招かれざる客① ドングリ先生と子供達
トントン、控えめなノックの音に目を覚ますと、ザコルがヒョイとソファを元の位置に移動させている所だった。窓の外は既に明るい。
「メリーですか。ミカが目を覚ましてしまったでしょう。何の用ですか」
扉を開けもせず、ザコルがノックに返答する。
「そ、それは失礼いたしました。あの、お食事はいかがいたしましょう」
「部屋に運んでください」
「おはようメリー! 自然に起きただけだから気にしないで! 着替えて待ってるね、ありがとう」
「とんでもありませんミカ様。洗面用のお湯はここに置いておきますので、ご利用ください」
扉の向こうから人の気配が遠ざかっていく。
「ミカ、まだ眠たければ寝ていてもいいんですよ」
「いえ、充分寝られたと思います。あれから二、三時間は経ったでしょう?」
「あんな細切れ睡眠で充分寝られたとは言えないように思いますが…」
そう言うと、ザコルは扉を開けて外に置かれたワゴンを部屋の中に引き入れた。湯の張った洗面タライを一つサイドテーブルに置き、私に手拭いを渡してくる。
「僕も着替えてきますので、内鍵を閉めてください。誰か来ても絶対に開けないように」
「はい。分かりました」
言われるがまま、もう一つのタライと手拭いを持ったザコルを廊下に送り出して鍵を締める。
はて、いつからこの屋敷は警戒区域になったんだろう。何も聞いていないが、ザコルがそう言うのなら彼抜きでは誰とも会わないようにしよう。
私が着替え終わり、水差しの水をグラスに注いだ所でノックの音がする。
「僕です」
その声にすぐ鍵を開ける。いつもの猟犬コスチュームに身を包んだザコルが立っていた。
「あの、いい加減その格好で寒くないんですか? その制服、真冬には対応していませんよね」
ザコルもあのサカシータ領の温かそうな軍服を借りたらいいのに。
「僕は余程の寒さでも耐えられます。せっかくオリヴァー様が用意してくれた服ですから。雪が積もり始めたらコートだけ借ります」
そうか、オリヴァーのために着ていようと思っているのか。優しい。
「ねえ、ギュッとしてもいいですか」
「…どうぞ」
遠慮なく胸に飛び込む。
夜の間も、手を握る以上にザコルからこちらに触れてくる事はなかった。正直、少し寂しかったのだ。
エビーが『ヘタレモード』だのと言っていたが、一昨日のことを未だに引きずっているのだろうか。
好きなようにスリスリとしていたら、トントンとまたノックがある。ザコルが私を引きはがして応じると、メリーが食事の乗ったワゴンを押して入ってきた。
「ミカ様、お言葉が戻られたようで何よりです。お休みの所を申し訳ありませんでした…」
「いいの、あまり寝坊してると今夜寝られなくなっちゃうから。食事、部屋まで運んでくれてありがとうね」
メリーがテキパキとローテーブルに配膳してくれる。野菜スープにパンにチーズ、そして安定の牛乳だ。
「子供達が尋ねたいと言っているようですが、どういたしましょう」
「ザコル、庭は屋敷の敷地内ですよね」
「まあ、そうですね」
「ラグを出してもらってもいい?」
「かしこまりました。では、準備が整いましたらお報せに参ります」
「ありがとう、お願いします」
メリーが一礼し、洗面タライや水差しなどの乗ったワゴンを下げながら出ていった。
湯気の立つホットミルク入りのマグカップを手に取り、冷えた指先をじんわりと温める。
「義母が、これからミカの就寝時の見張りを僕達で行うようにと、それから僕は絶対に離れるなと言っています」
ザコルがパンをちぎりながら言う。
「分かりました。じゃあ、今日はちゃんとベッドも用意してもらいましょうね。それとも、続き間でもある部屋があるか聞いてみましょうか?」
搾りたての牛乳は今日も甘くてとびきり美味しい。
「そんな気の利いた部屋がこの屋敷にあるか分かりませんが、一応確認してみましょう。エビー達も近くに控えられればそれに越した事はない」
