報告会① どうして僕ばかり分が悪いんだ!
「おーっ! ミカ様!! 二日ぶりだなあ、相変わらず美しいぜえーッ」
「あっ、野次三人衆! お帰りなさい!!」
「野次三人衆!?」
「何だその呼び名!?」
「ひでーぜミカ様!!」
屋敷の庭に戻ったら、決起集会以来ザコルに野次ばっかり飛ばしてくる三人組がザッシュと歓談していた。揃って傷物の林檎を齧っている。彼らは二日前、私達と一緒に被災地カリューへ行き、泥や瓦礫の片付けを泊まりがけで手伝っていたはずだった。
「あはは、ごめんなさい。もしかして、カリューの方から森に入って掃討に参加していましたか」
「おうともよ! やっと俺らにもイイトコ見せるチャンスが巡って来たってな、そりゃあもう大活躍だったぜ! …と言いたいところだけどよう、ミカ様の武勇伝聞いちまったらもう何にも言えねえよ…。何だよ、拐われてやった上に自力で下手人を沈めてやったとかよう、姫のする事じゃねえだろ、どうなってんだよ」
「いやいや、どう見ても皆さんの方が成果多いでしょ。血まみれだし…。私なんてたった二人沈めたってだけですから。どんな尾鰭がついているのやら」
私の武勇伝とやらは、どんな形で出回っているのだろう。誰も私が魔法を使ったような話はしていないので、いい感じに伏せつつ話して回っている人がいるはずだ。…恐らくイーリアだろう。
「少なくとも、丸腰で拐われておいて大の男を二人も沈めたのは確かだろう。その上あの大軍を前にして一歩も退かず、正面から堂々迎え撃ったとも聞くぞ。武勇伝としては充分すぎる程だ」
「ザッシュお兄様まで…。迎え撃ったのは主にこの弟君とメイドちゃんの一人ですよ。うちの護衛二人と戦闘員のお姉さん達もすぐ駆けつけてくれましたからね、私は後方でそれっぽい顔してダガー構えてただけです。こんな感じで」
私が真面目くさった顔で腰を落とし、短剣を構える真似をしてみせると、男性陣は和やかに笑ってくれた。
モリヤは勘づいていたようだが、私が後退などしたら町に大軍が雪崩れこんでしまうところだったのだ。よってどんなに多勢に無勢でも退くわけにはいかなかった。それだけだ。
ふと見れば、女湯テントの方に並んでいるのは戦闘員のお姉さん方、元ザハリ信者の団体様だった。私が手を振ると、皆笑顔で手を振り返してくれ、何やらきゃあきゃあと盛り上がっている。
「ザッシュの旦那、何ミカ様には平気で話してんですかい。アンタ女は苦手なはずだろ。ミカ様なんてほら、この通りゴリゴリの美少女だぞ!?」
「ゴリゴリって何…」
「まあ、そうなんだがな…。ミカ殿は何かこう、色々と枠にはまっていない感じがするだろう。何というか、女というよりミカ殿という生き物という感じがするというか」
「ミカ殿という生き物とは」
ミカはミカという生き物、とは昨日ザコルにも言われたような。
「シュウ兄様はめでたくミカの手駒に就任されましたからね。せいぜい離れた場所を飛び回っていてください」
ザコルが私を引き寄せ、ザッシュに向かってシッシッと手で追い払う仕草をしてみせる。
「フン、お前、おれを邪険にしているとまたミカ殿に叱られるぞ」
「ミカが叱ってくれるなら本望です」
仲良し兄弟。
「ほっこり」
「何がほっこりですの…。かのサカシータ一族の兄弟にご自分を取り合わせて和むだなんて、ミカお姉様ったら罪なお方ね」
「アメリア嬢…ッ」
ずざーっ。
ザッシュが派手に後退した。
「ザコル。わたくしマージさんに呼ばれておりますから、ハコネと一緒に執務室におりますわ」
「分かりました。僕達も後で向かいます」
ザコルが一礼すると、アメリアもちょこんと腰を落とした礼をしてみせた。そして笑顔を振りまいて屋敷の中に入っていった。
どよどよとする野次三人衆。
「…なっ、何だあの超絶美少女は」
「人形が喋ってんのかと思ったぜ」
「おい、ザコル様! 何でアンタは呼び捨てにされてんだ! 説明しろよお!!」
ザコルは大声に耳を押さえながら、非常に面倒くさそうな顔で振り返る。
「かの方は主家のお嬢様だ。それ以上でもそれ以下でも」
「てんめえええ、ミカ様のみならず、あのお嬢様ともおんなじ敷地内で寝起きしてやがったのか!?」
「うるさい叫ぶな。テイラー伯爵邸はうちの子爵邸とは比べ物にならないくらい広大だ。何もなければすれ違う事もない」
「一時期、アメリアとザコルと私で毎日のようにお茶してたじゃないですか」
『何だとおおお!?』
「ミカ…余計な事を言って煽らないでください。僕は単なる護衛ですし、ホノルもいたでしょう」
「そうですね。ああ、ホノルはハコネ団長の奥様で、それはもう美人で有能な侍女さんです」
ザコルが野次三人衆に加え、ザッシュにまで絡まれてもみくちゃにされたのは言うまでもない。
◇ ◇ ◇
それから、私達はお風呂のお湯を替え、足し湯の熱湯まで用意し、同志達を案内した。タイタ達はまだ戻ってくる様子がないので、もしも来たら着替えを出してもらえるよう使用人の一人にお願いしておいた。
ザッシュも伴い、掃除や修繕が進む一階を通り過ぎ、二階の執務室に向かっている。
「全く腹立たしい、どうしてお前ばかり…」
「アメリアお嬢様はミカをお誘いになっていただけです。僕はミカの護衛、ホノルはミカの世話係として付き添っていただけで。と、何度言ったら解るんですか。大体シュウ兄様は自分から女性を避けているんでしょう。まあ、僕は人間全般を避けていたので人の事は言えませんが…」
八つ当たりしてくる兄を面倒くさそうに宥める弟。ああほっこり。
「そうだ、避けていたといえば、お前、随分と人気があるようじゃないか。話が違うぞ」
「人気? まさか。気のせいでは?」
元ザハリファンにきゃあきゃあ言われているのは気のせいではなかろう。年配の町民達や避難民達からは元々邪険にされてないし、子供達とその親からも親しげに声をかけられるようになったので、一気に全世代から支持を集めているような雰囲気にはなった。
