ブートキャンプ再開① 観たい試合が多すぎて身が足りない
コンコンコン。部屋を強めにノックする音が聴こえる。このノックの仕方は使用人じゃない。 誰だ…
「……エビー?」
そう声に出した瞬間、目の前にいた温もりがガバッと身を起こし、私は例によってベッドの上で投げ出されて軽くバウンドした。
寝坊かと思って慌てて起きて窓を見る。まだ暗く、ほんの少し白んだかどうかという空色だ。だがもうそろそろ身支度をしていないとマズい時間でもある。
ザコルが扉を少し開けると、やはりエビーが顔を覗かせた。
「へへっ、やっぱ寝坊しそうだったな。そろそろ起きてくださいよー」
「…お前、もしや昨日も…」
「昨日? ああ、よく寝てましたよねえ。あんたの寝顔じっくり見たのは初めてでしたよお」
「殺す」
「やめろやめろ俺ごと証拠隠滅しようとすんな! 寝癖ついてんぞ」
エビーは寝起きでほんの少し動きが緩慢なザコルの手をあっさりと避け、廊下へと逃げていった。
ぐぐ、伸びをする。昨日寝たのは夜も十一時近くだっただろうから、六時間弱は寝られただろうか。最近の細切れ短時間睡眠を思えば随分とよく寝られた方だ。夢を見た記憶さえ残っていない。きっとうなされてもいないだろう。
「ううーん、いい安眠法が見つかって良かった」
「何も良くありません。僕まで熟睡しては…!」
「悪意を持って侵入されたら流石に起きるでしょ。自分の勘を信じましょうよ。さあ、着替えないと」
「…仕方ない、僕が先に着替えますから布団にでも潜っていてください」
ザコルは一応、着替えと武器の一式をこの部屋に持ち込んでいる。私は彼の言葉には素直に従い、布団をかぶって丸まった。
同衾までしておいて何を恥じらっているのかとおかしな気分にもなるが、私とて流石に全身の着替えを眺めて冷静でいられるとは思っていない。
「さあ、ミカの番です。部屋を出ますから内鍵を」
「はいはい」
ザコルは朝食代わりの林檎を一つ持って部屋を出ていった。私は布団を出て指示通り内鍵をかける。
洗面を済ませてパパッと運動着に着替え、鍵を開けるとすぐにザコルが入ってきた。
彼は私をソファに座らせると、私の髪を梳かし始める。髪を結われるのが完全に習慣化してしまった。結われている間に私も林檎を手に取ってかじる。今日はサイドを編み込んだポニーテールにされるようだ。
「マント、戻ってきたんですね」
「ええ、昨日の内に部屋に届けられていたようです」
結い終わったら水を注いだカップが二つテーブルに置かれる。私はそのカップに魔法をかけて温める。ザコルは向かいのソファに腰を下ろし、カップを軽く持ち上げて私に礼を示してから湯に口をつけた。私は彼のために用意していたおしぼりに再度魔法をかけて温め直し、差し出した。
「湯沸かし魔法が便利すぎて、魔法のない生活に戻れそうにないです」
「あなたの場合どんどん使わないと体調を崩しますから、生活に役立つ魔法で良かったですね」
ザコルは受け取ったおしぼりで軽く手を拭いた後、顔や首などを拭き出した。
洗面のために用意したので使い方は合っているのだが、何となく飲食店のおしぼりで顔を拭くサラリーマンみたいだなと思いつつ眺める。
「ここが水の豊富な土地なのも助かりました。山神様にはやはり感謝すべきですね。これからお祈りの仕方なんかも覚えていかなくちゃ」
昨夜、山神様がツルギ山の水源に宿る神だと聞いた。
このツルギ山を囲むいわゆる山派貴族、サカシータ子爵領、モナ男爵領、タイラ男爵領は、いずれかの形でツルギ山からもたらされる自然の恵みを享受しているのだろう。暮らしにも直結するからこそ、今も昔も彼らは神と山の民を大事にし、強固な絆をもって神域を守っているのだ。
「別に、あなたまで周りに合わせて信じる神を変える必要はないんですよ」
