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森の中の出会い

 集落の『長』の屋敷は、木造平屋の茅葺き屋根だった。

 ものすごい既視感のある造形だが、小さな森の中の集落だし、自然のものを使って家を作ったら自然にこうなるのかもしれない。

 玄関で靴を脱ぐよう言われて脱ぎ、屋敷の中に上がる。

 調度品や建具など、所々西洋風のものが混在している。それが逆に田舎にある築百年くらいの豪農の屋敷っぽくて、既視感がますます強まった。


 着いて早々、既に歓迎の用意は出来ていると言われ、荷物の運び込みもそこそこに広間へと連れ出された。長はよく見なくても作務衣風の服を着ていて、お酒の匂いがした。



「マンジ様からなぁ、さる高貴な姫が護衛と駆け落ちしてくるから一晩世話してやってくれってよぉ? 直筆の手紙いただいたもんでなぁ! そりゃあ張り切って待ってた訳よぉ!」

「はあ……それは、その、ありがとうございます…」

 ザコルが向かいの席で、既に出来上がった長に肩を叩かれながら滅茶苦茶に酒を飲まされている。


 高貴な姫と護衛が駆け落ちか…。

 マンジ様…なんでそんな設定盛ったんだろ。長は酔っ払ってるけどいい人そうだし、騙してるみたいですっごい居心地が悪い。


「マンジ様もなぁ、苦労なさったからなぁ。ニコリ様との結婚を許してもらうのに、新兵から騎士団長まで実力でのしあがってよぅ、結局マンジ様が伯爵様の庶子だって分かったときゃぁ、ニコリ様の親が手のひら返してよ、マンジ様も荒れちまってさぁ」

「まあ。ニコリ様もお辛かったでしょうね…」

 高貴な姫設定の私は、口調を崩す事ができなくなった。

 お酒は厳禁だ。ここで調子に乗るわけにはいかない。

「そうなのよぉ。ニコリ様もね、マンジ様を利用しようとするご両親の事が許せなくっちゃってねぇ。縁を切るとまでおっしゃって。ご実家の子爵家を飛び出してマンジ様とこの集落まで駆け落ちなさってきたんでさぁ」

 長の奥さんも酒瓶片手に私の隣でどんどん飲んでいる。奥さんは女将と呼ばれていて、作務衣ではなく、簡素な花柄のワンピースだった。

「あの時のニコリ様、本当に綺麗だったねぇ! 儚くてさ! 集落の女はみんな憧れたもんだよ」

「俺達ゃ、マンジ様の男気に憧れたなぁ。道中、森で熊に襲われたから倒したっつって、毛皮剥いで引き摺ってきたんだ、あん時はおったまげたよなぁ」

「そうだそうだ!」

「山仕事も手伝ってくれたなぁ」

「ニコリ様に刺繍教えてもらったよねぇ」

「懐かしいなぁ…」


 長の家の広間は集落の住人がわんさか集まって酒盛り状態になっていた。

 広間にゴザっぽいもの…いや、正真正銘のゴザを敷き詰めて、持ち寄った料理を並べて座り込んでの大宴会だ。ここはマンジ様とニコリ様ゆかりの里らしい。


「マンジ様、兄ちゃんのオンジ様を尊敬してたからなぁ。マンジ様の母上は伯爵邸の元洗濯女でな、身籠った時に下町に降りたそうだが、それを偶然知ったオンジ様が兄弟を捜し当てたんだ」

「腹違いだけど、こっそり会って交流してきたんだって。よく剣を交えて語らったんだって。いい話だろう?」

「血筋を隠して伯爵家の騎士団に入ってな、その時に分家のニコリ様に一目惚れしちまって、必死でのしあがって求婚したんだけどよ、自分の血と、それに目ぇ眩んだ義理親のせいで積み上げたモンまで台無しにされちまった。兄ちゃんの邪魔すんのだけは耐えられねぇって思ったんだろうなぁ」