「まだ誤解があるなら、おれも解いてやろうと思っていたのに…」
ぶつぶつ。ザッシュは、もしザコルを忌避する者がいたら説得しようと、率先して町民達に声をかけて回っていたようだ。
「お兄様がお優し過ぎる…!! ミカは感動しました!! ほら、ザコルもお礼を言ってくださいよう」
「う、うるさいです。僕の印象が変わったのは全てこのミカの陰謀ですので!」
「またまたあ、違いますよ、イーリア様が皆に話してくれたお陰じゃないですか。長年領に尽くしてきたのは本当でしょう? それに加えて、子供達の面倒を甲斐甲斐しく見てたり、モリヤさんとあんないい笑顔で対決したり泣いたりするから皆の見る目も変わったんですって。ね? 私は何にもしてません! ふふ、だぁーいすき」
ぴと、べり。抱きついたら即剥がされた。
「おれの前でいちゃつくんじゃない!! より惨めになるだろうが!!」
「お兄様は女性を避けさえしなければ普通におモテになると思いますから。慣れるように頑張りましょう。ね?」
「やめろ、おれを勘違いさせるんじゃない! もう三十も過ぎた粗野なだけの男が普通にモテるわけなかろうが!!」
「そんな事ないのにー。普通にカッコいいですよお兄様は」
これから伴侶となるような相手と出会えるかどうかは運次第かもしれないが、ザッシュは全ての女性から忌避されるような人では決してない。粗野とは言うが、この頼もしく男らしい所がいいと感じる人もいるだろうし、顔の造形もまあまあ整っている方だ。きっと好まれやすいだろう。
ジロ、ザコルに睨まれる。
「ミカは、意外に顔に惑わされますよね…」
「いえ? 可愛い女の子には弱いですが、イケメンにはとんと興味もなく生きてきましたねえ。男性の顔というジャンルで言えば、正直あなたの顔しか好みじゃありませんし」
「も、もう!! いい加減、そうやって真正面から口説くのは控えてくれませんか…! こっちの身が保たないんですよ!!」
ザコルが女子みたいに顔を両手で覆ってしまった。
「解ってますか、今の『も』ザコルが先に仕掛けたんですからね。大体自分は好きなようにベタベタしておいて、本当によく言えますよね…」
「それは…!! すみません…!!」
ザッシュの方を振り返り見たら、顔に『うんざり』と書いてあった。
「…ええと、すみませんお兄様。まあ、のんびりやっていきましょう」
「はあ…。とりあえず、ミカ殿の趣味が個性的だという事は充分に解った。あなたに褒められても万人受けするわけではないと肝に命じよう」
「失礼な!!」
私はぷりぷりしながら執務室をノックした。マージが中から開けてくれる。
部屋の中ではアメリアがソファに座って紅茶を啜っていた。きっとマージのとっておきの茶葉だ。
「あらあら、コリー坊っちゃまはどうなさったの。恥ずかしがられるような事でもあったのかしら」
「ぼ、僕の事は視界に入れないでください…」
マージが顔を覆ったままなかなか部屋に入ろうとしないザコルを訝しみつつも気遣う。
「シュウ坊っちゃまも、どうぞ、お入りになってくださいませ」
「お、おれは徐々に入るので構わないでくれマージ…」
ザッシュに至っては扉から三メートルくらい離れた場所から動かない。
「まあ、徐々に。ふふ、じきにイーリア様がいらっしゃいますから、早くお入りになった方がよろしいわ」
そう告げられた兄弟はさっさと部屋に入ってきた。母の力は絶大だ。
「ザッシュ殿、貴殿の鎚を預かっている。タイタは所用があり外しているのでな」
ハコネが壁に貼り付いたザッシュの側に寄り、ピカピカになった鎚を差し出した。
「あ、ああ。感謝する、ハコネ殿。…ああ、手入れまでしてくれたのか。タイタ殿、彼は本当に人柄がいい…とてもあの狂った秘密結社の幹部とは思えないな…。ザコル、お前の周りはどうしてそう特殊な者ばかりなんだ」
「僕が聞きたいです…。兄様は壁から離れてください」
「お前はいい加減に顔から手を離せ」
私は、座る様子のない兄弟に構わず、アメリアの隣に腰を下ろした。
「はあ…。ツッコミ役とセーフティゾーンがいないと、あちらのサカシータ兄弟とは円滑なコミュニケーションができない事がよく解りました。あー、早くエビーとタイタ帰ってこないかなぁー」
「ふふふっ、お姉様も大変ですわね」
「ほんとですよもー」
「ミカ殿がいちいち揶揄うからだろうが!」
壁、というか本棚と本棚の間あたりから声が聞こえてくる。
「別に揶揄ったつもりはありませんよ。ザッシュお兄様は普通にカッコいいんだから女性を避けさえしなきゃ普通にモテるでしょって言っただけですぅー。お兄様ったら、私の感性じゃ信用ならないって言うんですよ、どう思います?」
「まあまあ。シュウ坊っちゃまはきちんとカッコいいですわ。このマージが保証いたします」
「マージのは親の欲目みたいなものだ、いい歳をして恥ずかしいからやめてくれ!」
本棚の間から鎚だけが顔を出してブンブンと振られている。ザッシュも幼い頃はマージの世話になったんだろう。
「ザッシュ様、このアメリアもカッコいいと思いましたわ。その重そうな鎚を軽々肩に担がれているお姿は、まるで武神の化身のようで…。お飾りの剣を下げた格好ばかりの貴族令息とは、比べ物にならない程の魅力に溢れていらっしゃいます」
ピタッ、鎚の動きが止まる。
「…………」
「あら」
静かになった本棚の隙間に目をやり、アメリアが眉を下げる。
「…やはり、こんな小娘に褒められても戸惑われるだけですわよね…」
「違っ、違う!! きょきょ、きょ、許容を超えただけだ!! いいかアメリア嬢!! あなたは軽率に男を褒めるんじゃない!! 勘違い野郎が量産される!! 危険だからやめろ!!」
鎚が再びブンブンと高速で揺れた。