「そこまでですか…」
「近日シータイを離れる可能性もあります。心づもりを」
「はい。分かりました」
新鮮な野菜が入ったスープ。本格的な冬が始まったら、手に入る野菜も限られてくるのだろう。…ザワークラウトってどうやって作るんだっけ。
「ミカは聞き分けが良すぎます」
「仕方のない事に文句を言う気はありませんよ。それに元々、曲者に襲われた時点ですぐにこの町を離れるべきかと思っていましたし、同志達とも、本格的に雪が積もる前にはお別れかと考えていましたから」
曲者に襲われた後から同志達とまともな交流が始まったので、未練が無いとは言えない。彼らもせっかくザコルと打ち解け始めた所なのにな。
「ピッタが、残って私を守るなんて言ってくれたでしょう。本気じゃないとは思いますけど、どうにか帰ってもらわないといけませんね。黙って置いていくような真似は、できれば…」
あんなに親身になってくれた子に、仕方ないとはいえ不誠実な事はなるべくしたくない。もしもの時のために置き手紙でも用意するべきか。
いや、きっとそれも自分が嫌われたくないだけのエゴだ。いっそ嫌われた方がピッタのためかもしれない。
「ミカ、今日いきなり去るような事はありませんから…多分。シュウ兄様も数日後に来ると言っていましたしそれまでは…多分」
「ふふっ、多分、ですね。約束できない事は無理に言わなくていいんですよ、ザコルのせいにはしませんからね。ありがとう、大丈夫です。私、ザコルさえいたら幸せですよ」
ザコルがチーズを手に持ったまま、驚いたようにこちらを見た。
「ミカ、昨夜は僕の言葉を聞いて…?」
「うん? 独り言の事ですか? 老後の心配の話?」
「…いえ。何でもありません。明日テイラーから荷が届きます。おそらく僕が要請した支援物資でしょう。なので発つのは少なくとも明日以降です……多分」
「多分ね、ふふっ」
ザコルなりに私の心情をフォローしようとしてくれているのだ。多分。
「ザコルがセオドア様にお手紙を出していたのはその件だったんですね。明日か。今日という日を大事に過ごさないといけませんね。とりあえず、夕方までに魔力が完全復活している事を祈ります」
シシが再診に来る時にぜひお墨付きが欲しい。エビーの失礼も謝らないといけないな。
「完全復活していたとしてもできるだけ休んでください。ミカは動きすぎなんです」
「ザコルも皆も気遣ってくれますけど、私、ほんっと大した事していませんよ。ちょっと早朝に運動してますけど、後はジャム作るとかお風呂沸かすとか服作るとか…。やってる事はほぼ家事ですよね」
「その合間に何度トラブルがあったと…。それに、家事と言いますが一つ一つの仕事量が家庭内のレベルに収まっていないんですよ。一昨日の夜も気がついたら子供の肌着を何十枚も積み上げて…何なんですか? 僕だって捕縛用の網をそんなスピードでは作れませんが」
「捕縛用の網なんて隅々までしっかり丁寧に作らないといけない物でしょ? 私が作っているのはせいぜい冬の間保てばいいような簡単な物ですから。裁断を工夫して、縫う箇所を減らして作業をなるべく簡略化したんです。その上で真面目に縫う箇所と、適当に縫って大丈夫な箇所を把握しておけば、一枚にかける作業時間はかなり減らせます。編み物の方はもう慣れですけどね。今日、書き物と手芸くらいはしていいんですよね? …ね?」
いいと言ってください。言外にそう気持ちを込めれば、ザコルが怪訝な顔で体を引く。
「その圧…。ミカはいつから殺気と威圧を使いこなすようになったんですか」
「そっか、これが威圧…」
完全に無意識だった。
「無意識に使っていいものじゃありませんので。使い所を間違えて面倒な相手を逆上などさせないよう気をつけてください」
呆れ顔のザコルにコクコクと頷く。
無意識に放っているようでは『使いこなしている』とは言えない。エビー相手にでも練習しようかな。
