてティスが飛んできて、額面が多すぎると色々言っていたものの、最終的にはザコルの圧に負けて受け取らされていた。
何だか、今日は久しぶりに平穏な一日を過ごした気がした。
「おっと、食後にマネジさん達の話を聞くんでしたね。一日終わった気でいました」
「ミカは話に加わらなくとも。好きに過ごしていていいですよ」
「じゃあ、薪を乾燥…」
「魔法は禁止です」
即座に却下されてしまった。
「あ、そうだ。アメリアのためにお風呂を沸かそうと思ってたんだった。屋敷の浴室の方に樽を運んでくれませんか。チャチャっと」
「…………今し方、魔法は禁止だと言ったばかりでは…」
「あの子はちゃんとしたご令嬢なんですから、清潔は守ってあげた方がいいですよ。体調を崩されたらどうせ魔法を使う事になりますしね」
治癒能力を使うとなればもっと大変だ。主に隠蔽工作がだが。
「ぐ…、も、もし魔力切れを起こしたら、僕の魔力でも何でも突っ込みますからね!」
「へえー。ザコルからはしてくれるんですねえ」
うぐう…。ザコルが押し黙る。どうしていちいち強がって不用意な事を言うんだろうか。私へのサービスだろうか。
「サービスじゃない!」
「ふふっ。まあ、浴室の湯船は入浴用テントの湯船程の容量はないですし、誤差ですよ誤差。ついでに私もサッと身体流させて貰おうかな」
エビーとタイタの方を見たら、何とも言えない顔をしていた。またタチが悪いとでも思われているんだろう。
食器を下げにきたユキに頼んで浴室を開けてもらい、エビーにはアメリアへの言付けを頼んだ。
「お姉様! わたくしなら清拭で充分でしたのに! どれだけ働くおつもりですの!?」
「アメリア。ごめんなさい、先に身体と髪を洗わせてもらいました。今お湯を張りますからね」
「お姉様は湯船を使っておられないの…!?」
何故、どうして、と食い下がるアメリアを適当にいなしつつ、エビーとタイタに手伝ってもらい、湯船を真新しい湯で満たす。差し湯用の樽にも熱い湯を張ったし、準備万端だ。
「さあ、侍女の皆さん、アメリアを綺麗に磨いてあげてね。ついでに自分の身もしっかり清めてきて」
「感謝いたします、ミカ様」
侍女の四人は優雅に一礼すると、オロオロするアメリアの背を押して脱衣所に入っていった。
ちなみに、イーリアとマージ、山犬夫妻にも声をかけたものの、彼らは既に入浴用テントの方で入浴させてもらったからいいと断られた。入浴用テント、便利に使ってもらえているようで何よりだ。
◇ ◇ ◇
マージの執務室を借りて待機していると、マネジ、ドーシャ、セージの三人が従僕に案内されて入室してきた。
「ふぐおおお…! ナチュラルにミカ様の髪を拭いていらっしゃるうう……!!」
そして入室していきなり胸を押さえて膝から崩れ落ちた。
三人の言う通り、ザコルは私をソファに座らせて後ろに立ち、濡れた髪を丁寧に拭いて梳かしてくれていた。
「鬱陶しいですね…。ほら、さっさと座ってください」
ザコルが雑に着席を促す。タイタがそれぞれを席に案内した。エビーはテントに入浴させに行かせたので今はいない。
「後でハコネも来ます。情報をしっかり共有しましょう」
三人はそれぞれ持ち寄った手紙の類をテーブルに出し始めた。
ドーシャがピッと挙手する。
「どうぞ、ドーシャ」
ザコルは私の髪を拭く作業を続けながら目線だけドーシャに向ける。
「はっ。こ、ここここここに、うううちのぶぶ部下達を同席させてもよろしいでしょうかかかか」
ブレている…。前々から思っていたが、あんなに微振動してどこか筋を違えたり攣ったりしないんだろうか。
「落ち着いてください。君の部下、というとカファ達でしょうか。理由を聞いても?」
「ははっははい。あ、あの、今まで黙っておりましたが、我がアーユル商会は行商の傍ら、モナ男爵の直命で情報収集や暗号解析などを担っているのです」
『え』
その場にいた全員の声がハモり、一斉にドーシャへと視線を向けた。
「さ、先程山犬のオジキに素性を明かす許可をいただきましたので、改めて皆様にご紹介をば…!」
しん……。
誰もがが言葉を失う。タイタやマネジも知らなかったらしく、驚きを隠す事もなく目を丸くしている。
コホン、ザコルが沈黙を破る。
「……そうですか。商会規模でというと、アーユル商会の四人全員がモナの工作員という認識で間違いないでしょうか」
流石は元暗部。突然の工作員宣言にも動揺は見せない。
「そ、その通りでございますすっ。情報収集の実動は私めと御者のヴァンです。カファとピッタは暗号の作成や解析を主にしております……だ、黙っていて申し訳ありませぬ!! 守秘義務を勝手に破るわけにもいかず!!」
「いえ、それは別に。リキヤ兄…いえ、現モナ男爵の了承は得なくて良かったのですか。山犬の、いえ、前モナ男爵様は君達の直接の主人ではないんでしょう?」
「オジキに相談した所、息子には適当に言っておいてやると」
山犬が手をヒラヒラとでもさせながら適当に頷く様子が目に浮かぶ。
「いい加減な…。まあ、何かあったら僕がリキヤ兄様に直接謝罪しましょう」
ドーシャは今回の事を前モナ男爵に許可を得たのとは別に、深緑の猟犬ファンの集い同志としての活動については現モナ男爵リキヤの許可を得ていると語った。
「それはまあ、そうでしょうね…。モナ男爵に仕えつつテイラー家のご令息の指示下でも動いているという訳ですから。許可を得ているのでもなければ懲罰ものです」
「うちの主はある意味で山犬のオジキよりもいい加減というか、ノリで生きている所がありますゆえ。私めが、ファンの集いに入って活動してもいいかと訊きに行ったら『面白そうだからオッケー。もしザコっちにバレたらオレの名前出していいよーん、よろしくー』と。なので、今回の事も特にお咎めはないかと思われます」
ザコっち…! ザコっち…!? マネジとセージが顔を見合わせている。私はタイタと見つめ合ってしまった。
「リキヤ兄様は……。相変わらずですね」
ザコルは短く溜め息をつき、眉間を揉み始めた。
つづく