 住民が口々に話すせいで相槌の一つも打てていない。

 が、そんな事はお構いなしに皆が喋り倒す。

「それでねぇ、なんと、オンジ様がね! 色々と手を尽くしなすって、ニコリ様のご両親を説得して隠居させちまったんだよ。この里までマンジ様達を迎えに来てね!」

「マンジ様をニコリ様の婿にして、分家の子爵家を継がせるから戻ってこいってさ! 俺達も大喜びよ‼︎」

「この集落中の花を全部摘んで道に撒いてさぁ、花びら投げてお見送りしたねぇ」

「綺麗だったねぇ、本当に、忘れられないよ」

 集落の大人達が、皆涙ぐみながら笑顔で頷き合っている。私まで涙が出てきた。ザコルがこちらを見てぎょっとし、すぐ立ち上がって側に来た。

「ミカ、泣いてるんですか?」

「だってぇ、ニコリ様が…幸せになって良かったってぇ…! ほんとにほんとに嬉しくてぇ…ひぐっ、うぇぇー」

「ちょっ、ミカ、本気で泣いて、あっ、これ、まさかお酒ですか? やっぱり!?」

 先程、口が乾いたので、目の前にあったグラスを水だと思ってあおったら度数の高い酒だった。なんだろ。焼酎? ウォッカ? 喉が焼けるかと思った。

「うぇぇぇー」

「また子供みたいに泣いて! 大丈夫ですか? 立てますか?」

「良かったよぉぉー、オンジ・マンジの兄弟がさぁー、今も仲良しでさぁー、ニコリ様とイェル様も幸せそうだったからぁー」

 口調も何もあったもんじゃない。この時の私の頭からは完全に設定の事など吹き飛んでいた。

 イェルがお揃いで買ってくれたイニシャル入りのハンカチを涙でグショグショに濡らしながら泣きじゃくった。

「おかみさぁん、聞いて聞いて、昨日ねぇ、イェル様とニコリ様と一緒に深緑湖の街を歩いてね、これお揃いって買って貰ったのぉ」

 濡れそぼったハンカチを広げて女将に見せた。

「そうなのかい!? あんた、ニコリ様とお友達なんだねぇ! だったらこの集落の女はみんなあんたの友達さぁ。さあ飲んで飲んで」

「うれじぃでずぅぅありがどぅございばずぅー」

「ちょちょちょっと! この方はお酒に弱いんです! 僕が代わりに飲みますから!」

 ザコルが私からグラスをぶんどって一気に飲み干した。

「は…? これ、度数がやたらに高くありませんか?」

「そりゃあねえ森の綺麗な水と麦使った蒸留酒だよぉ! 命の水さぁ! 兄ちゃん強いねぇ!」

「かーちゃんはザルだからなぁ! 俺は流石にストレートじゃあ飲めねえよ! 火がつくくらいだからなあ!」

「わはははははは」

 長と女将は完全に出来上がっている。

「何だと…普通の人間にこんなのを飲ませたら…! 水! 井戸はありますか!?」

「井戸はそこの扉の外だよ」

 近くにいた女性に聞くなりザコルは私を横抱きにし、扉を蹴破るように開けて外へと飛び出した。無論、屋敷の中は大盛り上がりだ。指笛の音が飛び交っている。


 井戸にたどり着くと、ザコルは井戸の脇に私を座らせてすぐ水を汲み始めた。

 汲んだばかりの水を直接手ですくっては私に飲ませ、それを何度も繰り返して、私もザコルも服がびしょ濡れになった。

「ザコルぅ…ごめんねえ…。ほんとに、不注意で…迷惑ばっかり…ごめん…」

 頭が熱を持っているようにフラフラとする。流石に蒸留酒の原液一気飲みは駄目だ。

「ミカ、ミカ。どれくらい飲みました?」

 ザコルが水で冷えた両手で頬を挟み、目を合わせてくる。大きな手だ。気持ちいい。

「大きいグラスなみなみ一杯の、半分くらい…水だと思って思い切り飲んじゃった。けふっ」

「もっとお水を飲んでください。薄めて。吐けるものなら吐いて」

「やだぁ、ザコルの前で吐けないぃ…わぁぁん」

「泣くな! 吐かなくてもいいから飲め!」

 水の入った桶を挟んで押したり引いたりを繰り返す。先程の勝手口の扉がギッと開いた。

「ねえ、大丈夫? 女将さん本当に呑兵衛だからさぁ、まさか姫さんにあの酒そのまま飲ませたんじゃあ…」

 まだそこまで酒に飲まれていない女性陣が三人、心配して声をかけに来てくれたようだ。

「さっきこの方が注がれていたお酒はとんでもない度数でした。僕が代わりに飲みましたが…」

「兄さん強いねぇ! その前から飲まされてたでしょう? 顔色ひとつ変わってないじゃないか」

「そんなのはどうでもいい。あなた方、この方の介抱を手伝っていただけませんか。さして酒に強くもないのにあの酒を原液のグラス半分あおってしまったみたいで」

「やっぱり! 危ない事になってんじゃないか! あんた、空のグラス持ってきて水を汲んで。姫さんおいで、あたし達と一緒に厠へ行くよ!」

 一人はグラスを持ちに走り、二人は私を横から支えて立ち上がらせた。そのままトイレへと連れていかれ、胃の中のものを全て吐かされた。


 こっちの状況を知らない酔っぱらい達によって宴会が続く中、私は奥の部屋で着替えさせられ、床に敷かれた布団に横たえられていた。

 水も沢山飲んだし、胃に優しい麦粥も与えられ、とりあえずは落ち着いた。まだ顔は少し熱いし、思考はふわふわしているけれど…。

「なんだろ、こっちにきて、ずっとお酒の失敗を繰り返してる気がする…」

「今日のはあなたのせいじゃありませんよ。僕も気付かなくて、本当に、本当に申し訳ありませんでした」

 ザコルは枕元で正座、しかも土下座してる…? 今更だけど、この屋敷って完全に日本の農家の屋敷だよね。

「ザコル、正座なんてできたんですね…。西洋風の世界観だから、みんな椅子の生活じゃないの…?」

「セイザを知っているんですか? サカシータ子爵家では節目節目にこのセイザをして、先祖に挨拶をする慣わしがあるのですが」

「サカシータ子爵家、先祖が侍か何かなんですか…?」

「サムライ、は分かりませんが、先祖の信念を我々はシノビと呼び、代々守り伝えています」

「シノビ…。シノビ……忍!? ニンジャボーイ!?…うっ」

 思わず外国人口調で叫びながら起き上がれば、頭に痛みが走る。

「まだ起き上がらないでください。ほら、落ち着いて。横になってください」

「サカシータ、そうか。サカシタ、か。正確な漢字は分からないけど…。なるほどね、親近感を感じるわけだわ……」

「どういう事ですか? ミカ、返事を」

 そこで意識は途切れた。


 ◇ ◇ ◇


 気がつけば朝だった。横を見ると窓の外がほんのり明るい。

 まだ開ききらない目で反対側を見たら、正座のまま微動だにしていないザコルがいた。

「ヒッ……!」

「おはようございます。ミカ」

「お、おはようございます? まさか、夜通しそこにいたわけじゃ……」

「はい。急変したらすぐ対応できるように。はい、お水です。起き上がれますか?」

 私はゆっくりと起き上がった。

 昨日しっかり処置されたし、結局あのグラス半分以上は飲まなかったので二日酔いはない。水と麦粥しか胃に入れなかったのでお腹は空いているが。


 受け取った水を飲んでいたら、すごくトイレに行きたくなった。

「ごめんなさい、ちょっと」

 急いで立ち上がってトイレを目指そうとしたら、ザコルまで立ち上がった。ずっと座ってたらしいのによく足が痺れていないな。

「どこへ行くんです。僕もついて」

「かわやです!」

 ピシャッと引戸を閉め、昨晩吐かされた厠へと急ぐ。昨晩は気にする余裕が無かったが、どう見ても和式の汲み取り式トイレだ。

 この集落、過去に集団で日本人が移住してきている。絶対。間違いない。


 トイレを済ませて、近くにあった甕の水を柄杓ですくい、手を洗った。井戸で水を汲む女性の姿があったので声をかけたら、昨晩の女将だった。

「まあ、これは姫様…! お加減はいかがでしょうか!? 昨晩は大変な失態を…っ。姫様の身を危険に晒すような真似をしてしまい、大ッ変ッ申し訳ございませんでした…!!」

 女将が井戸脇の台から降りたかと思うや否やスライディング土下座を決めた。間違いない。先祖は絶対に日本人だ。これ程美しいスライディング土下座はなかなか見られない。

「あの、お顔を上げてくださいませんか。私が水だと勘違いして飲んだのがいけなかったんです。確認するべきでした」

「姫様の御命を脅かした罪は必ず償います! あたしの命と引き換えに! どうかどうかご容赦を!!」

「お顔を上げてください。命なんて捧げなくていいですから」

「どうか平にご容赦を!」

「どうか平に話を聞いてください!」

 ギッと音がして井戸に通じる勝手口の扉が開いた。顔を出したのは長だ。

「どうしたお前、姫様に水をお待ちするんじゃ…はっ、姫様!!」

 長も流れるように女将さんの隣に土下座する。

「どうか、家内の失態は家長の失敗です! 俺の命ひとつで償わせていただけもらえませんか! どうか、このとおり!」

「そんな、長まで。困ります。顔を上げてください」

「どうか平にご容赦を!」

「話を聞いて! ほんとに! 平に! 勘弁してください!」

「ミカ、どうしましたか」

 ザコルが勝手口から出てきた。昨日介抱してくれた女性三人もぞろぞろとついてきている。

「長、女将さん、姫さんが困っちまってるよぉ。可哀想だから顔を上げてやんなよ」

「そうさ、まずは水だよ。顔、拭きたいだろ? その後は何か食べ物だよ。お腹すいただろ、麦粥とスープあるけどどうだい?」

「風呂もお湯張ってあるよ。食べたら入んな」

「ありがとうございます。お腹ぺっこぺこだったの。体も汗でべたべた。嬉しいです」

 えへへ、と誤魔化しがてら笑ってみせる。寝起きそのままで出てきたので、髪も顔もきっと酷い事になっているだろう。

「元気そうだね。大事無くて良かったよ」

「さあ、手拭いと桶持ってくから部屋に戻ろうか。食事も運ばせるから」

「兄さん、丁度いい。あんたは先に風呂入ってきなよ」

「いえ、僕はミカの側に…」

「お姫様は今からお食事だよ。うちらが世話しとくから。そら行った行った!」

 女達に追いたてられ、ザコルは風呂場のある離れへと行かされた。

 私は女性方に手伝ってもらい、部屋の布団を片付けて食事を運んでもらった。内容は麦粥とスープにスプーンだけど、木製の脚付きお膳に乗せられてきた。思わずいただきます、と言って正座で食べ始める。

「皆さん、昨日は大変ご迷惑をおかけしました…」

「謝るのはこっちだよぉ、本当に良かったよ。すぐ兄さんが連れ出してくれたから本当の大事にはならずに済んだしねぇ」

「ほんと、姫さんが目覚めるまでテコでもそこを動かないの。あんなに一途な男はいないねぇ。あ、着替えの時は追い出したから安心おしよ」

「マンジ様とはまたタイプが違うけど、酒も強いし腕も立ちそうだ。いい男選んだじゃないか、姫さん」

「ふへへ…。不器用だけど、頼りになるし、可愛い人なんですよお」

「惚気かい! あんたも可愛いねぇ」

 ザコルがいないと思って思わず調子に乗ってしまった。三人にニコニコされながら食事を見守られる。

「昨日着てた服は、軽く洗って夜のうちに広げて干しといたからね。少しすれば乾くでしょ」

「何から何までありがとうございます。この浴衣も貸していただいて」

「この服がユカタって言うの知ってんだね! 高貴な人は下々の寝間着の文化までよく知ってんだねぇ」

 ぎく。あまり迂闊な事を言うと怪しまれそうだ。

「あの、こちらの集落のご先祖様は、どのようなお方だったかご存知ですか?」

「ああ、嘘かホントかしらないけど、昔、渡り人様が何人かでこの地にいらっしゃって作った里だって伝わってるよ」

「まあ。ロマンがありますね」

「正式な地名じゃないけど、地元のもんはここをフジの里って呼ぶんだ」

「由来をお聞きしても?」

「渡り人様の故郷にはね、フジっていうでっかいでっかい山があって、神様の世界にも通じてたって言うんだよ。だから願いをこめて里の名をフジと名付けたと伝わってんのさ。渡り人様達はいつか、自分の世界に帰りたかったのかねぇ…」

「そうですか……貴重なお話を、ありがとうございます」

「姫さん、さっき厠に寄ったみたいだけど使い方分かったかい? この屋敷の厠は独特だったろ」

 ぎくぎく。

「き、昨日皆さんが連れて行ってくださいましたので! 何となく分かりました!」

「そうかい、それは良かった。兄さんは風呂上がった頃かねぇ。同じお湯で良けりゃすぐ入れるけれど、どうする? お湯張り直すかい?」

「いえ、平気です。ワンピースももう一着替えがありますし。食べ終わったら入らせてもらいます」

「そうだね。駆け落ちまでする恋人同士だもんね。お湯くらい同じで平気だね」

「ブッふ…そ、そうです、ね」

「大丈夫かい。急がなくていいよ。ゆっくり食べな。ほらお茶。ここのは珍しいお茶なんだよ、紅茶と同じ茶葉だけど加工の仕方が違うんで、ほら、緑色なんだ」

「貴族様も珍しがってお茶会にお使いになることもあるんだって。もしかしたら姫さんも見たことがあるかねぇ」

「…はい。このお茶、大好きです」

 慣れ親しんだ、鮮やかな黄緑色の水面を見つめる。

「よく飲んでいました。祖母も、好きで…っ」

「あらあら、家族を思い出しちまったかい? 駆け落ちしたんだもの。寂しいね。いつか解ってもらえるといいね」

 涙ぐんだ私を女性の一人が抱き寄せ、頭を撫でてくれた。


 風呂場のある離れに向かうと、丁度出てきたザコルに会った。

「ミカ。お腹は良くなりましたか」

「はい。美味しかったです。ザコルも食べさせてもらってくださいね」

「はい。水音がなるべく聞こえないように屋敷へ入りますが、何かあったら大声を出してください」

「ふふ、お気遣いありがとうございます」

 わざと気取ってそう言うと、ザコルもほのかに口角を上げた。


 離れに入ると、脱衣場には植物の蔓を使って編んだ脱衣籠と、同じように蔓を編んで座面を張ったスツールが置かれていた。そう、まるで、小さい温泉宿のような脱衣場だ。

 浴室の扉を開けると、湿気た熱気とともに、清涼感のある木の香りがもわっと押し寄せてきた。

「檜風呂だぁ!」

 飛び込みたいのを我慢し、掛け湯でしっかり体と髪を流し、石鹸で洗う。髪は石鹸で洗うとギシギシになるので、お湯だけでしっかり流す。伯爵家に帰ったら俺、ぜってぇリンスを開発するんだ…。