コマは訓練に参加しているだろうか。私から魔力が摂取できないのでは仕方ないが、最近ずっと側にいたような気がするので姿が見えないと何となく心がスカスカとする。ザコルへの挑発だったのだろうが、俺についてくるかと言われて断った手前、もしこのまま会えなくなったりでもしたら心残りになりそうだ。
水害を一緒に乗り越えた町の皆、山の民、同志達、その部下の皆、コマ。皆と過ごした濃い日々が頭を巡る。
「ミカ、聞いてくれますか」
「はい、何でしょう」
ザコルが神妙な面持ちでこちらを向く。
「あの、僕も皆との別れは、寂しい、のだと思いますよ。これ程多くの人に受け入れてもらい、気負いなく話せるようになった経験は今までにありませんでしたから。僕自身、寂しいなどという感情を持っていた事に驚きを隠せません」
「私もそうですよ。こんな短期間で、こんなに大人数の人と一度に友達みたいになれた経験はないかもしれません。それに、ここに偶然居合わせたような人も多いですよね。この機会が終われば、全員と一度に会えるのはもう二度とないのかなって。ああ、そっか、大学や高校のリア充の皆さんはよく大勢で集まって何してるのかと思ってたけど、こんな風に楽しい時間を過ごしていたんですね」
私は高校入学以降、学外の時間をほとんど家事や介護やバイトに費やしていたので、これまでほとんど同世代と交流して来なかった。教室で話しかけてくれる子もいたが、休み時間を勉学と読書に充てていたのでそう長話した記憶もない。社会に出てからは社畜化していたので言わずもがなだ。中田とは仕事によって拘束されていたのでよく話したが…。
「りあじゅう、とは何か解りませんが、僕も、社交界を楽しむ人間の気持ちを多少は理解できた気がします」
「私達、ボッチ卒業ですね!」
「ぼっち…? ああ、一人ぼっちの事ですか。ミカはあまりぼっち? になる性質でないように思いますが」
「異世界にでも召喚されなきゃ、仕事と本に一生を捧げていそうだったから充分ボッチ体質ですよ」
「なるほど、確かに」
ボランティアサークルでリア充な時間を過ごさせてもらった、とでも思えば、あまりしんみりしすぎずお別れできるかもしれないな。
…それにしても、何となくズレた会話をしていた気がする。エビーやピッタがいないとツッコミ不在になりがちだ。
◇ ◇ ◇
メリーが呼びに来てくれたので、画板と鉛筆を持って庭に降りる。没収されていた手芸用品やペンなども返してもらえたので、午後から諸々の作業もする事にしよう。
時刻はまだ九時前くらいだろうか。時計は高価なのか貴重なのかあまり置かれていないし、皆も時計を頼りにしている様子もないので、私も太陽の高さで察している。放牧場の方はまだ盛り上がっているらしく、遠くから怒声とも歓声ともつかない声が聴こえてくる。
子供達は既に集まっていて楽しそうな声がしている。今日もシリルが引率して連れてきてくれたらしい。
キャッキャと飛び跳ねる子、画板に何か書く子、一昨日設置した樽の上に自分達で用意した不格好な的を置いてドングリを投げ込む子と様々だ。
「あっ、ザコル様、ミカ様。おはようございます」
「おはようシリルくん。皆も、おはようございます」
『ザコルさま、ミカさま、おはよーございます!』
子供とは、声を揃えて挨拶する生き物なのだろうか。では朝の会を始めます、なんて言いたくなる。
「ねえ、ミカ様、その背中の布、何…? 魔法禁止…?」
シリルが私の後ろを見たのか、不思議そうに訊いてくる。
「昨日魔力切れして散々だったから貼られてしまったのだよ」
「魔力切れ…!? 魔法士様だとそんなことあるんだ。へえー…ふっ」
「今笑ったでしょシリルくん」
「ミカ、へんなのー」
「リラまで!」
へんなのーへんなのーと合唱する子供達を追い回す。捕まえると、きゃーっと嬉しそうに声を上げる。
「ミカ、一緒に簡単な体操でもしましょうか。子供達にもできそうなものを」