「そうなんですか? 日本では割と嫁ぎ先の宗教に合わせるみたいな風潮があったので。大半の人はそれほど信心深くもないから、相手が余程タチの悪い宗教にハマってるとかでもなければあっさり……え、どうしたんですか?」
ザコルがおしぼりを顔に当てたまま動かなくなっていた。デジャヴ。
「……不意打ちは禁止です!!」
「えっ、何が?」
「何を自然に僕のために宗旨替えしようとしてるんですか!? 昨日まで全く本気にしてなかったくせに!!」
「ええー、全く本気にしてなかったって事はないですよ。可能性の一つくらいには考えてましたって」
「それを本気にしていないと言うんだ!」
コンコンコン、先程と同じような強めのノックが鳴り響く。エビーだ。
「はいはい、今行きます。さあ、ザコルもおしぼり置いて」
顔を上げようとしないザコルの後ろに回り、その手からおしぼりを無理やり抜き取…ぐっ、全然取れない。あまり引っ張るとおしぼりの方が千切れそうだ。
「ちょっと、そのまま行くつもりですか? イーリア様やアメリアに見られたら」
がばっ。
「あだっ」
「あ、す、すみませんミカ!」
ザコルが勢いよく上げた頭に額を打たれ、両手で押さえてうずくまる。
ザコルがすぐに立ち上がって様子を伺いにきた。
「ごめんなさい、痛かったでしょう、傷を見せて」
ガチャ。扉が開く。
「何か今悲鳴が聴こえたような、あっ、姐さんに何してんだ変態!」
「ミカ殿!?」
「違っ」
エビーとタイタがドタドタと部屋に入ってきた。
顔を押さえてうずくまる私の手を無理に剥がそうとするザコル、という微妙に怪しい構図に二人が眉を寄せる。
「ち、違うの、今、ザコルが急に頭上げたから後ろにいて巻き込まれただけで…」
私は慌てて顔を上げ、赤くなっているであろう額をさすりつつ見せる。
「ああ、何だ、朝から何を泣かされてんのかと」
ほ…、エビーとタイタが同時に息を吐く。いや、怪我をしてるのにホッとされるのもどうかと思うが…。
「涙は出たけど別に泣いてないから大丈夫……はー、痛かった…」
触っていると段々とコブらしきものが盛り上がってくる。が、すぐに引っ込むだろう。
「本当にすみません…」
頭を下げるザコルに、大丈夫大丈夫と手を振る。
「全く何やってんだか。姐さんも気をつけてくださいよ。小さな怪我でも気づかれる可能性あんですからね」
「…うん。気をつける。ていうか、言い訳も考えておいた方がいいかな。私って滋養強壮薬の塊だから怪我が治りやすい? とか」
「いや、それ自己治癒能力があるって言ってんのとあんま変わんなくないすか。寝ぼけてんすか?」
「うーん、よく眠れたからそんな事はないんだけど、気が緩んでるのは確かだわ。引き締めないと」
パチン。私は自分の頬を両手で勢いよく叩いた。
◇ ◇ ◇
「さあさあ、しまっていこー!」
気を引き締めて三日ぶりに臨んだ猟犬ブートキャンプ。
よく眠れたのもあって絶好調だ。先に柔軟体操を終えた私達は、例によって放牧場の外周をぐるぐるとランニング中だ。
「ミ、ミカ様…っ、もう少し…!」
「よせ、ペータ! 後で町長様に何と言われるか…!!」
「そうだしっかりしろ!」
今はこの広大な放牧場を五周した所だ。私のすぐ後ろには従僕の少年三人がついてきているのみで、女性陣は遠く離れた場所を走ってついてきていた。このブートキャンプを始めた時を思えば、まだ一人も脱落していないのは凄い。
同志村女子達は私や領民女性のペースに最初から合わせず、自分達のペースを保って距離を稼いでいる。
「みんな若いだけあって基礎体力も順応性も違うねえー」
「ミカ様もお若いでしょう!?」
「あんまりお若くないよーこの中ではねえー」
後方の女子集団の先頭はタキだ。彼女は元エリート戦闘メイドという事で体力も戦闘力もきっと群を抜いている。ただ出産と育児でブランクがあるだけだ。タキは年齢も皆より少し上なのだろう。私とは恐らく同世代か少し下くらいだろうと思うが…。
