チッカの夜
ブーツを預けたフロントで黒のパンプスを借り、ラウンジへと足を運んだ。
ボーイに案内されて中に進むと、いかにも社長っぽい雰囲気を醸し出す裕福な商人とその部下と思われる人達が会場のど真ん中を陣取っているのが目に入った。部下の人々が社長を囲み、お酌などの世話を我先にとしている。一芸を披露させられている人もいる。
…何となく社畜の胃にくる光景だ。
壁際を見渡すと、ここにいるはずのない二人が座っていたので驚いた。
「峠の山犬亭の…!」
「あらあ、兄さんにお嬢ちゃん。無事にここまで辿り着いたんだねえ。遅かったじゃないか」
「おう、そんなとこに突っ立って何やってんだ。おら二人ともこっちに来て座れ。奢ってやるから飲め飲め」
峠の山犬亭でお世話になったおじさんおばさんが壁際のボックス席に座っていた。今日の二人はシックな準正装に身を包んでいる。
おばさんがおじさんの向かいの席を立って隣に移動してくれたので、私達は二人の向かいに揃って座った。
「どうしてこんな所に…と、お聞きしたい所ですが。ここにおられるという事は、そういう事なんですね」
私が訊くと、おばさんが申し訳なさそうに笑った。
「ああ、ごめんねえ、モナ男爵、というかうちのドラ息子は昨日からどうしても外せない用事があってねえ。私らがここで待機するって事になったんだよ」
「馬車なんて久しぶりに乗ったな、自分で馬に乗った方が早えっつうのによ。あんたら見送った日の午後には迎えが来てな。隠居の身だが、たまにはこうして良い酒飲むのも悪くねえ」
おじさん、もとい前モナ男爵は給仕にザコルと私の分のグラスを持って来させ、手ずから高そうなワインのボトルを傾けて注いだ。
ザコルをちらっと見ると、黙って頷いてくれたので、グラスを持った。
「幸多からん事を」
こっちの世界式の乾杯音頭に合わせてグラスを掲げる。
「お嬢ちゃん、本当の名前はなんて言うんだい?」
「ミカ・ホッタと申します。ご挨拶が遅れ申し訳ありません。前モナ男爵様、ご夫人様」
立ち上がって礼を取ろうとしたら手で制されたので、浮かしかけた腰を下ろした。
「兄さんも、名前だけで良いからね」
「はい。サカシータ子爵が八男、ザコル・サカシータと申します。お目通り叶いました事、光栄に存じます」
「固えよ、そんなに畏まらなくていい。お前とは小せえ子供ん頃に会った事もあるが、覚えちゃねえだろな。俺らは貴族籍も抜いちまって完全に隠居した身だ。お前んちと違ってウチは一人息子なもんでな、他にお前らのお相手ができそうな血族がいなかったんだ。あの無口で愛想もねえ小僧がなあ、国の英雄になんてなっちまってなあ」
前モナ男爵は、ザコルに近所の子供を見るような顔を向けた。
「お嬢ちゃん、いや、ホッター様かしらね」
「いいえ、ミカとお呼びください。元の世界では庶民の身ですから」
「そうかい。奇遇だね、私も庶民の生まれさ。カオラと呼んでおくれ」
「では、カオラ様…いえ、カオラ、さん。その節は大変お世話になりました」
「私らも楽しかったよ。あんな粗末な山小屋に泊まってくれてありがとうねえ。昨日の朝は少し体調が悪そうだったけれど、良くなったかい?」
「はい。ご心配をおかけしました。もう大丈夫です。その、お二人は、気付いてらっしゃったんですか?」
少なくとも最初の問答では気付かれていなかったと思うのだが。
「いんや、初めは何も気づいてなかったさ。俺らは事前に報されても無かったしな。でもな、嬢ちゃんよ、あんたが兄ちゃんの名前を呼んだ時には流石に気付いちまった。あんたの正体までは知らなかったがな。黙ってて悪かったな」
前モナ男爵が軽く頭を下げる。
「いいえ、私達も隠し事だらけでしたので。ご配慮いただき、感謝致します」
「だあから、固えってんだろ。そら、一杯くらいいいだろ、飲んでみろ。うちの領自慢の酒だ」
私は持ったままだったワイングラスに口をつけた。
ロゼのスパークリングだ。辛口だが爽やかでとても美味しい。二口ほど飲み下す。
「はあー美味しい! この一杯のために生きてるう!」
「いい反応だあ。嬢ちゃんともいつか潰れるまで飲み明かしてえもんだな。ザコル、お前もだぞ」
「僕は酒に酔いませんので」
「あーそうだったなあ、サカシータの人間は酒も毒も効かねえからいけねえ。お前の親父にも飲み比べで何度か挑んだがな、こっちはワイン、あっちは蒸留酒原液だったとしたって絶対に勝てねえ。とんでもねえバケモンだよ」
毒が効かない体質はどうやら遺伝らしい。もしかして、兄弟も全員そうなんだろうか。
「全く懲りないんだからねえ。この人ったら、この街にサカシータ子爵様が寄られる度に警邏隊総動員で厳戒態勢敷いてさあ、とっ捕まえて飲もうとするんだよ。あっちが本気出したらこっちの包囲網なんて綿飴みたいなもんなのに。オーレン様もよく付き合って下さったもんだ」
「父は嘘がつけませんから。大人しく捕まっていたのなら、きっと楽しみにしていたんでしょう」
「ふふ、お父様に似たんですね、ザコルは」
「僕は父と違って、嘘がつけないのではなく、嘘が嫌いなだけです」
嘘をつけない所だけでなく、エビーにイジられたり揶揄われたりしても、何だかんだで大人しく注がれた酒を飲んでやっている所なんかも似ているんじゃないかと思う。
「モナ男爵様、父と交流を持ってくださりありがとうございます」
「だあああから、俺はもう男爵じゃねえってんだ。そこらにいる年食ったオッサンだ。オーレンの野郎はなかなか代替わりが進まねえからまだ一応子爵様だがな、伝えとけ。峠の山犬亭で待ってるから勝負しに来いってな」
「はい。確かに。伝言承りました」
ザコルが前モナ男爵に頭を下げる。
「あんたが呑みたいだけでしょうが。不敬な事言ってんじゃないよ全く」
カオラにはたかれても、前モナ男爵は快活に笑う。素敵なご夫婦だ。
「ザコル、お前、一緒に酒飲んでくれる奴の一人や二人はちゃんと作っとけよ。酔わねえでもいいんだ。年食った時に昔を語り合える奴ってのは宝だ。お前は特に背負ったもんが多いだろうが。それ、全部女房に背負わすんじゃねえぞ」
前モナ男爵はロゼワインをグラスにドボドボと注ぎ、ザコルに差し出した。
◇ ◇ ◇
「峠の山犬、思い出しました。昔、サイカ国からちょっかいをかけられた際に、うちの父とモナ男爵が共同で戦った事があったんです。当時、その時の泥臭い戦いぶりが新聞に書かれて評判になったそうです。アカイシの番犬、峠の山犬と」
「二つ名が犬にちなむのはデフォなんですかね?」
前男爵夫妻に重ね重ねお礼を言ってラウンジから辞した後、私はザコル達三人が泊まる部屋にお邪魔していた。
結局グラス二杯くらいはいただいてしまったので酔いが残っているのだ。ほろ酔いのまま、一人であの広い部屋に戻るのは正直寂しかった。
小振りのカフェテーブルを囲み、エビーが淹れてくれた温かいお茶を啜る。ちなみにアカイシとはサカシータ領とサイカ国の間にある巨大な山脈の事だ。
「峠の山犬…殿? 俺は聞いたことないっすよ」
