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峠越え

 森の中の小道を進むこと一時間。

 コテージから持ち出した携帯食を齧りながら、馬上でこれまでに得た情報の整理をすることにした。


 コマによると、王都の治安は何者かの手引きによって悪くなっているという。暗部の仕事がどこまで治安維持に貢献しているのかは知らないが、一般人の目に触れにくい事件や取引などが放置され、横行しているという事なのだろう。


 どこぞの過激派から戦の旗頭にと担ぎ上げられそうだった深緑の猟犬は、暗部に籍を残しつつも心身の不調を理由に王都を去った。去った後は、王都内の暗部の活動について虚偽の報告を受け取らされていた。

 暗部の統率が急に取れなくなったのは、まさに番犬を失ったから。今までザコルの実力と強い責任感によって組織は監視され、一定の秩序が保たれていたという事なのだろう。ザコルは自分にも人にも厳しそうだもんね。


 テイラー伯爵は『単身飛び出して行った渡り人の身を保護させるために急遽追わせた』という形で、ザコルを王都からより遠ざけることにした。冬の間、雪に閉ざされる辺境へやる事で、渡り人共々陰謀に巻き込まれないよう謀ったのかもしれない。


「と、いうところですかねえ。知りませんけど」

 コマの証言頼みなので、不確定な憶測ばかりだ。

「大体合っていると思います」

 ザコルは他にも情報を持っているんだろうが、今回も無理に聞き出すつもりはない。

 ザコルの置かれた立場に興味がないわけではないが、暗部に関することでは私は完全に部外者だ。首を突っ込む資格はない。

「…コマには僕に政治的な駆け引きなんて無理だと言われてしまいましたし、主からもそう思われているようだという事が分かりましたね」

 ずうん。振り返らなくてもどんな顔をしているか何となく分かる。

「落ち込まないでくださいよ。コマさんの言いようからすれば、あなたが関与すると、王都…ひいては国が無事で済まなくなる可能性があるってとこが問題なんじゃないですか?」

 ザコルが強いのは解っているつもりだが、たった一人でどうやって王都や国を『終わらせる』んだろうか…。しかし、コマが真剣に危惧するくらいだ、ザコルにはそうできる手段があるのだろう。

「そうですね。もう既に消し炭にしてやろうかと思い始めています」

「それですね。どうやら、私の最大の任務はあなたを無事に子爵領に送り届けることだった、と…」

「あなたを子爵領に連れて行くのは僕の仕事なんですが…?」


 私をサカシータ領にやろうと考えて決めたのはセオドアだ。彼は最初からそうするつもりだった。私が行かせて欲しいなどと言い出すまでもなく、だ。

 王家が私の意思を尊重できるとは思えない…というのが、セオドアが私に用意した理由である。

 渡り人に関する調査をするとか、中田に引導を渡すとかは私が勝手に言い出したことであって彼の本意ではない。私としてはやると宣言したからにはやるつもりでいるが。


「主、セオドア様にどのようなご意図があろうと、サカシータ領へ行き、ナカタに会うこと。そしてミカを無事に送り届けること。その二つの命を遂行することに変わりありません。…僕は暗部に籍は残していますが、別に国に忠誠を誓っているわけじゃありません。今はテイラー伯爵家こそが僕の主家ですので」

「はい。私も、テイラー伯爵家が親代わりみたいなものですから。最後までセオドア様のご意向に従いますよ」


 彼らが私を悪いようにすることはない、ザコルもそう言っていた。そうでなくとも、あの邸で半年強も過ごしていればおのずと解ることだ。

 なんにせよ王弟や邪教の追っ手を撒いて、さっさとサカシータ領に逃げ込んだ方がいいのだけは確かだ。彼の地は天然の城砦と呼ばれ、強者が集結していると本で読んだ。ザコルの護衛任務とて少しは楽になるだろう。


「あの、テイラー伯爵家と連絡を取らなくていいんですか? 王都が荒れているということなので、アメリア達の無事も気になってきました。それにジーク伯爵家の事は完全に信頼しても大丈夫なんですか」

 オンジ・マンジの兄弟には感謝しかないが、彼らとて為政者だ。情だけで動いているわけではないだろう。

「…たまに、妙に冷静なことを言いますよね。テイラーの者とはこのまま進んでいれば何処かで会えます。それから、伯爵邸には優秀な護り手がいますから、お嬢様方の安全面は問題ありません」

 それはハコネ率いる第二騎士団の事か、それとも伯爵家を守る露払いの系譜とやらの事か。

 ザコルが認めるのだからきっと大丈夫なんだろう。

「ジーク伯はきちんと打算の上で僕達を支援しています。ああでも、あなたはちゃんと僕の言う事も疑ってくださいね。ミカのその、冷静に物事を俯瞰する目、素晴らしいと思います」

「ありがとうございます。でも、解ってませんねえ。私、ザコルの事は全面的に信じているんですよ」

「…そうですか」

 そっけない返事が、霧がまだ少し残る朝の森に溶けていく。


 地元の人が使っていた小道は、小さな湖と小屋を終点に途切れた。ここからはまた道なき道を進むことになる。

 早朝なので人けはないが、十分に確かめてから湖のほとりで軽い休憩をし、再び出発した。

 

 霧が晴れ、右斜めから差す朝日が目の端を焼く。草葉についた露がスカートの裾を湿らせている。早起きのせいで若干寝不足だ。陽光が目に滲みてシパシパとする。


「ミカ、もし眠かったら僕にもたれて寝てもいいですよ。落としませんから」

「ううん。頑張ります。もう少ししたらちゃんと覚醒すると思いますし」

 目頭をギュッと押さえ、眠気を紛らわそうとした。

「無理しないでください」

 ザコルは、私が抱えるカゴの持ち手に自分の手首を引っ掛けて取り上げた。そのついでのように手の平で私の目の辺りを覆い、頭ごと軽く押して自分の方へと倒れ込ませる。

 目を覆った手の平の温もりが気持ちよくて、私は結局、抗えずに眠りに落ちてしまった。



 ◇ ◇ ◇



 カラッとした砂っぽい風を肌に受けて目を開けた。日は大分高くなっている。

 日本の時間で言えば朝七時から八時の間頃かな、などとぼんやり思った。


「…あ、ごめんなさい。私、かなり寝てましたか」

 自分の前に回った腕から、カゴを受け取ろうと持ち手に手をかける。腕がゆっくりと抜かれ、手綱の位置に戻っていく。

「そんなには寝てませんよ。あなたの重みが心地よかったくらいですし、もう少し寝ていてくれても」


 私は黙って体を起こした。

「……何か、しました?」

「……いえ、何も」

「耳、食んだでしょう」

「………………」

 ザコルが不自然に黙る。

「えっ、本当に? 本当に食んだ?」

「……さっきの森、抜けましたよ」

「そうみたいですね、師匠」

「その呼び方、心臓に悪いのでしばらく控えてくれませんか」

「食みましたか、師匠」

「…………い、いいえ」

「ふーん」


 辺りを見回すと、瑞々しい木々は姿を消し、砂と石と背の低い草の多い土地が広がっていた。荒野と言っても差し支えない光景だ。

 日光を遮るものが何もないので、濃い紺色のケープコートは光を集めて温まっている。

 ザコルに接していた背中はもちろん、肩や二の腕辺りにもじんわりと熱を感じた。寝心地が良かったはずだ。


「大きな街道の方向からは逸れました。この辺りは作物の実りが良くないので人口は少なめです。しばらく行くと、山道の入り口があり、そこから登り詰めた所がいわゆるウスイ峠になります」

「ふーん」

「峠から見てこちら側は少々険しいですが、モナ男爵寮に入るあちら側はなだらかな高原が広がっています。少し風が強いので注意しましょう。この天気なら雨は降らないと思いますが、霧くらいは出るかもしれません」

「ふーん」

「途中まではクリナに乗ったまま上がれると思いますが、道中で狭く地形の不安定な場所もありますので、アマギ山の時のように馬を降りてもらう事もあると思います。あなたなら大丈夫だと思いますが、休憩をしっかり取りつつ進みましょう」

「ふーん」

「アマギ山より標高が高く道のりも長いので、お昼までに峠を越す事はできないかと思います。ただ、峠の向こうには割とすぐ近くに宿泊できる山小屋がありますので、暗くなる前に辿り着けさえすれば何とかなりますので」