アメリアはまだ来ていない。昨日は恐らく明朝にチッカあたりを出発してサカシータ領に入ったはずだ。相当疲れた事だろう。何も昨日の今日で誘わなくてもよかったかな、と少しだけ悔やむ。
オレンジ髪の青年と灰色の外套を羽織ったコンビを連れたご婦人の方は、一番乗りくらいに放牧場に来て今も楽しげに散歩している。まだ薄暗い上、先の怪獣大戦争のせいで地面の隆起が激しいというのに、マージはまるで花畑でも歩くような軽い足取りだ。逆に連れられた三人の方はちょくちょく躓いて転びそうになっている。
そろそろ夜が明ける。この時間特有の、藍、紫、ピンクへと変化する空色が好きなのだが、今日は雲が多くて一面青灰色だ。しかしエビーの目もこんな色だったと思い起こせば、この空色もお洒落かもしれないな、と気持ちが上向いた。
「ミカ様、流石だぜ…戦は圧勝だったってのに気の緩みが全く感じられねえな…」
例の野次集団が鬼畜人外モードの入念な基礎鍛錬をきっちりこなしつつ話しているのが聴こえる。
すみません、今朝は気が緩み切ってタンコブ作ったりトンチンカンなことを申したりしておりました。
「野次三人衆も気合入ってるねえ…。彼ら最初、あんな感じじゃなくなかった…?」
最初はキツすぎると文句を言ってすらいた気もするのだが、今は真剣みが全く違う。心なしか顔つきも精悍になった気がする。
「君達、物足りなかったらあっちに参加してきてもいーよ」
私は後ろの従僕くん達に声をかける。
「きょっ、興味はありますが! まずはっ、この走り込みを完遂してからにっ、しっ、したいとっ、はっ」
「そう? じゃああと五周がんばろー」
「ごしゅっ、五周うぅ…!?」
やはり物足りなかっただろうか。別にあと十周くらいしてもいいのだが、それでは時間が押してしまう。手合わせの時間もしっかり取りたいので、あと五周で我慢してもらおう。
「山の民はいつ出発するのかな。みんなでお見送りできるといいね」
「それはっ、もちろんっ、ここにっ、来てない町民もっ、集まるっ、予定っ、ですっ!」
規則正しく息継ぎしつつペータが答えてくれる。流石だ、持久走をする上で呼吸法はかなり重要だ。
イーリアは例によってりんご箱でできた壇の上で檄を飛ばしている。今日は参加者が少ないだろうと思っていたのに、全くそんな事はなかった。
むしろ、初参加のザッシュやマネジを始め、町外から掃討に加わってシータイに泊まったらしい他町民、今まで参加していなかった元ザハリファンの女性達、テイラーから来た騎士団員の一部まで加わって人数は倍近くまで膨れ上がっている。この広大な放牧場が手狭に感じる程だ。
この基礎鍛錬には加わっていないものの、少し離れた所で談笑しながら剣を振って体を動かしている者達もいる。モリヤと元モナ男爵、もとい峠の山犬を始めとした年長組だ。
ちなみに、同じく年長組にギリギリ入るりんご箱職人達はこっちの基礎鍛錬に参加中だ。ザコルの手伝いというか、エビー、タイタ、同志達への指導を買って出ている。
「みんな遅くまで飲んでたのに二日酔いなんかにはなってないのかねえ。一昨日から寝てない人も多いはずなのに…。流石はサカシータ領民、皆鍛え方が違うって事か」
「い、いえ、ミカ様っ、あの、ええと…」
ペータが慌てて私の横に並び、はっきりしない物言いをしながら顔を窺ってくる。
「…え、私のせい? いや、流石に徹夜や二日酔いを打ち消す程の効果はないと思ってたんだけどな…」
私が声を落として答えると、ペータは小さく首を振った。
彼は私に本物の治癒能力がある事をうっかり知ってしまった一人だ。この町で暮らす彼から見ても、あの宴の翌朝にこれ程の大人数が元気に運動しているのは普通に見えない、という事か…。
「そう、ありがとペータくん。またおかしいと思う事があったらこっそり教えて」
ペータはこくこくと頷いてまた後ろに下がった。
