カリュー訪問③ もらい泣き
「手駒を付けるにしてもどうして兄を…。ミカの負担が減るどころかむしろ増えるのでは? ミカもミカです、一旦持ち帰るなりすればいいものをすぐに了承の返事など」
私はぶつくさと文句を言うザコルの腕をさすりつつ、テイラーチームは新たにザッシュを仲間に加え、イーリアの側近の一人について屋敷の三階へ向かって階段を昇っていた。イーリアは他の側近とともに一階で待つそうだ。恐らく、屋敷に誰も入れないために見張りをしてくれるつもりだろう。
「……それで、ミカ殿はここで何をしようというのだ、ですか。この上には…」
「ザッシュ様、私に敬語は不要ですよ。渡り人というだけで中身はド庶民ですし」
「この気難しい弟や、あの義母にここまでさせる女が、ただの庶民のわけないだ…です」
「警戒されていますねえ…。これから関わりが多くなるのであれば、これから起きる事は一応知っていていただきたいんです。ザッシュ様には災難でしょうが」
さ、災難…!? とザッシュがまたタイタの後ろに引っ込む。皆のセーフティゾーンを占有しないでほしい。
「ミカ、やはり時期尚早では。せめて、もう少し兄の事を知ってからでも…」
「他ならぬイーリア様のご紹介ですよ。それに、ザコルもザッシュ様とは仲良しだったんじゃないですか」
「何故そんな事があなたに判るんです。まあ…確かに兄達の中ではよく話す方でしたが…」
深緑湖の宿で少し話したきりだが、ザコルはトンネルの構造についてまあまあ知識がありそうだった。そのソースはザッシュなのではと思ったのだ。
「ザコルは、私を泣かす手立てでも考えてください」
「……また無茶を言いますね。もうあんな強引な態度は取れませんよ」
おい、泣かすとはどういう事だ、とザッシュがコソコソとタイタに質問している。タイタもどう説明したものかと困惑気味だ。
「ミカ様、まずはこちらをご案内いたします」
三階に着くと、側近が給湯スペースへと私達を連れていった。
涙を採集するために必要なものがあればここから持ち出していいという事らしい。食器類や医療器具、そして持ち運ぶためのワゴンの場所を説明してくれた。
「階段から近い部屋ほど重要度が高くなっております。最奥の部屋はかなり軽度ですので、時間が無ければ開けなくていいと主が仰せです」
「分かりました。じゃあ、手前から開けていきます。案内ありがとうございました」
側近の男性は、ザッシュほどではないがその大柄な体躯を傾けて優雅に一礼し、階下へと下がって行った。
トントン、扉をノックする。呻くような声は僅かにするが、まともな返事はない。
キイ…。そっと扉を開き、中へと足を入れた。ベッドは四つあり、意識のない四人の患者が寝かされていた。
「…鎮静剤を使いましたね。周到な事だ」
ザコルが四人の様子を見て呟くように言った。
包帯に滲んだ血や膿、荒い呼吸、天井から吊るされた脚。額に乗せられた布は、とっくにぬるくなってずり落ちている。
「あまり、直視はしない方がいい、淑女には酷な光景だろう」
ザッシュが遠慮がちに言った。
「いいえ、私は彼らに会いに来たんです」
重傷者から目を逸らす様子のない私に、ザッシュは小さく息を吐いた。
「……こいつは、跳ね橋の前にいた見張りの衛士で、濁流に巻き込まれ身を壁に打ち付けられた奴だ。ずり剥けた皮膚が化膿して熱が引かない。こっちの男は、家の中にいた妻子を何とか屋根に引き上げたものの、自分は泥水に浸かって一晩過ごしたようだ。低温で手足が…それに肺炎だと聞いている。こっちは複雑骨折と聞いて…」
ザッシュが知り得る限りの患者情報を教えてくれる。女性にはしどろもどろになる彼だが、男性相手には顔が広いようで、患者達の友達や家族から話を聞いたと言っていた。
とてもではないが、近日中に回復するとは思えないような状態の人ばかりだ。容態が安定せず、シータイに移送する事も叶わなかったのだろう。
よし、と心を切り替える。
ワゴンにはカップやスプーン、患者の口に水を含ませるための綿とピンセットまで用意した。あとは私が泣くだけだ。ベッドの脇で洗面用のタライを膝に置いて椅子に座り、目を閉じる。
もっと、早くに治癒能力に気付けていたら。
カリューの現状を知ろうとしていたら。
私が追われる立場じゃなかったら。
目の前の人達は一週間も痛みや熱に苦しまなくて済んだかもしれない。
もっと早くに治してあげられたかもしれない。
私が、もっと、もっと、もっと……
「ミカ、ミカ…! どうか、自分を責めるのだけはやめてください。あなたは考えうる限り最速でここに来ました。避難民の世話や、襲撃や報道、これほど目まぐるしい一週間は無かったでしょう。三日待てと言ったのも義母だ。あなたじゃない」
ぎゅ、と手を握られて横を見れば、焦ったように私を見つめる双眸。
「…でも、ここでこの力を活かせなければ、私がここにいる意味なんて」
ザコルは床に膝をついたまま、私の片手を両手で包み込み、祈るように顔を俯かせた。
「僕は、僕は。そんな事を言わせたくて好きにしろと言ったんじゃない。救う事を我慢しなくていい。でも、救えなくても傷つかないでくれ。ミカに救われた者は既に沢山いる。僕だってそうだ」
手を握る力が強まる。
「昨日からずっと焦っていたでしょう。後悔しました。知らせた方が良かったのか、知らせない方が良かったのか。またあんなに泣かせてしまった。僕は間違えてばかりで、ミカはいつでも赦してばかりで。…どうして、どうしてミカばかりが苦しまなくてはいけない…!」
私は握られていない方の手を伸ばし、指先で彼の髪を梳いた。
「どうしてザコルが泣くんですか…。救われているのは、私だって、いうのに。……っ」
「ミカ」
咄嗟に俯く。膝に乗せたタライにぱたぱたと涙が落ちる。
哀しくて、情けなくて、しかしそれ以上にありがたくて。
ザコルの言葉や涙に、焦りを必死で抑え込んでいた自分が報われるようで。