「ふーん」

「……すみませんでした」

「何がですか?」

「な、何が? ええと……」

「まあ、耳食んだ以外に何したか知りませんけど、ほどほどにしてくださいよね」

「耳しか食んでません!」

「食んだんですね?」

「…………食みました」

「ふ…っ…あはははっ」

「わ、笑わないでください‼︎」

 笑いながら腕をさすると、ぎこちない動きで手の甲を撫でられた。



 かくして、私達はウスイ峠に繋がる山道の入り口まで辿り着いた。


 途中、牧畜を営むご夫婦に頼んで井戸の水を分けてもらい、水分補給と手持ちの水筒への補充をした。

 これからウスイ峠を目指すと話したらびっくりされ、使っていない水筒があるから二本持って行けと言われありがたく受け取った。竹に穴を開けてコルクで栓をした構造だ。この世界には竹もあるのか、と内心感動してしまった。


 山と山裾は雑木林で覆われており、道中の荒野のような土地ではなかった。

 クリナは目の前の坂に怯むこともなく淡々と登っていく。山道はくねくねとカーブしていて、私達は何度も方角を変えながらジグザグと進む。


 二時間ほど登って、湧水を見つけたので休憩にする。

 先程の牧畜のご夫婦によれば、正規の山道沿いに無いものも含めれば水場は三カ所くらいは知っているとのことだったが、正確な位置を口頭で説明するのは難しいと言われてしまった。

 この先クリナが水分補給をどれくらい取れるものか分からない。クリナには、沢山飲んでね、と声をかけた。


 ちなみに、ザコルがこの峠を通る時には馬はもちろん山道も使わず、ただただ山岳マラソンのように垂直に駆けていくらしいので水場の位置なんて正しく把握していないそうだ。

 そりゃ、三日三晩でサカシータ領に着くならそんな行程にもなるだろう。凄すぎて頼りにならない、と爆笑してしまった。


 ザコルの言う、少々急だとか、少々険しいだとかいう『感想』がいかに当てにならないか。今日はそれがよく分かる一日になりそうだ。


 途中、細く頼りない橋が架けられた箇所では、クリナが落ちやしないかとドキドキした。降りて渡り切るのをじっと見守っていたら、クリナが振り返ってブルン、と嘶いた。

 何となく『自分が落ちる心配をしろ』と言われた気がした。


 標高が上がるにつれ空気は冷たくなっているが、頻繁に降りて歩いているせいで汗だくだ。ケープコートは脱いでクリナの荷物に引っ掛けてもらった。

 サーラに借りたブーツももうドロドロだった。深緑湖の街の宿で頼んで一度手入れしてもらったきりなので当然である。また手入れしても汚れや傷みが残ったらどう謝ろうかと、この場では悩んでも仕方のない事を思いながら登った。




 登り出して四時間程経った頃だろうか。

 ようやく二箇所目の湧水に行き合えて、ザコルが食事のために長めの休憩を取ろうと言った。


「はあー! もう、お腹すいた…足も重い…」

 軽い休憩の際に少しはつまんでいるものの、お腹はそれでは足りないと文句を言っている。

 クリナの荷物を下ろしてやり、湧水で一緒に水をガブガブと飲む。汗でべとついた顔も洗う。気持ちがいいかと思いきや、水が冷たすぎて顔を顰めてしまった。


 倒木にピクニック用のラグをかけ、ザコルと並んで座る。カゴから携帯食や林檎を出して齧る。塩分強めの干し肉も残しておいてよかった。

 そういえばとアマギ山でボストン団長が分けてくれたベリーを使った携帯食も出し、ザコルと半分こして食べた。乾燥ベリーの酸味が疲れた体によく染みる。汗が冷えてきた所で再出発だ。


「大丈夫ですか。少々汗が多いようですが」

 ザコルを見れば、少しは暑そうにしてはいるものの、私の発汗量に比べたら誤差のようなものだった。息は少しも乱れていない。まるで近所に散歩に来たかのような何でもない顔をして、クリナに荷物を括り付けている。

「まだ大丈夫です。ペースはどうですか、私のせいで遅れたりしてませんか?」

 遅くなって山中で野宿するの避けたい。今は暑いが、夜は間違いなく冷える。

「進みはまあまあですよ。暗くなる前には十分辿り着けるんじゃないでしょうか」

「まあまあというのは、前向きな言葉として受け取っていいんでしょうか」

「ええ、もちろん。ミカはやはり、期待以上の仕上がりですよ」

 自分ではそんなに仕上がっているようには感じられないのだが、ちゃんと進めているようなのでホッとする。

「ザコルは私を一体何に仕上げようとしてるんですかねえ…」

「ですから、丸一日走ってもへばらない程度の一般的な体力値の人です」

 ですから、それはあまり一般的じゃないと。

「まあ、私にできるものなら頑張ります」

「ミカは出来る努力を惜しまないので好きです」

「はへ…っ」

 不意打ちを食らったのに、食らわせた方は特に意識している風でもなく、ひらりとクリナに跨った。

「さあ、ここからしばらくはクリナに乗れます。頑張ってもらいましょう…ミカ?」

 私が呆けていると、ザコルが勝手に私の向きを変えてヒョイと持ち上げた。

 …顔は熱いが身体はすっかり冷えた。

 汗がつきそうで心苦しいが、ホノルのストールを出して肩にかける。こちらも後で手入れが必要そうだな。


 幸いそこからしばらくは狭い道がなく馬上からの眺めを楽しむ事ができた。木々の間から下界が見える。

 先程歩いてきた乾燥した大地に、その奥には今朝抜けてきた森。その奥には山が見えて、その向こうはきっとフジの里だ。もちろん里の建物までは見えない。随分と遠くまで来たものだ。


 しばらくすると、眺めの素晴らしい山頂のような場所に出た。ここが峠なのかと訪ねると、

「ここは、峠の入り口みたいなものです」

 と返ってきた。

 しばらくは稜線を伝うように移動するらしい。峠とは道の頂なのだから、点ではないのか。線として続くとは聞いてない。


 ぬか喜びしたので少しガクッとはしたが、ここからは高低差が少ないのでヘアピンカーブもなく、比較的穏やかな道が続くようだ。クリナから降りなくても良さそうなので、それはホッとした。


 風が吹き付け、さらに冷えてきたのでストールの前をぎゅっと合わせる。

 周りより標高の高い場所を平行移動するので、木々の間からのぞく眺めはずっと素晴らしかった。湧き水は無い。私達を乗せて歩き通しのクリナが心配になってザコルに聞くと、水を二回に渡って十分に飲めていたと思うのでそう心配することはないと言われた。


「クリナ、ありがとねぇ。クリナがいなかったら私、ここを越えるなんて無理だったよ」

 ブルン、と誇らしそうな返事が返ってくる。

 中世風の世界を舞台にしていると、ヒーローキャラが馬の世話を甲斐甲斐しくするなんてシーンが描かれることが多々ある。自動車も自転車さえもない世界では、馬は長距離移動に必須の動物だ。人間側も敬意を持って大事しなければならない、という当然のようなことを実感を持って噛み締める。