もしかすると、私の魔力にあてられるとちょっと元気が出るくらいじゃなく、根本的な体力増強にでも繋がるんだろうか。『滋養強壮』の力が思っているより強いのかもしれないが…。もしそうなら、無自覚にエリアヒールや仲間を強化する系のサポート魔法を放っている状況に近いのでは…? それはもうちょっとした効果とは言えない気がする。
シシはこの魔力垂れ流し現象に関して、私の近くにいる人が『元気をもらっている』状態だと表現していたが、その威力や範囲までははっきり言及していない。ザコルには怒られるかもしれないが、もう、シシの事を小一時間程問い正したい気分になってきた。
全く、エビーの言った通り、とんだ食わせ者じゃないか。
シシが声を掛けてくれていなければこの現象が起きている事にすら気付けなかった可能性も高いので、シシを恨むのはお門違いだと半分くらいは理解している。しかし、シシが私に自身の能力を明かし、診察に付き合ってくれているのはマージからの依頼があったからだ。その上で私の力の程を正しく報告しなかったのならば、責める理由にもなる気がする。
…ああ、でもダメだ。マージに責めさせたら最低でも町外追放だ。私の予想が当たっているなら、例の人々との間にも亀裂が生じるかもしれない。彼の能力をあてにしている以上、シシをこの町から追い出させたり、町医者の肩書きを剥奪させたり、背後にいる存在に対しても累を及ぼす訳にはいかないのだ。
ザコルの言った通りだった。彼の事情にこれ以上首を突っ込んでも何もいい事がない。
だが、シシが私達に身分を笠に上手に訊け、と言ったのは、果たして本当に私達を試すためだけだったろうか。もしかしたら…。
「実はただのいい人ってセンもあるんだよなあ…」
私かザコルのために、シシが自分の意思では逆らえない誰かからの命令を反故にしようとした、とも捉えられるのだ。
「ミカ」
「わっ、いつの間に!」
音も気配もなくザコルが並走していたので飛び上がった。
声をかけられるまで全く気づかなかった…。
「エビタイや同志達に指導してたんじゃないんですか」
「そうですが、あなたが考え事をしながら走っているようなので注意しようかと」
「心配かけてごめんなさい。でももう六周目ですし、目を閉じてても走れますよ」
足元がデコボコしているので、足を取られないようぴょんぴょんと跳ねるように走っているが、六回も通った場所ならば地形も大体頭に入っている。
「油断は禁物です。速度もどんどん上がっていますし無茶は…」
振り返ると、確かに後ろにいたはずの従僕くん達との間にも数十メートルの距離が開いてしまっていた。女性陣も何度か追い抜かしている。
「そっか、コマさんがいないから代わりに注意しにきてくれたんですね。それにしても一緒に走るのは久しぶりじゃないですか、ザコル」
コマの名を出されて一瞬ムッとしたのか、複雑そうな顔をしている。
「ふふへへえ…」
「僕を弄ぶんじゃない。いいですか、とにかく速度は少し落としてください。ペータ達まで倒れます」
「はいはーい」
「はい、は一回です」
「はい」
「結構」
まるで小学校の先生のような事を言い、ザコルはサッと離脱していく。
姿は目に見えているのにも関わらず、相変わらず足音も気配も感じられない。ただ走っているだけでも体の動かし方が全く違うのだ。あの境地にはどうやったら辿り着けるんだろうな…。
「忍者先生にも言われたし、ぼちぼち走ろっと」
私は速度を徐々に落とし、形相がおかしいことになっている従僕くん達に足並みを揃えた。
◇ ◇ ◇
「ミカお姉様!」
「アメリア! 来てたんですね。ハコネ兄さんに、ええと、カッツォさんとコタさん、ラーゲさんも。おはようございます」
私は丁度十周を走り終え、その場に崩れた従僕くん達に水でも運んでやろうかと井戸へ行こうとしていた。
手を振るアメリア、ハコネ、護衛隊のうちの三人が行く先の方向から歩いてくる。辺りは大分明るくなった。青灰色の空は明るめの灰色へと変化しつつある。