今日は、泣くのを我慢しなくていい。涙が後から後から湧いて、目の前のタライに池を作る。
この涙は、本当に皆を救ってくれるだろうか。期待と不安に押し潰されそうになる私の側で、手を握ってくれる人の存在が尊くて、愛しくて、その反面どうしようもなく心細くて。
この人を失ったりしたら、私は今度こそどうなってしまうんだろう。
異世界で、独りぼっちのまま、簡単に死ぬこともできず、長い年月を…。
「ミカ」
ザコルが片手で私の手を握り込んだまま、空いた手を私の背に当てる。
「ゆっくり呼吸してください」
息がしづらくなった私を宥めるように、ゆっくりと背を撫でる温かくて大きな手。
「あなたは、一人じゃない、ミカが僕に言ってくれたのではないですか。愛してくれる人は、たくさんいると……」
私の涙が完全に止まるまで、ザコルは背を撫で続けてくれた。
◇ ◇ ◇
「いやー、大漁大漁、へへっ」
「やめてよねエビー」
ふざけるエビーを小突く。そんなチャラ男の目尻も赤い。
「すっ、救う事を我慢しなくていい、でも、救えなくても傷つかないでくれ……ッひぐう」
「タイタ、何度も反芻しないでください。僕が居た堪れないでしょうが。君は泣き過ぎです」
「あっ、あ、あなた様がお泣きになるからではないですか…!」
「僕は泣いてなんかいません」
「嘘だぁ」
「嘘は嫌いなので」
嘘が嫌いな彼は、充血した目を隠すように瞼を閉じ、プイと明後日の方向を見る。そんな彼に渡されたハンカチで、私はまた滲んできた涙を拭いた。
エビーがタライから慎重にマグカップへと涙を移し、タライについた涙も綿で拭い取るようにして集めた。
「おい、それをどうする…」
「まあ、見ててくださいよザッシュ殿。肺炎とかに効くかどうかは賭けっすけどね」
エビーはたっぷりと涙を吸った綿を一人の患者の口に含ませる。
「時間が惜しいすからね、他の人の口にもチャッチャと入れてっちまっていいすか」
「そうだね、他の部屋も回らないといけないからね。この部屋で実証できたらすぐにでも」
ザコルが検証した時は、涙を口にしてから怪我が治るまで数十秒から数分程のタイムラグがあった。エビーが慎重かつ迅速に他の患者の口にも綿を突っ込んで涙を含ませていく。
呻き声や荒い呼吸音が止み、穏やかな寝息だけが部屋に残った。
万が一の事があればすぐに誰かを呼べるよう気を張っていた私達の口から、ようやく安堵の息が漏れる。
「失礼しますねー…」
ザコルに手伝ってもらい、複雑骨折していたという患者の吊られていた脚をそっと降ろす。包帯を解き、挟んでいた板を外す。中からは、痣一つない綺麗な肌が現れた。骨もしっかり繋がっているようだ。
「治ってる…? 治ってますよね!? やっんんーっ!!」
思わず大声で叫びそうになってザコルに口を押さえられる。
「こっちの人の熱も下がってますよ、もうどこが化膿してたのかも判んねえ。肺炎も、壊死しかけてた手足も…」
「タイタは泣き過ぎです」
「こ、このような奇跡に立ち会えた事を神に感謝」
「はいはい次行くよ!! ザッシュ様もほらほら!!」
ずっと泣いているタイタと、戸惑っているのかずっと何も言えないでいるザッシュの背中をぐいぐいと押し、次の部屋へと急いだ。
側近の彼いわく『重要度が高い』部屋はもう一つあって、そちらは女性ばかりの部屋だった。
傷の化膿や顔面骨折、泥を飲んだ事による肺炎など、この部屋も予断を許さない状況の患者ばかりで、涙を口に含ませた後、同じように回復するまで息を詰めて見守った。
その後も部屋は男、女、男、と交互に並んでいて、部屋を開けるごとに怪我の程度は軽くなっていった。しかし中には幼い子供や老人、妊婦など、体力に不安のある人も少なからずいて、今日まで何とか生きていてくれた奇跡に、私も神に感謝を捧げたくなった。
「姐さん、あの最後の部屋はどうします? かなり軽傷だって聞きましたけどぉ…」
「何か中が騒がしいもんねえ、鎮静剤使ってないのかな」
扉から少し距離を取り、コソコソと相談する。
「一応、涙は残ってるけど…」
マグカップを傾ける。四、五人くらいならいけそうだ。
「……ミカ殿、おれが様子を見てくる。使わなくていいならそれに越した事はない。あ、あなたのためだぞ」
ザッシュが扉の前に出た。
「優しぃ…。さっきまでバリバリに警戒してたのに」
「あの泣き様を見て、これ以上失礼な事が言えるものか。…ああ、ザハリの不敬もしっかり謝っていなかったな」
「それは本当にお気になさらずです。あの、というか、このかんばせから放たれる殺気なんてご褒美でしかないので」
指を指されたザコルとザッシュが同時に眉間に皺を寄せる。双子ほどではないがこの二人もよく似ている。
「……おかしい女を演じているのは、わざとか?」
「シュウ兄様、ミカは正真正銘変な女ですよ」
また変な女と言われてしまった。
「ザコル、お前が泣いたり取り乱す所など初めて見たぞ。人間らしい感情があったのだな」
ザッシュがジトリとザコルを見る。
どうやら私への態度を咎めているようで、ザコルが気まずそうに黙った。
「ザコルがお兄ちゃんに叱られてる…!!」
「ミカさんは何喜んでんすか。そんなんだから変だって言われるんすからね。ザッシュ殿、お願いします」
「ああ。お前達は気取られぬようもう少し離れていろ」
おー、ザッシュの旦那じゃねえかぁ、穴熊ん達はどうした、一人たぁ珍しいじゃねえか。
見舞いの酒はねえのかよ、ガハハハ!
今日は何かいつもの使用人じゃねえのが回ってんのか? 声が違ったなあ。
お前達、怪我はどうした。悪化でもさせたかと思って様子を見に来たぞ。
いんや、俺らはなあ、もう大した事ねえのにここに集められてんだよ、女帝がここにいろっつってな。
おかげで上げ膳据え膳、もう三日にならあ。
折角良くなってきたとこだのによう、体がなまっちまわぁ。
もしや変な病気でも持ってんのか? 俺達ゃ…
怖え事言うんじゃねえよお!