 いずれクリナのお世話の仕方も覚えたい。昨日、意地を張って小屋の中にいず、世話の様子を見に行けば良かった。


「やけに時間かけてお世話してるなって思ってたんですよねえ…」

「うっ、それは…心を落ち着かせるために、ですね…」

「クリナは丁寧にブラッシングしてもらえて嬉しかったよね」

「………………」

 無言。

「嫌味じゃないですよ?」

「…っ、紛らわしい言い方は避けてくれますか」

「師匠がそれを言いますかね」

 また無言が続いた。

 クリナがブルン、と鼻を強く鳴らした。

「…なるほど、当て馬にするなってこと? 馬だけに」

「……ふはっ」

 ザコルが吹き出した。異世界でも当て馬という慣用句は通じるらしい。

「ふふ、クリナに悪いからやめましょうか」

「言い出したのはミカでしょう」

「クリナのお世話、一緒にしたかったなって思っただけですよ」


 クリナへの感謝と、そして、ほんの少しの幼稚な嫉妬。

 私にこんな感情的な面があったなんて。この世界に来てから、自分で自分に驚いてばかりだ。

 ザコルは何を言っていいか分からなくなったのか、黙ってカゴの持ち手にかけた私の甲を撫でた。手が目の前に来たので、何となく頬を擦り付けてみる。

「…か、わ……っ、い、いえ、あまり僕をイジめるようなら耳を食みますが!?」

「変態」

「変態とはなんです!」

「言葉通りの意味ですね」


 稜線の道は続く。

 峠の入り口から三、四時間くらい進んだかという所で、急に視界が開けた。あちら側、モナ男爵領の高原地帯が目の前に広がったのだ。



 後ろを見ると、日は西に少し傾いて黄みを帯びたかという所だった。

 もしここで日の入りまで眺められたらそれはそれは美しい光景が見られる事だろう。暗くなる前には山小屋に移動しなければならないのでそれは叶わないが。

 しばらくその場で眺めを堪能しながら休憩を取って、その後は緩やかな傾斜を降りて行った。



 ◇ ◇ ◇



 私はザコルの手の甲をバシバシと叩いていた。


「何ですか、僕の顔なら宿に着いてから見てください」

「違います、さ、寒くて…っ」

 震えが出てきてしまった。これ以上は限界だ。

「え。…すっ、すみません、ちょっと待って。すぐそこで停めますから」


 クリナの綱を引き、足場の確保できる所で停める。

 ザコルはすぐに私を降ろして、荷物にくくりつけた紺色のケープコートを引っ張って外し、肩にかけてくれた。


「大丈夫ですか。すみません、僕は寒さを感じにくくて」

「いえ、あと少しで着くだろうと思って我慢してたので…早く言えばよかったです。今まで日が当たってたからまだ良かったんですけど、山の陰に入っちゃったから…」

 コートの前をキュッと閉じて震えをおさめようとする。

「羽織れそうなもの、他にも出しておけばよかった」

「すぐに出しますよ」


 ザコルは面倒がることもなく、わざわざクリナから荷物を降ろして解いてくれた。着替えの袋から適当に引っ張り出して私に寄越す。

 私はそれをコートの中に重ね着し、ストールを首元に巻きつけて手袋もつけたらやっと震えが止まった。


「はあ、あったかい。さすがはホノル母さん。準備がいい」

「急いで向かいましょう。これからもっと冷えますから」

 ザコルはそう言って手早く荷物をまとめてクリナに付け直し、モコモコと着込んだ私をヒョイと抱え上げて乗せると、さっきよりも速度を上げて先へと進んだ。



 山小屋に着くと、ザコルは私をクリナに乗せたまま降りて扉をノックした。

「すみません。二人泊めていただきたいのですが」

 声をかけると、中から気の良さそうな、六十歳前後と思われる女性が出てきた。

「まあ、麓の町から来たのかい? こんな時間に?」

「いえ、今峠を越えて来た所で」

「はあ? その子を連れてかい? 何考えてるんだ、こんな時期に」

 女性は私を眺め回し、コートからのぞいた綿のスカートを見て眉を寄せた。

「そんな薄着じゃ寒かったろう、早く中に入りな。兄さんはその馬あっちに繋いできておくれ」

 ザコルは私を降ろして女性に預け、クリナを山小屋の横へと引っ張っていった。


 女性に促されて小屋の中に入ると、薪ストーブの上でケトルが蒸気を吐いているのが目に入った。

「ここに座って。今、温かいものを出してやろうね」

「ありがとうございます。お世話になります」

 ストーブの近くにあった椅子をすすめられ、カゴを脇に置いて座った。ストーブに手や膝を近づけて温めていると、しばらくして女性がマグカップを片手に戻ってきた。

「蜂蜜入りのホットワインだよ。酒はほとんど飛んでるから。飲めるかい?」

「嬉しい。美味しそうですね、いただきます」

 マグカップで指を温めつつホットワインを啜ると、喉の奥がじんわりと熱くなった。

「はあー…あったまる…。峠越してる間は暑かったのに、さっき急に寒くなったので…」

「そりゃあ、そんなひらひらしたワンピースに少し羽織ったくらいじゃ寒いだろうよ。全く、あんたの連れは気が利かないねえ。服くらい買ってやりゃあいいのに。こんな歳若い子につらい思いさせて、大人失格だよ」

「いえ、諸事情あって町では調達できなかったものですから。それに彼は私と一つしか違わないんですが…」

「おや、あんた、思ったより…。なんだ、あの男がジーク領から若い娘を無理矢理拐ってきたのかと思ったじゃないか」

「そんなまさか。ちゃんと頼んで連れてきてもらいましたよ。あ、もしかしてこのワンピースが若い子向けとか?」

 さっきから子供扱いされているような気はしていたが、アメリアに服を借りたせいだったか。そういやあの子、大人っぽいけどピチピチの十七歳だった。

 JKにワンピ借りて来たんか私…。

 この国のファッション感覚がいまいち分からないので、自分が年相応の格好をしているかどうかの判断がつきづらい。

「いーや、服のせいじゃないね。あんた、せいぜいが十六か十七、いや未成年にも見えるよ。今まで周りに言われた事なかったのかい?」

「いえ、とんと…」

 この国での成人は十六だ。未成年とは十五歳以下を指す。流石に十代前半はないだろう。

 あ、そういやあのトンチキ第二王子には十代に見えるって言われたかも。

「やれやれ、もしや相当の世間知らずだね? その黒髪黒目もジークより南じゃ珍しいだろ。人の多いとこには気をつけな。あっという間に拐われちまうからね」

「あはは、お上手ですね。私なんか拐ったって犬のエサくらいにしかなりませんよ」

「まあ! 何てこと言うの、せっかく可愛いんだからそんな風に言うんじゃないよ。女の敵を作るよ、もっと堂々として…」


 おばさんはこんこんと説教を始めてしまった。

 あれ…私、なんで叱られてるんだろう。今のは別に、冗談に冗談で返しただけで、謙遜のつもりですらなかったのに…。

「……ねえあんた、どうしたの。どうしてそんなに自信が無いんだい。もしや、あの彼氏にずっと閉じ込められてたとか、酷い事でも日常的に言われたり」

「い、いいえ! 頑張って褒めてくれようとしてます! 彼は!」

 ブンブンと首を横に振って否定する。なんでこんな話に。このままではザコルがDV彼氏認定されてしまう。

「彼は? じゃあ、親かい? 家族に虐待でもされてるのを連れ出して貰ったのかい? その上着や靴は上等だが…まさか、駆け落ち!? 不遇な結婚、そして護衛との不倫の末に…!?」