「離れた所で見ておりましたわ。お姉様が信じられない速さで跳ぶように走っていらして驚きました…。うちの邸で走っていらした時よりずっとお速いのだもの。それにこの広い場所をあの速さのまま十周もしたのですって? ピッタに聞きましてよ」
アメリア達の後ろから同志村女子達がピッタを先頭にぞろぞろ出てくる。
彼女らは三周した所でランニングを終えたらしい。
「ミカ様、あの従僕達にお水をご用意なさろうとしていますか。私達が持って行きますから、ミカ様もこの桶のお水をどうぞ」
彼女らが水の入った桶や手拭いを持って従僕達の元へ向かってくれる。
私にも桶と手拭いをくれたので、アメリア達の前だが遠慮なく手拭いを濡らし、汗ばんだ顔や首を拭く。
「今日も可愛いですね、アメリア。その濃紺のワンピースもよく似合っていて素敵です」
「ふふ、お姉様がお好みのお色よ」
確かに、私が伯爵邸で着付けてもらったドレスの色に近い。クリーム色の外套とのコントラストもお洒落に決まっている。
「ホッター殿、大丈夫か、本当に物凄い速さだったが…」
ハコネが心配そうに声をかけてくる。
「ええ、別に大丈夫ですよ。途中、速すぎるってザコルにも怒られましたけど、よく寝られたせいか今日は絶好調で。あと十周でも二十周でもできそうです」
「そうか…確かに息が上がっている様子もないが…。あの従僕達もそれなりに鍛えている者達だろうに。貴殿、やはりとんでもないな」
「そんな事ないと思うんですけどー…その言い様、もしや以前からとんでもないと思われていたんでしょうか?」
「それはそうだろう、そうでなければあのザコル殿と二人旅など許可するものか」
「おかしいなあ、ハコネ兄さんにはか弱い女子だと思われてるはずだったのに」
私の事を『大きな卵か何かだと思って慎重に運べ』とザコルに言っていたくらいだし。
「まさか。ここまでの道のりを馬と徒歩だけで耐えられると判断したのはセオドア様と俺だぞ!」
どうやら、テイラー家における私の体力評価が思った以上に高かったようだ。
政変の兆しとか、私の身に危険が迫ってるとか、そういう理由で準備もそこそこに急いで出発させただけかと思っていたが、単に『あいつならこれくらいの装備でも大丈夫だろう』と思われていただけだったとは…。軽装備の方がむしろ小回りがきいて早く着くくらいに考えられていた可能性も大だ。
「ああまあ、実際、アマギ山越えもセオドア様の許可下りてたって話でしたもんね。そんなもんか」
「アマギ山越えに同行したこいつらからも『ペースが玄人の行軍並みだった』と聞いている」
ハコネは後ろの護衛隊三人を指して言った。
はっ、そういえばアマギ山越えはアメリアと伯爵夫人サーラには秘密だったんだっけ…。
「お姉様ったら、そんなお顔でこちらを見られなくとも知っておりますわ。大体、魔の森にウスイ峠まで越えていらしたんでしょう。今更ではございませんか」
だよねー、と笑う。護衛隊の三人も苦笑している。
「カッツォさん、コタさん、ラーゲさん。こうして話すのはお久しぶりですね。ここまで探しに来てくれてありがとう」
私は三人に向かって一礼する。
「お声がけありがとうございます。俺達は氷姫護衛隊ですから当然ですよ。ご無事で本当に良かった」
「さん付けは不要です氷姫様。俺らにもエビーやタイタのように気楽に接してくれませんか」
「おい、いきなりは失礼だろ、いくらあいつらが羨ましいからって気安過ぎじゃ…」
「じゃあ、カッツォとコタとラーゲ、しばらくよろしくねえー」
『気安っ!』
流石はエビーが『長い付き合い』と称した三人だ。ノリが軽い。
「君達も、私にはそう畏まらなくていーよ。呼び方も任せるし。この子達は『いい』んでしょう、ハコネ団長」
ハコネを見れば、自信ありげに頷いた。
「ああ。心配要らない。残りはあそこで鍛錬に参加させているが、先に潰れた者から尋問予定だ」