 足先からお湯に入る。お湯は少しぬるっとした感覚がある。もしやと思って少しだけ舐めると、ほんのりしょっぱい。

「ナトリウム泉かな…? 分かんないや」

 この里、温泉が沸いていたようだ。そうか、だから日本人の渡り人が居着いたんだ。私は浴室内を見回した。あった。

 浴室の壁に堂々と描かれていたのは、どこをどう見ても富士山の絵だった。




「ザコル、この里、物凄く収穫があるというか気になる事が満載なんですけど、すぐ出発しちゃうんですよね」

「そうですね。日の出から二時間ほど経過したところですし、最低でもあと二時間以内には発ちたいです」

「分かりました。ちょっと、長と女将さんに話を聞いてきます。急ぎ目で」

「では僕も同席します。…していいんですよね?」

「もちろん」


 髪を拭くのもそこそこに、適当に結んで奥の部屋を出た。広間には長と女将が正座しており、世話してくれた女性三人、フクとチヨとマツによって何かを言い聞かせられていた。

「あの、少し宜しいですか? 長と女将さんにお聞きしておきたいことがありまして」

「ああ、はいはい。ごめんね、ちょっと叱ってたとこなの。どうぞどうぞ」


 フクとチヨとマツに座布団の置かれた席を勧められ、二人の前にザコルとともに正座で座る。


「朝から申し訳ありません。出発の前にお話ししたい事が…あ、土下座も謝罪もいりません。充分です。私も不注意でしたから」

 再び土下座をかまそうとする二人に牽制をかける。

「まず、この度は私達をここに泊めてくださり、さらには歓迎の席を設けてくださったこと、感謝申し上げます」

 祖母仕込みの三つ指揃えてのお辞儀だ。二人が目を丸くする。

「姫様は、高貴な方なんだろ? どうしてこの里でしかしないような作法をご存知なんだ」

「これから話すことはどうか内密に。フクさん、チヨさん、マツさん。退席しなくていいです。扉だけ閉めていただけますか」

 三人が手分けして、あちこちの木戸や障子、襖を閉めてくれる。

「こちらの集落では、渡り人が複数現れてこの里を作られたという伝承があると聞きました。フジの里の名前が異世界の山に由来することも。それは全て本当の事でしょうか」

「あ、ああ。この里の者は、代々自分の子に同じ昔話を聞かせるんだ。それから、この里にある限り、茶の製造方法を絶やさないこと。酒を造ること。カヤブキを定期的に葺き替えること。木を育て森を守ること。他にも色々あるが、俺達はずっとそれを守って暮らしてきた」

「ご立派です。では、この里に何か、古い書物や石碑などは伝わっていませんか」

「姫様は、何故そのような事を」

「こちらにかつていらした渡り人様達ならば、きっと何か記して残しているはずだと思うからです」

「ミカ、どういう事ですか」

 早口に長達に問う私を、ザコルが止めた。


「この里を拓いた渡り人は、どう考えても日本人なんですよ。この家も、厠も、温泉も、浴衣も、布団も、緑茶も。私の故郷に全てあるものにそっくり似ています。日本人は古くから識字率が高い民族です。遺したものを見れば、どんな時代から来たのか大まかにでも知ることができる、はず」


 私の言葉に、フクチヨマツの三人も驚いたように顔を見合わせている。

「お前、あの文箱をお持ちしろ」

「わかった。姫様、少しだけ失礼しますね」


 女将が立って別の部屋に行き、桐とおぼしき素材で作られた箱を持ってきた。箱を開けると、和綴じの書や数枚の紙などが入れられていた。

「この文箱の中身は、領主様も知りません。何が書いてあるか誰にも読めねえんだ」

「拝見しても?」

「どうぞ」

 綿の手袋などは無いが、和紙の古文書は確か素手で触ってよかったはずだ。

 一つは縦長の古い帳簿か。筆文字で大正十四年金銭出入帳とある。

「大正の頃、東京でお茶屋を営んでいた方がいたんですかね。意外と最近だわ」

「ミカ、読めるんですか?」

「はい。達筆で読みにくいですけど、読めないことはないです。大正十四年といえば……私が来た時代の丁度百年くらい前の事ですね」

「渡り人様がここを拓いたのも今から百年くらい前の事だ」

「本当に最近ですね」

 ザコルが驚いたように言う。渡り人召喚の規制が始まるすぐ前の事なのかな。

「次。これは、ふふっ。銭湯のチラシ」

「セントーとはなんですか?」

「公衆浴場の事です。誰でも小銭を払えば入れる大きなお風呂の事ですよ。日本人はお風呂が大好きなんです。このチラシのお風呂には、富士山の絵が描かれてる。富士山の絵を描くのってこの頃から流行っていたのかな」

「本当だ!これ、この家の風呂場にもある絵だよ! でも、あの離れは建てたの最近だろ、長?」

 フクチヨマツの三人はこのチラシを見るのは初めてだったらしい。物珍しそうに私の手元を覗いている。

「何でか知らねえけど、風呂にはこのフジの山の絵を描かなきゃなんねえってこの家の爺さんから言われてたんだよ。爺さんはそのまた爺さんに言われたんだと」

「そうですね。大きなお風呂と言えば富士山の絵ですよ。富士山のある県はお茶の名産地ですから。お茶屋の方がこだわられたんですかねえ」

 うんうん、と頷く私を皆が不思議そうに見ている。チラシを裏返すと、鉛筆らしき筆記具で文章が綴られていた。


 我々は王宮なる王の住まふ城の一部屋に集められてゐた。王は今からおまへたちは殺し合ひ、残つた者が勇者となりて敵を討てと言ふ。我らは此処から逃げやうと言いかわし、清二は魔法なる力を使つて兵共めを瞬く間に眠らせた。志づ子は火をまき、玉江ときみ子は四郎を庇つた。おれは泣きやまぬ四郎を背負つて…


「ザコル、この方達が召喚されてすぐ、どのような目に遭ったのか記されています」

 小声でザコルに言った。

「読み込むから、少し手を握ってくれますか?」

 ザコルは黙って、チラシを持つ手とは反対の手を握ってくれた。


 大正時代の終わり、どこかの王宮で集団召喚された日本人の男女は、勇者を決めるために殺し合いをしろと命じられた。

 日本人達は力をあわせて脱出し、命からがら険しい山を越え、オースト国のサカシータ領へと逃げ込んだ。当時のサカシータ子爵の手引きによってこのジーク伯爵領に逃げ延び、温泉のあるこの地を選び隠れ住む事になった。

 日本人の渡り人達はジーク伯爵の支援を受けつつ、それぞれ知識や技能を活かして、今のこの長が住む大きな屋敷を共同で作り上げた。

 その後、流れ者や同じような境遇の渡り人をその都度受け入れながら、この里はいっぱしの集落となった。


 ざっくりまとめるとこんなところだ。

 銭湯のチラシの他、色んな紙の裏に書き記してあり、箱の中には古びた鉛筆も数本入っていた。お茶屋の息子だった万治が、まだ子供だった四郎が持っていた学用品を借りて書いたようだ。紙の裏には、子供が書いたと思われる落書きもあった。

 静かに暮らしたかったのだろう、ジーク伯爵とサカシータ子爵への感謝を忘れず、サイカ王への復讐は忘れると書いて締めてあった。サイカはオースト国の北側に接する大国だ。


「何て書いてあるんですか、姫様。お願いだ、教えてくんねぇか」

 長が身を乗り出す。

「これは、多分、ご先祖がご子孫に伝えず、忘れるつもりで書いたもののようです。最後に、ジーク伯爵とサカシータ子爵への感謝を忘れず、復讐を忘れると書いてあります。内容をお知りになりたいですか?」

「そっか…。なあ、どうする、お前」

 長は女将の顔を伺った。

「そうだねぇ、何の復讐か知らないけど、きっとロクでもない目に遭ったんだろ。でもそれをうちらに伝えなかったって事は、復讐の続きなんかしなくていいって事さ。ジーク伯爵家にはそん頃からの恩があったんだねえ。それが分かっただけで、いいんじゃないかい?」

 女将がそう言えば、長はしばらく考えたのちに頷いた。

「……そうだな。それでいい。なあ、サカシータ子爵には何の世話になったんだ、それだけ教えてくれ」

「当時のサカシータ子爵は、渡り人の皆さんを自領で保護し、ジーク伯爵に相談し身柄を預けたようですね。その後も何度かこの里に農具や工具などを贈っているようです」

「ああ、あの先祖が使ってたっていう古い道具達じゃないかい? 各家で大事に手入れして、今でも使ってるよ」

「百年も使えるようないい道具、贈ってくだすったんだなぁ」

 里人達は嬉しそうに笑い合う。

「女将さんとフクさんは、私と同じ黒髪に黒目ですね。きっと渡り人の血が濃く残ってるんじゃないですか」

「そうだよ。あたしとフクはこの家で育った代々の長の血を継ぐ姉妹でね、この長は婿なのさ」

 肩身が狭えんだ、と長が快活に笑った。

「姫さん、あんたはどうしてこんな所にまで逃げて来てんだい? 故郷はどうしたの。まさか、理不尽に喚ばれて来たんじゃあないだろうね」

 私の出自を悟ったフクが心配そうに言った。

「理不尽には喚ばれはしましたけど、私はテイラー伯爵家で手厚く保護していただいてますからご心配には及びません。これから、護衛の彼とサカシータ子爵領に行って、渡り人の謎を解明するんです」

「なあんだ。あんた達、駆け落ちじゃないんだね。仲は良さそうだけどさ」

「騙したみたいですみません」

 駆け落ち設定盛ったのはマンジ様だけど。

「対外的には、諸事情あってミカがテイラーを飛び出した形にはなっていますよ。しかし僕と駆け落ちしているわけではありません」

「あ、仲良しは仲良しですよ」

「…ミカ」

 じろ、と睨まれる。確かに、個人的なことで脱線している場合ではない。時間は有限だ。

「話を戻しますね。この手書きの字を記した方は、偶然にも万治さんといいます。お茶の製造を始めたのもこの方でしょう。あと、お酒を作り始めたのは清二さん。元々酒蔵の杜氏だったようですね」

