一縷の、望みを添えて
ザコルが毒味を、とジェスチャーしたが、私は首を横に振り、受け取ったカップにそっと口をつける。
「はあ、染み渡るー……」
ほのかな苦味と渋みが胸を焼いていた脂を洗い流してゆく。薬膳茶だ。きっと胃をいたわる薬草でも入っているのだろう。
……放っておけば治るものに薬など要るとお思いでか。昨日聞いたばかりのセリフだ。まさか、たかが食べ過ぎに薬を処方してくれるなんて。
「ふふ。お腹いっぱい食べられて、美味しいお茶までいただけて。これ以上の贅沢はないですねえ」
ほくほくとしている私を、シシが怪訝な表情で見つめる。
「あなた様は、ここより数段豊かな国から来たのでしょう。これ以上の贅沢など、いくらでも味わってきたのではありませんかな」
何だろう。自分から贅沢な茶をご馳走してくれておいて嫌味とは。
「確かに、美味しいものも、便利なものもたくさんありました。でも、結局のところ、どんなに文明が進んでいようとも自分のご飯は自分で用意するしかないんですよね。私は特に、家族にお金を送りたくて節約しながら独り暮らししていましたから。みんなの手で作ったご馳走。誰かが私のために淹れてくれたお茶。……うん、これ以上の贅沢はない。これは本心ですよ」
「節約…。案外苦労なされたのですな。次は茶でなく小遣いにしましょうか」
「いや、パパ活はちょっと」
「あっ」
女性の声に振り返る。ミリナがお盆にマグカップを乗せて立っていた。彼女は私の持つカップに注目している。
「先を越されてしまいましたね……」
ミリナは肩を落としつつ、苦笑いした。
「ミリナ様もお茶を持ってきてくださったんですか?」
「ええ。ミカ様が食べ過ぎだなんて、珍しいと思ったもので。でも」
「ありがとうございます。こちらを飲み終わったらいただいてもいいですか? このお薬、実はちょっと苦かったので」
「ぜひ! 置かせていただきますね!」
ぱぁ。顔を明るくしたミリナがサイドテーブルにマグカップを置いた。
「せっかく飲みやすく調整してやったのに」
ぶつぶつ。
「ふふっ、分かってますって先生。胸のむかつきがスーッと良くなりましたよ。こんなに気にかけていただけて、私って幸せ者ですねえ」
もう一人じゃないんだな、と呟いたつもりはなかった。
「一人に、するわけないじゃないですか。何が不安なんですか」
「えっ、私何か言ってました?」
「いつもいつも、何かを確かめるように、もう一人じゃないんだ、と呟いています」
「ええ、気づかなかった……」
流石、私が無意識に言っているらしい独り言まで拾うザコルである。彼は異様に耳がいいのだ。
「……っ、ミカ様、お寂しいならずうっとここにいらしたらいいわ! 私達、一生でもミカ様と楽しく暮らしたいと思っているんですもの!」
「え」
ミリナが私の前にサッとひざまずく。
「姉上。僕らはここに一時避難しているに過ぎません」
「解っています。でも、ミカ様、他ならぬあなた様の願いなら、テイラー伯様もお分かりいただけるはず」
「でも、ミリナ様。私、これでもセオドア様の駒として」
「ミカ様が義理堅い方なのは知っているわ、これは私の我が儘よ。目の前にいるのに、こんなに寂しい。いつかお帰りになってしまうだなんて。こちらには、渡り人のことをお調べに来たんでしょう。ほっ、本来…っ、あるべき世界に、帰る方法、も……っ」
「あっ、ああ、ミリナ様! 泣かないでください! あちらの世界に積極的に帰ろうとする気はないですから!」
ふるふる、ミリナは首を横に振る。
「嘘だわ、お義父様とかの世界のお話をなさっているミカ様はいつだってお楽しそうよ、きっと素敵な世界なのよね。美味しいものも、便利なものもたくさんあって、さぞ美しい世界なんでしょうね。だって、あなたを産み、育んだ世界だもの!!」
わっ、ミリナが泣き崩れる。椅子を降りてミリナの背中をさすろうとするが、ザコルに制止されてしまった。
「ザコル、あの」
「姉上。ミカの育った世界は、いくら豊かでも、ミカを一人にする世界だ。僕がみすみす帰すとでも?」
「でも……っ」
ミリナがバッと顔を上げる。
「もし万が一帰ると言い出したら、どんな犠牲を払おうともどんな禁忌を犯そうともついていく所存です。他ならぬ僕を虜にしたんだ。ただで済むと思わないでいただきたい」
「とっ、虜」
「私だってミカ様の虜よ! 私だって、さっ、最終兵器? なのよ! 魔獣達だってまだまだ何か知っているでしょう。万が一があれば、どんな手を使ってでも喚び戻してみせるわ、絶対よ!!」
ふ、ザコルが微笑う。
「素晴らしいお覚悟です姉上。僕らで『万が一』に備えましょう」
「ええ。たった今全ての覚悟を決めたわ」
ガシィ、ミリナはザコルが差し出した手を握った。
「ちょちょちょちょちょ、帰らないって言ってるのに!」
はあ。シシが呆れたように溜め息をつく。
「全く、過激な者どもですな。ミカ様、鬱陶しくお感じになったら山はいつでもあなた様を匿いましょう」
「鬱陶しいとは随分ですねシシ」
「そうです先生! 私達はただミカ様にここにいていただきたいだけで」
はいはい、とばかりにシシは手で彼らを制した。
「古い因習にまみれた山だが、因習とは本来そこに住む人間を守るためにあるものです。特に、その刺繍を背負うあなた様のことは、一生でも守り通してくれるでしょうな」
「あ、やっぱりシシ先生もこの三角巾の模様に気づいてたんですね!? どうして教えてくれないんですか! ずっと知らずに着けてたんですけど!?」
「みすみす神官どもの思惑に乗ってやる必要もないかと思いましてな。最初は、古着に紛れていたものをたまたまお着けになっているのかとも考えておりましたが、聞けば長老が自ら授けたそうではないですか。因習まみれの里にあって、誰よりも自由を愛するかの女王がどうしてソレを授けたかは知らないが。おおかた、一人この世界に放り出されたあなた様に『帰る場所』を増やしてやりたかったのでしょう」
「帰る、場所……ですか」
シシはふと何かに気づいたかのように私から目を逸らし、自分の眉間を揉んだ。
「……ああ、柄にもない。カオリの孫にでも感化されたか」
「カオリ」
「あなた様方が濁流からお助けになった、あの少年の母方祖母ですよ。神官達に命じて、あなた様を山の民の仲間として守らせようと画策していた」
シリルのことだ。彼は山の民の次期神官長でもある。
前モナ男爵に嫁いだカオラが、シリル達の母親であるカオルの叔母であることは判っていた。カオルの母で、カオラの姉の名は『カオリ』。
シシは、カオリとカオラの従兄弟だ。
「……偶然、ですね。私の母の名前も『香織』というんですよ。堀田香織、カオリ・ホッタ。十歳で失踪してしまって以来、私は母親に関する記憶を全て失ってしまって、名前以外は何も知らないんですが」
「は…、失踪、ですと?」
「はい。突然のことでした。母も、私の記憶も、煙みたいにすっかり消えてしまったんです。不思議なことですよね」
にこ、私はシシに笑いかける。
頼りなく、かすかで、漠然とした、そんな、一縷の、望みを添えて。
つづく