「そんな罰ゲームみたいに…。全員がクロなわけないんだから、お手柔らかにお願いしますよ」
というかもう何人かは潰れている気が…。いくら何でも体力や根性のない者から疑われるのはどうかと思う。
「まあ、安心してくれ、貴殿の心労につながるような事はしないと約束しよう」
私がカニタに言われた言葉をまだ引きずっているとでも思っているのだろうが…。
「ハコネ団長、私はもう大丈夫ですよ。尋問にも協力しましょうか」
「強がるな。それに、俺達にも名誉挽回の機会をくれ」
ハコネの言う尋問とは、外部と通じて氷姫を拐う、または害する意思があったかどうかをメインに調べる予定だろう。
だが、それだけで済ませてもらっては困る。
「そうですか、ではお任せしましょう。ああでも、もし尋問する中でイジメの共謀者が見つかったらそっちはすぐに教えてくださいね。私以外にも『彼』の世話になった者は大勢いるんです。そうすると早い者勝ちになっちゃいますから。…ふふ、きっと私が一番マシですよ」
少し目線に力を込めただけのつもりだったが、ひゅ、と護衛隊の三人が息を飲んだ。ハコネは息を吐きつつ額に手をやった。
「…………貴殿も大概だな…。分かった。尋問の結果はきちんと報告する。そう牽制するな」
「牽制だなんて。ただのお願いですよ」
私はニコリと笑う。
別に、目の前の三人が積極的にイジメに参加していたと考えている訳ではないが、カニタの流した悪口を信じ込んでいた場合、急にタイタへの態度を改められない可能性もある。
「まあ、あからさまな手のひら返しも嫌いですけどね。さあ、そろそろ手合わせの時間です。アメリアには特等席が用意されるでしょうから、イーリア様のお近くへ」
「はいお姉様。ご勇姿を楽しみにしておりますわ」
私はニコニコと笑顔を崩さないアメリアに一礼して踵を返す。牽制するのは最初だけだ。どうせしばらくこの町でタイタの様子を見ていれば、軽んじる気など失せる事だろう。
アメリア達がイーリアとその側近達の一団に合流したのを遠目に見届け、男性陣の手合わせが始まる前に女性陣と従僕達を集めて手合わせを始める。と言っても、領民の女性達の方が圧倒的に実力が上なので、彼女らの意向に合わせる事にした。
…………が。
「どうする? 今日はコマさんがいないからさあ…」
「そうねえ、ミカ様のお相手を誰がするかってとこなんだけど」
「あたしゃ無理だよ、この子にゃもう勝てないかもしれない」
「そうね、私も自信がないわ…」
「私も…」
皆が口々に私の相手は無理だと言う。何でだ。
「いやいやいや、何言ってるんですか、そこまで持ち上げなくたって大丈夫ですよ。私が武器持って何日目だと思ってるんですか? ここにいる誰にだって勝てないと思いますけど」
『いやいやいやいやいや…』
子育て中の母親達を始め、元ザハリ信者の女性陣も、ユキ達メイド見習いの子達も皆で首を振る。従僕くん達はまだ立ち上がれていない。
「若さには勝てないよ…」
「だからですね、私はこの中じゃ最年長だろうと何度言えば」
『いやいやいやいやいやいやいや…』
「タキさん、失礼ですが今おいくつです?」
埒があかないので、母親達の中では一番年上に見えるタキに声をかける。
「えっ、私ですか? 今年二十四になりましたが…」
「ほらやっぱり! 私はこの秋で二十六ですから!」
『ええええええええええ!?』
そんなに驚く事か。ちょっと驚くくらいに留めて欲しいのだが。
「ほらあ、皆さん私より年下でしょ? こっちの世界じゃ、私の世界よりも結婚出産の適齢期が低いみたいですからそんな気はしてたんですよねえ…。もう私を美少女だとか呼んでくれるのはやめてくださいよ!」
ようやくしっかり訂正できた。水害によって危ぶまれていた冬支度もかなり目処が立った事だし、これ以上皆の士気を上げるために『健気な少女』を演じる必要もあるまい。
私、普通の社畜女に戻ります!