「へえ、そうなの! ご先祖様のお名前がマンジ様だなんて! なんて偶然なのぉ?」

「マンジ様とニコリ様は、この里の先祖に呼ばれて来ちまったんじゃねえか」

「ご先祖は伯爵家に恩を返したかったのかもねぇ」

「うちの特産は珍しい緑茶と、麦を使ったとびきり度数の高ぇショーチューって酒さ。マンジ様とキヨジ様は、俺達子孫が暮らして行けるように色々と遺してくだすったんだよ」

 里の五人がわいわいと笑顔で盛り上がっている。よく笑う人達だ。この気のいい人達にとって嬉しい話ができて良かったと思う。

 それから、先祖の渡り人の実名をこちらの言葉で紙に書いて、復讐等に関わらないプロフィールのみ簡単にまとめて長と女将に渡した。

「図々しいお願いだとは思うのですが、この鉛筆、一本だけ譲ってくれませんか」

「ああ、いいとも。あんたの故郷の物だ。それくらいしかお礼ができなくてすまないが」

 私は四郎の短い鉛筆を一本、大事に鞄へとしまった。

「ザコル、昨日は介抱してくれてありがとうございました。ずっと寝てないでしょう、今日は大丈夫ですか?」

 あ、女将に気まずい顔をさせてしまった。大丈夫です、と手で制する。

「僕は別に一週間寝なくたって動けますよ。ミカこそ体調はどうですか」

「よく寝たし、二日酔いもないし、麦粥もいただいたし、温泉にも入ったし、富士山も見たし。元気一杯です」

「そうですか。それならいいです」

「兄さんは二日酔いしてないのかい? 長に物凄い量飲まされてたろ」

 あ、今度は長が気まずい顔してる。まあ、この二人は少しアルハラを反省した方がいいかも。

「僕は酒くらいでは酔いません」

「ヒューッ! かあっこいい!」

 チヨとマツが囃した。若いこの二人は女将とフクの従姉妹だそうだが、明るい茶髪に茶色の瞳だ。こちらの世界の人の血が強くなってきているのだろう。同じく茶髪に茶色の瞳を持った長と女将の子は黒髪黒目の女の子。昨日から長の実家へお泊まりしているらしい。


 万治、清二、四郎、志づ子、玉江、きみ子。彼らが里に残したものは少しずつ溶け出して、この世界と一つになろうとしている。万治が遺した記録も、私が伝えなければ誰にも知られず朽ちていくのだろう。

 六人は故郷を離れて早々、恐らく私の想像など絶するようなつらい目に遭った。当時のオースト国王家の保護を求めなかったのにも、何か理由があるはずだ。


 せめてどうか、ここでの暮らしが静かで、多くの幸せにあふれる日々でありましたように。

 文箱を閉じ、胸の前で手を合わせて祈った。



 クリナに鞍や荷物をくくりつけようとしていると、集落の人たちがちらほらとあつまってきた。二日酔いでまだ起き上がれない人もいるようだ。

 昨日の宴会では見なかったが、子供達の姿も見られ、黒髪の大人や子も数人いた。皆、私が強い酒をあおって運び出された事を後から知ったらしく、顔を見るなり心配してくれた。


 深緑湖の街で貰った弁当のカゴにはまだ硬いチーズとナッツの蜂蜜漬けが入っていたが、空いたスペースに里の皆が色々な物を詰め込んでくれた。

 野菜の漬け物や、干し肉、今年初めて採れた林檎や柑橘類などなど。どんどん集まってカゴに入りきらなくなったので、鞄やトランクにも詰められるだけ詰めて後は丁重に断った。クリナは馬屋でしっかり世話をされ、新鮮な草や水をたっぷり貰ったようだ。


 例によって、ザコルが私を空箱か何かを扱うかのようにヒョイと持ち上げて馬に乗せると、周りから驚く声が上がり、姫は大事に扱えよと口々に言われていた。デジャヴだなぁ…。

「達者でなぁ、落ち着いたらまた遊びに来いよぉ!」

「今度はゆっくりおいでねぇ」

「姫様、兄さん、お幸せにねぇー!」

 私はザコルの腕のかげから顔を出して手を振った。


「私って、そういえば駆け落ち中の高貴な姫でした。この先もこの設定なんですかね?」

「さあ…。何とも言えませんね。ただ、相手は納得しやすいかもしれません」

「確かに」

 この先も駆け落ちカップルを演じなければならないのは、相手がいい人であればあるほど気が重い。…しかし、護衛と二人旅をする本当の理由を隠すには、そう言っておいた方が無難なのかもしれない。


 里の方を振り返ると、朝の日差しが山肌に造られた茶畑に降り注いでいた。…これも懐かしい光景だ。

「フクさん達がね、フジの里の名の由来を、天界にも通じたという富士山にあやかって、いつか異世界に帰りたいからつけた名じゃないかって言ってたんです」

「そうですか」

「でもね、富士って、フシ、死なない、永遠の命っていう意味もあるんです。長寿の象徴ですね。だから思ったんです。もしかして、ここで死んでやるもんかって気持ちと、この里での幸せが、永遠に続きますようにって願いを込めた名前なんじゃないのかなって」

「そうですか」

「六人は、幸せだったでしょうか」

「どうでしょうね。少なくとも、子孫の皆さんは幸せそうに見えますよ」

「…っ」

 涙が、胸に抱えたカゴの蓋に落ちた。

 ザコルは手綱を持ったまま私を抱きすくめ、自分の頬を私の髪に押し付けた。



 フジの里を発って三時間。

 私達は馬上で漬け物やチーズをつまみつつ、休憩もそこそこに次の目的地を目指していた。


「今朝温泉に入れたおかげか分かりませんが、すごく調子がいいんですよね」

「サカシータ子爵領にも温泉がありますよ。山岳地帯で行きづらいし、少々匂いが独特なので好き嫌いが分かれますが」

「秘湯! 硫黄泉ですかね!? えー、すっごい楽しみ!」

 祖母は温泉が好きでよく二人でバスツアーに行った。硫黄泉に入ったのは信州の方だったか。

「ミカ、元気になりましたね」

「うん。泣いてすっきりしたのもあるかな。ギュッてしてくれて嬉しかったです」

「………………」

 無言が続くので後ろを振り返ったら、ザコルがバッと顔を背けた。反対側から振り返ったら、またその反対に顔を背けた。絶対に顔を見せないつもりのようだ。

 私は手首のブレスレットをいじくりつつ数秒考えたのち、目の前にあったザコルの手の甲をべしん、と叩いた。ザコルが綱を引いてクリナを停めた。

「どうしました」

 ザコルが顔を覗き込もうとしたので、振り返ったら目が合った。

「顔が見たかったので」

「はあ、何なんですか。これでも急いでいるんですが?」

 ザコルが軽くクリナの腹を蹴る。私が笑うと、背後からも苦笑する声が聴こえた。



 ◇ ◇ ◇


 ザコルが、山上の木のかげから次の目的地だった小さな町を見て、

「ここは駄目ですね」

 と、一言言った。


「町の入り口、見えますか。ジーク伯爵家の旗が二本掛かっているでしょう。本来は町の薬草採集ギルドの旗と伯爵家の旗が一本ずつ掛かっているはずなんです。マンジ様と決めた合図のうち、町の中でラースラ教の人間を発見した際の合図です」

「あの一日で、そんな事まで決めていたんですね」

「ちなみに、王弟殿下の慈善団体からの接触があった時は二本ともギルドの旗に替える。どちらの干渉も認められた場合は旗を無地のものに替える、など細かく決めていました」

「こう言っては何ですが、私達、いや、私のために? そんなにもフォローをしてもらって、ジーク伯爵家にメリットはあるんですか?」

「あなたが渡り人だから、なんて言っても納得はしなさそうですね」

 ザコルはクリナの進行方向を再び山の中に向けつつ話を続けた。

「まず、ラースラ教に関してはジーク側も危険視しているようです。マンジ様によれば、最近信者と見られる者が見た事のない形の獣を連れて森に消えたなどという目撃情報もあったそうですし、街中にも何らかの儀式をした痕跡が見つかったそうです。あなたの事が無かったとしても十分に警戒すべき状況です。今回の協力の見返りとして、こちらが持つ調査の情報をいくらか開示しました」

 召喚テロを起こしそうな危ない思想の人達が動きを活発にしているので、各領とも警戒を強めている、という認識で合っているだろうか。情報を共有できるのなら、一応あちらにもメリットはあるのだろう。

「また、テイラーとジークは共に現政権を支えるカリー公爵派であり、陛下がお決めになった王太子を後継として支持しています。王位を狙う王弟殿下や、王太子への敵意をあらわにする第二王子殿下には元々いい感情を持っていません。…それに、お嬢様方のためにも、第二王子殿下や王弟殿下の動きについて情報を共有した方がいいと判断されているようです」

 と、いう事は、ジーク伯の娘さんも王族の婚約者候補などに挙げられている、という事だろうか。あのオンジとイェルの娘ならば、きっと可愛くて育ちの良い子なんだろう。

「なるほど、分かり易いです。ありがとうございます」

 町に入れなくなった以上、今日は野宿にするらしい。日が沈んでから町の囲いの外を闇に紛れて移動し、町を十分通り過ぎたところで休息を取る予定だという。

 ザコルは馬上で先程の話を続けた。

「テイラー伯爵家とジーク伯爵家は奥様同士の仲もよろしいです。王宮で共に王妃様の侍女を勤められていた頃からのお付き合いだそうで。アメリアお嬢様とジーク伯爵令嬢も手紙のやり取りをする仲ですね。お二人とも第二王子殿下のお相手をさせられたのがきっかけで意気投合されたようですよ。ですので、テイラー伯爵家の新しい娘であるミカには当然好意的です。今回、めでたく夫人のお気に入りに追加されましたしね。流石はミカ。僕は次に会ったら嫌味の一つも言われそうですが」