病気ではないと思うが、少しでも弱った者は流行病に罹りやすいから保護しろと聖女から進言があったようだ。
聖女ってのは、あの新聞の氷姫様ん事か、ザコル様にくっついてきたっつう。
シータイでうちの町のモンを色々世話してくれたんだろ、まさに聖女だぜ。
聖女サマが言うんじゃしょうがねえなあ、しばらく食っちゃ寝してりゃいいんだろ。
お前達はもうかなりいいようだからな、早晩解放されるだろう。他の怪我人も大分良くなったようだぞ。
そうかあ、他の部屋には絶対行くなって言われてっから、気になってたんだよ。
かなり酷いのもいたからなあ、良くなってんなら一安心だ。
ガチャ。ザッシュが部屋から出てきた。
「あいつらは必要ない。比較的高齢で、多少の後遺があるからと念の為集められただけだ。鎮静剤も効かないくらいには力を持て余しているようだしな」
「ありがとうございます、ザッシュ様。隠蔽工作までしてくださって」
女性を前にすると余裕がなくなってしまうようだが、本来の彼は冷静でよく気の回る人のようだ。さりげなく重傷者が自然に回復したように話をしてきてくれた。
「聴いていたのか?」
「すみません、皆さんのお声が大きいものですから…。こちらの世界に来てから何故か耳が良くなった気がするんですよね。弟君の影響でしょうか」
「ああ、ザコルは幼少期から音には過敏なくらいだったからな…。今も苦労しているのか? ザコル」
「諜報には役立っていますよ。それに、子供の頃のような極度の不安に陥るような事はもうありませんし」
「そうか。お前が気に病んでいないのならそれでいいが」
…聴覚過敏! そうだったんだ。単純にサカシータ一族だから五感が鋭いとか、それだけではなかったのだ。
何でもない日常の音が爆音に聴こえてしまったりして、強い不安などを引き起こす特性、だったはず。
「…責めて、ごめんなさい、ザコル」
「また…。何でミカが謝るんですか。もしやあの件ですか、あなたの生活音を聴いて何の配慮もしなかった僕が悪いんでしょう」
「それはそうですけど…先天的なものに配慮が足らなかったのは私も一緒です」
人の多い夜会なんか苦手で当然だ。単なる人見知りだからで済む問題じゃないはず。しかし、私はこの症状を持つ人の多くが抱えるらしい、ある種の発達障害にはさして詳しくない。タイタの持つ特性についてだって何となくは知っているが、理解しきれているとは思えない。
「ああ…もう、何で私はもっと本を読んで来なかったんですかね。ザコルの事で分からない事があるの、本当に悔しい…!」
「あなたは今ですら僕の事を分かり過ぎていますから、そんな本などは読まなくて結構です」
さあ、義母が待っていますから。そう言ってザコルは私の手を取った。そのままスタスタと階段方向へと向かう。後の三人もワゴンを押しつつついてきた。マグに残った涙は、私自身が窓から外へと棄てた。
私はザコルを分かり過ぎているのか…。未だに初めて知って驚く事ばかりな気もするのだが。
「そう、ですね。ごめんなさい、何となく失礼な事を言った気がします。そういう関連の本を読んだからって理由で、一方的に分かったような顔されてもモヤっとしますよね」
「いえ、そのミカの言う先天的なもの? もあるのかもしれませんが、僕はただ単純に耳がいいだけという気もしますし…。これ以上解られても…公平じゃ……」
ザコルが目を逸らしつつ、ゴニョゴニョと何か気まずげに呟いている。
私が余計な事を言ったせいで困らせてしまった。こっちの世界には発達障害などという概念もまだ無さそうなのに、いきなり告げられたところで戸惑うだけだろう。
そもそもそういう概念自体、『元の世界における生きにくさ』に配慮するための枠決めのはずで、その枠に当てはまりそうだからといって、違う価値観が根付いた異世界でも同じ配慮が必要とは限らないのではないだろうか。
それにもし日本にいてカルテに同じ診断結果を書かれたとしても、ただ特性とその困り事が似通っているというだけで、一人一人は育ちも性格も全く違うはずだ。医者でもカウンセラーでもないのに、本で少しかじった程度の知識で目の前の人の人格を理解しようなどとは思い上がりも甚だしい。
「また何か小難しい事をぶつぶつと…。考え過ぎです。そんなに大袈裟な事では」
「そうですよね。考えてみた所で異世界の最強忍者の事なんて何一つ本に書かれてるわけないですよね。私の大好きな人は、どこの世界探したってたった一人しかいないってのに」
「そっ、そういう事を急に言うんじゃない!」
ぎゅむ、顔を押さえられる。
「……おい、あの二人はずっとああなのか?」
「そうすよ、ずーっといちゃついてます。キッツいすよぉー…ヒッ」
ドングリが廊下の隅で弾けた。
「あー! 坊ちゃんが屋敷汚していいと思ってんすかあー? ヒッ! ヒエッ!! もう絨毯が破けんでしょうがああ」
「では針に」
「わー冗談冗談好きなだけいちゃついてろよもおお」
今度はエビーがタイタの後ろに引っ込んだ。そして矢面に立ったタイタが何故か期待に満ちた顔をする。
「……タイタには投げませんよ。そ、そんな顔したって君には投げられそうにありません。あ、明日も一緒に尋問しますか!?」
シュンとするタイタの機嫌を取ろうと必死に言い募るザコル。
ふっ、と吹き出したのはザッシュだった。
「ははははっ、ザコル、随分と仲のいい友ができたじゃないか」
大笑いする兄に、一層気まずい表情になる弟。
「ふふふへへぇ」
「ミカは気持ちの悪い笑い方をしないでください!」
これからしょっちゅうお兄ちゃんとの絡みが見られるようになるのか。楽しみだ。
イーリアが待つ応接室に近づくと、廊下で待っていた側近がすぐに扉を開け、イーリアが飛び出してきた。
「イーリア様! 最後の部屋以外は、みんな、みんな無事に…」
「ミカ…!」