「僕もかなり小さかった頃ですから、エビーの世代では知る機会がないでしょうね」
「それよりー、モナドンのロゼ飲んだって本当すかあ! 何で俺も呼んでくれねえんすか!」
エビーがザコルの肩を揺さぶって…ザコルは体幹が強いのか全く動いていないが、騒いでいる。
あのロゼ、高いんだろうとは思ってたけどそんなに有名なものだったのか。ドンペリのピンクみたいなものだろうか。
タイタは一度我に帰ったらしいが、ザコルが置き忘れていった腰ベルトを目の前にした上、ザコルに手ずから部屋に運ばれた事を知って再びフリーズしたらしい。
このスイートルーム内の別室に安置されているとのことだ。
「前男爵様、腕の立つ方だったんですね。ザコルが一度だけ、私に対するセクハラ発言にキレて殺気飛ばしてたじゃないですか。あれで一つも動じてなかったの、相当なんじゃないですか」
「そうですね、一般の方なら感知できなくても普通ですが、うちの父と共闘できるほどの実力となれば、あれに気づかなかったはずはありません。…子供っぽい真似をしてしまいましたね」
「ほーん、世の中、知らない事がたくさんあるって事すねえ」
「それはそうだね、私は特に『にわか』だからね。本で得た知識や推測で分かった気にならないようにしないと」
頭でっかちにならないように、謙虚に知る努力を怠らないでいよう。
「にわか、ねえ。ミカさんはさあ、この世界に来てまだ一年も経ってないってのにむしろ知り過ぎなんじゃねえすか? 悪の組織に狙われちまいますよお」
エビーが茶化し口調で言う。
「ふふ、もう既に狙われてるみたいだけどねえ。でも、まあね。たまに、こんなに色々知っちゃってていいのかな、とは思うよ。事故か事件か判んないけど、所詮は間違って喚ばれた分際でさ」
フジの里で触れた手記が頭によぎる。あれを暴いたのは、果たして正解だったのだろうか。
「や、あの、俺は、本当に知り過ぎだなんて…」
失言だと思ったのか、エビーが頭を掻いてフォローしてくれようとする。
「いいんだよ、本当のことだもん。今更だけどさ、ヨソ者のくせにしゃしゃり出過ぎかなって、自問自答しちゃう事もあるんだよ。セオドア様の計らいではあるけど、結局の所、自ら望んでこんな遠くまで連れてきてもらって、大人数に迷惑や心配をかけて、ほんと、何やってんだろーなって…。好きで狙われてる訳じゃないけど、ただでさえ情勢が不安定そうな中で、私の存在って明らかにトラブルの種増やしてるっていうか…」
そして、これからサカシータ家に眠る秘密を暴きにいくわけで。
「変なのに利用されるのもゴメンだけどさ、私が引っ掻き回したせいでまた誰かに迷惑かけるのも怖いっていうか。それが原因で誰かの恨みを買って、元の世界に送り戻されたり、命狙われたりしても文句は言えないよ。…皆、本当に優しいよね、正直、今でもいない方が良かったと思われても仕方ないくらいなのに…っ」
急に手首を掴まれたので驚いて言葉が引っ込んだ。
取られた手の先、ザコルを見ると、殺気を飛ばしている時のような切羽詰まった視線が私を貫いた。
「ミカ、嘘でも冗談でも、そんな事を言わないでください」
「そうすよ! 俺ら、みんなミカさんが来てくれて喜んでんすから!」
「ザコル、エビー。ありがとう、でも…」
ぎゅ、と手首を掴む力が強まる。
「いない方が良いなんて事はありません、あなたの命を狙うなんて、僕がそんな事絶対に許しません」
「ザコル…」
ギリギリと手を絞められて涙がにじみそうな程痛かったが、我慢し平静を装った。
泣きそうなのはザコルの方だったからだ。
私の方には気づいていない様子のエビーがザコルの肩をポンポンと叩く。
「ザコル殿、ミカさんは本気で言ったんじゃないすよ、そうすよね?」
私は手首の痛みを我慢しながら、もう一方の手を彼の頬に伸ばした。
「大丈夫、大丈夫。後ろ向きなこと言ってごめんなさい。ザコルが護ってくれたら安心ですから。お願い。そんな顔しないで」
私が当初に思っていたよりずっと、この国は切羽詰まっていて、平和に見える街にも危険が潜んでいる。少しずつ国を中から蝕んでいる存在があって、よく分からない神に縋る人もいる。
ザコルが通常見ている世界だって、私が想像するよりずっと凄惨なものなのだろう。
彼の力になりたい。だが、ここ最近の体調変化で嫌でも思い知ってしまった。私の存在は、考えていたよりもずっとあやふやなものだ。
魔法と心身の関係性は正しく解っていない。まだ気になる事もある。
誰が喚んだかすら未だに判っていないが、いつかは本当に送り返されてしまうかもしれない。こんな虚な存在に、彼の心の大事な部分を預けていいものか。
これまで散々彼に求めておいて今更かもしれないが、やはり憶測で不確かな事は言わない方がいいはずだ。もし私に何かあったら、誰が彼の心を守り、繋ぎ止めるというのだろう。
「…でも、やっぱり聴いて。ザコルの周りには、あなたを愛してくれる人がたくさんいます。だから周りをよく見て。私にもし何かあっても、あなたは必ず幸せになって。お願い。お願いですから。そんな顔しないで」
そう言い募れば募るほどザコルの顔に余裕が無くなっていく。
私はやっと自分の言葉選びが間違っていた事を悟った。
「ザコル殿、ストップストップ! ミカさんの手え離して! 千切れちゃいます!」
「え」
エビーの声で我に返ったザコルがパッと手を離した。
「ミカ、すみません! 手を見せて…!」
離された手首をザコルが触ろうとする。
「つう……っぐう」
「あ……っ」
先程は麻痺しかけていた部分に激痛が走った。脂汗が沸く。目がチカチカしてきた。
硬直するザコルに代わり、エビーが私を痛む手とは逆側からサッと抱き上げた。
「ミカさん、腕、上げていられますか。そこのベッドに降ろしますから」
私はなんとか手を上げ、ベッドに降ろされた後、手を自分のお腹の上にそっと降ろした。
「……ふへ、失敗失敗。先に言えば良かった、ですね。ダメですよザコル。私は大丈夫だから。ほら。指も一応……うっ、動くし……っ! 血も出てない、ですし。だから、ダメ、そんな顔しないで。私が泣きますよ…」
ニットの袖に隠れているので、怪我の状態を直接見る事はできない。だが、あまりの痛みに意識を持っていかれそうになる。
こんな所で話を終わらす訳にはいかないのに。
「ミカ……すみま、僕は……っ」
ザコルは先程の場所で自分の手を見ながら何とか謝罪の言葉を紡ごうとしている。
「だめ、そんな、絶望に染まった顔、しないで。本当に泣くから。ねえこっちを見て。お願い。お願いします…っつう」
「ミカさん、無理して喋らないでください! 興奮したら余計痛むぞ! ザコル殿はしっかりしてくれよ! いいですか、ちゃんとここにいてくださいよ。俺は、あんたを信じてますからね。医者を…」
エビーが踵を返そうとしたので、思わず痛まない方の手で服の端を引っ張った。振動が逆の手に伝わって顔が歪む。
「…っぐう、はあっ、ダメ…っ、エビー。誰も呼ばないで。こんなの放っておけば治る。多分治る。…私、怪我しても異様に治りが早いの。こっちの世界に来てからなの。これまで誰にも言えなかったけど」