「…いや、年齢なんてどうでもいいんだ、大事なのはミカ様とやって無事で済むかどうかって話さ!」
「そうね! そこよ! 年齢なんてどうでもいい事だわ!」
「どうせコマさんの方が上なんだろ、いいんだよ年齢は」
「まさかザコル様と同じくらいだったなんて、せいぜい十五くらいかと、ああ、いいのよ年齢は」
皆、どうでもいいとは言いつつもじわじわきてるな…。
私も二十六歳を本気で年増だなんて思っているわけではないし、このメンツに年上風を吹かせるつもりだって毛頭ない。
しかし、十代半ばだと思い込んでた相手が実は年上だったとすれば流石に動揺もするだろう。
「まあ年齢はともかく、この方とやって持久戦に持ち込まれたら絶対に勝ち目はないよ」
「いやいやいや何で本気で喧嘩するつもりでいるんですか!? 私初心者ですよ!? 皆さんの方が技や経験値は上なんですから…」
「その経験が言ってんですよミカ様。戦闘になるのは極力避けろって」
どんだけだよ、私を何だと思ってるんだ。手負いの野生動物か?
「そうね…皆、一つずつ持ち技を見せて教えていくのはどうかしら。最後の手合わせはタキ、お願い…!」
皆が一斉にタキを見た。
「私ですか…。はい、分かりました。ミカ様には大きなご恩もありますから、この命を懸けて…!」
タキがグッと拳を握って心臓に当てる。
「重い重い重い!! タキさん、元エリート戦闘メイドなんでしょ!? こないだ戦ってるとこも見ましたけど絶対に敵いっこありませんて!! みんな私の事どんな認識でいるの!?」
彼女らは顔を見合わせた。
「そりゃあ、類い稀なる戦闘勘と無限の体力を持った初心者ですよ。手加減も難しいだろうし、扱いの難しさじゃあピカイチよねえ…」
「サカシータ一族のお子を相手にする感じに近いわね」
皆がうんうんと頷いた。
「思ったより冷静に分析されてた…!」
これ以上押し問答していても時間が無駄になるので、とりあえず私抜きで手合わせを始めてもらう。
タキとは一度戦ってみたかったので少し残念だが、あまり無理強いするのも良くない。私の相手は後で男性陣の誰かにでも頼むとしよう。
しかし、はたから見ているだけでも領民の女性達の戦い方は大変参考になった。
小柄さを生かした動き、体力温存の仕方、攻撃のいなし方、フェイント技。力と体格では男性に劣る彼女達なりの戦い方があるようだ。メリーは小柄な割に力任せに突っ込む猪突猛進タイプだったが、ここにいるのは動きの無駄を省いて上手に戦う者が多い。
その点、ユキ達メイド見習いの少女達はどちらかと言えばメリーの戦い方に似ている気がした。彼女らはまだ若いので、つい勢い任せになりがちなのかも。それにメリーと一緒に鍛錬する事もあったのだろう。
従僕少年達は短剣も使うようだが、長剣の鍛錬もしているようだ。短剣での手合わせを少年同士でした後、鍛錬用に刃を潰した長剣を抱えて男性陣の手合わせに混ざりに行った。
「へへっ、ミカさん、お姉さん方に振られたんすか」
「そうなんだよエビー、私の実力が中途半端なばっかりに扱いが難しいらしくて…。ねえ、相手してよエビー」
「俺かあ…。どうだろな、ザコル殿の指示を仰いだ方がいいんじゃねえかなあ…。勝手に相手したら怒られそうだわ」
「でもザコルはあの通り忙しそうだし……わっ、何あの技…!! ねえ、凄い動きしたよ!? ねえエビー!!」
「ちょ、揺さぶらないでくれますか姐さん、ってか、あんま俺に触ってると俺が殺され…ヒッ、ほら何か飛んできた!!」
エビーの足元でドングリが弾けた。
ザコルは領民男性からひっきりなしに手合わせを挑まれている。今は野次三人衆がリベンジマッチ中だ。