イーリアはそう言うなり私に走り寄り、私の顔を両手でガッと捕まえた。
涙の痕跡がわずかに残る私の目元を指先でなぞり、心配そうに眉を寄せ、顔を覗き込まれる。
女神の物憂げなご尊顔がドアップになり、私は固まった。
「義母上。ミカを惑わせないでください」
ザコルが私の肩を持ってサッと引いた。危なかった…。完全に持って行かれる所だった。
「どうやって泣いた」
「もらい泣きしました」
肩に置かれた大きな手に、ポンと自分の手を添える。
「ぼ、僕は泣いてなんか…」
「泣いてましたよう」
「泣いてません!」
「泣いてたすよねえ」
またドングリが飛んだ。後で屋敷を掃除する使用人が不思議に思う事だろう。
「はあ…。泣くために非情な手段を取ったのでなければいいが」
イーリアが呆れつつも胸を撫で下ろす。イーリアまで私が泣くために自傷するとでも思っているのか。ザコルとエビーも同じよう事を言って怯えていた。
「あの人数の口に含ませるのに、どれだけ、涙を流したのかと…」
そう言うイーリア自身が泣きそうに顔を歪めたので、慌てて側に寄る。
「大袈裟ですよイーリア様、たかが涙で。この通り、一緒に涙してくれる人もいましたしね。思いっ切り泣いてすっきりしたくらいです。そう、それに、ちゃんと効いたんです! てきめんに! ですから、後はどうぞよろしくお願いします」
笑顔を作り、頭を下げる、後始末を丸投げして申し訳ないが、もうこれ以上私がこの件に関わる訳にいかない。
「おい、あの泣き様をたかが涙などと言うな。それに、ひ、非情な手段とは何だ! まさか過去に何か酷い事でもされたのでは…」
お兄ちゃんまで心配させてしまった。
「酷い事なんて何もされてないですよ。こんな過保護な護衛がいてそんな事起こるわけないでしょう」
「ああ何だ、安心した…」
「私には自己治癒能力もあるんです。ほら、あんなに泣いたのに目が赤くもなっていないでしょう。大抵の怪我なら少しすれば治るんですよ。なので、どういう訳か皆、そのうち私が自傷してまで涙を捻り出すんじゃないかって心配しているんですよね」
皆、私を何だと思っているんだか。しかしザッシュは再び眉を寄せた。
「……いや、あなたは何となくやりかねない気がするぞ。ぜ、絶対にするなよ、おれは少女が血を流す所など見たくない…!!」
「そうですねえ、周りが汚れそうですし、滅多にそんな事しませんよ。あと少女じゃないです」
「汚れなくてもするな! 滅多でなく絶対にするな! どう見ても少女だろうが!」
ザッシュは私の年齢を聞いていないんだろうか。
「私、弟君と一つしか違いませんからね」
「ほらやはり少女だろう。ザコルも十六…」
「シュウ兄様、あれから十年経ちましたよ」
まだエビーをドングリで狙っていた弟から冷静なツッコミが入る。
「心配してくださってありがとうございます。まあ自傷もあの弟君が許してくれないでしょう。あ、お兄ちゃんって呼んでもいいですか」
「オニイチャン…!?」
ザッシュが勢いよく後ずさる。こういう冗談は早かったか…。
イーリアが溜め息をつく。
「全く我が家の愚息どもは…。ザッシュ、この機会に女性に慣れろ。ミカなら上手く接してくれるだろうが、決して甘え過ぎるなよ」
ザコルがサッと私の肩を持つ。
「兄様はもういい歳でしょうが、ミカに甘えるだなんて僕が許しません」
「いい歳でミカに甘えきっているお前が何をほざくか。ザッシュ、この無礼な弟も指導しておけ」
弟君は後ろで舌打ちしないでください。
「……そいつがおれの言う事など素直に聞くとは思えないが…。承知した。この聖女が抱えるものの重さと危なっかしさは今の事で充分理解できたと…」
「知ったような顔でミカを語るな兄様。魔法の力などミカにくっついてきたオマケでしかない」
「お前ら双子はどうしてこうも揃いに揃っておれに反抗的なんだ! お前が問題を起こす度呼ばれていたおれを少しは敬え!」
「そんな十年以上も前の事など忘れました」
ザコルがお兄ちゃんに口答えしてる…!!
どうしよう楽しい。供給過多で爆散しそうだ。あ、タイタと目が合った。深く頷き合う。
「ザッシュ殿見てると、何となくハコネ団長を思い出しますねえ…。あっちは既婚者すけどぉ」
「本当だねえ、ハコネ兄さんもザコルの扱いに苦労してたもんね。散髪用のハサミ持って追いかけてさ、ふふっ」
テイラーでの楽しい生活が鮮やかに思い出される。
「…おい。そこの調子に乗っている方の愚息。お前、テイラーの方々に多大なご迷惑をおかけしているようだな。コマ殿や第一王子殿下にも一度正式に謝意を示さねばと考えていたが…。やはりお前は領に閉じ込めておくべきだったか?」
「…………」
ああ、久しぶりに見る表情だ。
「ふふ、苦々しい顔〜」
「…頬をつつかないでください」
つつき続けていたら半ギレしたザコルにやめろと言われ、そんなザコルはまたイーリアに怒られる羽目になった。
◇ ◇ ◇
「ミカ、やはり少しくらい休憩してはどうですか」
「そうすよ、あんなに泣いたんすから」
「今なら俺の背中も空いておりますよ」
「らいほーふ、はやふいほーほ」
「…ミカ殿、時間が惜しいのは解るが、せめて止まって食べろ。行軍中でもあるまいに…」
「…ふぁい。ほにいはん」
もぐもぐ、ごっくん。
イーリアは先に屋敷を出てカリューの町長を呼びに行った。
その女神から渡されたカゴには、シータイ町民が用意してくれていたというお弁当が入っていた。大変見覚えがあると思ったら私が旅の間ずっと抱えていたカゴだ。リラに渡してそれきり見ていなかったが、きちんとどこかで保管されていたらしい。
中にはチーズ、ゆで卵、パン、林檎などが詰められていた。もう昼はとっくに回っている。時間が惜しいのでパンを口に詰め込みながら屋敷を出ようとしたら、玄関で過保護な護衛軍団とお兄ちゃんに止められた所だ。
