老後の心配
僕の背に寄りかかって寝かけたミカを抱き上げ、立ち上がって数秒もすると、すうすうと寝息を立て始めた。
「寝顔かわいーすねえ」
「見るな」
「別に初めて見る訳でもねえのに。相変わらず心狭いんすから」
義母がベッドから腰を上げ、毛布と布団をめくる。そっとミカを下ろし、ルームシューズを脱がして床に揃えて置く間に、義母が布団を引き上げた。
「お前のその妙に慣れた手つきが全く腹立たしい」
「その意味の分からない嫉妬はどうにかならないのですか義母上…」
タイタが黙って立ち上がり、一礼して扉を開ける。最近の彼は執事にでもなったつもりなのだろうか。
僕を含むミカ以外の一同は一旦廊下へと出る。早めに寝ようとしたはずだが、時刻は既に真夜中へと差し掛かっている。
「義母上、ありがとうございました」
「朝まで気を抜くな」
「はい」
義母はシシと話しただろうか。
「義母上は、どこまでお聞きに?」
「そうだな、お前が不埒な真似をしてミカが言葉を取り戻した、という件は聞いた」
不埒…。口づけとは言いたくないらしい。
「そうですか。では、彼女も把握していますね」
「ああ」
義母は素っ気なく返事をして頷く。
水魔法、自己治癒能力、涙の治癒効果、口移しによる魔力の移譲現象。
現段階で解っているミカの能力の全容を確実に知っているのは僕達の他にこの義母、シシ、そしてシシに話を聴いているであろうマージだ。
コマは一応、治癒能力に関しては把握していない事になっている。奴の能力を考えれば大方察してはいるのだろうが。
「いいかザコル、今後お前は彼女から絶対に離れるな。そのための膳立てにも協力したのだからな。いくら聖女の頼みでも他人の命は捨て置け」
「はい」
「テイラーから先触れが届いている。明後日頃には着くようだ。何やら『大事な荷』があるらしい。それまでに彼女の体調をできる限り整えてやる事だ」
「はい」
「…お前は全く、ミカがいないと言葉も感情も抜け落ちるのか?」
義母はそう言って僕の頬を摘んだ。
「にゃに、ふるんえふか」
「意外に伸びる頬だな…。お前には悪い事をしたと思っている。そんなお前が一番、領や家族に対して誠実だというのは皮肉な話だ」
そう言うと義母は僕の頬から手を離した。
「そんな事はありません。兄様達だって…」
「お前がこの十年間、毎年欠かさず寄越した仕送りは莫大な額だ。半分以上は領のために使ってしまったが、まとまった額を別に残してある。必要になったら言え」
「では、治水工事の足しにでもしてください。ミカが張り切っていますので。きっと壮大な規模の施設を識っている事でしょう」
「お前のために残した。よく考えろ」
「僕自身は金などそう必要ありませんので…。ではミカやナカタの将来のために充ててください。ザハリの子供でもいい」
「おいテイラーの」
「はい、女帝様」
「こいつの代わりに考えておけ」
「いいんすか」
「何故エビーに」
「お前では話にならん。いいか、よく考えておけよ。私も歳だ。さっさと肩の荷を下ろしたい」
「了解す」
エビーが軽い調子で敬礼する。
「では今一度。気を抜くな。明日以降、就寝時の見張りも必ずお前達で行うように」
『はっ』
そう言い放つと義母は踵を返し、自分に当てがわれた部屋へと下がっていった。
「色々と、確認しときたい事もありますけど、今日は休みますかね」
エビーがふう、と息をつきながら言った。
「そうですね。何かあれば君達に声をかけますが、君達もまずは体力回復を優先させてください。明日の訓練メニューは扉の下にでも入れておきます。朝になったら確認を」
「ザコル殿、お待ちください」
タイタが僕達護衛に充てられた部屋に入って行って、毛布と枕を片手に戻ってくる。
「これを。ミカ殿が『私の護衛をする者は、平時は必ず一日辺り四時間以上の睡眠を取る事』とおっしゃっておりましたから」
「ああ、そんな事も言っていたような…。では、ミカが安眠できているようならソファでの仮眠も考えましょう。心配は要りません、どのみち明日もこの屋敷内で監視する予定ですから。僕にとっては休息日のようなものです」
「兄貴もゆっくりしてくださいよ。泣きそうになったら俺が慰めてあげるんで呼んでくださいねえ」
ニヤニヤとするエビーを軽く睨む。
「うるさいです。……君達二人の存在にはこれでも感謝しています。僕を、慕ってくれてありがとう。エビー、タイタ」
ぐ、とエビーが何かを飲み込む。
「な、何でさっきからそういう事急に言うんすか!? お、俺が泣いちゃうような事言うの禁止!」
「慰めて欲しいですか」
「う、うるさい! くそっ、も、もう寝るんで兄貴も戻ってください!」
「ふっ、はは…」
涙目でそっぽを向くエビーに思わず笑ってしまう。タイタもニコニコと笑顔のまま目元を拭っている。