「なるほど…」

 今日の彼は珍しくよく喋る。

「現在アマギ山を迂回しないと馬車の行き来ができないという事情があって、両者の交易はそれ程盛んではありませんが、そこにミカが言い出したトンネルの話です。話がまとまれば、恐らくテイラーとジーク初の共同工事になるでしょう。王家など如何様にも言いくるめて掘ってしまう事でしょうね。新しいトンネルの名前はきっと氷姫に因んだものになりますよ」

「なるほ…どじゃない、なんで?」

「氷姫の発案だからに決まってるじゃないですか」

「いや、私、本っ当に、なあーんにもしてませんしする予定もないですよ!? 酔っ払って演歌歌ってただけで! そんなの、これからトンネル職人を手配する猟犬の名にでも因んだらいいでしょう!?」

「僕の名前が刻まれるわけないじゃないですか。それこそ、なあーんにもしてませんから。ミカはトンネルの開通式に呼ばれてエンカとやらを歌わされるんじゃないですか」

「あ、根に持ってるんですね!? 私を揶揄って何が楽しいんですか!」

「どうどう、でしたか。人を揶揄うって楽しいものなんですね。ミカの気持ちが少しだけ解りました」

「変態!」

「その変態を揶揄って楽しんでいる変態は誰ですか」

「私です」

「即答ですか…」

 ザコルが馬を停め、周囲を見渡した。

「……行きましたね」

「?」

「恐らく熊です。気配が近づいたので、会話の声を大きくしていました。こちらに気づいて離れてくれたようです」

「ひい」

「大丈夫ですよ。無駄に殺したい訳じゃありませんが、もし襲ってきたらきちんと始末します」

「ひいい」

「心配いりません。毛皮や胆が高く売れますし、肉も血抜きすれば案外臭みもなくて美味しいですよ。どうします? まだ近くにいるでしょうし、捕まえますか?」

「ひいいいいです」

「そうですか。食べてみたくなったら言ってください」

 ザコルは手綱を握りなおし、クリナの腹を軽く蹴った。

「……野生のザコル」

「人を野生のサルみたいに言わないでください」


 町に近づきすぎないよう、山の麓に出やすい場所で馬を停めた。丁度湧水もあり、クリナと一緒に冷たい水をたくさん飲んだ。

 トイレはどうしているかと言えば、ザコルに思い切り耳を塞がせ、ザコルが許容できるギリギリまで離れてから茂みに隠れて用を足している。ホテルでもフジの里でも音は聞かれていたかもしれないが、過ぎた事を気にしすぎるのはやめた。


「ラースラ教の人達って、戦闘のプロというわけではないんですよね? ここまで警戒する必要はあるんですか? あ、いえ、野宿自体は全然構わないんですけど。もし私を拐おうと事を起こしたとしてもザコルなら問題なくやっつけられそうだし、単純に疑問に思ったので」

「もちろん、昨日の二人のような輩が何百人出てきた所で、あなたに指一本触れさせるような事はありません。問題は宿ですよね。宿を出入りする人間を全てチェックできませんし、あなたの黒髪はどうしても目立ちます。あの町の規模では深緑湖の街のような要人警備がしっかりした宿は存在しません。男女別室にしないといけないのもネックです。最悪宿の壁を破壊しないといけませんし、町の中で戦闘を繰り広げたら大事になります。大事になれば、ラースラ教以外の敵にも居場所がバレます」

「なるほど…。それは町の人にもすごく迷惑をかけそうですねえ…」

「フジの里は良かったですよ。部屋を分けたとしても紙の貼られた薄い戸一枚でしたし、結果的にあなたからほとんど目を離さずに済みました。住民のほとんどがマンジ様の知人でしたし。あなたが酒中毒にされかけた事は誤算でしたが」

 それは、私の不注意もあるのでできれば忘れてやってほしい。

「出された飲み物を躊躇なくあおるのは絶対にしないと約束してください。そうだ、これからは僕が全て毒味を行いましょう」

「うーん、過保護なような気もするけど、自業自得だから何とも言えない…」

「やはり大きな街を経由した方が良かったか。いっそ一箇所の集めて一網打尽に…しかし、ミカを囮にするのだけは…」

 ザコルがぶつぶつと何やら呟いているが、まあ、この戦闘民族の側にいる限りきっと大丈夫だ。セオドアもそう言ってたし。

「そうだ、同じ部屋に泊まればいいんじゃないですか」

「……あなたはまたそういう事を…」

 盛大に眉を寄せられる。

「揶揄ってるわけじゃありませんよ。ただ、合理的かなって。大体、野宿だって、壁も人けもないという点では実質同じ部屋みたいなものでは?」

「ぐっ、か、解放感が! 違いますので!」

「解放感が違うんだ」

「違います!」

「っふ、じゃあしょうがないですねえ…」

 野外活動くらいなら行ったことはあるが、完全な野宿なんて初めてだ。その解放感とやらをぜひ堪能することにしよう。

 実際は楽でも楽しくもないかもしれないが、初めての経験は何でもワクワクするものだ。



 チリン…チリチリン…

 どこかから鈴の音がする。


 私はフジの里でもらった一口サイズの堅パンの袋を閉じ、カゴにしまって立ち上がった。

 ザコルを見れば、すでに荷物をまとめて馬に跨っていた。私の肩をチョイっと押して後ろ向かせ、ヒョイッと抱えて乗せると、湧水のあった場所を離れて木の生い茂る方へと移動した。

「薬草採取をする地元の人間でしょう。あの音は熊よけの鈴です」

 ザコルがそっと耳打ちした。別に指名手配されているというわけでもないのに、すごくドキドキする。きっと普通のおじさんおばさんで、薬草採取の途中で湧水を汲みに来たのかも。できるだけ無害そうな人達を想像して気を落ち着ける。

 カン、カンカン、カン

 何かを木の枝に打ち付ける音がする。おじさんおばさんかな、何してるんだろう。

 カン、カカン、カカカン、カン

 音はしばらく続いた。ザコルがボキッと手近にあった木の枝を折った。そしてさっきの音に応えるように枝を打ち付けて音を鳴らした。

「恐らく味方です。接触しましょう。完全な野宿は免れたかもしれません」

「なんだ、今日は並んで寝るのかと思ったのに」

 突然、耳が何か生温かい感触に包まれてビクッとした。思わず手で確認しようとしたらザコルの顔に当たった。

 バッと後ろを振り返る。

「耳…っ、食べた…?」

「あんまり挑発的な事を言っていると、知りませんよ」

 ザコルが唇を軽く舐めるところを見てしまった私は、カゴに顔を埋めたまましばらく動けなくなった。


「よう、猟犬。久しぶりだな」

「お前。どうしてここにいる」

「お前と一緒に決まってんだろ。暗部なんてやめて、マンジ様の世話になってんだよ。…なんだお前、随分小綺麗な見てくれになったな。あのダボついた服はどうした。どういう心境の変化だ」


 先程の湧水の所まで戻ると、大きな籠を背負った人物が立っていた。

 手とカゴの隙間からちらっと見やると、おじさんおばさんではなく、薬草採集の装束に身を包んだそこそこ若そうな人物だった。小柄で、声の感じからして男性なのだろうが、頭に大きなほっかむりのようなものをつけていて目元が見えないのではっきりしない。一人のようだ。


「猟犬、暗部はロクでもねえ有り様になってんぞ。どこぞの英雄様のせいで悪いお貴族様に目ぇつけられてな、馬鹿な奴はついていっちまった。サーカスにでも入んのかね。ま、人間不信で隠棲だなんてクソダセえ理由よりはマシだがな」

「フン、僕は真っ当に去りたかっただけだ」

「戦の旗頭くらい引き受けてやれよ、敵も味方も一緒くたに肥溜めに突っ込めるいい機会だ」

「ミカの前でその話を続けるのはやめろ」

「ケッ、呼び捨てかよ。で、その姫さんはどうした、寝てんのか?」

「……いいえ。諸事情あって今顔をお見せできないだけです。お構いなく」

 私はカゴで顔を隠したまま、カゴごと持ち上げて男性の方を向いた。

「おーおー、何されちまったんだぁ? 耳も首も真っ赤だぞ」

「ミカに汚い目を向けるな」

 …いや、汚い目とか。耳を食むなんてご無体をしてきたのは自分のくせに、何言ってんだこの英雄様め。

「宿にご案内してやろうっていう俺様に随分な物言いだな。マンジ様に姫は犬に食われてましたって報告してやろうか?」

「お前の喉をここで潰してやろうか。目と足さえ残っていれば案内くらいはできる」

 そう言ってザコルは腰の短剣を指で弾いて鳴らした。

「相変わらず冗談の通じねえ奴だ。おら、ついてこいよ。今日のお宿は高級宿だぞ」


 チリン…チリリン…

 熊よけの鈴をぶら下げた男性について進むうち、顔の熱が引いてきた私はやっとカゴを下ろす事ができた。

「ミカ、また顔にカゴの跡が」

 そう言ってザコルが顔を近づけてきたので、黙ってべしん、と顔を叩いてやった。

「姫さん、その唐変木に何されたか知らねえが、宿がどんなでも文句言うなよ」

「大丈夫です。どんなお宿か知りませんが、どうせ野宿する気でいましたから。贅沢を言えば、屋根くらいは欲しいところですね」

「はは、驚け。床もある」

 冗談が通じる人のようだ。

「ふふ、豪勢じゃないですか。マンジ様から頼まれてくださったんでしょう。ありがとうございます」

「フン、俺みたいなもんにお礼たあな、高貴な姫は世間をご存知ねえようだ」

「別に生まれ育ちが高貴なわけではありませんから。お名前を伺っても?」

「そこの英雄様と違って、名乗るような立派な名前はねえんだよ」

 そこは教えてくれないのか。別に構わないが…

「こいつは暗部ではコマと呼ばれていました。下品な奴ですが諜報と調薬の腕は確かです」

「べらべら喋んじゃねえクソ犬が。国の犬からテイラーの犬に成り下がりやがって」

「国の手駒からジークの手駒になった奴に言われる筋合いはない」

「ふーん。仲良しなんですね」

『どこが‼︎』

 息ピッタリだ。

「ザコルもそんな口調で話すことがあるんですねえ。あ、たまに悪態もついてるか…」

「そいつに使うような敬語なんてありません」

「へっ、そいつは一応お貴族様出身だからな。姫の前でお上品に取り繕うくらいの能はあんだろ」

「お前がいると下品が感染る。その軽薄な口を閉じて離れろ」

「うるせえんだよ根暗が。何いきがってんだボケ」

「ふふ、ザコルにもお友達がいたんですねえ。何だか嬉し」

『気持ち悪いからやめろ!』

 息ピッタリだ。

 