「ちがっ、違います! 真っ当な旅です! 虐待でも駆け落ちでも不倫でもありません! ただこっちが近道だって言うから…!」

 暑くなってきて、思わずケープコートの留め具を外して前を開いた。


「あの……入っても……よろしいでしょうか…」

 出入り口に目を向けると、ザコルが扉から半分顔を出しつつ立っていた。

 深緑湖での記録を越え、顔の気まずさは過去最高新記録である。

「おい、かーちゃん、詮索もほどほどにしとけよ。お嬢ちゃんが困ってんだろ。すまねえな。こんなとこに住んでるとどうしたって暇でな、話題に飢えてんだよ」

 おばさんと同世代と思われる男性がザコルの後ろから入ってくる。夫婦なのだろう。

「ちょっと、野次馬みたいな真似するつもりはないよ、ただ、この娘があんまり無頓着なもんだから心配になって」

「この二人、訳あって変な奴に追われてるんだってよ。サカシータ子爵領まで行ってそのお嬢ちゃんを匿うんだと。……ああ、でもただの護衛ってのは嘘だな? 兄ちゃん」

「?」

 何やら私の服をジロジロと見るおじさん。おばさんもはっと気づいたように口元に手をやった、

「あらあらほんと、そのポンチョと兄さんのマント、お揃いじゃないか」

「えっ」

「いっぱしにマーキングのつもりかぁ? この、仏頂面しやがって」

 おじさんがザコルを肘でうりうりとする。

 ポンチョ…? 私はコートの中を見る。

 …しまった、これアメリアが自信満々で選んできた深緑色のポンチョじゃないか。薄暗くなってたし、急いで着たから何も見てなかった。コートを脱いだら完全にペアルックだ。

「よく見たらその腕輪も」

「こ、これには訳が」

 ブレスレットの方は私の誤爆だが、ますます浮かれポンチで旅を楽しむバカップルっぽくて恥ずかしい。

「誤魔化さなくたっていいんだよ、旅を楽しんでるなら何よりさ!」


 盛り上がる山小屋管理人のご夫婦を目の端に捉えながら、一層居心地が悪そうにしているザコルの側に寄った。

「このポンチョ、アメリアとホノルに持たされたんです…すみません、気づかなくて」

「あの人達は…。僕が適当に荷物から出したせいです、こちらこそすみません」


 どうも、テイラー家の意図を大きく見誤っていたかもしれない。

 政治とかラースラ教とか色々あるかもしれないが、その実ただのお節介、という可能性が浮上してきた。


「もしや、あの人達、私達を何とか二人きりにしてくっつけたいだけでは…?」

「そうか…い、いや、でも…流石に…」

 何やらぶつぶつ自問自答し始めたザコルの腕を撫でてやった。



「まあ、揶揄うのもこの辺にしとくか。一応ここは関所の支所でもあるんだ。峠を越えてくる奴は他にもいるんでな。…まともな奴は少ねえが」

 おじさんはまだ完全に警戒を解いた訳ではないらしい。

 ザコルが懐から書状を取り出しておじさんに見せる。

「ああ、確かに。本当にテイラーから馬に乗って来たのか。随分と長旅じゃねえか」

「テイラー? そんな所からこんなか弱そうな子を連れてきたのかい? しかも馬一頭で。とんでもないよ!」

 おばさんが非難がましい目でザコルを見る。私はザコルの前にサッと立った。

「全然大丈夫ですよ。楽しんでますから。今日も綺麗な景色をたくさん見られていい思い出になりました」

「案外たくましいんだねえ。でも、そうかい。峠からの景色は本当に綺麗だからね」

「それで、泊まってくんだろ。荷物は下ろしたからな。部屋に案内してやる。お嬢ちゃんごめんな、今からじゃ風呂に入れる程の湯は用意してやれねえ。我慢してくれるか」

「平気です。清拭用に少しだけお湯か水を分けてくださいますか」

「もちろんだよ、あんたには私の服も貸してあげようね。もう少し温かい格好をしないと、夜はもっと冷えるから」


 おばさんは奥の部屋から厚地の肌着とセーターとガウチョパンツのような服を持ってきてくれて、金属の洗面器と手拭いと共に渡してくれた。井戸はなく、近くの湧水や雨水を使用しているようだ。

 洗面器に水とストーブの上で沸かしたお湯を入れてもらい、案内された部屋で二段ベッドの下段に腰を下ろした。今日はたくさん汗をかいたし、しっかりと拭き清めたくて上半身を脱いだ。


 この山小屋は簡易的な関所である他、麓の町からハイキングを楽しむ人もよくやってくるのだそうだ。

 夏には峠で朝日を見るために泊まる人もいるそう。今は泊まる人が少ない時期で、しかも峠を越えてやってくるような客は特に珍しい。

 彼らに言わせれば私は相当若く見えるようだし、夫妻があれこれと疑念を持つのは仕方ないようにも思えた。


「うーん、はたから見ればザコルが不審者になっちゃうのか…。いちいち職質されてたら目立つし面倒だし、私も言動には気をつけないとな…。いや、いっそ堂々と恋人アピールでもしてた方が自然に見えるんでは? あ、別に何も不都合ない気がしてきた。もういい大人同士だし、何かあったと思われたって誰も困んないじゃん」

「こっ、困ります!」

 後ろ、というか隣の部屋からツッコミが聞こえてきた。相変わらず盗み聞きが酷い。

 深緑湖の街のホテルよりずっと壁は薄いだろうから仕方ないが、これは余計に気をつけなければならない。

「ふーん、私と噂になるのはそんなに困りますか。まあ、変な女ですもんね…」

「ち、違っ、やはり、主家がそれを後押ししているというのはおかしいと思うんです!」

「何がおかしいんですか。アメリアもノリノリでしたし、私達がくっついた方がみんな楽しいんじゃないですか?」

「そんな、なし崩しのような形で軽率な振る舞いをしては」

「軽率に人の耳食んどいて何言ってるんですかねこの変態は……ヒッ!?」


 ベッドの奥にある壁の方を向いたら、そこは壁ではなかった。厚めのカーテンが空間を横切っているだけだった。


「どうしました? 蛇でも出ましたか?」

 カーテン越しに人影が動いたので、慌てて身体の前を押さえた。

「駄目! 来ないで! 今服着てないの!」

 ピタ、人影が停止する。


「ていうか、音で分かってたでしょ⁉︎ 私が身体拭いてる事くらい! 何平然と会話してるんですか⁉︎」

「それは、まあ、音だけなら何度か聴いていますし…」

「あーそう! そうでしたよね。…もういいです。カーテンから離れて」

「わ、分かりました」


 カーテンの向こうで人の気配が遠のく。お湯も冷めてしまうし、さっさと清拭を終わらせよう。

 肌を空気に晒しているのが急に心許無くなってくる。できる限りカーテンから離れた場所で下半身も拭いて下着を変え、おばさんから借りた服に袖を通す。


「ふう。ザコルが私の耳以外には興味ないってことが分かったし。壁がカーテン一枚だろうと何にも心配いらないわ。全然大丈夫」

「何も大丈夫じゃ」

「私、ちょっと、炊事とか手伝ってきますね」

「ミカ」

 私はガチャッと部屋のドアを開け、おじさんとおばさんを探しに出た。




 部屋を出て先程のストーブの前に行くと、おじさんがジャガイモ、いやマシ芋と呼ぶべきか。とにかく、馴染みのある白っぽい芋の皮をナイフで剥いていた。


「突然泊まる事になってご迷惑をおかけします。良かったらお手伝いします」

「お客様が迷惑なんてことねえさ。あんた、よく知らねえが良家のお嬢さんだろ。刃物なんて持った事あるのか?」

「祖母の食事を用意するのは私の仕事でしたから。ナイフもう一本ありますか」

「そうかそうか、深くは聞かねえが、苦労してきたんだなあ」

「料理は苦じゃなかったです。大変でしたけれど、祖母には育ててもらった恩がありましたし。今思えば世話をすることで救われていた部分もありました」

「そりゃ、ばーちゃんも幸せだったろうな」

「そうだったらいいなと思います。私がまともに育ったのは祖母のおかげですからね」


 ナイフは包丁とは勝手が違ったが、おじさんの手元を見て真似ているうちに慣れた。料理をするのは久しぶりだ。楽しい。


「奥様は今どちらに?」

「あいつは今多分、兄ちゃんに干草の場所教えてやってるよ。ありゃいい馬だなあ」

「ええ、クリナのおかげで峠も何とか越せたようなもので」

「お嬢ちゃんも見た目にそぐわずいい体力してんな。自分の脚で登らなきゃなんねえ所も結構あったろ」

「はい。今日は汗だくになりましたよ」

「よく食らいついてきたぜ。普通、いいご身分の人間は絶対にこのルートは通らねえ。街道使うなら山避けてぐるっと回らねえとならねえから、こんな奥地まで他所の人間が来るのは珍しいんだ」