つくづく僕には勿体無い仲間…いや弟分、か。子供じみた嫉妬で、彼らに苛立ちを向けている自分が恥ずかしくなってくる。
「あ、あんたが笑ってるとこも見ると余計泣きそうになるんで禁止すよ、もう!!」
「ふっ…、理不尽ですね。分かりました。ではまた明日」
「あ、明日こそは任せてくださいよ!」
「ああ、よろしく」
「おやすみなさいませ、ザコル殿」
「ああ、おやすみ」
僕が扉を閉めるまで、彼らは動かずに見送ってくれていた。
僕はミカが寝息を立てている事を確認し、ベッドの脇に置いた椅子に再び腰を下ろした。
タイタに渡された毛布と枕に目を落とす。
ベッドの隣にソファを持ってきて横にでもなった方がいいだろうかと考え、そんな自分に驚く。今までの自分なら、人に言われた事など気にもせずじっと椅子に座って朝を迎えた事だろう。
しかし、ああまで気遣ってくれたあの二人の顔を思い浮かべると、少しは休まないと悪いような気がしてくる。不思議な感覚だ。
いつだったかエビーは、テイラー邸の侍女長や料理長が僕の生活や食を心配していると言っていた。僕は今まで、どれだけ多くの人の厚意を無碍にしてきたのだろう。
ミカは規則正しく寝息を立てている。今度こそ、悪い夢など見ず朝まで眠れるといいが。
「ん…」
寝返りを打ってこちらに身体を向ける。小さな手が顔元にきて、キュッと拳を握り込んだ。
「ごめん…ごめんね…………ザコル…!」
「ミカ」
僕は咄嗟にその拳に手を重ねた。
「大丈夫、あなたは僕の何をも傷つけていない。ミカさえいれば僕は幸せです。だから、どうか謝らないで…」
握られた拳を両手で包み込み、祈るように額づける。
手の温もりに安堵したのか、ミカの眉間に寄せられた皺と拳の力が緩む。僕の方もついほっと息をつく。
毛布からのぞいた肩を再び毛布で隠し、僕はサイドテーブルに置かれた画板と鉛筆に目をやった。
「ふ、いつの間に」
画板に挟まれた紙には『いつもありがとう』と生真面目そうな小さな文字が並んでいた。
僕は『こちらこそ』と書き付け、その紙は一旦めくってサイドテーブルに置き、まっさらな紙に同志達の訓練メニューを書き記し始める。基礎に加え、より負荷の高いメニューも三つ程追加しておく。
ジッテ術の指南はタイタでは無理なので、既に教えた技の復習と、義母の側近に名手がいるはずだから声をかけるようにと指示する。あの義母ならば自ら指揮を取ってやるとでも言い出しそうだ。義母の気が向けば、エビーとタイタの剣の指南までしてくれるかもしれない。隣国サイカ流の剣術だが、見れば必ず学びになるはずだ。
ミカが仕切っていた女性達の訓練は、玄人が多く参加しているようだったしどうにでもなるだろう。元戦闘メイドだったというミワの母親は、娘の看病で明日は不参加か。ミカが話を聞きたがっていたな。
この領では、男女問わず若いうちは他領や王都に戦闘員として出稼ぎに行く者が多い。全員が領内の戦闘職に就ける訳ではないし、産業も少ないので、領としても出稼ぎに行くのを止める事はない。
だが不思議な事に、役目を終えると半分以上の者がこの不便な辺境領に戻ってくる。何となく気持ちは解る。何もない土地だが、都会にいて、ふと故郷の山を見たくなる気持ちはこんな僕の中にもある。
僕もテイラーで必要とされなくなれば、この地に戻るのだろうか。既に戦闘員としては高年齢に差しかかりつつある。いくつになっても鍛練を続け、高みを目指す事をやめるつもりはない。だが、戦う事しか能のない自分には、一線を退いた後はせいぜいがどこかで門番や牢番でもするくらいの道しかない…。
いやその言い様は、モリヤのように誇り高く領境を護る者達に失礼だ。モリヤの同僚となり意志を継げるのであれば、シータイで晩年を過ごすのも悪くない。たとえ町の者に信用されなくとも、勝手に領境を護るくらいは許されるだろう。
「ふ、ふふっ」
「ミカ?」
「何ぶつぶつ言ってるんですか。ザコルも意外に独り言が大きいんですね、今まで気づきませんでした」
「起こしてしまいましたか、すみません」
「ううん、大丈夫。手を握ってくれますか」
「はい」
手を握ってやると、ミカは再び寝息を立て始めた。疲れてはいるのだろう、診療所で泣きながらうたた寝していたのを見た時は肝を冷やした。既に翻訳能力は失われていたのだろう、繰り返されるうわごとの意味は判らなかったが、きっと謝罪の言葉だ。
そうだ、僕にはミカの世話がある。今回の任が終わったとしても、ミカの安全を守り、不自由させないようにする責務がある。単純な事だった。僕はともかく、ミカはずっと山で草を食んでいればいいという訳にはいくまい。衣食住と、信頼できる人間との交流くらいは維持しなければ。