「ふ…ふっ、はは、あははは、ひいー」

「ミカ、いい加減笑い止んでください」

 馬上から落ちそうになるほど笑い転げた私の腰を片腕で抱え、ザコルが溜息をついた。

「あんた本当に高貴な姫なんだろうな。そんな豪快に笑い転げるような女、平民出の洗濯女にもいねえぞ。その黒髪黒目は珍しい方かもしれねえが…」

「だから私は生まれ育ちが高貴なわけじゃないって…。ふぅー、あー苦しかった」

 笑い過ぎて腹筋が痛い。

「全くミカは…。まさか昨日の酒が残っているんじゃ」

「そんなわけないでしょ」

「おっ、姫さん、イケる口か? 後で差し入れてやろうか」

「やめろ。もうこの人に酒は一滴も飲ませない」

「もう、昨日のは事故なんですから。これからはザコルがいちいち毒味してくれるんでしょ」

「毒味して酒だったら飲ませないという意味です」

「けち」

「けちとはなんです。自業自得でしょうが」

 ふん、コマが鼻を鳴らす、

「英雄も形無しだな。マンジ様にゃ、猟犬が女連れでいい思いしてっから茶々入れてこいと言われてたんだが」

「なるほど。コマさんも一緒にお楽しみ…いたっ、何するんです」

 ザコルに頭を軽く小突かれた。

「はん。姫さん、面白ぇ女じゃねえか」

 オモシレー女、いただきました。

「ふん、ミカは変な女ですよ」

「へ、変な女とはなんですか! 変な女の耳を食んだ変態が!」

 あ、しまった自爆しちゃった。

「こちらを煽るような事ばかり言うから思い知らせてやっただけです」

 あ、こっちも自白しちゃった。

「…おい、お前ら。高貴な姫と護衛っていう設定は覚えてんのか? 俺相手だからって油断しすぎじゃねえか?」

 油断はしている。何となくこのコマは信用できる気がするからだ。

「一応設定でもなんでもなく、要人と護衛という関係ではあるんですけどねえ…」

「テイラーはよくお前ら二人っきりで旅なんかに出したな。素性以前にそれが一番疑問だ」

「それだけ主が僕を信頼してくださっているということだ」

「その信じた犬が姫の耳食んでるってか?」

「………………」

「わあ苦々しい顔〜」

「頬をつつくな変な女が!」

 コマの目元は見えないが、うへぇ、という表情をしている事は分かる。

「ふふ、ごめんねえ、コマさん。まあ、私達の事は心配いらないですよ」

「はん、油断してっと知らねえぞ。そいつは犬でも雄犬だ」

「ミカを怖がらせるような事を言うな」

「お前が一番怖ぇから警戒しろっつってんだよ」

「コマさん、いい人ですねえ」

『いい人な訳あるか!』

 息ピッタリかよ。


 コマに案内されて来たのは、周りを高い木に囲まれたコテージのような建物だった。そんなに大きくはないが、数人程度なら余裕で泊まれそうだ。周りの手入れもされている。


「ここはお貴族様が山で行楽なんかする時に使われる施設の一つだ。普段は町から来た薬草採集の人間が休憩に使ってる。ここなら少しくらい灯りを点けても木に埋もれて町には光が届かねえ」

 クリナから降りる。ザコルが私を後ろに連れて、施設の周りを検分しながら一周する。

「今日の深夜から明日の朝にかけて、町の砦から外を見張るのはマンジ様の息がかかった奴だけになる予定だ。今夜はここで寝て、明日の早朝堂々と町の横を通り過ぎろ。この辺りは熊も出る事だしな。姫さんを餌にしたくねえならこちらのお宿はオススメだ」

「そうだな。お前が信用できるならな」

「えっ」

 ザコルがおもむろに短剣を抜き、コマの方へと向けた。私は思わず二人の顔をキョロキョロと交互に見た。

「そう言うと思ったぜ。マンジ様から、姫さんにこれを見せろと言われて預かってきた」

 そう言ってコマが懐から出して見せたのは、女物のイニシャル入りハンカチだった。

「それ、ニコリ様のハンカチ!」

 私も鞄から自分のハンカチを出して近づける。昨日酔った時に涙でぐしょぐしょにしたせいで盛大に皺が寄っていたが、確かに同じデザインのハンカチだった。

 ザコルは並んだハンカチを一瞥すると、息をついて短剣を鞘に収めた。

「フン」

「おい、ちっと言葉が足んねえんじゃねえか? 俺ぁ今殺されそうになったんだが?」

「確実に仕留めるつもりなら会話などしていない。お前なら分かるはずだ」

「素直じゃねえなあ猟犬の坊ちゃんはよお」

「………………」

「頬つついてやろうか」

「殺す」

 あああどうしようこのとびきりの仏頂面! 悪友との絡み尊すぎて死ぬ…!

「…おい、そこでときめいた顔してる変な女ァ、日が暮れるぞ。手伝ってやるからさっさと荷を中に運べ」

「コマさん、いい人ですねえ」

「いい人じゃねーっつうの!」


 クリナから下ろした荷物を、ザコルとコマがコテージの中に運び入れる。

 コテージの中には食料や飲料、寝具まで準備されており、オンジ・マンジ兄弟の厚意に深く感謝した。

「どうしよう、このイザコザが終わったら、私、ジーク伯爵家にどんなお礼をしに行ったらいいんだろう。かき氷くらいしか作れないのに…」

「カキゴオリって何だ?」

「えっと、氷を砕いたり削ったりして山盛りにして、シロップをかけて食べるスイーツですよ」

「この辺じゃ、冬でも一晩にできる氷は大したことねえぞ」

「魔法を使うんです」

「ミカ、いけません。軽々しくその話をしては」

 ザコルが焦ったように言った。

「コマさんの事、信用してるんでしょ。ザコルのお友達ならきっと大丈夫です」

「だからお友達じゃねーっつの。頭ン中お花畑か? フン、女の趣味悪ぃな、猟犬」

「ミカはただの護衛対象だ。男女の関係になどない」

 思わずザコルの方を見た。ザコルと目が合う。

「あ、ミカ…」

「……そっか。そうなんだ」

「ミカ」

「解ってますから。大丈夫です」

 そうだ、きっと私の勘違いだったんだろう。別に、ギュッとしてくれたのも成り行きだったんだろうし、耳食んできたのだって私がすぐ調子に乗るからだ。私から口づけしたらって言ったらすごく嫌がってたし。望むならどこへでも一緒に行くって言ってたのも、護衛としてって事だ。

 ここ数日のことは全て私の勘違い。私がしつこく絡むから相手してくれただけだ。

 渡り人は、大事にしないといけないから。

「……ごめんね」

「ミカ」

 顔を見られないように体を外に向ける。

「荷物、外に残ってるから取りに行きますね。クリナもまだ繋いでないし」

「ミカ!」

 私は足早に小屋の外へと移動した。


 ◇ ◇ ◇


「……いや、クッソ面倒くせえな…」

 コマが舌打ちとともに吐き捨てる。

「一応訊くが、追いかけなくていいのか? 護衛だろ」

 コマは、ミカが広げた荷物を適当に整理しつつ、数分経っても動けないでいる僕に声をかけた。

「な、何を言えば」

「はあ? そんなもん、適当に閨事でも」

「軽々しく言うな! 彼女は戦争もないような国から来たんだ。僕みたいなのと本気で心を通わせるなんて」

「はあ? 耳食んどいて何言ってんだお前」

「うぐ…」

 こういう時に言葉に詰まってしまう癖を治したい、そう思うようになったのは最近の事だ。以前はまず喋る機会そのものが少なかった。

「……それは、あんまり、彼女が、無防備な事を言うから、つい」

「つい? ほう? そういう無防備な事、ついつい誰にでも言うような女なのか? あいつは」

「そんなわけないだろ! ミカは僕がちょっと褒めただけでも悲鳴を上げるような…」

「姫さん、あの様子じゃしばらく戻って来られねえだろ。あーあ、今頃蛇にでも噛まれてっかもな」

「行ってくる」

 急に体が動くようになり、僕は床を蹴った。

「めんどくさ」

 そんなコマの呟きとともに、背後でどっかりと椅子に座る音がした。


 ◇ ◇ ◇


 私は宣言通り、クリナの所にたどり着いたものの、荷物を持ってコテージに入る気にはならず、かといってクリナの綱をどこに結ぶべきかもよく分からず立ち尽くしていた。

 当てつけっぽかったかなあ…。

 あれくらい聴き流しておけばよかったのに。自分がらしくない事をしたという自覚はある。はっきり否定されてつい反応してしまったのだ。

 だが、ここ数日は本当に心通わせ合っていると思っていたのだ。大体ザコルが私の気持ちを訊いたんだろう。スキンシップも段々多くなっていたし、あんな態度では勘違いした側も悪くないと思う。だというのに、しばらくここに立っているが、彼が追いかけてくる様子はない。

