駄々をこねろ
「へっへ、尋問大魔王の出番すかあ?」
ひっく。酔っ払ったチャラ男がシシの肩を叩く。
シシは接近に気づいていなかったらしくわずかにビクッとした。酔っ払っている割に、しっかり気配を消してきたエビーである。
「やめて、エビー」
「なんで? 自分に関することはできる限り知っておきたいんじゃねーんすか」
ぎり、エビーが手に力を入れたようで、シシが「ぐ」と顔をしかめる。
「充分答えてくださったよ。ありがとうございます、シシ先生」
立ち上がってお礼などすると目立ちそうなので、軽く目礼した。そして、まだシシの肩を離さないエビーに小声で続けた。
「エビー、離して。この件に関してはこれでいいの。この方は今、純粋に『山』の人間として協力してくださってる。『山』も先生も、私とっては敵じゃない、味方だよ。先生を『山』に粛清させるわけにはいかないの」
「ミカ様……」
私が味方と呼んだことが意外だったのか、シシは目を見開いた。
「でもよう」
「その手を離せ、エビー」
「兄貴まで」
「ミカが、要らないと言ったんだ」
エビーは渋々、シシの肩から手を引いた。
「フン。じゃー、やっぱ突撃すんすか?」
「そうだね、それが一番いいのかな。あっちは、何も良くないかもしれないけど…」
ザコルが私の耳元に顔を近づける。
「この件は、あなたが喚ばれた理由に関わってくる可能性がある」
「はい、解っています」
「記憶がないことは、あなたのせいじゃないんだ」
「ええ、解ってますよ」
それでも十歳までは、おそらく、多分、きっと、大事に育ててくれた人かもしれないのだ。私が、記憶に蓋さえしていなかったら、もっと堂々と確認に行けたはずだった。
涙の再会になったかもしれないし、違ったら違ったでそれでよかった。他に『カオリ』という名の山の民が失踪でもしていないか、長老チベトに訊くだけだった。
「ミカ様。よろしいでしょうか」
「ミリナ様?」
ミリナは私のかたわらに跪いた体勢のままで、私を見上げた。
「ミカ様のお気持ち、母を若くして亡くした私には少しだけ解る気がいたします。教わったはずのレシピや、幼い頃にしてもらったことの仔細を思い出せない自分を歯痒く、大事にしてくれた母には申し訳ないと思う気持ちが胸にあるのです」
ミリナの言葉はやわらかかった。やわらかく硬い膜を包み込み、隙間からするりと心の内に入ってくる。
「ミカ様も、それがどんなにつらい記憶につながるとしても、育ててもらったことを思い出せないご自分を責めていらっしゃるのね。そしてそのことが、お相手を傷つけることになる、とも」
きゅ、口元を引き締める。まっすぐに見つめてくるミリナからそっと視線を逸らす。
「ああ、なんて優しい子なのかしら……」
ミリナはそう言って、自分の目尻を指先でぬぐった。
「でもね私、自分が母親という立場になってみて、こうも思うのよ。もしも子供を置いていくことになったら、その子が、母のことをすっかり忘れてくれるようにと、きっとそう願うだろうって」
「忘れて、くれ……? どうして」
「これは、親としての究極の我が儘なんじゃないかしら。忘れないでほしいことも、伝えたかったことも、数えればキリがないくらいあるでしょう。でもそれ以上に、どうか母のことで悲しまずに明日を迎えてくれますようにと、母以上に愛せる人が見つかりますようにと………………あの子をこちらにお返ししようと決意した日、私はまさにそう願っていた」
ミリナは、イリヤを夫からの虐待に巻き込んだことに責任を感じ、一度だけ、イリヤをイーリアに預けて去ろうとしたことがあった。
ミリナは決して子供を手放して自由になりたいだとか、そういう考え方をするタイプの人間ではない。そんなことはイーリアも、初対面の私ですらも理解していた。だからこそ彼女を必死になって止めたのだ。
「お母様に何があったのかは存じませんが、ミカ様はお祖母様の愛情を受けられて健やかに成長なさっているわ。お母様があなた様を真に愛しておられるなら、たとえ母の記憶がなくたって、あなた様の無事と、皆様に愛されている様子を見て喜んでくださるはず。どうか、自信を持ってくださいな」
にこりと微笑うミリナに、私はついに泣きそうになった。
「ミカ様。私からもよろしいですかな。それと、少々言葉を崩すことをお許しいただきたい」
「? はい、シシ先生」
シシも私の膝下に跪く。
「……カオリがその人であると、他にも根拠があるのだろう。いいか、子供が大人に忖度などしようとするんじゃない」
低く小さな声で、彼は私をそう『叱責』した。
「大人の事情など子には関係のないことだ。いくらでも引っ掻き回してこい。この場で私を尋問するならそれでもいい。どうか、知りたいことを諦めてくれるな。我慢などさせるくらいなら、駄々をこねてくれた方が何倍もいい」
「先生、でも……」
私はもう、親の庇護や無償の愛を必要とする年齢ではない。なのに、子供として駄々をこねろという。
「ああそうだ。誰も好んで親を忘れたりするものか。愛情深いあなた様ならば尚更だ。そんな子をなじるというなら、そんな者は親と思わなくていい。いくらでも追求してやればいい」
「先生、まだそうと決まったわけじゃ」
「全く、子の分際で遠慮などしようとするから」
「先生、泣かないで」
「泣く?」
シシは、そう言われて自分の膝に落ちる涙に初めて気づいたようだった。
ぬ、そんな彼の背後から、大きな影がさした。
「シシ君、ちょっと飲み過ぎじゃないかい」
「オーレン様」
シシは慌てて自分の顔を手でぬぐう。
「ミカさんも困っているよ。ほら立って。僕と話そう」
オーレンに促され、シシはその場から連れ出されていった。
つづく