もしこのままテイラーに籍を置き続けるとすれば、僕の扱いはどうなるのだろう。老年になっても護衛として雇い続けてもらえるだろうか。
ふと、ミカを取り巻く諸問題を差し置き、将来の心配なんかをしている自分に気づいてまた驚く。
「はあ、僕も呑気な事だな…」
「ふっ、ふふ、うくく、うくくく」
布団の中から押し殺した笑い声が聴こえる。
「ミカ。強制的に寝かしつけてあげましょうか」
「きゃー、やめてやめて」
布団をめくろうとしても握り込んでいるらしく簡単には顔を見せない。無理矢理剥いでやってもいいが、布団に隠れ丸まった様子も可愛らしい気がする。そんな自分にまた溜め息が出た。
「はあ、僕も大概だな…」
丸い布団の塊をぽんぽんと叩くと、くすくすと小さな笑い声が聴こえた。
◇ ◇ ◇
「へえー、そんで朝までいちゃついてたんすかあ。へえー」
早朝、また目が覚めてしまったので、せっかくだからと訓練に行く前のエビーとタイタの顔を見にきた。
「いちゃついてなどいません。ミカは途切れ途切れにですが寝ていましたよ」
「だってね、ザコルの独り言が面白すぎて…ふふっ、何で今から老後の心配なんてしてるんですか、早すぎでしょ」
「早すぎる事なんてありません。僕はもう二十六なんですから」
まだ二十六じゃないか。この国の平均寿命や健康寿命が日本以上なんて事はないだろうが、モリヤやイーリアを見る限り、高齢になっても現役で活躍する武人もいるようなのに。
ザコルならば老年になったとしても最強の座を易々と人に譲らないだろう。
「ザコルにはほら、頑健な体に真面目で強靭な精神という最高の資本があるんですから。武人以外だってなろうと思えば何にでもなれるでしょ。何目指します? 髪結いならすぐにでもなれますよね」
「僕はミカ以外の人間の髪なんて触りたくありません」
「またまたー。いつか何も伝手がなくなったら一緒に小さな髪結屋か床屋でも開きませんか。私がいればお湯を使った洗髪もできますし」
「…まあ、選択肢の一つとして考えておきます」
エビーが水差しの水をあおりつつ、呆れ返った顔をしている。
「あんたらの経歴考えたら周りが放っとく訳ねえだろ。深緑の猟犬と渡り人の氷姫が小さい床屋やってるとか何の冗談すか」
「峠の山犬夫妻だって山小屋で楽しく隠居暮らししてるんだもん、できなくもないでしょ」
タイタがチャキっと剣を装備し、上着を羽織る。
「前モナ男爵夫妻ですね。実は父が旧知で、没落前のことですが、モナ領へ観光に訪れた際、一家でお世話になった事があります」
「ええ!? タイタあのご夫妻と顔見知りだったの!? チッカのホテルにいたのに…!」
「お、俺は心神喪失していた時間が長かったもので、お会いになったようだと知ったのは発った後の事でした。ですが、お世話になったのは少年の時分ですし、先方も俺の事など覚えていらっしゃるかどうか」
「きっと覚えてるよ! ザコルが子供の時の事も覚えてたもの、やだー、あの時は貴族出身だなんて知らなかったとはいえ、私が発つ前に話しておけばタイタも顔見せられたかもしれないのに…。そうだそうだ、峠の山犬邸宛にもお手紙書かなきゃ。すっかり忘れてた。心配させてるかも」
新聞の件もあった上、チッカからも支援員や調査員が来ていたので私達の様子は粗方伝わっているかもしれないが、それでも約束は約束だ。
「程々にしてくださいよ。まだ寝足りないでしょ、部屋に戻ってさっさと寝ろ姉貴」
ぶっきらぼうなエビーの言葉が心に染みる。
「ふふ、ありがとエビー。タイタも。二人とも頑張ってね。コマさんに会ったらよろしく」
「承知しました」
「了解すよ」
二人を見送り、エビーの言いつけ通り再び自室に戻る。時刻はまだ四時半から五時の間くらいだろう。
「ザコル、我が儘を言っていいですか」
「何ですか」
「一緒に寝てくれませんか」
「……また、そんな事を言って…」
ザコルははあ、と溜め息をついた。
「どうせ僕を休ませようとしているんでしょう。ソファを隣に持ってきますから、僕も仮眠を取っていいですか」
「はい! それでいいです! ふふ、良かった」
「ミカはさっさとベッドに入ってください」
布団に入って横になったまま、ザコルがヒョイと二、三人掛けのソファを持ち上げてベッドの横に付ける様子を眺めた。椅子やサイドテーブルをずらし、ソファに寝転んだ時に私と目線が合いやすいように位置を調整してくれている。
ザコルが毛布を胴に掛けたのを見届け、手を差し出すと、彼は黙ってその手を握ってくれた。
つづく
ぐだぐだしてたら朝になっちゃった
元社畜Mさん「夜って長いようで短いんですよね」
現社畜Zさん「分かります」
元社畜Mさん「自分はともかく人が寝てないの見ると不安になりません?」
現社畜Zさん「分かります」
チャラ男Eさん「ぐだぐだ言ってねえでさっさと寝ろ!」