「は…? それってどういう」
「ミカ、それは本当ですか、何で今まで」
ザコルも顔を上げた。
「ごめん、なさい、ちょっと、自分でも気味が悪かったんです。言えなくて、ごめん、なさい…」
「ミカさん…っ、でも……あー、くそっ」
エビーが自分の頭を搔きむしる。
「分かりました。救急箱を届けるように伝えてくるんで、その手離してください。手当てくらいはさせてくださいよ。その袖めくってヤバかったらすぐ医者呼びますから! ザコル殿はそこ動かないでください!」
エビーは扉を勢いよく開け、フロアに控えるボーイの所へと走って行った。
「ザコル。こっちに来て。来るだけでいいから。ねえ」
痛みを堪えてザコル話しかける。
エビーに言われたのもあるのか、彼はその場からぴくりとも動かない。目はこちらに向くようになったがまだ揺れている。額に汗も浮かんで見える。
「こっちの手を握って。お願いザコル」
とにかく話しかけていないと、彼の精神がどこかに行ってしまうような気がして焦りが募る。
ガチャっと扉が開き、エビーが戻ってきた。
「フロアに救急箱置いてありました。ほら、傷見せてください。痛んでもめくりますからね」
エビーは救急箱をベッドサイドに置き、思い出したように洗面所へ走って手を洗ってから戻り、私の袖に手をかけようとした。
「待って。ザコルにさせてあげて」
痛まない方の手でエビーを制する。
「はあ? 正気すか? そんな場合じゃないでしょ。俺は反対です。もちろんザコル殿の人間性は信じてますけど、今はザコル殿こそ正気じゃねえんすから!」
「だから。だからだよ。この手当てを人に任せたらもう正気に戻れないかもしれない。絶対後悔するから。ザコル、お願い。私の傷を見て。あなたしかダメなの。お願いだから…!」
「…ザコル殿!」
どこから聞いていたのか、目覚めたらしいタイタが急に隣の部屋の入り口に現れた。
「ザコル殿、ほら、手を洗いに行きましょう! 手当てして差し上げるんです。ほら、待ってくださっています。急ぎましょう!」
タイタに直接ぐいぐいと押されたザコルは、はっと気付いたように立ち上がり、洗面所の方へと駆けた。手を洗って戻ってきた頃には目に少しだけ生気が宿っていた。
エビーがベッド脇を立ってザコルに場所を譲る。
「ミカ、怪我に触れていいですか」
頷くと、彼は繊細な手付きでニットの袖をめくった。
「……っ、んう…」
「痛いですよね、ごめんなさい」
袖を肘まで上げると、私の手首に刻まれた赤黒い手形が姿を表した。血は出ていないが内出血が酷い。少しひしゃげているようにも見える。
「こりゃ、酷い……」
エビーが言葉を漏らす。
「ミカ、とりあえず冷やしましょう。エビー、手拭いを持ってきてください。手の下に敷きます」
エビーがすぐに手拭いを束で持ってきて重ね、タイタが私の手の下に滑り込ませる。
ザコルはその間に別の手拭いを濡らして持ってきた。それを私の手に当てる。私はその手拭いに念じて凍らせた。
「魔法か…。冷やすのはいい案です。やりすぎは凍傷になるかもしれませんから、長くは続けないように」
「はい」
「ミカ殿、痛み止めの薬があります。飲みますか?」
タイタが薬箱から薬包を出して見せる。
「ううん、もう、さっきより少し痛みが引いてきたから。それに、私この世界の薬ってまだ飲んだことがないんだよね」
「それはヤバいっすね。体調いい時に少量ずつでも試しといた方がいいですよ」
こっちの薬が元の世界で服用した事のある薬と同じ成分とは限らない。最悪、アナフィラキシーを起こす恐れだってある。
「そうだね…。こっちに来てから魔力のあれこれ以外で体調崩した事無かったから油断してたよ…。ごめんね。考え無しで本当にごめん」
「謝りすぎっすよ。もう次に謝ったらこの傷にカラシ塗り込みますからね!」
「やだー、やめてやめて。ふふ、エビー、ありがとう。タイタも、ザコルも…」
笑う余裕が出てきた。多分、もう大丈夫だ。
「ミカ殿、いえ氷姫様、大事な場面で心神喪失などしていて申し訳ありませんでした。ザコル殿が謝られているあたりからは遠く耳には入っていたのですが…。俺は護衛失格です」
タイタが項垂れる。
「いい? この件は誰も悪くない。強いて言えばザコルを不安にさせるような事を言った私が悪いの。だから私のためだと思ってもう謝らないで。無かったことにしておいて」
三人の顔を見る。ふっ、と手首の痛みが引いた。
「ほら、治ってきたよ」
「本当ですか、駄目です、まだ動かないで」
ザコルは起き上がろうとした私を制し、凍って貼り付いた手拭いを怖々とはがす。先程の赤黒い手形はただの赤みに変化し、指先に感じていた痺れも少し和らいできていた。
ザコルがほう……っと息を吐く。エビーはその場で座り込み、タイタはそのエビーの背中を叩いた。
「起き上がってもいいかな。その手拭い貸してください。顔が汗でベタベタで」
ザコルは私が反対側の手をついて起き上がろうとするのを制し、私の背に手を入れて起き上がらせてくれた。さっきまで凍っていた冷たい手拭いをたたみ、丁寧に額を拭ってくれる。
「ザコル、抱き締めて」
「は? 何を言って…だ、大体まだ手が痛むでしょう」
「ダメ。早くして。不安だったんです」
涙がにじんできた。
ザコルはその涙を見て焦ったか、動揺しつつも腰を浮かせた。そしてベッドに腰を降ろし、痛む手を巻き込まないよう慎重に抱き締めてくれた。
「良かった、ザコルがちゃんと戻ってきてくれて…」
「良かったは、僕の台詞です。ごめんなさい、ごめんなさいミカ。痛い思いをさせて」
ザコルの声も腕も震えている。
「謝らないでって言ったのに…。そんな事言うと私も謝りますよ。ごめん、ごめんなさい、ザコル。いない方が良かったなんてもう言わない。ちゃんとここにいるから。それに、我慢なんてしないで早く痛いって言えば良かった。あなたを傷付ける事になって本当にごめんなさい」
ザコルの背中を痛まない方の手でさすった。ザコルの震えが止まるまで、しばらくそうしていた。
「…それでも、覚えておいて欲しいんです、ザコル。どんな事になったとしても、私はあなたが幸せになってくれないと困る。私のためを思うなら、ちゃんと他の人の事も見てください。お願い…」
ザコルは私から体を離し、エビーとタイタの顔を見た。
エビーはムスくれている。タイタは笑顔だ。二人ともザコルの方を見ていた。
「すまない、二人とも。僕が、こんな…」
「謝んなって言われたばかりっしょ。俺はまだ納得できてねえし、絶対に看過できねえとこですけど。他ならぬミカさんのお願いなんで。一旦無かったことにしましょう。大事にならなくて良かったです。…本当にな」
エビーは腕を組み、顔を逸らした。
「ザコル殿、あなた様が色々と葛藤されていることは知っています。でも俺、いや俺達はそんなあなた様のファンなんですよ。あなた様が選んだ最良の人の言葉にぜひ耳を傾けてください。氷姫様のお覚悟は俺達ファンにもしっかり伝わっていますから」