「…お兄様? アメリアは良い子なんでちゃんと本心で褒めてくれてますけど、何でも『そういう意味』で取るのは失礼ですからね? 挨拶代わりの褒め言葉くらい素直に受け取って褒め返すくらいの余裕を持ってくださいよー」
「わ、解っている! アメリア嬢、すまない。おれがこの空間に慣れるまでしばらく待ってくれ、にょ、女人率が高くて…」
「男女比は半々のはずですが…」
しかも私は女ではなく『ミカという生き物』扱いではないか。
「ミカお姉様、素直に褒めさせてくださらないのはお姉様も一緒ですわよ。それで、このザコルはどうしましたの。そこはかとなく耳や首が赤い気が…」
アメリアは怪訝な様子で私の後ろに立つザコルを見上げた。アメリアの背後に立つハコネも呆れたように隣を眺めている。
「僕の事は空気だとでもお思いください。ミカ、余計な事を言わないように」
「はいはい。あんな事くらいで今更そんなに恥じらわないでくださいよ…」
一目惚れだったとは散々伝えているのに、顔が好みだなんて本当に今更だ。
「…あれほど大勢の知り合いに見守られながら膝枕をして睦まじくする以上に、恥ずかしがるような事がありますの…?」
「うぐう…」
十七歳女子に正論でひと突きにされ、顔に当てられた両手がさらにめり込んだ。
「まあ、いいんですよザコルは。アメリア、どうしてお忍びでここまで来たのか、聞いていませんでしたよね」
「ええ。今日は、驚かせてしまいまして、申し訳ありませんでした…」
「嬉しい驚きだったから構いません。…伯爵邸で、何かありましたか?」
「邸で、というより、わたくしの個人的な事情ですわ。どうしても、後悔したくなくて…。行方知れずになったというお二人を追って家を出ましたのよ」
アメリアは胸に手を当て、ふうと息をついてから話し出した。
「当初はジーク領を中心に探す予定でしたわ。あちこちに散らばった護衛隊の者を拾いつつ、情報を集めていればいずれと…。お姉様方が行方知れずと知ってから出発までに二日、ゲンジ子爵領を抜けるのに三日。ようやくジーク領での捜索を初めて数日で、例のオリヴァーの手紙を持った同志の方から接触があり、ここで水害が起きている事を知ったのですわ」
彼女の話はハコネから聞いた話とも一致する。
「邸に帰る事も提案されましたが、そうしたらわたくしはまた後悔の日々を送るだけになると思いました。すぐに荷馬車と馬を手配させ、ジーク領内で物資を買い込ませました。それがジーク伯のお耳にも入ったようで、ジーク伯ご本人からも多くの物資を託され、さらに信頼できる御者まで紹介していただきましたのよ。お姉様とザコルには、楽しい時間を過ごさせてもらったからとおっしゃっておられましたわ」
アメリアがハコネに目配せすると、ハコネは懐から封蝋付きの手紙を取り出し、私に差し出した。開けてみると、私の身を案じる言葉が丁寧に書き綴られ、最後にイェル・ジークと署名された美しい箔押しの便箋が出てきた。
「イェル様…」
ジーク伯爵の奥様で、深緑湖の街で一緒に食事やショッピングをしたご婦人だ。お揃いでイニシャル入りのハンカチも買ってもらった。一度涙でぐしゃぐしゃにしてしまったが、綺麗に洗って大事に鞄の中に入れてある。
「ザコル、あなたにもありますけれど…」
ハコネが無言で封筒を差し出す。ザコルはやっと顔から手を離し、手紙を受け取って開封した。
「ふふっ、顔にすっごい痕が…」
「放っておいてください。…マンジ様からですね。全く、あの御仁は…。また僕を揶揄って」
マンジ・ジークはジーク伯爵の実弟で、コマの上司だ。どうせ下ネタでも書いてあるに違いない。
ジロ、ザコルに睨まれる。
「その手形付きの顔で睨まれても面白いだけですけど?」
ジロ、睨み返してやる。
「…コマを遣るから、姫のために役立てろと書いてあります。この手紙がお嬢様に渡った頃には既にコマは出発していたでしょう。それから、アマギ山のトンネルの件もよろしくと。実現したら僕には命名権をくれるそうです。…フン、こうなったらミカトンネルにしてやりますよ」
「あーっ、そういう事するんですね!? もういい、遠慮してあげませんから! 同志に言ってオモシロ猟犬グッズ量産してやりますからね!?」
「フ、フン。あそこのトンネル狂に言ってミカの顔のレリーフでも彫らせてやりますから! ああ楽しみだ!!」
「ふーん。肖像画」
ぴく。
「肖像画」
「ぐ、二回も言わなくたって…! くそっ、どうして僕ばかり分が悪いんだ!」
コマはザコルの女装の肖像画を見つけたら私に持ってきてくれるらしい。ああ楽しみだ。
「…そのよく分からない喧嘩は何なんですの」
トントン、と控えめなノックがあり、数人の従僕が軽食の乗ったワゴンを押して入ってきた。すっかり食べ損ねていた昼食をマージが手配してくれたようだった。彼らはサンドイッチの大皿と取り分け用の小皿をローテーブルに置き、一礼して退出した。
「アメリアが私達を探すために邸を飛び出してくれたなんて…。本当に、心配をかけて…」
「いいえ、いいえ。これでもわたくし、ザコルの事は心から信用していてよ。お姉様はきっと無事だと信じておりましたの。大人しく邸で待てなかったのは、先程も言いました通りわたくしの事情ですわ。何となく、追いかけねばもう二度と逢えないような、そんな気がしてしまって…」
アメリアが胸の前で合わせた手をキュッと握り合わせる。
「わたくしには過保護なばあやがおりましたの。昔はそこまでではなかったのですが、ここ数年はわたくしが少しでも無理をすると過分に心配して邸に引き留めようとするものだから、社交も最小限にして、ばあやと過ごす事を優先して参りました。それが、産まれてよりずっと、わたくしを護ってくれたばあやへの恩返しと思っておりましたから…」
ばあやがおりました。……過去形?