仕方ないので立ち止まり、その場で立ったまま各々好きなものをかじる。
「何で兄の言うことは聞くんです」
「お兄ちゃんですから」
「僕だって一つ歳上でしょう」
「…ザコルお兄ちゃん?」
「ぐっ…!!」
こて、と首を傾げながら言ってみたら、思いの外動揺させてしまった。冗談のつもりだったのに。
「全くこの馬鹿兄貴は…。変な事言って返り討ちに遭うのやめやがれください」
「う、うるさいエビー」
ザコルが自分の胸を掴んだまま必死に反論する。
そして何故かタイタがその向こうで顔を背けている。
「タイタ? どうかしたの?」
「あ、あ、あの、今のは少し…破壊力が」
「タイさんまで被弾しちゃって何なんすか。現実の妹なんてこんな可愛い事しねえよ。…ああ、そういやタイさんの可愛い婚約者殿は四つ下でしたかあ…」
「元・婚約者だ!! ……だが、そうだな。ミエルも、俺をタイタお兄様と呼んでよく慕ってくれた。懐かしい」
「…へーえ、ふーん、ほぉー、羨ましくなんてねえぞこんちくしょう」
凄く羨ましそうだ。
「タイタの元婚約者の男爵令嬢ちゃん、ミエルってお名前なんだね。偶然だけど、私の世界のとある国の言葉でミエルは蜂蜜っていう意味なんだよ。養蜂家のお家に嫁ぐにはぴったりだねえ」
タイタのご両親は中央貴族を退いてから、テイラー領内で養蜂を始めたと聞きました。むふ。
「お、お、おやめくださいミカ殿! 彼女には貴族令嬢としての未来がありますから!」
「そうかなあ。早めに話し合った方がお互いのためだと思うなあお姉さんはー」
お姉さんは可愛いタイタとミエルちゃんの幸せを願っているよ。
ふと目線を足元にやると、何やらザッシュが座り込んでぶつぶつ言っていた。
「ザッシュ様はどうされたんですか。内輪ネタで盛り上がって申し訳ありませんでしたけど…」
じわ、とザッシュから不穏な気が立ちのぼる。
「…いちゃつく相手がいる奴も、現実に妹がいる奴も、妹みたいな婚約者がいる奴も……みんなみんな滅びろおおお!!」
しまった。お兄ちゃんが取り乱してしまった。
「はいはい、このミカがお兄様の妹をしますから。元気出してくださいよ」
カゴの中からパンを一つ取って差し出しながら言った。
「やめろ甘やかすんじゃないおれの免疫のなさを舐めるなああ!!」
しまった、余計に錯乱して頭を抱えてしまわれた。
「姐さん逆効果すよ。トンネルの話でもした方が冷静になるんじゃないすか。アマギズイドーでしたっけ、どうせ詳しいんでしょ」
トンネル…? と、ザッシュが顔を上げた。
「えー、そんなに詳しくはないよー。天城隧道は古いトンネルだから工法もこちらの世界に近いかもしれないけど、現代だとコンクリートや鉄製品も使うし、後は巨大な切削機とか使って…えーと、シールド工法だっけ。何かデッカい筒に回転する刃を取り付けたみたいな機械を使って掘り進めたりとかするらしいけど、こっちは基本的に手掘りだろうから参考にならないでしょ。開削工法だとか、沈埋工法だとか色々習ったけど、とにかく規模も技法も材料も何もかも違うからさー」
「……いや。聞いても何一つ判らねえけど絶対詳しいって事は判ったぞ姐さんよう」
「いや、こんなの社会の授業でちょろっと習ったくらいの知識でしかないんだよ、ホントに」
これ以上は詳しく説明しろなどと言われても困る。
「あー、やっぱりもっと勉強してくればよかったなあトンネルも」
不意にザッシュがゆらりと立ち上がる。
「ミカ殿、あなたは、トンネルに、興味がある、のか…?」
「えっ、教えてくださるんですか」
「ミカ」
肩にズン、と手が置かれた。
「…ザコル。邪魔をするな。おれは今から彼女にトンネルの話をしなければならない」
「トンネルの話なら昔、散々耳が痛くなる程聞いていますので僕から伝えておきます」
「十年間で成長したのが自分だけだと思うな。おれ達とてより強度と美しさを兼ね備えたトンネルが造れるようになっているのだ」
「だから何だと言うんです。どうせ基本的な工法など変わっていないでしょう」
「ふ、甘いな。十年という月日を甘く見過ぎだ。お前にも思い知らせてやる!」
そこから弁当を食べ終わってサギラ侯爵領側の門付近に着くまで、ザッシュは延々とこだわりの山岳トンネル工法や道作りなどについて熱く語り倒した。
「それでな、ミカ殿、おれは基本に立ち帰ったのだ。レンガの一つ一つ、そしてセメントの質を上げる事に注力すべきだと。配合を見直す事でより強固で美しいトンネルにつながるはずだと。火山灰をしっかりふるいにかけ、不純物をしっかり除き、海水は濁りのないものをタイラ男爵領にいる五男に頼み直接運ばせた。レンガはサイズをしっかり揃えて誂える事が肝要だ。少しのズレが後で大きなズレになる。そうなっては決して美しい仕上がりにはならないだろう。入り口は切り出した石でアーチを作り整えるのだが、その石とてただ磨き上げるだけでは趣がない。何年か経って美しく苔むす事まで計算に入れてだな」
ザッシュは相棒である土木工事用の鉄鎚を肩に担ぎながら、流れるように語り続ける。
「その美意識には共感できます。いい感じに苔がついた石やレンガの建造物って素敵ですもんねえ。装飾などにもこだわったりするんですか? 石に彫刻したりとか…」
「もちろんだ。強度はもちろん重要だがその地で生活する者の事を考えれば、ただ山を殺風景にするだけの建造物であっていいわけがない。これは山の民に頼まれおれ達が施工した例なのだがツルギ山は大きな岩が多く本当に苦労が絶えなかった。完成の際には多くの山の民が祝福にやってきて、彼らが代々受け継ぐ刺繍の図案をレンガで再現した底部には涙する者もいたくらいだ」
「ぜひ見てみたいです。私、山の民の民族衣装が大好きで。あの緻密な刺繍は本当、職人技ですよねえ」