「タイさんはもう少し自重してくださいよ…。こんな時まで何言ってんすか。職務思い出せっつうの」
拳を握りしめ笑顔で言うタイタをエビーが肘でつつく。
「二人とも…………ありがとう」
ザコルが二人に向かって頭を下げた。
タイタは笑顔で頷き、エビーはムスッとしたままフンと鼻を鳴らしている。
私はというと今の会話に引っ掛かりを覚えていた。私の覚悟が伝わっている、とは。
「……ん? タイタ君、私って、もしや猟犬ファンクラブに認知されてる…の…?」
「はい! 突如現れたあなた様の存在は当初物議を醸しましたが、あなた様がザコル殿のしごきを耐え抜き、王族にも媚びず靡かず、それどころか第二王子殿下のザコル殿に対する暴言を許すまじと真っ向からやり合い、ザコル殿の経歴を知っても全く動じず理解を示され、ザコル殿が子爵領へ行くとなったらセオドア様に頭を下げてまで懇願し、女性の身でありながら過酷な旅への同行を強く望んだという武勇伝は既に語り種となっております!」
「…………それ、誰かな? 広めたのは」
「オリヴァー会長です!!」
私は頭を抱えた。いや、正確には片手で額を押さえた、だが。
「何から突っ込んだらいいのか分かんないけど、えっと、まず情報の回りが早すぎじゃない…? いや、だってさ、オリヴァーがそのあたりの事を全部知ったのって出立の三日前とかでしょ? タイタ君は私達に同行して別れてすぐ捜索に出てるんだから、その話をいつ知ったの? どこで情報受け取ってんの?」
「もちろん会長を通して知りました! 会長は、氷姫様の話を聞いたその日の内には信頼できる精鋭メンバーに当てて密書を早馬で出され、翌々朝までには全ての返答が揃いました。出立前に俺もその書状を確認しておりますが、精鋭達の熱い気持ちが伺える素晴らしい返答ばかりで!」
「そんなバカな…。ちょ、ちょっと、ザコル、もう一回だけ、抱き締めてくれませんか。不安になってきちゃった」
「ミカ、すみません。僕も全く知りませんでした。あなたの噂を広げているのはせいぜい第二王子殿下くらいかと」
ザコルも戸惑いつつ手を広げ、もう一度私を抱き締めようとした。
そんな私達の間に、スッとエビーの手が差し入れられる。
「そんな真似して、この熱い精鋭野郎に燃料投下する気すか、お二人さん」
冷静なエビーの言葉に二人で固まる。
「…エビーはオリヴァーの活動を知ってたね? どうして教えてくれないの」
「申し訳ないんすけど、俺じゃ次期伯爵様のする事にゃ口出せねえんすよ。流石に、出立三日前の話まで全国に広めてるとは知らなかったすけど…。もう、この件を秘密にする事も諦めた方がいいかもしれませんねえ」
「そんな…! この件だけは…!」
「ミカ、僕のことはいいんです、あなたを害したんですよ。どんな処罰も受けますから…」
私は縋るような気持ちでタイタの方を見る。タイタは首を振った。…いや、どっちだ。
「エビー、あまり馬鹿にしてくれるな。氷姫様が御身を呈して無かった事にしろとおっしゃったのだ。このエピソードだけは俺の胸の内に秘めさせていただく。これ程ファン冥利に尽きる事があるだろうか。いや無い」
反語か。
「氷姫様はおっしゃった。どんな事になったとしても、私はあなたが幸せになってくれないと困る。けだしこれは名言ではないでしょうか。エピソードの詳細は省きますが、この言葉だけはオリヴァー様にしっかりとお伝えさせていただきます」
「ちょちょちょやめてやめて? 何で私の言葉まで名言に加えようとしてんの? 猟犬ファンなんでしょ!?」
「深緑の猟犬ファンの集いは、あなた様方を満場一致で推しカプ認定しております」
「推しカプ!? そんなスラングまでこの世界にも存在してるの!? 平和だね!? この世界結構平和じゃん!! 争いの種になってるかもって悩んでた私が馬鹿みたいじゃない!?」
「ミカ、大声を出しては傷に障ります」
ザコルは興奮する私を宥めようとオロオロしている。
「氷姫様。俺達猟犬ファンの集いは、ザコル殿とあなた様に何かありましたら全力でお支えする所存です。あなた様を直に護る役目こそザコル殿にしか許されませんが、それ以外の事に関しては必ずお力になってみせます! 秘密裏に医者にかかりたければメンバーに名医もおります! 是非ともこの俺、タイタを通してお申し付けください!」
手の痛みが完全に引いてきたため、今度こそ両手で頭を抱えた。
心配そうにしているザコルには、大丈夫だと繰り返し言った。
◇ ◇ ◇
「僕は僕自身がどんな力を持とうとも、主と認めた方が生きろと言えば生き、死ねと言えば死にます。それがサカシータ一族の誇り、シノビの流儀……くぅ、この言葉を生で聴けただけで俺は一生生きていける」
「タイさん、それもう三百回くらい言ってます」
翌朝、食堂に連れ立って来た私達四人はボーイに個室へと案内されていた。
食堂の中は焼きたてのパンやソーセージのいい香りが漂い、宿泊客達の賑やかな声で満ちていた。今日も外はいい天気のようだ。
◇ ◇ ◇
昨夜はあの一件の後、心配する三人にぞろぞろと付き添われて自分の部屋へと戻った。
私は再びシャワーを浴びてぐっすり寝…られたら良かったのだが、あれから全然寝付けなかった。
二時間程格闘したが、目が冴えてどうしても眠れない。起き上がって布団をはね、水でも飲もうかと立ったらドアをノックされた。当然ノックの主はザコルだ。
「起こして本当にごめんなさいなんですけど…。ただ眠れないだけなんです。だから、ザコルは気にせずに寝て? …無理ですか? はあ、そうですよね無理ですよね…」
私が恐縮しながら言うと、ザコルが部屋に入ってもいいかと問うので通した。どうせザコルも私が寝るまで寝てくれないのだ。話し相手になってくれるなら歓迎しよう。
「手を握りましょうか。あなたが寝付くまで。…いや、駄目だ。あんな事があった後で、流石に」
ザコルが自分で言って葛藤している。
「ザコル、手握ってくれるんですか? 私は嬉しいけど、怖くありません? 大丈夫?」
「何で僕の方が心配されているんです。痛い思いをしたのはあなたですよ」
「そうですけど、そもそも、私がネガティブな事言ったのが悪かったんじゃないですか。もう治りましたし……でも。そうですよね、やっぱり気持ち悪いですよね。傷がこんなスピードで治るなんて」
「そんなわけないでしょう! ほら、握りましょう。痛かったらすぐに言ってください。いくらすぐに治るとしても、痛いものは痛いんですから」
ザコルは私の背を押してベッドに入らせ、脇に椅子を持ってきて座った。私の手を丁重に取って怪我の治りを検分したのち、優しく手の甲を握り込んだ。
「本当はね、怖かったんです」
「やはり」
「違う、そうじゃありません。まずはね、傷がすぐ治る事。あのレベルの怪我はしたことなかったですけど、擦り傷くらいなら本当に一瞬で治っちゃうので…目の当たりにすると結構不気味ですよ。それから、風邪や食あたりも起こしてないんです。睡眠不足や疲労状態にはなるのにね、不思議です」