少し離れた所ではザッシュがタイタを相手に手合わせしており、さっきから派手な金属音や地鳴りが響いている。モリヤと峠の山犬の一戦も凄かった。観たい試合が多すぎて身が足りない。
「ザコル、マネジさんとも戦りたがってたよねえ。私としてはザッシュお兄様と本気の手合わせもしてみて欲しいんだけど…」
「それ、また地面が割れんじゃないすか」
イーリアに付き添われたアメリアの方を見てみると、私と同じようにはしゃいでイーリアの袖を引っ張っていた。当然イーリアはニッコニコだ。
ハコネは真面目な表情を崩していないが、護衛隊の鰹蛸クラゲの三人は若干青ざめつつ目を丸くしてキョロキョロしている。こうして見ると、テイラーの騎士はサカシータの人々に比べて随分と頼りない。
「俺やタイさんも、最初は領民の人らに弱っちそうだと思われてたんだろーな…」
「…そ、そんなことナイヨ」
「慰めはいいんすよ」
エビーの視線の先には、手合わせというより年長組に鍛え直されている護衛隊の数人がいた。今立っているのはまだ根性のある方だ。何人かは既に地面に転がっている。
「彼らとは随分差が開いたね、エビー」
「へへっ、それな。この領の基準じゃまだまだって感じだろーけどさ、あいつらには全員でかかられたって負ける気がしねえすよ」
「お、強く出たねえ」
「タイさんはちょっと異次元に足突っ込み始めてっけどな…。貴族出身者ってやっぱポテンシャル高えんだな…」
エビーは、いかにも異次元な鎚を振り回すザッシュを相手に、どこか楽しそうに戦っているタイタを見遣る。
「そうなの? 貴族って聞くと、ひ弱なイメージあるけど…」
「もちろん鍛錬の一つもしねえような権力者ならそうでしょうけど、ああやって真面目に鍛えてる人なら貴族は強えすよ。なんだろな、元々の器が違う気がすんだよなあ…」
「へえ、祖先に強い人でもいるのかねえ」
祖先といえば、コマが『祖先に渡り人のいる奴は魔力が人より高い』というような話をしていた。
テイラー一族の祖先が渡り人であることは有名な話だが、他の貴族家でも祖先に功績を上げた渡り人が交じっていたりするんだろうか。
もしそうだった場合、貴族は貴族同士で婚姻を重ねる場合が多いので、平民よりも血が守られている可能性は高いだろう。魔力の高さが身体能力の高さに直結するかどうかまでは判らないが…。
もしも、魔力が高ければ身体能力が高い、という理屈が存在するとしたら、私が『類い稀なる戦闘勘と無限の体力を持った』とまで称されるのにもつながる気がする。私としては真面目に鍛錬を続けてきた結果と捉えていたが、確かに、今の体力は元の自分を考えてみれば異次元そのものだ。
「ああ、そっかあ…! みんな強くなるわけだよ…!」
「何すか突然」
「あ、ごめん。ええと、ちょっと説明しづらい事に気づいちゃって…」
しまった、コマから聞いた話を勝手にするわけにもいかないので、この話はあけすけにできない。
「へへっ、どーせヤベえ事に気づいたんだろ、胸にしまっといてくださいよ」
「うん、ヤバいって程じゃないけど、しまっとく。その内話すわ…」
さっきの理屈が合っているとして、私が魔力を垂れ流しにして皆に分け与えているのなら、皆の体力や戦闘能力の向上に一役買っていてもおかしくない。
シシが魔力と身体能力の関係を詳しく知っているかは分からないが、彼も医者ならば経験としてそれに気づいているかもしれない。それに準じた質問くらいはしても許されるだろう。
観たい試合が多すぎてあちこちをウロウロしていたら、同じようにウロウロしている同志グループに何度もすれ違った。彼らも一様に『観たい試合が多すぎて身が足りない』と話していた。
つづく