「え、体動かしていいんですか」
「もう既に走っているじゃないですか…。元気そうですから。少しくらいはいいでしょう」
ザコルが子供達を並べさせ、簡単な手足の曲げ伸ばしを中心とした体操を指導していく。
私とシリルは後列に回って一緒に行い、指示がよく解っていない子のフォローなども行う。ふと気づいたら、屋敷の怪我人達も何人か出てきて一緒に体操していて笑ってしまった。
「ミワの具合を知る者は?」
体操しながらザコルが子供達に声をかける。
「おれたち、おみまいにいったよ。まだあっちゃだめっていわれたけど、げんきだって」
「みんなであつめたドングリあげたー」
「そうですか、奇遇ですね。僕達も持っていたドングリをミワに贈ったんです」
「俺、遠くから見たけど、枕の横にドングリがめちゃくちゃ置いてあったよ。面白すぎ。ミワちゃんも笑ってた」
シリルがクスクスと笑う。良かった、本当に元気になったんだ。
「ザコル様達、大人なのにドングリ持ってんの?」
「そう、たくさん袋に詰めてね、カリューにも持って行ったんだよ。ふふ、昨日は強ーい大人達が本気のドングリ投げ合戦してねー」
「うわ何それ、めちゃくちゃ面白そう! いいなあ、見たかった」
「後で時間があれば、エビーやタイタ相手にやってみましょうか。……はい、分かりましたから。ミカも入っていいですよ」
じっと見つめていたら不本意そうな顔で頷かれた。
威圧、便利じゃん。あ、ザコルからも圧が。圧で文句言われてる。
「ふふ」
「…何ていうか、ザコル様とミカ様、めちゃくちゃ仲良しだね。目だけで通じ合ってんじゃん」
目というか、威圧で通じ合っているのだが。
「そう、仲良しに見える? 嬉しいな」
「ミカさま、ザコルさまのことすきなのー?」
女の子がこちらを振り返ってニヤッとする。
「うん。大好き」
だいすきだってー、わーっ。おませな子達が揃って騒ぐ。
「そこ、集中しなさい」
はーい! 子供達が元気に返事をする。
「ふふっ、凄い圧が飛んでくる。怒られちゃったねー」
シリルに何と言っていいやらと微妙な顔をされる。
「これくらいにしておきましょうか。さて、ドングリを投げるか、字の練習をするか、どちらを先にしましょうか」
ザコルが体操を切り上げて皆の顔を見渡す。先生役が板についてきたな。
「はーい! せんせーい!」
意見がある時は挙手しましょう。年長者として見本を見せねば。
「はいミカ、どうぞ」
「先にドングリ投げをするチームと、先に字の練習をするチームの二つに分けて、後で交代すれば効率がいいんじゃないでしょうかー。ドングリ先生が投擲を見てる間、字の方は私が見まーす」
「誰がドングリ先生ですか。しかしなるほど。確かにいいかもしれませんね。採用です。各々、先にやりたい方に並んでください」
先日ドングリ砲を見てはしゃいでいたシリルは真っ先にザコルの方に並び、ヤンチャそうな男の子や、比較的背の大きい女の子がその後に並ぶ。
リラの他、何となく大人しそうな子達は私の方に来て、書きたい単語や文章をねだってくる。
「今日はねえ、教科書があるんだー」
そう言って、昨日タイタがくれた長文手紙をカバンから取り出す。
「きょうかしょってなにー?」
「タイタっていう護衛のお兄さんが書いてくれたお手紙だよ。ほら、凄く綺麗な字でしょう」
「すごーい、ながいおてがみだー。あんまりよめない…」
江戸時代、寺子屋などでは手紙の文例集などを手習いの教科書にしていたという。往来物と呼ばれるものだ。
タイタの手紙は見れば見る程美筆で、手習いの見本にはピッタリだ。
本を見本にしてきた私はどうにも活版のような固い字しか書けないので、手書きの手本を貰えたのはとてもありがたい。
ザコルやタイタの文字は、こちらの文字の良し悪しにまだ疎い私にも分かるくらいには綺麗で品がある。セオドアやイーリアの文字も達筆だったが、あの二人の字は力強く威厳に溢れているという表現が正しい気がする。