アメリアの言う『ばあや』とは、突然アメリアの部屋に召喚されてきた私を魔獣扱いしたという、古参の使用人の事じゃないのか。
彼女が私を怖がったから、他の使用人が私を檻に閉じ込めたと確かアメリア本人が言っていたような…。
「待って、ばあやさんは今どうされているんですか。私、彼女には結局一度も会いませんでしたよね。顔も見たくない程に怖がられているか、嫌われているのかと勝手に思っていたんですが…」
「…ばあやはね、その、お姉様が、いらしたその日に…………亡くなったのよ」
「亡く、なった…………?」
ばあや、もとい、アメリアの侍女頭だった女性は、アメリアが産まれた時から彼女に仕え、数いる乳母や侍女などを束ねる存在だった。彼女は大変愛情深く、教育に関しては実の親よりも熱心なくらいで、当時一人娘だったアメリアを預けるに相応しいと、セオドアやサーラからも大きな信頼を寄せられた人物だった、とアメリアは語った。
私とアメリアが並んで座った向かいには、遅れてやってきたイーリアが座っている。イーリアも昼食は食べていなかったようで、私達と一緒にサンドイッチをつまみ始めた。私は一度に二切れ取っては、背後のザコルに一切れ渡しながら食べている。
「ばあや……彼女はもう高齢でしたわ。わたくしが産まれた当時でも五十代の半ば程でしたから。最近は、急に周りの人間の事が分からなくなったり、人が変わったように感情的になったり、特に、わたくしの姿が見えないと大騒ぎしたりなんて事も増えました。ですが、わたくしが彼女の手を取っている時だけは必ず穏やかでいてくれたの。父母はわたくしが背負う必要はないと、本来のばあやならばそれを望むはずもないと言ってくれましたけれど、わたくし自身がばあや離れできていなかったのですわ。彼女はね、実は、希少な魔法士でもあったのよ」
「魔法士…」
「と言っても、強い力は持っていませんでしたわ。彼女の力は、側にいる人に、少しだけ怪我をしにくくさせるくらいの、おまじないのような力でした。お陰でわたくし、子供の頃はほとんど怪我をしませんでしたの」
怪我をしにくくする力とは。例えば、身体強化付与、回復能力アップ、そんな所だろうか。それって、威力は弱かったのかもしれないが、いわゆる治癒能力に準じる力なのではないのだろうか。
「一応、国に正式に認められた魔法士ではありましてよ。ただ見た目には分かりにくく、即効性などもない力ですので、そこまでお上から注目はされていなかったとばあや自身は話していましたわ。うちの母は若い頃に王妃殿下の元で行儀見習いをしておりました。そのご縁で、同じく王妃殿下の侍女の一人であったばあやを、殿下が出産祝い代わりにと我が家へ籍を移させたそうなのです」
王妃お抱えの魔法士を、出産祝いと称してテイラー伯爵家に下賜した、という事か。上に注目されていないなんて嘘じゃないかと思うが、確かに、結果や見栄えを優先するタイプの人相手には評価されづらい力であるのかもしれない。
「わたくしが産まれた時、母はまだまだ若かった。若いというより、幼かったくらいだと聞いております。父とは婚約者同士で、母が十六になった時点で急ぐように結婚したようですから」
サーラはアメリアの実母にしては見た目が若すぎると思っていたが、実際に若かったのか…。
十代半ばで妊娠したとするなら、少なくとも今はまだ三十代前半から半ばくらいだ。オリヴァーを出産したのも二十代、何ならもう一人や二人産めそうだ。
「若くして子を持った母にとって、ばあやを始めとした乳母達はそれはもう心強い存在だった事でしょうね。絆の強さは相当なものよ。母は乳母の一人の娘であるホノルやアテネの事も我が子のように可愛がっているし、ばあやの事は実の母同然に慕っていたと思います。わたくしも、オリヴァーが産まれるまでは一人娘でしたけれど、たくさんの母ときょうだいとに囲まれて幸せに育った、そんな風に感じておりますの」
サーラから見て義父母となるセオドアの父母は、貴族年鑑でみた所によればどちらも早くに亡くなっているようだった。セオドアはかなり若くして爵位を継いだようだ。そんな事情もあって結婚を早めたのかもしれないな。
「お姉様が召喚された時の話をいたしますわね。あの日、わたくしは自室で、他の侍女達やばあやと一緒に過ごしていたわ。もしかしたらお姉様からは見えづらい位置だったかもしれませんが、あの時のばあやは、続き間にあった揺り椅子で休んでいたの。お姉様が姿を現される直前、その揺り椅子とわたくしが座るソファ、その丁度間の床あたりに、大きな魔法陣が現れました。その時に魔獣の召喚魔法陣ではといち早く叫んだのは、実の所ばあやではなく、騎士の一人だったように思います」
「それは確かですか、お嬢様」
ザコルが口を挟んだ。
「はい。今更、証言を覆すような真似をして申し訳ありませんわ…。わたくし、恥ずかしながら魔法陣を前に気が動転していて、誰が何を言っていたのか記憶が曖昧だったのですが、あの時最初に聴いた声、確かに男性のものだったような気がいたします。ばあやがしっかりと発言したのは、お姉様が現れて騎士達が連れ出した直後。これははっきり覚えておりますわ。『あの女性のことは、しばらくは厳重に隔離し、信頼できる腕の者に毎日見回らせなさい。口を訊くのもその者以外には認めぬように』と。ばあやは……その後、眠るように亡くなってしまったの…。年老いていたとはいえ、わたくしが一番に信頼するばあやが遺言に近い形で皆に指示をした。わたくしも周りも、お姉様が魔獣ではという意見も含めて隔離と監視を命じたのはばあやと、そう錯覚してしまった。きっと、そうだったのだわ…」
「その話は、主、父君には?」
「父にはもちろん話しました。わたくしがこの件を思い出し、曖昧だった記憶に向き合ったのは、お姉様がザコルと共に失踪したと聞いた時なの。ザコルが乱心してお姉様を連れ去ったなどと口さがなく言う者もいたけれど、わたくし、そんな風には全く思えなかった。何か一つでも手がかりをと、必死になって記憶をさらい出したのです」