「ミカが健やかに過ごせる能力ならば、僕は歓迎しますよ」
ザコルは本気らしく、何の気負いもなく真っ直ぐ私を見つめている。
「この能力があるって事は、私って、もしかしたら人として死ねないのかもしれないでしょう」
「人として、死ねない……?」
やはり、私は人間ではないのかも、いや、人間ではなくなってしまったのかもという考えがずっと頭の片隅に巣食っている。
これは、自分という未知の生き物に対する恐怖だ。
「どうやら、見た目も若返ってるようですしね。例えば、誰かに害されたとしても簡単には死なないんじゃないかって。そうしたら、護衛してもらう意味も、なくなっちゃいますよね…」
「そんな事は…っ」
ザコルが思わず手に力を入れそうになって、慌てて緩めている。
「…ザコルが、私の側から離れるの、本当に怖くて」
「ミカ、それは僕の方で」
「違う、離してあげられないのは、私の方なんです。私の存在こそ不安定で、あなたを幸せにできる確証もないのに」
私は起き上がって膝を抱えた。
「あなたをこれ以上、こんな人外のために縛り付けたくない…のに…っ」
ザコルはしばらく黙り込み、嗚咽を漏らす私の手を握り続けていた。
「……ミカ、不謹慎に聴こえるかもしれませんが、僕はむしろ安堵しています」
「安堵?」
私は顔を上げた。心底不可解そうな顔でもしていたのだろう。ザコルがふっ、と笑った。
「あなたの不可解な顔は可愛らしいですね」
「意地悪…」
ジトリ、横目で睨んでみせる。
「あの、ミカ。怖かったら、正直に言ってください。それに痛くても」
「…? はい。私がザコルを怖がる事はないですよ。痛いのは早めに言うよう心掛けますけど」
ザコルはしばらく何かに迷うように視線を下に泳がせていたが、ふと決心がついたように顔を上げた。
「だっ、抱き締めてもいいですか、ミカ」
「はい、もちろん」
ザコルがベッドの方へ腰を移し、体を捻って私を抱きすくめる。こんな風に正面から抱き締めてもらうのは、さっきが初めてだったんだなと今更ながらに気づいた。
「…頼んでおいてなんですが、もっと警戒するとか、何か」
「警戒? 何を?」
ザコルははあー……、と長い溜め息をついた。
「ミカが、僕に遠慮する必要なんてないんです。そもそも僕の方こそ人外に等しいんだ。それに、ミカが簡単に死なないなんて、僕にとっては安心材料にしかなりません」
「護衛するのは楽になりますよね」
「そういう意味ではありません。ミカ、簡単に死なないという事は、同じ苦痛をずっと受け続けられるという事です。いくらでも残酷な仕打ちを受け入れてしまえるという事です。人の悪意を甘く見てはいけません」
ゾッとした。例えばさっきのような激痛を治るたび絶えず与えられたら、肉体は死ななくても精神は死ぬかもしれない。ザコルの服をぎゅっと握る。
「怖がらせてすみません。でも、覚えていてほしい。あなたがここに生きている限り、あなたを護らない理由なんてありません」
「解りました…。気付かせてくれてありがとうございます。ちゃんと気をつけます」
「それで、ミカが簡単に死なないという事は、僕があなたを失う恐怖からほんの少し解放されるというだけの話です」
抱き締める力が強まった。
「んぐ……」
「こうして抱き締めても、壊れにくいというのは良い事です。正直、力加減が出来る自信が無かったので」
「んぎ…ち…からっかげん?」
「ミカは、僕を好ましく思っているのでしょう?」
「ん…あい、そう…でずねっ…」
「僕も好ましく思っています」
抱き締める力がさらに強まったため、耐え切れなくなって背中をバシバシと叩いたらやっと腕を緩めてくれた。
「…はあ、はっ、はあー、ふう……。く、苦しいじゃないですか!!」
ザコルの胸をバンと叩いて文句を言う。
「よく言えましたね。できれば、もっと早くに文句を言ってほしいです」
「もう! わざとですか!? 意地悪でするんなら私だって怒りますよ!」
「すみません。ただ、僕と触れ合うというのは、こういう事だと知って欲しかっただけです」
「そんな、野生の肉食動物みたいな事言って……」
ザコルが私の耳元に口をスッと寄せる。
「その野生の肉食動物に、体を許すような事を何度も言ったのはミカですよ」
「………………」
「それとも、もっとぐちゃぐちゃにして欲しいですか」
「………………」
「…さあ、これで寝られますね。布団に入って」
ザコルは私をそっと倒してベッドに寝かせ、布団を肩まで引き上げた。
「おやすみなさい」
扉が開いて閉まる音がしたが、私の意識は遠のくばかりだった。
◇ ◇ ◇
「ミカさん、ミカさん。さっきからずっとパンを千切って分解するだけの作業してますけど、大丈夫すか」
エビーの言葉に顔を上げる。
「ミカ、その服は後で着替えた方がいいのではないですか。これ、拭くものです」
ザコルの言葉に顔を下げる。太腿に思い切りヨーグルトをこぼしていた。
「……あ、白い、ぬるぬる。濡れちゃった」
「何か微妙に際どい事言ってますけど、本当に大丈夫すか? 何か心身喪失って感じ…」
エビーがスッとザコルの方に視線を移す。
「そういや、夜中に部屋出て行きましたよね」
「ミカが、遅くまで起きているようだったので、様子見に」
「ほお、様子見に」
「はい、様子見に」
「それで、心神喪失するような、何かを」
「僕は昨日抱き締める以上の事は何もしていません」
「ほぉーん…」
エビーが手元にあったパンをノーモーションで投げつけた。
ザコルは顔の前でパシっと難なく受け取り、そのままかぶりついて咀嚼する。
「ミカ殿。お食事中ではありますが、発言をお許しください。昨日はお見苦しい場面を何度もお見せして申し訳ありませんでした。これ以降はは個人的感情の表現はなるべく慎み、職務に邁進してまいります。その意志表明として、あなた様の道中の安全をより強固なものにするべくここに今後の旅程表と俺自身の反省文をしたためましたのでお目通しいただきたく」
タイタが私の席の横に立って分厚い紙束を恭しく差し出した。
「…………厚っ!! 何これタイタ君! 昨日こんなの書いてたの!? ちゃんと寝た!?」
「もちろんです」
「……いーや、寝てないね。その顔は寝てても一、二時間てとこだよ」
「な、何故分かったのですか!」
私は目を眇めてみせる。
「ズレた社畜の考えなんてお見通しだよ。旅程表はまだともかく、反省文なんて一円の儲けにもならないものに時間かけてどーすんの。あなた護衛でしょうが、体が資本のくせに充分に休息を取らないなんて逆に職務怠慢だからね!? 旅程表も…何かこまかく考えてくれてるみたいだけど、私の気まぐれや体調不良でも起きたらすぐにパアだよ。ざっくり道筋だけ決めて、後は現地で臨機応変にしていくしかないでしょ。気持ちはありがたいけど、ちゃんと休んでない人を護衛として連れてくなんてできないから! 今から三時間、しっかり寝てきなさい! 部屋に戻る!」
「はっ、で…でも」