 …それもそうか。彼の元を離れて無事で済まないのは私の方なのだから。

 私が私のために私から彼の元に戻るしかない。ああ、そうだ、どうせ私が一人で戻るだけの話だ。


 何か、無性に腹が立ってきた。

「クリナ、ちょっとだけギュッてしてもいい?」

 ブフン、とクリナが鼻を鳴らした。

 クリナの首筋に顔を押し付け、ぬくもりをもらった私は腹を決めた。あっちがその気ならこっちも『何もなかった』ことにしてやる。よし、徹底抗戦だ。


 ◇ ◇ ◇


「ミカ! 外は危ないですから、もう部屋の中に」

「はい。この荷物持って戻ります。すみません、結局クリナをどこにつないだらいいのか分からなくて」

「それは、僕がやります」

「お願いします」

 ミカは何の感情も伝わってこない微笑を浮かべたまま、最後の荷物を持ってあっさりと小屋に入っていった。クリナと一緒に残された僕はその背中を見て立ち尽くした。


「クリナ、行こう」

 クリナの綱を引き、小屋に併設された馬用の囲いへと連れて行く。裏手にあった井戸で水を汲み、桶に移してクリナに飲ませてやる。小屋の裏手にはしっかり馬用の干草も用意されていた。

 小屋の中の足音や物を動かす音に注意を傾けつつ、側に立てかけられていたピッチフォークを手に取った。

 小屋の中から、ミカとコマの会話が聴こえてくる。コマの不遜な態度は相変わらずで、しかしミカは面白そうに笑っている。…くそ、何が楽しいんだ。

 干草を飼い葉桶に移す。ブラシも一通り用意されていたので、森の中を歩き回ってついた汚れをしっかりと取り除き、丁寧にマッサージするようにブラシをかけていった。毛並みが整う様子を見ていれば、妙な苛立ちも少しは紛れるような気がした。


 終わる頃にはすっかり日も落ち、小屋の中には明かりが灯った。二人のどちらかががランプに火を入れたんだろう。

 服についた干草などを払って井戸端でしっかり手を洗い、井戸の水を綺麗な桶に一杯汲んで小屋に入る。

 小屋の中のテーブルはさっきまでミカが身の回りの荷物を広げていたはずだが、すっかり片づけられ、代わりにミカとコマが食べ物や飲み物を並べているところだった。

「おかえりなさい。クリナのお世話、ありがとうございます」

「あ、はい。僕の仕事ですから」

「お水汲んできてくれたんですね。用意されていた飲み物はワインしかなくて。アルコールランプでお湯を沸かします。桶、貸してください」

「いえ、重いので。どこに置きますか」

「じゃあ、ここに。燃料用アルコールの補充もあったんですよ。ありがたいですよね」

「そうですね。コマ、用意したのはお前だろう。感謝する」

「ん…ああ、別に」

 僕がいきなりお礼などを言うからコマが戸惑っている。この男に対して、生まれて初めて申し訳ない気持ちになった。


 ミカはテキパキと野営道具の中からケトルと金属製の台とカップを出し、お湯を沸かし始めた。

 沸くまでの間、彼女はこの二日間ミカが馬上で胸に抱いていたカゴから、食べかけのものや足の早そうなものをテーブルに出し始めた。整理するつもりらしい。機嫌が悪そうという事もなく、何なら鼻歌を歌いながら作業をしている。ただ、いつものあけすけな独り言は一つも聞こえてこない。


「あ、二人とも座っててくださいね。ワインはあるから、先に飲んでいてください」

 ドン、目の前にマグカップが置かれる。置いたのはコマだ。

 コマが無言でワインの栓を抜き、ドボドボと僕の前でマグカップに注いだ。

「おら、飲めよ犬。どうせ酔わねえだろ」

「ああ。お前は、飲まないのか」

「飲むに決まってんだろバカ」

 コマは自分の分のマグカップも用意し、自らワインを注いで一気にあおった。

「どうして俺様がこんな所で気を遣わなきゃなんねえんだか」

 コマは苛立たしげにそう呟き、机の下で僕の脛を蹴ってくる。…返す言葉もない。

「コマさん、ほら、氷どうぞ。良かったら使ってください」

「おー、サンキュー姫さん。すげーなあ、魔法で氷が作れるなんて」

 コマはミカには明るく答える。僕への当てつけだろう。

「これぐらいしか特技ないんですよ。あんまり役に立たないですけど…」

「そんな事ねえよ。街で一儲けくれえできんだろ」

「そうですね、もし自活する事になったらそうします」

「まあ、テイラーが離しちゃくんねえか」

「そうかもですねえ、でも、お世話になりっぱなしだから心苦しくて」

 コマが備え付けの棚からマグカップをもう一つ出す。

「ワインに氷入れりゃ薄まるだろ、姫さんも一杯どうだ」

「ううん、やめときます。迷惑かけちゃいますから」

「どんだけ酒癖わりーんだよ。ほんと、高貴な姫とは思えねえなあ」

「だから高貴じゃないですって」

 コマとミカが楽しげに語らっている。僕はマグカップなみなみに注がれた赤ワインの水面をじっと眺めた。ランプの光が当たってゆらめいている。

「師匠は飲まないんですか。良かったら氷もありますよ」

 シショー。彼女がそう口にするのはせいぜい二日ぶりのことだった。それなのに、酷く久しぶりのような気がした。

 どうしてまたそう呼ぶのだろう。僕は確か、シショーとは呼ばないで欲しいと言ったはずなのに。


『仲良くしたいなどと言うなら、名前で呼んでくれませんか』


 そうだ、ただの護衛であるはずの僕はそんな風に言った。以前ミカにも独り言で揶揄された通りだ。護衛といっても、所詮は影に徹すべき工作員風情が、よくもそんな大それた事が言えたものだ。


 深緑色の湖の上、ミカを泣かせたあの時、僕は一体何を事を考えていただろう。

 泣きながら謝ろうとする彼女を見て、優越感に浸っていただろうか。彼女の気持ちを手に入れて、懐にしまった気にでもなっていただろうか。我ながらなんという浅ましさだ。吐き気がする。