アメリアは随分とばあやの事を大事にしていたようだ。それならば、私と会ってからずっと彼女は、いやテイラー家は、ばあやを失った悲しみを常に胸に秘めてきた事になる。
アメリアは特に、私が召喚された時の事を思い出すのは辛かった事だろう。それはすなわち、ばあやとの別れの記憶なのだから…。
それでも、私達が失踪したと聞いて真剣に心配し、悩み、悲しみを伴ってでも今までの記憶を片っ端からさらってくれたのだ。
「幸い、ジークの隠密からはすぐに真相が聞けました。ですがあの平和な観光街で邪教の大集団に街中で襲われかけるなど、父は不自然だと言っておりましたわ。必ず手引きした者がいたはずだと。お姉様の護衛隊は各々の判断で邸に戻らずにジーク領やモナ領へと捜索に向かい、一人一人を調べるいとまがなかった。エビーには予めお二人を追って世話をするよう父が指示をしていたようですが、それ以外の者達までが父やハコネの指示を仰がずに散ってしまったのは、こちらとしても誤算だったのです」
カニタと、それ以外にもいるかどうかは分からないが、元々間者として紛れ込んでいた隊員は敢えて指示を仰がず散ったのかもしれない。氷姫を追うという大義名分のもとに自由に動けるチャンスだ。厳重な警備を敷かれた伯爵邸の外ならば、一対一で私に接触するチャンスも生まれるかもしれない。…ザコルの隙さえ突ければ。
「なるほど」
ザコルを振り返ると、片手に持っていたサンドイッチを口に放り込んでもぐもぐとしながら頷いている所だった。
「おい、ザコル殿。貴殿はどう考えていたんだ。実の所、俺とお嬢様はほとんど邸と連絡が取れていない。貴殿やエビー、ホッター殿が送っていたらしい文も見ていないんだ」
ハコネが隣のザコルを見遣る。ザコルはごくんとサンドイッチを飲み下した。
「僕は、そうですね。襲われた時点では、誰の手引きにしろ、邪教には居場所がバレていて、どこの街に行っても同じ状況に陥る可能性が高いと考えていました。ジーク伯の協力の有無に関わらず、かの領の魔の森を経由するルートは選択肢にありましたし、条件が揃ったために実行に移しただけです。僕は以前単独で魔の森に入った経験があり、迷わない自信もありましたので」
魔の森…。とハコネが眉を寄せる。
皆の反応を見る限り、邪教のいる街より魔の森の方が安全だと思っているのはザコルだけのようだ。しかし他ならぬザコルが自信満々で迷わないと言ったから、ジーク伯達もそのルートを受け入れて先回りしてくれたんだろう。
「まず、エビーの事は疑っていませんでしたよ。彼は小さな町で一人で僕らを待っていました。他の騎士や隠密も連れず、完全に単独でしたからね。彼と合流したモナ領の山麓の町では、邪教や王弟の手の者達もまだ僕らの居場所を特定できていなかった。エビー自身はその時点で他の騎士を疑っている様子はありませんでした。彼のおかげでミカの体調不良の理由も判明したことですし、僕は、彼のようにミカへの忠義のみで動いている騎士には敬意を払うべきかと思い直しました」
それはやはり、最初からテイラーの騎士達を疑っていたという事では…。
「主が、僕一人を専属護衛に付けたのですから。僕以外の者はすべからく警戒しろという意味に捉えていましたよ」
「なるほどな…。極端な事を言えば、貴殿は味方も全員敵と仮定して動いていたのだな」
ザコルは当初から、テイラーから来た監視役達や、護衛隊の騎士達を誰一人として信用していなかったのだ。
深緑湖の街での逃走劇も、敵と味方もろとも撒いたというより、街にいた自分以外の人間を全て敵と考えて振り切り、魔の森へ逃げ込んだ、と言う表現が正しいようだ。
「それで、タイタとカニタの事だが」
「彼らは二人行動をしていて、チッカの街で会いました。僕は一旦、彼らへの疑いに関しては無いものとして接する事にしました。制圧するのは簡単ですが、僕一人でミカの外聞を保持しつつ護衛を全うするのに限界を感じてもいたので…。カニタは僕らとは挨拶を軽くしただけで、エビーの報告書とミカの手紙を持って姿を消しましたが、タイタは護衛を補佐する目的で残りました。…彼が、僕がかつて粛清に関わったコメリ元子爵の子息ではと思い至ったのは、彼が僕のファンだと打ち明けてくれてからしばらくの事です。彼自身は、不可解な行動はすれど、あまり隠し事や誤魔化しが得意な人物には見えませんでした。僕らの言動をメモするような行動があったため、ミカとエビーがそれを注意しました。見る限りではそれ以上の問題行動はなかったかと」
何度も心神喪失したり教会を立てるだのと言って飛び出そうとした件に関しては、ザコルの中で大した問題行動に数えられていないらしい。スパイ行為に抵触しなければ、彼の中では『問題』にはならないのかもしれない。
「その後タイタは、ミカからの助言を真摯に受け止め、エビーに従えという指示も反抗する事なく受け入れています。今ではミカへの忠誠心というか、恭順さという点では僕を含む三人の中でも一番かと。彼は、ミカの敵と断じた者には全く容赦がありません。逆に、ミカの敵でさえなければどんな相手でも心から尊重します。ミカの決定に異を唱える事は稀で、ミカの害になると思えばこの僕にさえ真っ向から圧をかけてきます。僕なんかを崇拝するあのおかしな秘密結社の黒幕でありながら、深緑の猟犬への熱意と、護衛対象である氷姫への忠義は完全に分けて考えているのです。そう、ミカの指導を受けるようになってからのあの徹底した職業意識にはいっそ惚れ惚れとする程だ。鍛錬にかける姿勢も、尋問における情け容赦のなさも実に素晴らしい。僕は本当に彼が可愛くて…!」
「ザコル、ザコル。話が脱線しています」
ザコルの突然の『可愛い』発言に、ハコネとアメリアが奇異なものでも見たかのような顔をしている。
コホン、ザコルが咳払いをして話をリセットした。