「でももだってもない! 後はエビーに頼むからいい! 休みなさい!」
「はい! 分かりました。エビー、頼んだ…!」
私はタイタをグイグイと部屋の外へ押し出し、エビーに向き直った。
「エビー、朝食が終わったらチェックアウトの時間を延ばしてきて。どうせ連泊で押さえてたんだろうから次の客なんていないでしょ。昼までタイタを休ませます。あと、昨日みたいに水を樽で用意してもらって」
「あ、はい。了解す」
エビーが立って扉の外のボーイに声をかけにいく。
溜め息をつきつつ、タイタが残していった分厚い資料を片手に椅子に座り直す。
「あー、もう。一気に現実に引き戻されたわ。今時自主的に反省文なんて書いてくる若手なんている? もう」
一応持ってきていた肩掛けカバンから鉛筆を出し、手元の資料をペラペラとめくり、目を通していく。
「ザコル、ここの道の事なんですけど。街道から一歩逸れる道に入るとありますが、ここは通れそうですか。私が覚えている限りだと、ここは山岳地帯になると思うんですが」
タイタが作った資料を指差してザコルに確認を取る。
「そうですね。通れない事もないですが少々険しいです。そこを通るくらいなら、こちらの道の方がいいかと。若干遠回りにはなりますが、比較的平坦なので進みも早いでしょう」
「ありがとうございます。今日、昼まで待機するならこの辺りまでしか行けないね。宿泊はこっちの町になるかな」
鉛筆でサクサクと直しを入れる。
「あー、反省文が長い。いや、これ半分ザコルへのファンレターじゃん。何書いてんのあの子」
ぶつぶつ言いながら反省文を読み込んでいたら、エビーの控えめな笑い声が聞こえてきた。
「エビー、何笑ってんのよう」
「ミカさん…マジかよ、はははは、どういう事なんすかマジで!」
「どうもこうもないよ、朝からこんな紙束渡されたら我に返るっての」
「くふっ、くくくく……あははははは! 何なんすか!? さっきまで心神喪失してたのにどういう事!? 面白すぎてもうテイラー帰りたくねえ…!!」
エビーは腹を抱えて爆笑し始めた。
「エビー、タイタの教育って誰がしてんの? ハコネ兄さん? 笑ってないで答えて」
「怒んないでくださいよお。ハコネ団長は若い奴一人一人見るほど暇じゃねえっす。強いて言えば、面倒見てたのはカニさんすね」
「ああ、それで二人で行動してたんだね」
カニタがタイタに細かいダメ出しをしていたのを思い出す。
「タイさんね。ちょっと良いとこの人なんすよ。訳あって没落しちまったらしいんすけど。教養もあるし、剣術の基礎もしっかりしてっから強いことは強いんすけどねー。それ以外はちょっと世間知らずっていうか、融通利かねえっていうか、視野が狭いっつうか、真面目ではあるんすけど」
「あー、真面目で融通利かなくて好きな事にはのめり込む…なるほど、ルーチンワークが向いてるタイプだね。臨機応変にってのは苦手か。具体的に指示してあげた方がいいね」
「よく分かりますねえ。タイさんはほんと臨機応変とか無理らしいんすよ。カニさんがいつも先回りして仕事振ってますから。まあ、そのカニさんは報告に行っちゃいましたけど…」
その時、トントンと個室のドアをノックする音がした。
応じるとボーイが例の樽三つを台車に載せて運び入れてくれる。
「よし、とりあえず反省文は禁止にしよ。無意味な慣習撲滅委員会発足! さあ、私はこれ凍らせたら部屋に戻って着替えと荷物整理でもする。エビーはチェックアウトの件お願いね」
「了解す!」
「僕はどうするんです、ミカ」
ザコルがソワソワと、何か指示して欲しそうな顔でこちらを見る。
「何でザコルまで…。じゃあ、えーと、タイタがちゃんと寝てなかったら、添い寝しましょうかとでも耳元に囁いといてください」
ザコルが物凄く嫌そうな顔をしたのが可笑しくて、私は思わず声を上げて笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
部屋に帰って汚れたワイドパンツを脱ぎ、汚れの部分だけを軽くゆすいで手拭いで叩いた。しっかり水を手拭いに吸わせて椅子の背に干す。
タイツにも染みていたが、そちらは濡れた手拭いで拭くにとどめ、もう一枚のワイドパンツに脚を通そうとし、はたと考える。
上はシンプルなライトグレーのニットだ。もう少し遊んでもいいかもしれない。どうせ今日はこのままチェックアウトだし、変に思われても平気じゃないか。護衛も増えたし、ちょっとくらい旅を楽しんだっていいはず。
よし、汚れを取ったパンツはウール生地だったのですぐ乾いたし、荷物は整理し過ぎるほど整理できた。男部屋を覗こうかと部屋を出たら、すかさずザコルが隣の扉を開けた。反応が早すぎる…。
「タイタ君は寝てますか?」
廊下だが少し小声で聞くと、ザコルは頷いた。
「はい。気は進みませんでしたが、あなたの言う通りに囁いたら反応がなくなりましたので横にしてあります」
「ふふ、威力抜群」
「ミカ、そのスカートを履いたのですね」
「そう。どうですか。変?」
「僕に服の組み合わせの何たるかはよく解りませんが、そのセーターとそのスカートは意外なほど馴染んで見えます」
「でしょでしょー」
ガチャッと男部屋の扉が開き、エビーが顔を出す。
「チェックアウトはちゃんと延ばしておきました」
「ありがとう。今更だけど、いきなり仕切り出しちゃってごめんね」
「いいすよ、俺もタイさんの上司とかじゃないんで…。今後も暴走してたらはっきり言ってやってくれると助かります。いや、こんな事お願いすんのは逆に申し訳ないんすけど…」
「いいよいいよ。ザコルも何か気が付いたら言ってあげてくださいね」
「はい。程々の距離から注意しておきます」
心神喪失しちゃうからね。
「それよか、そのスカートいいっすね! 山岳民族のスカートでしょ? 滅茶苦茶似合いますよ! シンプルなニットに合わせるとかセンスあるぅ!」
「ありがとう。エビーって褒め上手だよね、嬉しいよ」
そう、このスカートは昨日市場の屋台でシリル少年が選んでくれたスカートだ。
丈はミモレ丈、地色は黒で、鮮やかなピンクやグリーンの糸で緻密な刺繍が施されている。裾には緑の小さな丸いポンポンが等間隔にあしらわれていて可愛らしい。素材は綿のようだが、ギャザーを寄せて何枚か重ねられており、パニエを履いたようにふんわりと広がって見える。生地の層があるので今の気温くらいなら寒く感じる事もないだろう。
「本当は上着も選んでくれたんだけどね、ここじゃ流石に目立ちすぎるかなと思って。この格好のまま宿をうろついたら浮くかな?」
「いや、別にいいんじゃないすかね? 商人が多いからそんな畏まった服装の人ばかりでもねーし」
「ほんと? じゃあ、ロビーで少し話しませんか。ブーツも取りに行きたいし」
寝ている、もといフリーズしているタイタを部屋に残し、三人でロビーへと移動する。
フロントでブーツを受け取った後、会話を聴かれないよう人を避けてロビーの奥まった席に座る。陰でブーツに履き替えている間、エビーが紅茶やケーキなどを適当に注文してくれた。