「ああ、おれもトンネル職人として彼らの職人魂には共感する部分も多い。ジーク領のある村で作られる寄木細工を知っているか。あのように美しい模様をぜひうちの領都の道にもあしらいたいと考えてな、今様々なレンガやタイルの試作もしているところで」
「寄木は色んな木を使いますもんねえ、あの色使いを再現するなら様々な成分の土を揃えないといけないんじゃないですか」
「よくそんな事を知っているな。その通りだ。集いの奴が南方のカリー公爵領で採れるという真っ白な陶土を紹介してくれて」
集いの奴、というのは、カリューにおける『深緑の猟犬ファンの集い』のメンバーの呼び名だ。彼らのキャンプ村は、シータイでは『同志村』と呼ばれ、カリューでは『集い村』と呼ばれているらしい。
「ミカ殿は本当に何にでもお詳しいですね」
タイタがニコニコと横で私達の会話を聴いている。
「そんな訳ないって言ってるでしょ。土木関係なんて特に断片的な知識しかないよ」
トンネルの事なんて、せいぜいが社会の教科書と、旅行パンフレットに書かれた天城隧道の解説で得た知識くらいしか持っていない。天城隧道と言えば伊豆の踊り子、あの話は好きで何度も読み返したな。
「いいや、断片的にでもそこまで知っている事に驚きだ。そんな女人が存在するのかとおれは目と耳を疑ったぞ」
「私の世界では土木関係の技術職に就く女性だってたくさんいますよ。そんな人達に比べたら本当、私はただの素人ですので」
昔はトンネル工事は女人禁制だったとか言う話も聞いた事があるが、現代日本でそんな時代錯誤な事を言う人は少ないはず。
「……これだから、兄弟に会わせるのは嫌だったんだ…」
「猟犬殿、牽制して回るような事言ってませんでした?」
「義母が手駒に指名してしまっては…。何よりミカが楽しそうだ…」
「本当、妙なとこでミカさんに甘いっつうか、ヘタレっすよねえ…」
私達の後ろで、ザコルが情けない顔をしながらエビーに愚痴っている。
フォローに行きたいのは山々だが、せっかく盛り上がっているザッシュの話に水を差すのも気が引けた。
「あの黒髪、ミカ様だぞ!」
「おお、ザッシュの旦那が珍しい、普通に女と会話してんじゃねえか」
「ザコル様はどこだ?」
私達を見つけた人々の声が聴こえてくる。
サギラ領側の門からこっちは、練兵や戦時に使われる広場になっている。日本の城で言うと『馬出し』と呼ばれるスペースに相当するだろう。その広場の一画は現在、瓦礫の一時置き場の一つにもなっており、多くの人々が行き交っていた。
私はザッシュに話を中断してもらい、完全にタイタの後ろに隠れていたザコルの方に下がってバシッと背中を叩いた。
「ほら師匠、あなたが主役ですよ!」
「乱暴にしないでください。僕はここが安心するんです」
「何ザコルまでセーフティゾーンに入ってるんですか。もう出てください! 私は伝説の戦鎚を見に来たんですからね!」
「何なんですか伝説の戦鎚って…」
「ほら、あれですよ!」
広場の一等目立つ場所に、木で出来た台座と掛け具まで用意され、そのひしゃげた巨大鎚は堂々と飾られていた。
「な、なん、何であんなものが飾られて…」
行き交う人々が地蔵に挨拶でもするかのように、鎚の前で立ち止まっては拝んでまた歩いていく。
「師匠!! あれを持ってみせてください! どうか後生ですからぁ!!」
「わ、分かりましたからしがみつかないでください」
渋々といった表情のザコルが広場の一等地に近づくと歓声が上がった。
ザーコール!! ザーコール!!
いつの間にか声が揃い始め、大きな波となって場を満たす。
金属製の太い柄が湾曲し、鎚頭の角が潰れたように変形している巨大な鉄鎚。どうしたらあんな大きな金属の塊があんな有様になってしまうんだろう。全くもって想像がつかない。
「ミカ殿、あ、あれを…!!」
「…え? は? はあ? はああああああ!? 何あれええええええ!?」
タイタが指差す先には、まるで一部を巨人につまみ食いでもされたかのような、異様な状態の城壁があった。
「やっべえ…何だよあれ…マジで無茶苦茶だな!」
エビーも目をまんまるくしている。
他領に面しているとあって、こちら側の城壁は他の箇所よりずっと高く立派に作られている。さっきまでいた三階建ての町長屋敷くらいか、それ以上の高さと厚みがありそうだ。
それが、ケーキを切り分けたかのごとく一カ所が不自然に消失しており、壁の向こうの荒野が丸見えになっていた。
城壁の断面も丸見えだ。盛り土をした後に石やレンガを使って外側を強固に固めてあるようで、その構造がとてもよく判るようになっている。
壁の向こうをよく見れば、壁を構成していた土や石やレンガ、溜まった泥水や瓦礫が一緒になって荒野へと流れ出たらしく、扇状に広がるようにして散らばっているのがここからでも確認できた。
何もかもが壮大すぎる。これが人一人の膂力で成されたなどとは、到底信じられない光景だった。
「さあ、これでいいですか、ミカ」
ザコルが向こうでひしゃげた巨大鎚を片手で軽く持ち、振って見せている。投げやりだ。しかし投げやりで持てるような重さにはとても見えず、私とタイタを含む観衆の盛り上がりは最高潮に達した。
「こ、こうも軽々とあの鎚を…!!」
「ほわああ…!! ねえ、ねえ、それでどうやって叩いたんですか!」
「それは…だから、あの壁の上に登って…ミカ、少し下がってくださいね。それで思い切り、こう」
「おいザコル待っ…!!」
ザッシュが止める間もなく、ザコルは湾曲してしまった柄を両手で持ち直してブオンと地面に振り下ろした。
ズドオオン!!!!!
轟音が鳴った。遅れて土埃がたつ。
…オオン…オン…オォ……ォォ…
城壁内はもちろん山にまで反響し、どこかで鳥が一斉に飛び立つ音がした。
「あ、しまった、亀裂が」
う、うおおおおおおおおお!!