「…すみません。ええと、それで彼が、カニタから不可解な指示があったと言い出したのは、コマから王弟によるクーデターがあったと報された後の事です。僕がミカを辱めた証拠があると王弟側が主張しているようだと知って初めて、タイタはカニタからの指示に疑問を持ったようでした。カニタはタイタに、僕らの言動を余さず記録し、自分に報告するようにと指示していたそうです」
ザコルは私に目配せをくれた。
「タイタの話は私も聞きました。最初はその指示に従って一度だけ文も出したそうですが、聞く限りではそう問題のある事は書いていないようです。彼が護衛任務中に取っていたメモもエビーが全て回収しました。まあ、彼の記憶力をもってすれば、そんなメモなどなくとも一言一句覚えている事でしょうけど…。恐らくカニタさんから、メモを取れ、と具体的に指示されていたからそうしていたんでしょうね」
「他ならぬお姉様がそこまでおっしゃるなんて、タイタはそんなに記憶力に恵まれておりますの?」
「はい。凄いですよ、見たもの聴いたものは全て忘れないようですから。心の猟犬ノートとやらにはザコルの名言が大量に収録されてるみたいですし」
「ミカの名言も、でしょうが。変な書を作り出す前にあなたからも釘を刺してくださいよ。僕の言う事なんて聞きやしない」
「氷姫として釘を刺すのはちょっと反則な気もするんですよねえ…。タイタはもっとこう、自由にやってほしい気がします」
「まあ、タイタが楽しいのならばとつい絆される気持ちは解りますが…」
うーん、と悩む私達を見てアメリアがふふっと小さく吹き出した。
「タイタは随分とお二人に気に入られておりますのね。エビーの言っていた姫ポジ? というのはそういう事なのかしら」
「ミカ殿はまだ解るが、ザコル殿がそこまで入れ込むとはな…。つまり、タイタは信頼に足るのだな?」
「はい、ハコネ団長。言葉を深読みしたり、指示にない事まで気を回すのは苦手な子ですが、逆にお願いした事は絶対に守ってくれます。あんなに信頼できる子はいませんよ」
「僕も彼の事は信頼も尊敬もしています。この地に支援部隊を呼び、領民を救ってくれた恩人でもありますしね。彼には頭が上がりません」
私とザコルはうんうんと一緒に頷いた。
「そんなわけで、私達はカニタさんを許すことはできません。タイタの話を聞く限り、どうやらタイタは、カニタさんから数年間に渡って虐めに近い仕打ちを受けていたようで『お前は空気の読めない、言われたことしかできない、人を苛つかせる天才だ』などとよく陰で言い聴かせられていたようです。彼は下戸らしいのに、無理矢理酒を飲まされたり、酒瓶で打たれたり、剣を棄てられたりするのは、仕事に支障が出るので困ったと…」
「何ですって、それは本当に…!? そんな事がうちの邸の中でまかり通っていたというの!?」
アメリアがショックを受けたように口元に手を当てる。
「その上、他の団員にタイタの悪口を吹き込んだり、タイタの仕事やプライベートまで勝手に縛って、周囲から意図的に孤立させていたようで…。その辺りはエビーも思い当たる節があると話していました」
ハコネがふむ、と頷いた。
「…そうだな、タイタはオリヴァー様のお気に入りでもあるし、俺が接する中で何か問題があるようには思えない割に、他の団員からの評価が低いとは思っていた。ただのやっかみかと思っていたが……すまない、俺の管理不足だ。他の団員からも話も聞き、対処するとしよう。どちらにせよ、カニタのクロは確定だな。言質は取れたのだろう」
「ええ。どこかの王族の差金でミカを連れ出そうとしていた事は明白でした。それに、ミカがアメリアお嬢様宛に出した手紙を勝手に開けて読んだ挙句、その手紙の存在をお嬢様に隠蔽したという言質も取れています。…まあ、ミカに対するあの侮辱の数々だけでも処罰は免れないでしょう。タイタももう奴を庇うような真似はしないはずだ。今頃、もっと詳細な内容の自白が取れている事でしょうね。あのタイタの尋問に耐えられるような根性は、とても持ち合わせているようには見えませんでしたから」
ニヤリ。ザコルが笑う。魔王の微笑みだ。ありがたやありがたや。
「カニタさんて結局、結局私の手紙を売るくらいしかできない小物でしたもんね。せっかくチッカで接触したのに、エビーとタイタ残してすぐどっか行っちゃったし。あれ、絶対ザコルにビビったんですよねえ…。ハコネ兄さんが捕まえて連れて来てくれて本当に良かった。スカッとしましたねー」
「何をおっしゃるの、ちっともスカッとなんてしませんわ! わたくしもあの叫びを聴いてしまったのよ。我が家の騎士が、ミカお姉様にあのような、あのようなむごい言葉を浴びせるなんて、もう、もう、わたくし悔しくて、悲しくて…!」
「ああ、アメリア…。ごめんなさい、あなたが傷つく事なんてないのに…」
「どうして謝られるの!? 傷ついたのはお姉様のはずですわ!! あんな、あんな言い方…!!」
「大丈夫ですよ。私があんな言葉に傷つく事はないですから。ほら」
私が手を広げると、アメリアは迷わず私の胸に飛び込んできた。
ふわふわの金髪に頬を寄せ、キュッと抱きしめる。
「ね? 私を恐れずに飛び込んできてくれる子がここにもいるんです。あんなのに傷ついてしまっては、あなたの愛を疑う事になるでしょう? アメリア」
「ええ、ええ、その通りですわ…愛しておりますわ、ミカお姉様ぁ…!」
泣き出したアメリアの背中をよしよしと撫でる。
「会いにきてくれてありがとう、助けにきてくれてありがとう、アメリア。せっかく会えたんだもの、たくさんお話ししましょう。本当に色々あったんですよ」
「わたくしだってお話ししたい事が数え切れない程あってよ! もうお姉様のお側を離れたくありませんわ! ずっと、ずっとお会いしとうございました…!」
「私も会いたかった。ずっと無事を祈っていました、アメリア…………」
アメリアが私の肩に顔を擦り付けて号泣する。
…どうしてだろう、私が号泣するよりもずっと品があって美しくさえ見えるのは…育ちの問題か?