「そうなんですね」

「これから雪に閉ざされちまうしな。俺らももう少ししたら麓の町に下りる」

「まだいていただけて良かったです。ここが開いてなかったら、今頃焦って町まで走ってる所でしたね」

「そうだぞ、さもなきゃ凍えながらの野宿だ」

「それは、流石に、音を上げるかも…」


 おじさんが剥き終わった芋をバケツの水で軽くゆすぎながら、水を張った鍋に移していく。バケツの水で手とナイフもゆすいでいたので、私もそうさせて貰った。

 鍋に蓋をかぶせ、ストーブの上に置いたら一仕事終わり。


「今日は芋とソーセージだ。それ以上のご馳走は出せねえが、ワインはあるぞ」

「彼が許してくれたら一杯いただきます」

「おお、護衛にそんな事まで管理させてんのか? お嬢ちゃんもいい歳なんだろ?」

 いい歳のお嬢ちゃん、という不思議な語感に笑ってしまう。

「ふふっ、お酒で何度か彼に迷惑をかけていますので。私の自業自得ですよ」

「はっは、そういや、部屋はカーテンで仕切られてるだけだからな。山小屋だからちと狭えんだ。俺らの部屋まで響くことはそうそうねえが、あんまり張り切るなよ」

「張り切る予定はありませんので。ご心配なく」

「なんだ、喧嘩してんのか? おっちゃんが一肌脱いでやろうか」

「いえ、間に合ってます。仲良しですよ」


 日本だったらセクハラ発言だが、悪気はないのだろうし笑顔でかわす。大人の嗜み。

 だから、そこですごい目でこっちを見てる人、殺気を引っ込めてください。


「…ミカ、クリナのブラッシング、やってみますか?」

「あ! するする!」

 ザコルが勝手口の扉で手招きするので、おじさんに断って席を立つ。


「もう何なんですか、一般人に向ける殺気じゃないでしょアレ」

「一応関所ですよ、完全に一般人ということはないでしょう。それにしても、ミカは僕の殺気が感知できるようになったんですね。もう、あのクズ王子くらいなら問題なく倒せるんじゃないですか」

「倒さない。倒さないですよ。せいぜい言葉で嫌がらせくらいならしますけど…」

「僕としては、そちらの方がずっと怖いですね」

 なんか、性悪って言われてるような気が…。

「ふーん。さっきの続き、します?」

「しません。再起不能になりそうなので」

 ブンブンと首を振るザコルを見て、私はふん、と鼻を鳴らしてやった。



 ザコルに教えてもらい、まずはクリナの体や脚についた汚れを藁でこすってしっかりと落とす。その後、硬い毛のブラシで毛並みを整えるようにブラッシングしていった。


「本当ならもっとブラシを使い分けたり、お湯で洗ってやる事もあるんですが、今日は道具も少ないのでこんなものですね。とはいえ、充分綺麗にしてやれましたよ」


 干草を食べるクリナの首筋を撫でて、温もりを手に感じ取る。

「クリナ。毎日乗せてくれてありがとう。その上、相談にまで乗ってくれてありがとうね」

 クリナは、世話が焼ける、とばかりに鼻を鳴らした。

「相談? クリナと何か?」

「ええ、昨日少しだけ。誰かさんがなかなか追いかけてきてくれませんでしたからねえ。クリナに慰めてもらってたんです」

「ああ……」

 気まずそうな顔。ますますイジめてるみたいだ。

「まあ、別にいいですけどね。どうせ興味もないんでしょうし」

「さっきからどうしてそんな言い方をするんです!」

「誰のせいでしょうか?」

「……ええと、多分、僕です」

「何が悪かったと思います?」


 うーん、とザコルが考え込む。喧嘩腰に訊かれても素直に考えてくれるあたり、真面目というか実はお人好しなんだろう。

「僕が、清拭中に話しかけた、から、ですか?」

「少し違うんですけど…まあいいです。こっちは裸だったんですよ。…どうせ、貧相で見るに値しない身体でしょうけど…」

「い、いえそんな事は!」


 その上変な性悪女ですもんね、とさらに悪態が喉から出かかって堪える。

 これ以上卑屈になったって、このお人好しを無駄に困らせるだけだ。どう返しても正解にならない問いなんて『仕事と私どっちが大事なの』くらい生産性がない。


 どうしてこんなにイライラしてるんだろう…。自分でもよく解らなくなってきた。


「ミカ、嫌な思いをさせたならすみません。シャワーだけでなく清拭の音も嫌なんですね、聴かないよう気をつけますから、あの…」

 …何だか申し訳なくなってきた。彼に悪気はない。イライラしているのは私自身の問題だ。

 シュンと猫背になるザコルの前に立つ。

 …よし。

 次の瞬間、私はおもむろに彼の胸へ飛び込んだ。

「ぎゅ」

「え」

 背中に手を回す。ザコルの反応が遅れているうちにパッと離れた。

「この話は終わりです」

 ザコルの顔はなるべく見ず、勝手口から小屋の中へと駆け戻った。少しくらい動揺してほしいと思うのは我が儘だろうか……我が儘だな。




 手頃な大きさの鉄板をストーブの上に乗せ、その上でソーセージを焼く。部屋の中は美味しそうな匂いの煙で充満していた。


 陶器の皿とフォークを渡され、茹でた芋とバター、そしてこんがり焼けたソーセージを置いてもらった。

 なんて幸せな光景だろう。

 何年も食に無頓着に生きていたのが嘘みたいに感動している。

 祖母が好物を作ってくれた日のことや、自炊を始めた頃の楽しさも思い出された。


「ほわあああ…! これ以上のご馳走はないですね!」

「そうだろうそうだろう。これ以上はねえんだよ。ワインもいいが、ビールもありゃ最高なんだが」

「黒ビールが合いそうですね!」

「分かってんなあ! 味の濃いビールがあったら格別だ」


「ミカ。一杯だけ、ワインを貰いますか」

「いいんですか? 嬉しい」

 マグカップにとくとくと赤ワインが注がれる。

「兄ちゃん、あんまり束縛すると逃げられちまうぞ」

「あんた、余計な事を言うんじゃないよ。護衛が決めた事だろ」

「飲兵衛が酒を飲ませてもらえないんじゃ、つらいよなあ」

「飲兵衛って程じゃないんですけど。今日のご馳走にはお酒がないともったいないですよねえ」

「分かってんなあ! さあ飲め飲め」

「ミカ、急にあおらないでください」

「分かってますって。ありがと」

 私はマグカップにそっと口をつけた。渋みと酸味が口内に染み渡り、熱を持つ。

「んーっ! おいしーい! この一杯のために生きてるー!」

「いい反応だあ! どんどん食えよ!」

 おじさんが次々とソーセージを私の皿に乗せてくる。

「お嬢ちゃん、ごめんねえ。うちの人酔っ払うと面倒臭いから。疲れたら部屋に戻っていいからね。久しぶりに泊まり客が来たもんだから嬉しいんだよ。ここ、白湯も置いとくからね。兄さんも遠慮せず食べなよ」

「兄ちゃんは飲めるんだろ、ほらどんどん飲め」

「僕は酔いませんから、かえって酒がもったいないかと」

「ザルか。上等だ。仕舞ってある酒全部開けちまえ」

「…宿代に乗せておいてください」


 上機嫌なおじさんと冷静なザコルの対比がすごい。フジの里の光景を思い出す。おじさんはどうしても若者に飲ませてやりたいものなのか。

 私はちびちびとワインに口をつけながら、肉汁溢れるソーセージを頬張った。バターでどろどろになった芋もすくって食べる。


 ウスイ峠、越えて良かったな。こんなご馳走が待っているならまた登りに来たいくらいだ。


 お腹が大分満たされて、ワインもマグカップの半分を切った。ザコルはまた夥しい量を飲まされているが、顔色一つ変わっていない。

 おばさんが置いてくれた白湯を一口飲むと、急に眠たくなってきた。体が重い。


「ミカ。眠いなら部屋へ行きましょう」

「うん…。トイレ、行ってくる…」

「まあまあ大丈夫かい。疲れたろうね。トイレまでは私が一緒に行こうか」

 おばさんに付き添われてトイレを済ます。何だろうな、ちょいちょい介護されてるよな、私。


 席に戻って白湯の残りを飲み、夫妻に挨拶をして部屋に戻る。

 おじさんに引き止められていたザコルも一緒に部屋へ戻るようだ。おじさんはおばさんにボトルを取り上げられている。片付けを手伝えなくて申し訳ないが、もう眠くて眠くて限界だった。


 部屋に入ってベッドに腰掛けると、吸い寄せられるように枕へ頭を置きかけた。

「ミカ、せめてブーツは脱ぎましょう」

 ザコルがブーツの紐に手をかける。

「…セーターも脱ぐ。タイツも脱ぎたい」


 ブーツを脱がされている間に、セーターを脱いで肌着一枚になり、さらにタイツも脱いでしまおうとガウチョパンツのウエストに手をかけたところで、ザコルがブーツを脇に置きスッと立ち上がった。