先程の轟音もかくやという、地鳴りのような絶叫が響き渡った。
「す…す…凄まじい…ッ!! じ、じじ地面が割れた…!?」
「…けほっ、げほ…っ、危ねえだろうがこのっ、砂とか小石が滅茶苦茶当たったんですけどぉ!? ミカさん、怪我してませんか!?」
「だ、だい、じょうぶー。ザッシュ様が盾になって、くださった、から…」
「この馬鹿野郎が!! 少しは考えろ最終兵器め!!」
先程までザッシュが持っていた鉄槌の柄が倒れ、がらん、と音がした。
「すみません、軽く叩いたつもりだったんですが……ミカ!!」
「え」
私を飛散した石などから守るため、咄嗟に抱き込んでくれたザッシュの腕から力が抜ける。
支えを失った私はペタン、と地面に座り込んだ。しまった…。
エビーとタイタが手を伸ばすが、サッと手で制す。二人がぐっとこらえる。観客達の雄叫びはまだ続いている。
「あ、はは、驚いてしまいましたね、守ってくれてありがとうございます、ザッシュ様」
「あ、ああ…。流石のあなたもこの威力には…」
「違う! ミカは…! すみません、すみませんミカ…!!」
ザコルが巨大鎚を投げ出して走り寄ってきた。
「い、いいの。凄いですね! あ、あの亀裂、見てみたいなあ」
私が両手を差し出すと、ザコルは迷いなく抱き上げてくれた。
異変を感じ取ったザッシュが僅かに後ずさる。
「ま、待ってザッシュ様。違うんです」
「何が違う、…やはりおれのせい、だな」
「違います、ザッシュ様のせいじゃありません。ごめんなさい、私、あなたと同じで、ほんの少し、男性に免疫がないだけなんです。び、びっくりしただけなので、気にしないでください。ほら、お陰でどこも怪我していませんから」
震えて上手く力が入らず、へらり、と変な笑い方をしてしまった。彼とはまだ交流も浅いのにこれはまずい。せっかく守ってくれたというのに、酷な仕打ちになってしまう。
「あ、あなたが謝るな、おれはいい。すまなかった、知らぬ事とはいえ…」
「いえ、私の問題ですから。まだまだ鍛錬が足りませんね。ほら、皆見ていますから。私は大丈夫、あ、そうだ、ザコル、このまま持ち上げて、くるくると回ってみせて。…早く!」
「…っ、分かりました」
ザコルは力の抜けた私を持ち上げ、高い高いをするかのような体勢でくるっと一回転半回る。そしてすぐに降ろして抱き止めた。
猛々しい興奮に満ちた声は、微笑ましいものでも見たかのように和らぎ、笑い声となって広がっていった。
◇ ◇ ◇
私がザコルにねだって鎚を叩かせたものの、そのあまりの勢いに腰を抜かし、それを揶揄うようにザコルが高い高いをしてみせた。
多分、そういう風に民の皆には見えた、はずだ。少なくとも、私が不調を起こしたとは思われていまい。
ザコルが片手で鎚を拾い上げ、先程の台座の上に戻す。まるで大きな地震でも起きた後のような亀裂に、少年のごとくはしゃぐ私の様子を見てか、集まった人達はより一層楽しそうに笑っていた。
「あの、そろそろ降ろしてくれていいんですよ」
「嫌です」
「嫌かあ…」
私はザコルの片腕に腰掛けるような体勢で抱き上げられたまま、彼の頭に捕まる格好になっていた。
片腕で両脚がガッチリホールドされているので、私の意思で降りる事は叶わない。そのまま崩れた壁の方にズンズンと進んでいっている。
広場が広く城壁が大きいために近く見えていたが、実際には広場の入り口から壁までかなりの距離があった。変な格好ではあるが、行き交う人々はにこやかに会釈してくれるので、私も笑顔で手を振った。
ザッシュは一応ついてきてはいるが、距離がある。三十メートルくらいある。本当にしまったなあ…。
「タイタ。ザッシュ様に、距離取られると私が凹むって伝えてきて」
「承知しました」
一礼したタイタがザッシュに走り寄っていく。エビーは心配そうに抱き上げられた私を見上げた。
「男に免疫ねえっての、結構深刻なレベルじゃねえすか? 何で黙ってたんすか…」
「ごめんね、一昨日ザコルには話した所だったんだけど、ちょっと免疫がないってくらいの配慮で充分だったからなんだよ。それに、エビーやタイタ相手なら庇われたり運ばれたりするくらいは大丈夫。それくらい二人にはよく慣れてるし、信頼もしてるから…。あの、本当にびっくりしちゃっただけでね、心配かけてごめん…」
「謝んなよ姐さんは全く、我慢ばっかりしやがって…」
タイタに言われて渋々納得したか、ザッシュがセーフティゾーンに隠れたまま戻ってくる。
「ふふ…っ。タイタの背中、今日は大活躍だね」
「お役に立てて光栄です!」
私が笑って冗談を言ったからか、ザッシュがタイタの陰から半分だけ顔を出す。
「さ、先程は、無遠慮に、申し訳なかった…」
「いいえ、怪我をせずに済んだのはザッシュ様のおかげです。本当にありがとうございました。よくあの瞬間に庇ってくれましたよね、私でなければ完全に惚れていた所ですよ」
「ほ、惚れ…っ!?」
ずざ。
「ザッシュ様もソレをどうにかしないと生きづらそうですよねえ。もしお嫌でなければ、一緒に克服を目指しませんか。私、何とかしてこの壁を破壊してしまいたいんです。…せめて、庇ってくれた方を傷つけないでいられる自分でありたい」
ザッシュはしばらく黙った後、呟くようにして声を出した。
「……あなたが、そう言うのなら。…また、トンネルや道の話をしてもいいだろうか」
「もちろん。これからこのミカに沢山教えてくださいませ。お兄様」
今度は上手く笑えたと思う。ザコルがぎゅっと、私を抱く腕に力を込めた。
私の男性恐怖症は思わぬ形でバレてしまい、皆にも気まずい思いをさせる事となった。
我ながらどうしようもない。こんな事なら、せめてエビーとタイタにはもっと早く打ち明けておけばよかった。
「もー、何で俺らに気ぃ遣うんすか。落ち込んでんのは姐さんでしょうが」
「ミカ殿、気分が優れぬならば休める場所に戻りましょうか」