「ミカの号泣する様は、何というか、少し面白みがありますよね…」
「…面白み。そうですか…ふーん」
「あ、い、いや、すみません…。それで、義母上。その緩み切った顔でお嬢様とミカを舐め回すように見るのはやめてくれませんか」
「舐め回すとは何だ。美しき少女達の睦み合いを愛でて何が悪い」
ずっと向かいで存在感を消していたイーリアの方をチラッと見たら、確かに緩み切ったデロデロの笑顔が見えた気がしたが、一瞬でキリッとした顔に戻った。
「アメリア、このハンカチを使ってください。ホノルがザコルに持たせたものをさらに借りたものですが」
「…ふ、ふふっ、そうなんですのね。ホノルが…」
「何か、私の顔が汚れたら拭くようにと言われているそうなんですよ。ホノルったら私を何だと思っているんですかねえ…」
「僕だってこんなに頻繁に拭くことになるとは思いませんでしたよ。ほら、ミカもまた泣いているじゃないですか」
「あ、ほんとだ」
頬を触ったら確かに濡れていた。ザコルがまた新しいハンカチを差し出してくれる。
「ありがとうございます。それにしても一体何枚持っているんですか」
「常に二十枚は。屋敷の者に洗濯もしてもらっていますが、部屋の荷物の方には予備が百枚程入っています」
「百!?」
それは予備と言わず在庫と呼ぶのでは…。ハンカチ問屋か?
「…うちの妻が、おかしな事を頼んですまない…」
ハコネが申し訳なさそうな様子でザコルに頭を下げる。
「いえ、ホノルの指示は的確ですよ。ミカの無精なポイントを大変よく押さえています」
頻繁に顔を拭かれるし、髪はボサボサだし、寝落ちしてよく靴も脱がされている無精な人間としては何もコメントできない。
「むぅ」
「そのむくれ顔は好きです」
「むぅ!?」
トントン、ノックが響く。
イーリアの側近の声で、エビー様とタイタ様がいらっしゃいましたとの声がする。
「お待たせしましたみんなの可愛い可愛い弟エビーすよぉー…あれ、珍しー。姐さんの方が喰らってら」
「うるさいよエビー」
ドングリを投げたが避けられて廊下に転がっていった。
「ていうか、イーリア様もいるんだからね。ふざけて入ってこないでよ」
「はは、私は構わんぞミカ。テイラーの、お前達も昼は食べていないだろう。こっちへ来て食べろ」
「やった! 流石は女帝様。もうお腹ペッコペコっす」
「ありがたく頂戴いたします、イーリア様」
ふざけたエビーとは対照的に、ピシッと騎士の礼を取るタイタ。きちんと風呂に入って着替えてきたようで、返り血はついていない。
「タイタ殿、鎚を手入れしてくれたようだな、感謝するぞ」
イーリア以上に気配を殺していたザッシュが本棚の間から出てくる。女人率が下がり、セーフティゾーンも加わったので気分が落ちついたのかもしれない。ザッシュはそのままイーリアの背後に立った。今日はイーリアの側近達は扉の外で警備がてら待機しているので、護衛代わりのつもりだろう。
「いえ、礼には及びません。直接お渡しできず」
「いや、いい。尋問は捗ったか」
「ええ。全てをしっかりとお話しいただきました」
ニコォ…。わあ、狂気のパーフェクトスマイルだあ。
「タイタ、尋問お疲れ様! それで、大丈夫…? 言っとくけど、私は大丈夫だからね」
私はサンドイッチを一切れ取り、椅子を持ってきて座ったタイタに手渡す。
「ありがとうございますミカ殿。…しかし、また涙を流されたのでは? お顔も少し赤みが…」
タイタも、私がカニタから投げかけられた言葉に傷ついているのではと心配してくれていたようだ。
「赤みはちょっと不意打ち喰らっただけです。今ね、アメリアと再会の喜びを改めて分かち合ってた所なんだ」
「嬉し涙でいらっしゃいましたか。それならば安心いたしました」
正直言えば、全く何も思わなかった訳ではない。だが、アメリアにも言った通り、私が自分で自分を化け物や不幸を呼ぶ厄介者扱いしてしまっては、私を大事にしてくれている人達に申し訳が立たない。
私がいて助かったと言ってくれる町の人、魔法を攻撃に使ったと知っても態度を変えないでいてくれた護衛二人に、イーリアやマージ。一度は恐怖したものの何故か崇拝してくれるようになったメリーに、心から信頼と心配を寄せてくれるアメリア。そして、私に自衛の手段が増えたと喜んでさえいるザコル。
彼らのためにも私は自分の力を恐れてはならないし、自分が狙われる事を理由に自分を責めてはならない。どれも自分のせいばかりにしては身動きが取れなくなってしまう。
後ろ向きになっている場合ではない。自分を高め、自身を理解する努力は続けなくてはならない。油断や気の緩みは禁物だ。
より強く、図太く、逞しく…………
「ミカ。どうぞ」
「あ…。ありがとうございます。マージお姉様」
マージは紅茶を注いで私の前に置く。芳しい湯気がふわりと鼻を掠め、強張りかけた心がスッと凪ぐ気がした。もしや気遣ってくれたのだろうか。
「ミカお姉様は、マージ町長をお姉様と仰いでいらっしゃいますのね。では、わたくしもお姉様とお呼びすべきでしょうか」
「まあまあ、アメリア様。わたくしなど平民出のいち役人にすぎませんのに、恐れ多い事ですわ。ミカもあまり…」
「何言ってるんですか。お姉様は我らが推し、最終兵器魔王を立派に育て上げたお方のお一人なんですよ! 崇めて当然じゃないですか!」
タイタもうんうんと頷いている。
「というか勝手にお姉様と仰がせていただいているのはこちらの方ですので!」
「もう…。ミカったら、わたくしの経歴をよくお知りにならないうちからこの調子ですのよ。どれだけ勘が鋭いのかしらね…」
マージが頬に手を当てて困ったように笑う。勘も何もない、この美しく有能なお姉様が尊くない訳がない。ただそれだけだ。
アメリアはザコルの方を見た。
「わたくしにとってのばあやと同じような存在ということね」
「まあ、そうですね」
ザコルは小さく首肯した。