エビーは多分、私が基本的に食事内容にこだわらない事に気づいている。よく見ているなと思った。
「朝は聞きそびれましたけど、手はもう平気すか」
私はニットの袖をめくって二人にみせる。
痕は僅かな赤みすらも残らず消え、本当に怪我をしたのかさえ疑うほどまっさらな手首が現れた。
「綺麗なもんすね」
「心配かけてごめんね」
「ミカ、あなたが謝るのなら、僕は膨大な反省文を用意しないといけません」
隣に座ったザコルが真面目くさった顔で言った。
「全くっすね。目を通すのはミカさんですけど」
「ええー、反省文はもうやだー」
「ははっ、嫌そー」
エビーもザコルに思う所はあるのだろうが、私を気遣ってかこのノリで流してくれるようだ。
「決して、僕がしたことは許されませんが…。今回の事は、氷の件以上に慎重に扱った方がいいですね。ミカ、今後も決して口外はしないようにしてください。僕らも秘密事項として扱います」
ザコルは真剣な表情のままそう言った。エビーも頷いている。
「ミカさんの言った通り、外部の医者なんて呼ばなくてマジで良かったすよ。あの場で一番冷静だったのはミカさんだ」
「エビーもちゃんとしてたよ。救急箱とか色々ありがとうね」
「いや、俺だってすげー動転してましたよ。昨日散々言ったんでもう言いたかねえんすけど、今後はマジで気をつけてくださいよね、猟犬殿」
「はい」
ザコルは神妙に頷いた。
「で、ミカさんの能力なんすけど」
「ええ、昨夜二人とも話したのですが、恐らくこれは単純な再生や巻き戻しではないと思います。憶測なので検証は必要ですが」
「疲労には効かねえって言ってましたもんね。そういう力に心当たりありますよ」
「そうなの?」
「テイラー家の始祖様ですよ」
テイラー伯爵家の始祖と言えば、イギリス辺りから来たのであろうエレノア様とおっしゃる方だ。癒しの力、もとい治癒魔法を以て国に貢献した聖女様でもある。
ザコルとエビーによれば、治癒魔法とて万能ではなく、蓄積した疲労や老いには効果を発揮しなかったと伝わっているという。
「じゃあ私、若返ってるとか、ヒドラみたいに再生し続けてるわけじゃないって事?」
「ヒドラが何に相当するのは分かりませんが。少なくとも、若返ってはいないと思いますよ」
私は自分の頬を両手で引っ張って見せる。…痛い。
「何してるんです。赤くなりますよ」
「ふぐ、はほるははへーき」
すぐ治るから平気。しかしザコルに手を外されて膝下に戻された。
「俺はこっちに来た直後からミカさんのその顔見てますけど、年齢の印象はずっと変わってねえすよ。死ぬ程やつれてる状態から元気な状態にはなりましたけど」
エビーは護衛隊でもあり、座敷牢の監視役として立っていた一人でもある。
「そうなんだ…。こっちの人には元から若づくりに見えてるって事なのね。はああ、良かった。若返ってたらどうしようかと思った。最悪、永遠にこの歳のこの格好のまま生きていく可能性もあるのかと思って…。昨日もベッドでごろごろぐるぐる考えてたら眠れなくなってね。誰かに聞いて欲しかったんだよ、ありがとう」
異世界で一人不死身になったら流石に心折れる。
「ミカさんは自分が普通の人間じゃなくなったかもって思ってたんすね」
「そう、そうしたら実は魔獣だった説も再浮上じゃない? まあ、そうなったら座敷牢に戻ってもいいけどさ」
「なるほど、名案です。そうなったら僕が一生付きっきりで面倒を見てあげますよ」
ザコルがニコォ…と笑顔でこちらを見た。あ、何だろう変なスイッチ押した。
「…おい、そこの拗らせた変態よう。俺やタイさんが秘密守れなかったら本気で引き離されるかもしれないの分かってるんでしょうね。昨夜も何しやがったか知らねーけど、あんま調子に乗ってっと…」
昨夜? 昨夜って何したんだっけ。
昨夜って、きのうって…
「ミカ、ミカ。どうしました」
「ああもうマジで何しやがったこの変態野郎! ミカさん、ミカさん、ほら、タイさんの反省文でも見て! 戻ってきてくださいよお!」
結局私はその後十分ほど心神喪失していたようだが、タイタの反省文をエビーが読み上げ始め、その内容の酷さで我に返った。
「これ全然反省文じゃないよ!」
「ああミカさん! 良かった、ミカさんがちゃんと戻ってきてくれて…!」
正気に戻った私を見て、エビーがどこかで聞いたようなセリフを吐いた。
◇ ◇ ◇
タイタが目覚めた、もとい我に返ったのは、もうすぐ正午になろうかという頃だった。
「タイタ君、体調どう? とりあえずこれね。資料ちゃんと見たから」
「あ、ありがとうございます…よく休めました…」
少し気まずそうにしているタイタに、例の資料を返した。
「ここ、山岳地帯を通るルートは修正したからね。今日はあんまり進めないと思うけど、ここのサカシータ領手前の町までは行きましょう。残りのルートもタイタ君が考えてみようか。でも、もう資料までは作らなくていいからね。ザコルは土地勘あるし、私もある程度の地理は頭に入ってるから、前日夜に口頭で次の日の予定を伝えるくらいでいいでしょ。一応地図もあるから使って」
私は伯爵家で自ら写してきた地図を広げて見せる。地図原本の写しをベースに地理に関する本を数冊参考に作り上げたので、原本よりも詳細に仕上がった。
これを作ったお陰で、オースト国内は地名はもとより地形なども含めほぼ頭に入っている。
ちなみにフジの里はどこにも載っていなかった。あそこは本気の隠れ里だな…。ジーク伯爵家の庇護は受けているようではあるが。緑茶と焼酎はどうやってお金に替えているんだろうか。里の名前もあまり口に出さない方がいいのかもしれない。
「すげー、何すかこれ。書き込みヤベえな…。ミカさん、これはマジに知り過ぎすよ。これ他国の奴には絶対渡しちゃダメっすからね。よく持ち出しが許されたな…」
「ちゃんと許可は取ったよ。軍事機密でしょこれ。もし何かあったら即処分するから」
「ミカ殿が勉強家だというのは知っていたつもりでしたが、ここまでの徹底ぶりとは…。俺の拙い資料をお見せしたのが、今更ながら恥ずかしいです」
「そんな事思わなくていいの。向上心は素晴らしいと思うよ。今回は、下準備も整わない中で私達を追っかけてきてくれたんでしょ。タイタ君なりに考えてくれてありがとう。でも、旅の途中で無理は禁物だよ。お腹空いてるでしょ? 私達はもう軽く食べちゃったからさ、サンドイッチ貰ってきたよ」
「あ、ありがとうございます。何から何まで」
先程ロビーでアフタヌーンティーばりのケーキ&軽食セットが出てきてしまって、全くお腹は空いていない。タイタ用にも軽食を包んでもらったのだ。
「悪いけど、すぐ出発するよ。荷物運び出してる間に食べちゃって。反省文については後でね」
「承知いたしました! すぐに食べます!」
タイタがサンドイッチを勢いよく詰め込んでいる。喉に詰まらせないか心配だ。
私はタイタの前にそっと水を差し出した。