「あの。僕は、自分のベッドの方へ戻りますね。おやすみなさい」

「おやすみなさい…」


 ザコルがドアを開けて部屋を出ていく。仕切りはカーテンしかないが、出入り口は二つあるのだ。カーテンの向こうのドアが開く音がして、ザコルの足音が聴こえる。

 私はタイツとガウチョを一度に下ろし、寒かったのでガウチョだけを履き直す。そしてベッドに潜り込んだ。




 深夜、目が覚めて自分のやらかしに思い至った私は、目が冴えてしまい体を起こした。

「どうしました」

 カーテンの向こうから声が聴こえて飛び上がった。

「おっ、起きてたんですか?」

「寝ていましたよ。でも、ミカが起きる気配がしたので」

「起こしてごめんなさい。すぐ寝ます」

「お水をもらってありますよ。少しカーテンを開けてもいいですか」

「はい、ありがとうございます」


 喉が渇いていたので素直に応じると、カーテンの隙間から水差しとカップが差し入れられた。受け取ってベッド脇の小さな台の上に置き、水を一杯注いであおる。寒かったのですぐベッドに戻った。


「結局また迷惑かけちゃった…。ごめんなさい」

「こんなのは迷惑の内に入りません」

 そりゃ、今までの酒の失敗に比べたらかわいいものだろうが…。

「あの…私、前にもブーツ脱がされてましたよね。この世界の常識からして、淑女が靴を脱がされるのはアウトなんじゃ」

「そう、です、かね。あまり気にしていませんでした」

 気遣われている…? それとも、本気で気にしていないんだろうか。

「肌着一枚になるのは完全にアウトですよね……?」

 夕飯の前に羞恥心がどうだのと説いていたくせに、自分から脱ぎにいってどうする。ザコルも無頓着だが、私も大概だ。


「ミカ。前にネグリジェ一枚で僕の脚に縋った事があるの、忘れたんですか」

「あー…」

 せっかく忘れてたのに。ザコルも忘れててくれてよかったのに。

「あれは忘れられませんね」

「意地悪」

 もしや、やり返しているつもりだろうか。だが、反論などできようもない。事実だし。


「あの、ミカ。手を握ってもいいですか」

「うん? 手を?」

「もし良かったら。お願いします」

「はい、いいですけど…」

 カーテンの下から手が差し伸べられる。手を当てがうと、キュッと軽く握られた。

「ミカの手は、柔らかくて気持ちいいですね」

「ザコルの手は大きくて…何だか硬いですよね」

 指先で手の平の凹凸を確かめてみる。武器を扱うからだろうが、何かのタコがいっぱいある。

「あの、いじくるような真似はやめ」

「ふぁーぁ…。あったかい。手を握ってもらえると、こんなに安心するんですね……」



 ◇ ◇ ◇


 カーテン越しにミカの寝息が聴こえ始めた。


 …いや、何を無防備に寝ているんだ。手だけとはいえ、肌を許したまま寝入るとは。


 カーテンをめくると、安らかな寝顔が目に入った。

 僕は暗闇でも目が利く方だ。僅かな光でも、どんなに安心しきって寝ているかくらい分かる。まさか、これも僕を試しているつもりなんだろうか。

 生活音などは全くの他人のものも含めて聴き慣れているが、こうして目の前で無防備な姿を晒されれば、いかに感情の動きにくい僕とて思うところくらい…。


 ………………。

 何か、無性に腹が立ってきた。


「興味ないわけないだろ」

 意識してないのはそっちだろうが。音を聴かれて怒るくらいならもっと警戒しろ。

 僕は文句を飲み込み、溜め息に変える。握っていたミカの手を布団に入れ、肩まで掛け直してやった。



 ◇ ◇ ◇



 翌朝、ザコルが扉をそっと開けて部屋を出ていく音に気づき、目を覚ました。クリナの世話でもするのだろうか。


 起き上がると、昨夜カーテンの隙間から差し入れてもらった水差しとカップが目に入った。

 部屋は寒いが、布団から出て台に寄る。室温でキンキンに冷えた水をカップに注ぎ、喉を潤した。ついでに手拭いに水差しの水を垂らし、顔を拭った。


 床に落としてしまっていたセーターを拾って着る。借り物なのに雑な扱いをしてしまったと反省する。

 ガウチョを脱いでタイツを着直し、ガウチョを再び履く。ブーツを履き、髪を結び直し、ホノルのストールを肩にかけ、部屋のドアを開けた。トイレに寄ってからストーブのある部屋に顔を出す。


 ケトルがシュンシュンと音を立てる前で、おばさんが椅子に座ってくつろいでいた。

「おや、おはよう。早いね。よく眠れたかい。疲れは取れたかい」

「おはようございます。昨日は片付けのお手伝いもせずすみませんでした」

「いいんだよ。あんたは客なんだから。兄さんは馬に飯やってるよ。紅茶飲むかい」

「いただきます。あ、でも、クリナの様子、私も見に行ってきます。その後でお願いします」

「そう、行ってらっしゃい」


 勝手口から外に出る。冷たい空気に身をすくませる。明けたばかりの空は、まだ薄桃と紺青のグラデーションを描いていた。雲に朝日が当たって光っている。綺麗だ。


「ミカ。おはようございます」

「おはようございます。ザコル、クリナ」

 クリナが鼻を鳴らす。いつ話しかけてもちゃんと言葉が通じているみたいだ。

 道中色々あったが、クリナが取り乱したところは見たことがない。本当に落ち着いていて賢い馬だ。私と違って。

「私って、本当にどうかしてるよね…」

「何を言っているんですか?」

「クリナは賢いなって思って。昨日はご迷惑をおかけしました」

「もう一度言うようですが、あの程度は迷惑の内に入りませんので」

 ピッチフォークを干し草に刺すザコルの後ろに回り、こて、と背中に頭をもたげた。

「…また、僕を揶揄いに来たんですか。そっちがその気ならもう遠慮なんて」

 私は彼の背中に頭をつけたまま、ふるふると首を横に振った。

「ごめんなさい…」

「? 何の謝罪ですか」


 当たり前だが、この旅の目的は無事にサカシータ領へ辿り着き、自ら宣言した任務を果たす事だ。断じて、自分の気持ちを人様に押し付けて困らせることではない。


 それなのに、些細なことで泣いたり怒ったり酒に呑まれたり…。この旅は決して遊びなんかじゃないのに。

 冷静に考えれば考えるほど自分が嫌になる。それが解っているのにも関わらず、何故かイライラやモヤモヤが収まらない。


「私、おかしいんです。少しだけ聞いてくれますか」

「何です」

 ザコルはピッチフォークを立て掛け、こちらに向き直った。斜めの体勢になっていた私はバランスを崩し、ザコルに支えられる。

「今日、朝から泣きそうなの。どうしても気持ちがコントロールできない。どうしたらいいか分からなくて」

 じわり、目が潤んでくる。

「ミカ」

「ザコルに酷い事言いそうで、怖い…」

「本当にどうしたんです。僕がまた何かしてしまいましたか?」

「ううん、違う。違います」

「…ええと」

 ああ、また困らせている。これ以上は迷惑かけられない。

「…聞いてくれてありがとうございます。もう、大丈夫です」

「ミカ」

「すっきりしたので」

 私は無理矢理笑顔を作った。そのまま勝手口の方へと戻ろうとしたがやめた。恐らく酷い顔をしている。おばさんにまで心配をかけたくはない。


 ザコルから離れ、昨日ザコルが扉を叩いた山小屋の玄関の方へと回る。

 空は明るくなりつつあるが、ここは山陰になるのでまだ太陽の光は直接届かない。山小屋の前にあった木へと近寄り、その樹皮に頭をもたげた。


「はあ、ダメだ。子供じゃないんだから。私は大人、私は大人、私は大人」

「何してんだ、嬢ちゃん」

 振り返ったら、大きな籠を背負ったおじさんが立っていた。

「あ、おはようございます。せっかくなのでお散歩してました」

「そうか。ちょっくら食べられる草摘んできたぞ。スープに入れるが、手伝うか」

「はい」


 おじさんについて山小屋の中に入る。おばさんにマグカップを二つ手渡されたザコルが立っていた。

 おじさんは手際よくタライに水を張って持ってきて、カゴから葉っぱを出してゆすぎ始めた。


「根がついてるやつは取ってカゴに捨てといてくれ。虫がついてるかもしれねえからな、気をつけろよ」

 おじさんの手元を見ながら同じように葉っぱを手に取り、余分な部分を取り除いてゆすいでザルに上げていく。

 手に取った葉っぱに小さな芋虫が這っていて、声を上げたら笑われてしまった。おばさんがストーブの上にあった鍋の蓋を開けると、ザルに上げた葉をおじさんが湯の中に沈めていく。