 卑下する僕を見兼ね、仲良くなりたいと率直に言ってくれた彼女に対し、大人気なく拗ねた態度を取った。

 遠回しな言葉で、何もはっきりとさせないまま、彼女が許すのをいいことに距離を詰めた。

 そうして不用意に突き放すようなことを言った。卑怯で傲慢、そして幼稚で無神経。それが今の僕だ。


 僕が嫌なら諦めると、彼女は言っていた。であれば、彼女はもう諦めてしまっただろうか。僕と『仲良く』する事を…。

『私からこんな話、できる訳ないでしょ』

 違う。僕を側に置くどうかは、彼女が決めるべき事だ。

『あなたの意思に反して、進退が極まるなんてことは、決してあってはならないから』

 違う。聡い彼女は、僕のためを思って言葉にしなかった。

 思考がグルグルと同じところを回っている。


 …違う。今度こそ僕が伝えるべきなんだ。

 彼女に、何を求めているのかを。



 ガタッ、僕は立ち上がった。

「あの、ミカ、いや、ホッタさん…」

「はい。何でしょう」

 ミカがこちらを向く。相変わらず何の感情も読み取れない微笑を浮かべている。

「僕が、不誠実な事を言ったのは解っています。だから…」

「師匠は、いつでも私に誠実ですよ」

 にこ。

 何もかもを許してくれそうな、優しげな眼差し。それなのに、何故か肝が冷えるような心地がする。

 ぐ、喉に言葉が詰まる。

 ミカは話は終わったとばかりに、まだ並べていない皿を取ろうとテーブルに背を向ける。

「待って…! も、もう一度最初から、僕がお願いしたいんです。聞いてくれませんか」

 くる、ミカが再び振り返る。僕は冷える肝を叱咤し、腹の前で拳を握った。

「あ……あなたの名前を呼ばせてください。それから、僕の名前も呼んでください。あなたと、仲良く、したいので…」

 しばらく返事はなかった。僕は俯き、ワインの赤黒い水面を見つめていた。

「おい犬。何だ今の。遠回しがすぎんじゃねえのか。姫さんだって困ん、じゃ……?」

 コマの声色が変わったので思わず顔を上げると、ミカが立ち尽くしたまま涙を流していた。

「徹底、抗戦……短かった…」

「何て?」

「うぇ…っ」

 泣き出した彼女を見て椅子やテーブルを押し除ける。目の前のなみなみとしたワインの水面はトプンと乱れ、マグカップの外へ飛び出してテーブルに染みを作った。

「ミカ」

 彼女の腕を引く。彼女が胸に倒れ込んでくる。

「ザコル…っ、子供みたいな事して…っ、ごめ…っ…」

「あなたは何もしていません、今度こそ僕こそが悪いんです。配慮のないことを言って申し訳ありませんでした」

 泣きじゃくる彼女の頭に手を当て、胸に押し付ける。

「あの、ちゃんと、好ましく思っていますから。僕からは烏滸がましいかと、とても言えませんでしたが」

「………………」

「ミカ?」

 彼女の体を離してみれば、ミカは涙まみれの顔のまま固まっていた。

「まっ、またですか!? ミカ、ミカ。返事してください。顔が酷い事になっていますから」

 肩を掴んで揺らすが、一向に反応がない。これで立っているのが不思議だ。椅子を近くに寄せた。

「ここに座って、ほら、顔を拭きましょう。白湯はここですよ」

「……お前も、なかなか不憫な奴だな」

 コマが僕らの様子を見て、心底呆れたように言った。


「はあ…。すっきりした。また介護させちゃいましたね。ごめんなさい」

 ミカはしばらくして我に返った。

「旅に出てから知りましたが、ミカは泣き虫だったんですね」

「それはてめえの台詞じゃねんだよ。お・ま・え・が余計な事口走ったせいで泣かせたって解ってんのかこの唐変木め」

「はいその通りでした……本当に申し訳ありません…」

「俺に謝んじゃねえ。気色悪い」

 コマはへっ、と吐き捨てた。

 この男、こんなにも他人の機微が解る人間だったのか。そこそこの長い付き合いになるが、初めて尊敬できそうなところを見つけた気がする。

 そんなコマの言う通り、僕が調子に乗って決定的な一言を突きつけたせいでミカを泣かせたのだ。深緑湖の時もそうだったのに、どうしてこう学ばないんだろう。

「本当に、僕は、何にも解ってないのに謝っていたんですね…」

「本当ですよ。気をつけてくださいよね。最近自分でもよく解らないけどすぐ泣いちゃいますから!」

 妙に高揚した様子でミカが言った。…よく分からないが、彼女も調子に乗っているな。

「…ていうか、何かこれ、コントロールとかできる気がしないんですよねえ。どうしたもんか」

「姫さんよう、あんたもいい大人だろうが。人前で声上げて泣かねえくらいの分別はつけろ」

「はいその通りです。努力します」

 ミカは手近にあったボトルを素早く持ち上げ、コマのマグカップに注いだ。

「これはもう一家に一台コマの時代が来ましたね! お悩み事は即解決! よっ、コマ先生!」

「うるせえんだよ。お前らみてえな変人どもの間になんて金輪際入らねえからな。てめえらでケリつけやがれ」

 ミカはさらにカゴに大事にしまっていたナッツの蜂蜜漬けの瓶を出し、コマに献上していた。

 僕はとっておきの神経毒を譲ろうとしたがにべもなく断られた。


 ◇ ◇ ◇


 そうだ、クリナにお礼を言わなきゃ。厠にも行きたかった私は、二人に断って席を立った。

 コテージを出て用を足し、帰ろうとふと空を見上げたら、日本では見たことがないほど綺麗な、星がひしめき合うように瞬く夜空が木々の間に広がっていた。

 秋も深まりつつあり、夜は綿のワンピース一枚では寒い。結局ザコルは氷で薄まったワインを一杯だけ許してくれたので体は温まっていたが、風に吹かれて急激に芯が冷えた。

「んーっ、寒い」

 そう口に出すとすぐザコルがコテージから出てきて、ストールを私の肩にかけてくれた。

「中に入りましょう」

「ありがとうございます。ほら、星が綺麗。日本だと周りに明かりが多すぎてなかなかこんな風には見えないんですよね」

「そうですか。これが普通かと」

「そうなんだ。これも、ザコルがよく見ている世界の一部なんですね」

 私は少し星空を眩しく感じながら、一つも余さず見ようと目を凝らした。

 最近は魔法の修練から離れているが、こんな星空のようなダイヤモンドダストを生み出せたらきっと素敵だろう。イメージは大事だ。心にこの光景を刻もう。

「ミカ、これからもあなたが望むようには、僕は振る舞えないかもしれません」

「?」

 背後でザコルが呟くように言ったので、振り返った。

「でも、あの、信じてほしくて…」

「何をです?」

「僕は、多分、あなたの事を結構、いえ相当大事に思っていると…思います」

「………………」

「それは決して、渡り人だからという訳ではなく」

「………………」

「その事さえ信じてくれたら、僕は」

「………………」

「ミカ? また泣いてるんですか」

 ザコルは少し躊躇いつつ、私の肩をそっと撫でてくれた。


 ◇ ◇ ◇


「だから、あなたの配慮を無碍にして余計な事を口走った挙句仲良くなりたいなら名前で呼べなどと下らない条件を突きつけるなど我ながら吐き気のする気持ち悪さだそれでいて甘えた態度を散々取ったくせに突き放すなど言語道断でしかし僕みたいな底辺の気も利かない人間がこれ以上ミカに何かを望み側に侍ることを許されようなどと図々しい事を考えていいのだろうかとただでさえ張りぼての二つ名からすらも逃げ出すような弱い僕に果たしてあなたの世話係を名乗る資格があるのだろうかと昨夜は延々と考え」

「くどっ! くどすぎんだろ。お前最ッ高に気持ち悪ぃな」

「気持ち悪いとはなんだ」

「コマさんたら。うふふふ」

 まだ薄暗い翌日の早朝、私達はあのコテージを片付けて出発し、霧が漂う山中を進んでいた。

 コマはクリナの横を歩いている。町の向こうまで送ってくれるようだ。私はといえば昨日泣きまくったせいか気持ちが晴れ、テンション爆上がり中だった。これが涙デトックス…!

「何笑ってんだ姫さん、本当にこいつでいいのか? こっから先もずーっと面倒臭ぇぞ」

「そんなことないですよ。私が拗ねたのにすぐ気づいてくれましたし、そしてすぐ謝ってもくれましたし、こんなに思いやりのある人なかなかいないと思います」

「ミカ、そんな風に思ってくれて…!」

「しかも、普段無口な方なのに、頭の中では随分おしゃべりで……ぶっふ…っ」

「笑うな! くそっ、すぐ心神喪失するくせに!」

「キャーッ耳はやめてー」

「俺は一体何を見せられてんだ…。結局、マンジ様に犬が耳食んでたって報告すんのか? 冗談じゃねえぞ」

 コマの、うへぇ、という顔を見るのも何度目だろうか。

「全くよう、天下の猟犬様が情けねえ。お前のいねえ暗部なんてただのゴミ溜めだっつうのに。こんなとこで変な女相手にグダグダと…」

「コマさんもツンデレですよねえ」

「あ? 何だそのツンデレって。ああいい。説明すんな。ムカつく予感しかしねえ」

 コマは手をシッシッと振ってこっちを制してくる。

 密かに実力を認めていた同僚が去ってしまってきっと寂しいのだろう。何故か友のいるテイラーではなくその隣の領に身を寄せているのもいい。素直じゃない感じがして大変よろしい。

「おい変な女。その気持ち悪ぃ顔引っ込めろ。何を勘違いしてっか知らねえが、ここジーク領には俺が育った里があんだよ。マンジ様には育て親のツテで世話になってるだけだ。それになあ、今暗部は実質機能してねえ。仕事も秩序も無えゴミ溜めはマジにただのゴミ溜めなんだよ。それもこれもそこのクソ番犬が見張ってねえせいだろが。犬は犬らしく繋がれてやがれ!」

 コマはきっとラップバトルでもしたら負けなしだろう。よくそうスラスラと悪口が出てくるものだ。

「暗部が機能していないとはどういう事だ。僕は一応、国から逐一報告は受けているぞ」

「阿保犬が、それがまやかしなんだっつうんだ。王都の治安を陰から滅茶苦茶にしてる奴がいんだよ。どこの悪徳貴族か知らねえがな」

「…なるほど。主はそれを知っていて僕を…。フン、いい度胸だな。主が命じてくださればいつでも王都など」

 はあ、とコマがわざとらしく溜め息をつく。

「テイラーは余程お前が可愛いらしいな…。まあな、どうせお前にゃ政治的駆け引きや人道的配慮なんざ無理だ。こうなったら実家に引っ込んで大人しくしてろクソ犬」

「ヘイyo! 治安は悪化、詰んでる国家、高貴な姫の出番ですか?」

 ラップバトルに参加してみた。韻踏むのって難しいな。

「ミカはもう…」

 はあああ、とザコルに深い深い溜め息をつかれた。めげない。

「ついにオツムが沸いたか。あんたに何ができるってんだよお姫様が。酒飲んで暴れてくるってんなら王宮まで送ってやるぜ」

「それはいいですね。第二王子殿下に絡んで裸踊りでもさせてこようかな」

「やめろ。あのクズをあなたの視界に入れるくらいなら王都ごと消してやります」

 おっと危ない。裸踊りが死のダンスになる所だ。どうせ冗談だろうが何となく洒落にならない気がする。

「あの阿呆王子なんざ絡むだけ無駄だ。あちこち紐がブチ切れてっから操り人形にすらなんねえ」

「ああ、分かります。あのトンチキ君を操るのは骨が折れそうですよねえ」

 誰が操ってるのかは知らないが、操りきれてなさそうではある。

「…本当に変な女だよ。掴みどころがねえ。いいかお前、その唐変木を変に焚きつけるような真似だけはすんなよ。国が終わっちまうからな」

「終わっちゃうんですか」

「終わんだよ。首根っこ捕まえとけ」

 コマは冗談を言っているわけではなさそうだった。

 …どうやら、国を滅ぼす最終兵器の発射ボタンは私の手中にあるらしい。物騒な。


 ◇ ◇ ◇


 コマは町を通り過ぎ、街道とはズレたところにある地域住民用の小道の入り口まで私達を案内すると、

「せいぜい目的地に着くまでに一線越えんじゃねえぞお花畑共が」

 と捨て台詞を吐いて去っていった。彼は最後まで私達の間を取り持ってくれた。なんていい人なんだろう。


「寂しい…。コマさんともっとおしゃべりしたかった」

 昔の猟犬エピソードとかも聞きたかったな…。

 コマがいると、ザコルも敬語をやめて饒舌になるというか、素に近い一面が見られてとてもよかったのに。

「あの下衆を恋しがるような事を言うのはやめてください」

「ふへへへ」

「何ですかその変な笑い声は。気持ち悪い」

「はいはい、強がっちゃって。私の事は結構大事なんでしょ?」

「…………違います」

「違う、そうですか」

「ち、違う、そうではありません、結構ではなく、相当…と…」

 後ろを振り返ると、ザコルが勢いよく顔を背けた。反対側から見ても反対側に背ける。

 私はザコルの手の甲をべしん、と叩いた。

「停めませんからね。急いでるんですから」

 クリナが鼻をブルンと鳴らし、小道を進み始めた。



つづく

高貴な姫の出番ですか?

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