「ふふ。ザコル様のお世話係をお勤めなさったとあれば、サカシータ家にとってご家族同然のお方でいらっしゃるのでしょうから、ミカお姉様が尊重なさるのも頷けますわ。そうであればやはり、ミカお姉様が尊重なさる方をわたくしが軽んじる訳にはまいりません。マージ様と、敬称をつける許可をいただいても?」
「恐れ多く存じますが、アメリア様もお忍びのお立場。ぜひお好きなようにお呼びくださいませ。わたくしも場に応じて呼び方を変えさせていただく事があるかと思います。先にお許しをいただけますでしょうか」
「もちろんですわ。アメリアでも、アメリでもお好きになさってくださいませ。ここにいるのは、ただこの方をお姉様と仰ぐ、いち町娘なのですから」
そう言ってアメリアは私の腕をキュッと抱いた。
「あああ可愛い…!! こんな賢くて気高い十七歳の町娘いる訳ないでしょ!?」
「もう、大袈裟ですわ、ミカお姉様」
ふわふわの金髪に頬擦りする。女の子の髪の毛ってほんと気持ちいい…。
「義母上」
「なんだ」
「その目をやめろと言っています」
「お前は十年若返ってから発言しろ」
「理不尽な…」
相変わらず私達から目を逸らさないイーリアにザコルが眉を寄せる。
魔性のかんばせ、お人形のよう、コマと張るほどの出来、多くの者に道を踏み外させたという十六歳のザコルか…。
「多くの者の道を踏み外させているという点では今もあんまり変わりませんね」
道を踏み外した者達で秘密結社までできてしまった。
「誰が道を踏み外させたと…失礼な」
「ふふ。みんな面白い方向に踏み外して楽しく爆走してるようですから、結果オーライですよ」
マージは護衛二人にも紅茶を出してくれていた。そのカップを優雅な仕草で持つ赤毛の青年を眺める。
私はその赤毛に手を伸ばし、サラッと撫でた。
「なっ、お、おやめください! 淑女がそのような」
「あら、怒られちゃった」
「タイタの言う通りです」
ペシッ、いつの間にかタイタの背後に来ていたザコルに手を払われる。
ザコルはそのまま自分の手でタイタの頭をワシャワシャと撫で始めた。
「な、なな、ななな!?」
「僕が撫でておきますので。ミカは手出し無用です」
「もっと動揺してるみたいですけど…」
タイタが白目になりかけている。手に持ったカップを落とさないか心配だ。
「ちょっとぉー、俺の事も可愛がってくださいよお。贔屓すよ、贔屓」
「お前はカニタに言いたい事を散々ぶちまけたんだからいいだろう」
「へへ、兄貴の棒読み演技、マジ傑作でしたねえ…あだっ、デコピンすんな! 兄貴のは洒落になんねえだろ! 穴開くわ!!」
「いい機会だ。その穴から中身を取り換えろ」
「理不尽!!」
額を押さえながらぶーぶーと文句を言うエビー。通常運転だ。
「けっ、もっと可愛い俺を大事にしろっての。タイさんタイさん、戻ってきてくださいよ。報告報告」
ザコルが撫でていた手を引く。
「…はっ、またも完全に持っていかれて……ザコル殿! いい加減に俺を弄ぶのはおやめくださいませんか!」
「可愛い君を可愛がって何が悪いんです。そこの金髪に比べたら百倍、いや千倍可愛げがある」
この開き直りっぷり、イーリアにそっくりだ。
「お姉様、よろしいんですの。あれは」
「いいんですよ、タイタは第二夫人になるらしいので」
「ミカ殿!!」
また怒られちゃった。
しかし、タイタが私達に堂々と文句を言えるようになって何よりだ。慕ってくれるのは嬉しいが、あまり恭順すぎても心配になる。私達だって常に完璧ではいられないのだから。何なら間違いだらけだ。
「タイさん、このお二人はこれでもタイさんが元気出してくれるようにって気ぃ遣ってるんすよ。いつもこういうの説明してくれるミカさんがおふざけに回ってるんで、代わりに説明しときますねえ」
「そうなのか…? 俺はてっきり、お二人はただ俺の反応を面白がっておられるだけかと…。いや、報告だな」
タイタは持っていたカップとソーサーを音もなくテーブルに戻した。
「…では、報告いたします前に、ミカ殿、ザコル殿、エビーには、俺の思い込みのせいでご迷惑をお掛けした旨をお詫びいたしたく」
パン、私は手を胸の前で叩いてみせる。
「私達のはただの横暴ってヤツだよ。鴨がネギ背負ってやってきたからさー、つい横取りしちゃってごめんだよ」
「僕は誘導尋問が効率的でない事が再確認できたので満足です。君の獲物だというのに、つまみ食いしてすみませんでした」
「俺はあのイケすかねえクソ野郎に正論ブチかましてやりたかっただけなんでえー。こーいうのは早いもん勝ちなんで文句はなしすよ」
三人がそれぞれ食い気味に言ったのを聞いたタイタは、ふは、と彼らしくない吹き出し方をし、眉を下げて私達一人一人の顔を愛おしそうに眺めた。
「そうか、そうなのですね…。今のは、この鈍い俺にも分かりました。全く素直でない事だ…。こんな俺を尊重してくださり、本当に、本当に、感謝申し上げます」
深く頭を下げるタイタ。
タイタは、カニタに恩があると思い込んでいたし、カニタの言動には左右されやすい土台があった。早い話が、軽い洗脳状態にあったと言っても過言ではない。調子に乗ったカニタと相対させて、これ以上自尊心を傷つけさせるような言葉を聴かせたくもなかった。
だから私達はタイタの意向は尊重しつつ、まずはタイタ抜きで言質を取ってしまおうと画策した。最低限の言質が取れて『氷姫の敵』と先に認定できてしまえばタイタも最初から迷わずに済む。
あの私に対する最後っ屁のような罵倒を聴かせてしまい、タイタに余計な罪悪感を抱かせてしまったのは誤算だったが、あれによって、頑なに信じていたカニタへの恩を完全に断ち切れたのだから結果的には良かったかもしれない。これでもう、素直で純粋なタイタが、カニタのような輩の言葉を無闇に信じる事はなくなるはずだ。
私達がタイタを大事にしている事、心から頼りにしている事が伝わり、少しでも彼の自尊心の回復につながってくれる事を祈る。
つづく