 鍋の中には芋とソーセージが茹っていた。沈められた葉は一瞬のうちに濃く鮮やかな緑に変わる。


「アカの実もあったから摘んだ。ジャムにでもしないと酸っぱいが、つまんでみるか」

 おじさんの手元を見ると、道中でも見かけたコケモモの実だった。ここではアカの実と呼ばれているのか。

 軽くゆすいで皿に乗せてくれたので、テーブルに椅子を寄せてつまんだ。瑞々しくて強い酸味が顔を歪めさせる。

「んんん、酸っぱい。美味しいです」

「ミカ、紅茶を貰いましたよ」

「ありがとうございます」

 少しぬるくなってしまった紅茶を受け取り、コケモモをつまみながら啜った。

「ミカ。隣いいですか」

「どうぞ」

 ザコルが隣に椅子を引き寄せて座った。黙って紅茶を啜っている。

「さっきはほんと、変な事言ってごめんなさい。私、本当にどうしたんでしょうね」

「僕は大丈夫です。謝らないでください。何となく謝られる方がこたえますから」

「何だ何だ、やっぱり喧嘩してんのか? いいか? ありがとうとごめんなさいはしっかり伝えろよぉ」

 おじさんが割って入ってきた。

「あんた、人様に説教垂れらるような立場かい。あんたこそ私に感謝が足りないんじゃないのかい?」

「おお、余計な事言っちまった」

「全くこのジジイときたら。ね、先は長いんだから、ゆっくりやりな。あんた達なら大丈夫だよ」

「ふふ。ありがとうございます」

 ソーセージの出汁が溶け出した絶品のスープを四人で食べていると、窓の外に日が差し始めた。


 ◇ ◇ ◇


「しっかりね。サカシータ領についたら手紙をおくれよ。この山小屋の名前さえ書いておけば届くから」

「峠の山犬亭だぞ。覚えたか」

「そんな名前だったんですね。今頃すみません。覚えました」

「この人ねえ、昔は腕利きの狩人だったんで、峠の山犬なんて二つ名があるんだよ」

「やい、俺ぁ現役だぞ!」

「峠の山犬…。深緑の猟犬みたいですね」

 後ろでクリナに荷物を括り付けているザコルが吹いた。

「やだねえ、そんな英雄様と同じにしたら申し訳ないよ。そういえばザコルって、兄さん同じ名前じゃなかったかねえ」

「たまたまですよ」

「ちゃんと町で服買ってもらうんだよ。今日も明日もきっと冷えるから」


 私は借りたセーターとガウチョをおばさんに返し、綿のワンピースにポンチョとケープコートを重ね着していた。ストールは腰に巻いている。日中はまだこの格好でも耐えられる。問題は夜だ。


「はい。服を貸してくださってありがとうございました。何から何までお世話になって」

「そんなのいいんだよ、宿代弾んでくれたからね。兄さんのおかげでワインの貯蔵庫がすっからかんさ。丁度いい、あんたもしばらく酒は控えな」

「おいおい、それはねえよお」

 あっはっは、と快活に笑うおばさんの声が山にこだました。



 山小屋改め峠の山犬亭を出発して、緩やかな斜面をクリナに乗って下っていく。朝の山の空気が爽やかで気持ちがいい。

「ミカ、気持ちは落ち着きましたか」

「はい。この山の景色見てたら、心が凪ぐ気がします」

「本当に?」

「………………」

「やっぱり、怒ってるんじゃないですか」

「怒ってません。さっきのことは忘れてくれませんか。私もいきなり耳を食まれたことは忘れますので」


 しばらく無言が続いた。

 今のは流石に八つ当たりが過ぎたかと思い、謝罪の意味を込めてザコルの腕を撫でようとした時だった。生温かい感触にビクッとする。

「……っ! な、何!? また!? また耳食みました!? なんで!?」

「食んだ方がいいのかと思って」 

「そんな事一言も言ってませんけど!?」

 私が食まれた耳を押さえて防御していると、今度はスリスリと私の髪に頬を擦り付けてくる。

「今度は何してるんですか」

「怒られたので。耳は食まない方がいいのかと思って」

「それはどういう…」


 どういう自由さだ。

 私なんか、少し抱きついてみたり背中にもたれてみるのですら勇気を振り絞ったというのに。

 なんだろう、気を遣ったり悩んだりしているのが急に馬鹿らしくなってきた。


 ぎゅ、ザコルは私の片手を勝手に取って握り込んだ。

「言いたい事があるなら遠慮なくぶつけてくれませんか。怒ってもいいんです。僕は言われないと分からない人間ですから」

「私も、自分が何でこんなにイライラしてるか分からないんですよ、ちょっと放っておいてください」

「分かりました」

 あまり刺激されるとまたすぐにでも泣きそうだった。

 その後、ザコルは私の手を握ったまま、片手で器用にクリナを操って斜面を下っていった。


 ◇ ◇ ◇


 麓の町の手前で湧水ポイントを見つけたため、軽い休憩を取る。

「町に入ったら服を買いましょう。その後は、昼食代わりにカフェにでも寄りましょうか」


 カフェ!

 座り込んでいた私は立ち上がった。

 暖かくなってきたのでケープコートを脱ぎ、ストールも腰から外す。羽織ものは例の深緑色ポンチョだけになった。

「いいんですか、そのポンチョ姿で…」

「色々考えましたが、むしろこの方がザコルも不審に思われにくいかと。どうやら私はかなり歳下に見えるようですから」

 ふん、自由人め。もう遠慮してやるもんか。私は冷たい湧水に浸した手で、熱い顔を軽く叩いた。


 町の入り口でザコルが通行許可を申し出ると、峠の山犬亭でされたのと同じようなリアクションをされ、テイラー伯のサイン入りの書状を見せるまでは全く信用してもらえなかった。

 身なりのいい少女(に見える女)を連れて二人きりであの峠を越すのは、思った以上におかしく見えるらしい。


「服を売っている場所を教えていただけませんか。こちらの高原で過ごすには薄着で出てきてしまって」

 守衛の一人に声をかけると親切に教えてくれた。

 彼はザコルを横目に、あの連れは本当に知り合いか、何かあれば誰でもいいから助けを求めろと小声で言い含めてくる。大丈夫ですと笑いかけ、クリナを引くザコルに並んで町の中心へと足を向けた。


 守衛が教えてくれたのは、少しお高そうなブティックだった。私の身なりが良く見えたからだろう。


 ザコルからお金をいくらか預かって女性店員に事情を話し相談に乗ってもらう。

 まだ秋口だが、サカシータ領へ馬で行くならしっかり準備するべきだと言われたので、ポンチョやケープよりも厚手でしっかりしたコートと、おばさんに借りたようなセーターと肌着、ウール生地のガウチョというかワイドパンツを二セット選ぶ。

 馬に跨いでもしっかり防寒できるものとなるとスカートは現実的ではない。パンツスタイルなら下にタイツなども着込めるし、体温調整がしやすいだろうと店員も言ってくれた。

 ちなみにコートは深緑色、ワイドパンツは二着とも黒を指定した。こうなったらとことんお揃いにしてやる。


「このコート、お連れ様のマントと揃いで誂えたかのように似たお色ですわねえ」

「いいのがあってよかったです。彼、どうしても同じ色がいいみたいで」

 もちろん嘘だ。


 着てきた服を脱ぎ、買った服に着替えて外に出ると、ザコルが呆れ返った顔でこちらを見た。話は聴こえていたんだろう。

 そしてにこやかに私達を見つめる店員さん。どうやらザコルからの感想の言葉を待っているようだった。


「ああ、ミカ、とても似合っています。僕と同じ色にしてくれるなんて、う、嬉しいです、よ…」

「ありがとうございます。私も嬉しいです、この旅で初めて服を褒めてくれましたね…」

「え、あ、ああ、まあ、そうかも、しれませんね…」

 それは嘘じゃない。店員さんが少しだけジト目になった。

「ミカ、ほら、早く行きましょう!」

 ザコルは私の手から紙袋をぶん取り、その手で私の背をぐいぐいと押す。店員さんはいつまでも手を振ってくれた。


 ブティックからやや離れた場所にあったカントリー調の建物に入る。カフェだ。

 カフェという場所はカフェというだけでどうしてこう癒されるんだろう。しかし、カフェはカフェだが、コーヒーは置いていなかった。それは深緑湖でジーク伯爵夫人達と行ったカフェでもそうだった。