「ミカさんて、何だかんだ言って資料も目ぇ通してくれるしチャンスもくれるし心配もしてくれるし、優しいすよねー」
「エビーは褒めるのが本当に上手だよね」
「いや、事実すよ」
私は手をシャキーンと顎に当ててポーズを取った。
「ふっふっふ、新人の世話を押し付けられ続けて幾星霜、堀田の姐さんとは私の事」
「姐さん! 俺ついて行くっす!」
「続け続けー」
エビーを伴って荷物の運び出しを手伝いに行く。と言っても、ザコルがほとんどカートに載せてしまった後だった。
◇ ◇ ◇
色々ありすぎて凄く長く滞在していたような気がするが、ようやくクリナに荷物をくくりつけ終わり、出発の時となった。
今日は暖かい日だったので、コートはとりあえずクリナに引っかけさせてもらう。髪には例の民族衣装の頭巾を被り、大通りに向かって歩き出す。
混み合う市場を通るのは避けたが、すれ違う人の視線がチラチラと私に向いているのが分かる。
山岳民族の衣装を取り入れた人物が男三人と馬三頭を引き連れて歩いているのだ。エビーとタイタは私服だが剣をぶら下げているし、私が腕を借りているザコルは騎士団服のままだ。どう見ても山岳民族の仲間ではない。
「目立ち過ぎかな」
「目線を寄越しているのは街歩きの女性ばかりですよ」
隣を歩くザコルが周囲に注意を向けつつ言う。
「ミカさんのコーディネートがいいなって思ってるんじゃないですか。そのスカート、ブーツとの相性もいいすね。頭巾も可愛いすよ!」
「そうかな、流行っちゃうかなあ」
エビーが褒め上手なせいで調子に乗った私はザコルの腕を離し、その場でくるりと回る。スカートがふわりと広がって円を描いた。確かに、周りの女性達がこのスカートに注目している気がする。
「ミカ、嬉しそうですね」
「はい。ザコルからの褒め言葉も募集中です」
「とても可愛らしいですよ」
「ふふ、ありがとうございます」
私は再びザコルの腕を取り、歩き出した。
街の大通りまで出ると、馬車や馬が行き交っていた。ここからなら馬に乗って移動できる。ザコルに持ち上げられてクリナに跨る。
馬上から大きなワインの専門店や、チーズや加工肉の高級店などが見える。
大きな街を見るのはテイラーの領都と深緑湖の街に続きまだ三ヶ所目だが、人通りも多く商売も盛んで、よく栄えた街だと思った。あの前モナ男爵夫妻が大事に育ててきた街なのだろう。
「彼らの息子さん、現モナ男爵様は今どれくらいのご年齢なんですか?」
「僕の一番上の兄と同じくらいだと思います。長兄は僕の十ほど上なので、三十五前後では。男爵本人はあまり領地からお出にならないのでしばらくお会いしていませんが、子供の頃に何度か遊んでもらった事はあります。兄達とよくつるんでいましたので」
ザコルの兄弟の話が出た。一度詳しく聞いてみたかったのだ。
「どんな遊びをするんです?」
「色々ですが、僕がオリヴァー様くらいの時、うちの兄弟全員と現モナ男爵であるリキヤさんを合わせた十人で二手に分かれ、ツルギ山で戦ごっこをしたのは楽しかったです」
「それはまた…ワイルドな…」
「ちゃんと範囲は区切りましたよ。高原の街あたりからこっちっていう」
「大雑把! 広ッ! それ、決着付くんですか?」
下手したら遭難してしまいそうだ。
「僕は当時次兄と四兄、五兄、九男である弟とチームを組んでいました。長兄とリキヤさんの二人による猛攻を次兄と五兄が迎え打っている間、末の双子である僕と弟が六兄、七兄を闇討ちし、腹違いで同い年の四兄と三兄の死闘は朝まで続いて両者共倒れ、結局最後は次兄と僕ら双子がリキヤさんを人質に取って長兄を倒しました。僕らのチームの勝利です」
「情報量が多すぎてこんがらがってきたんですが、まず、子供達だけで岩山に行って一晩越えているのに、親御様はご心配なさらないんですか?」
「確か、うちの父はモナ領に出向いていたはずです。きっと前モナ男爵様に捕まっていたのでしょうね。第一夫人である義母は前日からどこかに遠征に行っていましたし、僕の実母である第二夫人は兄達を信頼して好きにさせるタイプでした」
「情報がもっと増えちゃった。タイタ君、詳しいでしょ、後で時間があったらでいいんだけど、サカシータ家の家族構成と詳細なプロフィールを教えてくれない?」
「かしこまりました!」
「もう工作員を便利に使い始めましたね。流石すよ姐さん」
せっかくだから、タイタ工作員にはサカシータ家について色々ご教授願おう。
「今はとりあえず一番気になった事だけ訊きます。ザコルが双子だったらしい件について」
「やっぱそこですよねえ。俺も知りませんでした。まあ、それより俺はモナドンが飲みたいんすけど」
エビーがワイン専門店を横目に言う。根に持ってるな。
「銘柄がそれと同じかどうかは知りませんが、ロゼワインなら毎年秋頃父宛に贈られてきていたと思うのでうちにあるかもしれません。まあ、父が水分補給代わりに飲んでしまっていなければですが」
「やった! 飲ませてもらえますよーに!」
エビーが拳を上げている。
「ふったっご! ふったっご!」
話が戻ってこないので私は拳を上げて主張した。
「ミカ、まだ先は長いのでゆっくり話しましょう」
「いやだ、気になる。気になりすぎる。この顔がもう一人いるなんて」
「落ち着いてください。弟とは双子ですが、そんなには似ていません」
「二卵性!」
「名をザハリと言います」
「ザコルにザハリ。お揃いみたいで可愛いです」
写真はないのか写真は。姿絵でもいい。
「姿絵姿絵姿絵」
「落ち着いてください。僕の実母はザラミーアという名なのですが、子供達が第一夫人の子か実子か紛らわしくなりそうだという理由で、実子の名は全てザから始まるようにしたんです。これは第一夫人である義母にも分かりやすいと好評だったそうです」
「そんな理由で…。逆に呼び分けづらくないですか?」
「兄弟が揃うとややこしくて呼び分けづらいです。実母は結局愛称で呼んでいました。僕達双子の事はコリーとハリー、というように」
「コリー」
「何でしょう」
「かっわ」
「ミカ、腕に頬擦りしないでください。飛び出ないとは思いますが、針などを仕込んでいますから」
「こっわ」
腕から頬を離し、定位置に戻る。
「いや、自分からこの距離感で絡むくせに心神喪失すんのかよ…」
「エビー、何か言った? 聞こえなかったんだけど」
「いや、独り言す」
横を並走するエビーはしれっとして答える。
「ふーん、ザコルには聴こえてたでしょ」
ザコルの方を振り返ってみる。
「そうですね、僕がちょっと褒めたくらいでミカがいちいち悲鳴を上げていたのは懐かしいなという話です」
ザコルは取り澄ました顔で視線を前に向けた。
「そんな話、今独り言で言います?」
「そうそう。ありましたねそんな事。俺はメイドのハイナに聞いただけすけど」
「今は褒め言葉をねだるくらいまでには成長しましたから。めざましいでしょう」
ザコルが私の髪に頬を擦り付けてくる。
むう。
「むくれていますね、ミカ。顔を見せてください」
ザコルが顔を覗き込もうとするので、私は全力で顔を背けてやった。
つづく