子供達にはタイタの手紙を見ながらもっと単純な手本を用意してやり、私も気になっていた口語の綴りの確認を兼ねつつ、一緒になって書き取り練習をした。
向こうのドングリチームも盛り上がっている。
あちらは結果的に体を動かすのが好きな子ばかりが先に集まったので、実力も近く、競争にも熱くなれているようでいい雰囲気だ。ザコルがまた見本のドングリ砲をねだられている。大きく振りかぶって安定の威力と精度を披露すると、屋敷の方からも歓声と拍手が聴こえてきた。怪我人の皆さんがまた窓に貼り付いて見ているようだ。
しばらくしてドングリ投げと文字練習をチーム交代させ、今度は少々ヤンチャな子達を相手に文字を教える。
先程の落ち着いた子達に比べて、少々勢い任せというか雑に書いてしまう子も多いが、指摘は真剣に聞き、しっかり反復練習に取り組んでいる。
タイタの手紙のおかげで、私の字もほんの少し上達した。
ある程度文字が読めるらしいシリルは手紙をチラチラと見て、吹き出したり驚いたり深刻な顔をしたり、表情をコロコロ変えている。それはそうだ、昨日の出来事がほぼほぼ書かれているのだから。しかし私に一切質問などはせず黙って文字の練習に集中しようとしている。聡い子だ。
「シリルくん、その手紙の内容がよく分かる君にお願いがあるんだけど」
「な、なに? 絶対にしゃべらないよ、父さん母さんにだって…」
「うん、ありがとうね。最終兵器ドングリ先生による城壁の破壊とか、巨大鎚で地面割った件とかは別に話してもいいよ。でも、私が短刀を突き付けた相手のことは内緒ね。私がたくさん泣いちゃった事も黙っといて」
恥ずかしいからさ、と付け加えると、彼は神妙な顔で頷いた。
タイタも節度を守ったつもりか、私が号泣した時の会話は記しても、それがどこの出来事で、さらに涙が何かに使われたというような事は明記していなかった。
ザハリに襲われた辺りも一応個人名は伏せられているが、前後の文脈からして誰が私を襲ったかは分かる。しかし、ザハリの件に関してはシリルがついうっかりで家族に話してしまってもそうそう大事にはならないと踏んでいる。昨日カリューにいた山の民には、ザハリの件は既にバレている可能性が高いからだ。
「私ね、知っての通り色々と狙われているんだよ。これからも何があるか分からないんだ。すぐじゃないだろうけれど、急にここから姿を消す事もあるかもしれない。でもね、あの最強ドングリ先生が一緒なら絶対に大丈夫だからさ。もしも皆が私達を心配するような事があって、もしも君が近くにいられたなら『ザコルがいれば私は無事だから大丈夫、みんなありがとう。また会いましょう』って笑って言ってたよって、伝えてあげてくれる?」
シリルは、今言った私のセリフを一生懸命に紙に書き付け、小さく折りたたんで服の中のポケットにしまった。
覚えきれない事はしっかりメモするの偉い。大人でもできない人がいるくらいなのに。
「これでいいよね、分かった。絶対に伝えるから。あの、子供の俺に、大事な役目をくれてありがとう、ミカさ…ううん、お姉さん」
シリルは真剣な眼差しで頷いてくれた。
偉い人の『ミカ様』に言われたからではなく、市場で出会って友達になった『お姉さん』のために約束してくれるつもりなんだろう。
義理人情の何たるかをこの歳にして理解しているとは。リラも情に厚い子だが、兄のシリルも相当だ。義理人情に厚いのは山の民の気質だろうか。
「こちらこそ、お願いを聞いてくれてありがとう。でも、無理はしないでいいからね。君の命は、あの人が必死になって救った大切な命だから。何かあったらすぐに逃げて。自分と家族を一番に守る事。怪我でもされたら私も悲しいから。お願いね」
「うん。まかせて。俺も今日から毎日走ったり、ドングリ投げて鍛えたりするよ」
「ふふ、私も後でまたたくさんドングリ拾っておこうと思ってるんだ。毎日続けるのって大事だよね」