 実はこの世界ではまだコーヒーを見かけたことがない。テイラー伯爵邸にいた頃からも含めてだ。コーヒー自体が広く普及していないということだろう。

 それなのにこういった小規模な飲食店を皆が『カフェ』と呼んでいるように聴こえるのは、私自身がカフェを軽食や茶を出す店の総称として認識していて、翻訳チートがそれを反映しているからなのかもしれない。

 コーヒーの木はかなり暖かい地域の植物だ。この国に広く出回っていないだけで存在している可能性はある。また飲む機会があるといいな。


 カフェは、地元の人や、モナ男爵領内から来たらしい観光客で賑わっていた。クリナを街灯に繋ぎ、オープンスペースに座る。紅茶と軽食を注文して一息ついた。


「僕が何したって言うんですか」

「え? 覚えがないんですか?」

 運ばれてきたサンドイッチを食みながらしれっと答える。

「はあ、怒ってくれとは言いましたが…。関係のない一般人を焚き付けるのはやめてください」

 ザコルがサンドイッチの欠片を乱暴に口に放り込む。

「そうですね、それはごめんなさい」

 ふざけた自覚はあるので素直に頭を下げた。

「僕が服を褒めないのが悪いんでしたか?」

「ふふ。いいえ、それは別に何とも思ってないです。そもそも全部アメリアやサーラ様からの借り物でしたしね。でも、このコートはいいでしょう? これなら歳が離れて見えたとしても、望んで一緒にいるのが分かってもらえるかと思って」

 私は立ち上がってくるっとしてみせる。

 ポンチョは確かに深緑色だったがどちらかと言えば鮮やかな色味で、ザコルのマントと完全に色が一致しているとは言い難かった。新しいコートは上品なデザインでありながらも絶妙なカーキ色だ。

 正直お高すぎて気は引けたが、あの店では他のコートも大差ない値段だったので仕方ない。


「お店に入った時からずっと『あれだ!』って思ってて。ね、似合ってます?」

「はいはい。似合っていますよ。僕とお揃いですしね」

「ふへへへ」

「また変な笑い方をして」


 今日の私は本当に変だ。

 イライラもしているが、高揚もしやすいというか、気分の上がり下がりが激しい。文句を言いつつも付き合ってくれるザコルには感謝しなければならない。



 ◇ ◇ ◇


 私達はクリナに乗り、高原の街を出て旅を進めていた。

 ザコルによれば町の中にラースラ教信者の痕跡や気配はなかったそうなので、とりあえずは堂々と街道に出た。念のためもう少し行ったところで人けのない小道へと入る予定だ。


 街道に出た時から、ずっと視界の右端に大きくそびえ立つ山が目に入っている。山頂の方は雲がかかって所々見えない。昼の日差しが岩肌を照らし上げ、壮大な眺めとなっていた。

 あれがツルギ山か…。あの岩山を私に越えさせようとしていたとは。ジーク伯爵家の皆さんが顔色を変えるわけだ。


「あの岩は…ちょっと、登れないですよ」

「心配いりません。あなたならすぐ登れるようになります」

 飛脚の次は、私を冒険家か登山家にでもするつもりだろうか。



 高原の街から街道を進み、小道への分かれ道で右に入った。この道はツルギ山の麓に沿って延びている道だ。街道に比べて石が多く道幅も狭いので一般の人はあまり通らない。趣味で山登りを楽しむ人や、麓沿いに住む地元の人が利用するための道である。


 比較的平坦だが、石の多い道が続き、馬上は上下の揺れが激しい。

 どうやら少し酔ってきてしまったようだ。


 山から流れる小川など、水場を見つけた時以外にもこまめに休憩を挟んでもらっている。

 これまでのハイペースを考えると進みの遅さが気になり始めた。峠の山犬亭ほどの冷え込みはないかもしれないが、ここも高原地帯だ。夜はきっと同じように冷え込む。早く移動しないと、ザコルはともかく私はマズいのではないだろうか。


 そんなザコルはというと、私が一度耳を食まれて怒ったせいなのか何なのか、定期的に私の髪に頬を擦り付けてきている。何となく野生の大型動物にでも懐かれた気分だ。

 ただでさえ酔っていて気分が悪いので頭を揺らすのは控えてほしいのだが、可愛くも思えてしまって、結局強く断れなかった。



 ある滝の前で長めの休憩を取った時、私が少し横になりたいと言ったら、ザコルが平らな大岩の上にラグを広げて膝枕をしてくれた。

 平然と勧められた膝枕に思うことがないわけではないが、正直それどころではないくらい気持ちが悪い。


「足を引っ張ってごめんなさい…。次の目的地まで、あとどれくらいですか」

「今日はこれから街道に合流し直して、もう少し先の大きな街で貴人向けの宿に泊まろうかと思っていたんですが。ミカがつらいならその手前の小さな町で泊まりましょう。この小道の先にあります」

「宿はどうするんですか?」

「続き部屋がある所を探します。それがなければ敢えて小さい宿を貸切にしましょう。それも…いえ」

 それも見つからなければ野宿、という言葉は飲み込んだらしい。

「テイラーから追ってきたラースラ教の者達は撒けていると思いますが…」

「もう、いいじゃないですか、同じ部屋に泊まれば」


 頭痛と吐き気が収まらずに目を閉じる。難しい会話も億劫になってきた。


「それはいけません。ジークも監視をつけているかもしれませんし、町中では誰の目に触れるか分かりません。あなたの名誉に傷を付けては」

「名誉…? 私に守るべき名誉なんかありましたっけ…? そうだ、その監視の人を捕まえて川の字で寝たらいいんじゃないですか。それなら二人きりじゃないでしょ」

「はあ…? 監視の者を捕まえて、一緒に寝る…? 何を言ってるんですか、正気ですか?」

「ザコルに正気とか言われたくないような…」

 確かに自分で言っていて意味不明だなとは思うが。

「…まあ、いいでしょう。その者を交えて寝るのはともかく、次の町にいれば接触してみてもいいかもしれません」

「ふふ、あの黒子みたいな人達ですよね。ちょっと話してみたかったんです」

 ……………………。

 目を開くと、ムスッとした顔がこちらを覗き込んでいた。

「……ミカ、そんなに他の裏稼業の者と話したいですか。コマとも話したがっていましたね」

 何を怒っているんだろう。よく分からないが、信用されていないみたいでモヤっとする。

「別に裏稼業の人だから話してみたい訳じゃないですよ。ただ面白そうだと思っただけで…。ザコルこそもっと色んな人と話したほうがいいんじゃないですか」

 私は顔を逸らしがてら、ザコルのお腹側にゴロンと体を向けた。

「どうせ信用できませんよね。私が、こんな風に触れ合えるのなんて……に、いないのに…っ」

「何ですって、ちょっ、そ、そこであんまり動かないでください。お願いですから!」

「もおおおおおお!」

 私は唸りながら思いっきり頭をぐりぐりと太ももに擦り付けた。



「ミカ、あなたって人は。子供みたいな事をして。僕のことが言えますか」

「…………」

「あれで余計に気持ちが悪くなるだなんて。今日は本当に様子がおかしいですね」

「…………」

「クリナに早足で急いでもらいますからね。こうなったらゆっくり行っても早く行っても同じでしょう」

「…………うん」


 私は気持ち悪さが最高潮に達し、ほとんど喋ることができなくなった。一言発する度に吐きそうだ。

 ザコルがクリナの腹を蹴ると、馬上は大きく揺れて風が動き始めた。揺れのせいで一層吐きそうになったが、大人の矜持で何とか堪えた。



つづく

高熱を出してもパソコンに向かうタイプの社畜が不調を訴え始めたら即病院に連れて行きましょう

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