ドングリで人は仕留められないまでも、気を逸らしたり威嚇したりといった事には充分使えるだろう。真剣に取り組めば何事も無駄にはならない。この子達ならば、大人になって本物の武器を手にした時に必ず経験が活きてくるはず。
「私も子供の頃に戻ってやり込みたいなあ…そしたら今頃達人だったのに」
「ミカ様も投げてくれば? 俺、この子達見とくよ」
「え、いいの!?」
思わずガバッとシリルの方を見たら、また不思議そうな顔をされた。
「…なんかさ、ミカ様ってあんまり大人って感じしないんだよなあ。たまに同じくらいのヤツとしゃべってるみたいだよ」
離れた場所で、ぶふ、とザコルが吹いている。
「あー、笑ってるー」
「えっ、この距離で聴こえてるって事!? ていうか、ザコル様も笑ったりするんだ…」
シリルの言葉に甘え、ドングリ投げの列に並ぶ。
今投げている子達は、性格的には大人しいが集中力のある子が多い。大声などはあまり出さないが、静かに的を見据え、フォームを確認しつつしっかりと的を狙っている。競争するというより自分と戦っている感じだ。何となく、ザコルもこういうタイプだったんだろうな。
「ミカもそういうタイプでしょう。ほら、あなたの番ですよ」
そう言ってザコルがドングリを三玉渡してくる、三投したら次に交代。こういうのは緊張を意識したら負けのような気がする。
身体の力を抜き、息を吐く。的をしっかりと見る。教わったフォームを丁寧になぞり、全身の力と勢いがドングリに伝わるよう、筋肉の動きを意識する。ドングリが手を離れ、パシンッ、と的を倒して跳ね上がった。
おおーっ、と子供達と屋敷の怪我人の歓声が重なる。
「流石ですねミカ。元々身体能力は低くないでしょう。昔はどうして運動に興味がなかったんですか」
「子供の頃から活字に興味がありすぎまして…。図書館と家を自力で往復できるだけの体力があれば充分かと。足は速い方でした」
「僕も、子供の頃のミカに会って色々と仕込んでやりたいですよ。さあ、あと二投です」
「はい!」
その次の玉はしっかり当てたが、三投目は外して樽のフチに当ててしまった。まだまだ修行が足りない。
◇ ◇ ◇
しばらくドングリ投げを楽しんでいたら、ザコルが不意に空を見上げた。
彼は子供達に投擲や字の練習を中断するように言い、シリルと共に子供達を屋敷の出入り口の方まで退かせた。
二階の窓に貼り付いている怪我人にはマージを呼べと叫んで指示し、自分は投擲用のナイフを一本手にする。
そしてもう片方の手で私の手を掴み、自らの背の陰に入れた。
庭には緊迫感と静寂が訪れる。
私は気を落ち着け、庭の状況を確認した。
一昨日使っていた入浴用のテントや湯船は片付けられずに残っている。入浴用にと井戸水を詰めた樽もまだいくつか積まれたままだ。先程までドングリを投げ込んでいた樽と的もそのまま。マージと主な使用人達が慌てて庭に駆け出してくる。
ここまでくれば私にも判る、異様な気配。
やがて肉眼でも見えるようになり、徐々にこちらへと近づいてきた。
きっと放牧場の方も誰かが気づいて大騒ぎになっているだろう。だが、そちらの人々が屋敷に駆けつける間もなく、それはバサっと大きな音を立てて庭の空いたスペースに降り立った。
大きな翼に、艶のある表皮。長くとんがった尻尾、丸みのある頭部に大きな目。口元からは控えめに牙がのぞいている。
何となく水竜というか、水棲の恐竜やイルカなどを思わせる風貌の巨大な生き物が、数人の人間を乗せた鞍を背負ってそこに立っていた。
「ま、魔獣…ですか?」
ザコルのマントを引っ張って問う。
「そうです。…シリル、子供達を連れて屋敷の中を抜け、集会所の方へ行きなさい。彼らは僕達に用があるみたいですから」
「はい! 分かりました」
シリルは驚いて怯えている子達の背中を押し、動けない子は抱き上げ、屋敷の中へと連れていく。使用人の一人がサッと手伝いに入り、一緒に子供達を先導していった。
つづく