もしかすると、タイタにはちゃんと伝わっていないかもしれない。わざわざ伝えれば気に病ませるかもしれないが、後で私の口からしっかり説明する事にしよう。その方が誠実だろう。
「いやー、つくづく面倒で陰鬱な女だと思ってさ…」
「陰鬱さなら僕の方が勝ります」
「ふっ、ふふっ、何ですかそのフォロー」
ザコルの髪を撫でて頬を寄せる。ちなみにまだ降ろしてもらえていない。
「……ミカ殿、この弟は怖くはないのか」
ザッシュがタイタの後ろからボソッと質問してくる。せっかくトンネルの話で打ち解けかけた所だったのに、私のばかばか。
「はい、お兄様。不思議に思われるかもしれませんが、この人は初対面からずっと平気なんですよ。そんな男性は私にとって初めてで。この人を好きになれてミカは幸せです」
ザコルから腕が伸びてきて頭から頬を引っぺがされる。
お兄様ごっこ楽しい。しばらくこのノリでいこう。
「そうか、それならば……ぐっ、何だ、良かったと思うのに何だこのイマイチ納得できない気持ちは」
「うんうん分かりますよお。あ、エビーって呼んでくださいねお兄様。俺も何でこの唐変木が…ってお兄様の前で失礼でしたかねえ」
「いやいい。遠慮なく言えエビーとやら。あの集いの奴らもそうだ、何故この粗野で愛想の欠片もない弟にこだわっているのかと」
「それは僕が一番疑問なんですが…」
何が疑問なんだ。こんなに可愛いのに。ぎゅむ、と頭に抱きついたらまた引っぺがされた。
「猟犬殿の素晴らしさをご理解くださるのであれば、このタイタ、一晩でも二晩でも語り尽くしましょう、お兄様」
タイタが恭しく胸に手を当てて言う。エビーはともかくタイタまでお兄様って呼んでる…。
「タイタ…殿、君は何なんだ、男爵令嬢と婚約していたというし、貴族出身…なんだろう?」
ザッシュは未だにセーフティゾーンとしてタイタを利用しつつ、その背中に質問を投げかける。
タイタはフッ、と笑って語り出す。
「中央貴族であった我が子爵家は八年前の粛清の対象となり没落しておりますので今は平民の身です。その際に屋敷に乗り込まれてきたザコル殿の戦うお姿を拝見して以来、生涯かけてこの方の生き様を目指そうと心に決めて今に至るのです。こうして恐れ多くも同僚としてあれるだけでなく、かの方が大切になさるお方の護衛につけた事は俺の生涯でこれ以上ない幸運でありましょう!! ああ…オリヴァー様についてこのファンの集いを育ててきた先にこれ程の栄誉が待ち受けていようとは!! 八年前のあの粛清の日にこの事が予想できただろうか、いや、ない!!」
久しぶりの反語だ。
そろり、とザッシュがタイタの後ろから出てきた。まるで奇異なものでも見たかのような顔をしている。
「ザッシュお兄様、このタイタはテイラー家の騎士で私の護衛でもありますが、深緑の猟犬ファンの集いにおいては会長の右腕、というかほぼ黒幕です。この集い、全国に情報網を張り巡らせ、会員には厳格な規律を敷き、各々で鍛錬して隠密技を極め、水害発生翌日には大規模支援部隊を寄越し、テイラー家と共謀して新聞を乗っ取り、と、割とやりたい放題の秘密結社、いえ巨大勢力なのでご注意をば」
「な、なん、何だとある意味聖女よりも厄介な人物ではないか!! ザコル、お前は知っていたのか!?」
ザッシュが血相を変えてザコルに詰め寄る。お兄様ったらわたくしを厄介者扱いしていたわね。ぷんぷん。
「はい知っています。ですが、この僕を推しているとかいう妙な団体の存在を知ったのも、それを作ったのが主家の幼いご令息と騎士の一人だと知ったのもごく最近の話です。情けない事にタイタがコメリ家の令息だった事に気づいたのはさらに後の事ですが…」
申し訳なさそうにするザコルに、タイタが首を横に振る。
「ザコル殿が手を下した者などそれこそ星の数ほどいるでしょうに、その中の一人として記憶の隅に置いていただいていたなど、俺にとっては望外の喜びです」
「その赤毛は印象的でしたからね、それに君は巻き込まれただけの未成年でしたから。その後どうしたかと気になっていただけです」
タイタが泣きそうな顔になった。猟犬殿優しぃ。頭にすりすりしたらまた引っぺがされた。
「元中央貴族の令息と言ったか、粛清に来た輩に惚れ込んで、本人にも気取られず八年もかけて秘密結社を作った…!? 一体何をしているんだ君は!!」
今度はタイタに詰め寄るお兄様。忙しぃ。
「そんな、俺は、推しを同じくする方々と語らいたい、とおっしゃるオリヴァー様のお望みを叶える手助けをさせていただいただけで、秘密結社などと大それた組織を運営しているつもりはございません。それに、会長はあくまでも次期テイラー伯たるオリヴァー様です。かの方も齢十歳にして素晴らしい頭脳と決断力をお持ちで、物分かりの悪い俺をここまで導いてくださった尊きお方。心より尊敬申し上げております」
「む、そ、そうか…。主家への忠義心から成した事であれば致し方ない、か…。声を荒らげてすまない」
ザッシュは、悪意や裏が一切感じられないタイタの口上に気を削がれたようで、詰め寄った事をすぐに謝罪した。
タイタのすごい所は、年齢性別身分に関わらず、その純粋さと謙虚さで相手を心から敬える所だ。
だからこそ皆が彼を可愛がる。
それにしても、久しぶりにまともなツッコミを聞いた。周りが常識に捉われない人ばかりなせいで、忘れかけていた感覚が戻ってきた気もする。
「ミカ、兄は確かに頭が固…いえ常識的かもしれませんが、僕もこの中では割とまともな方だと自負しているのですが」
「へえ…そうなんですかあ…」
「……まさか本気で言ってるんすかねえ、この最終兵器殿は」
エビーは眼前に迫る壁を見ながらぼやいた。
◇ ◇ ◇
私達は壁の際まで歩き着いていた。丁度午後の休憩時間になったらしく、作業員の姿はない。
サギラ領側の門で仕事をする見張りの衛士は、屋根付きの持ち場からこちらをにこやかに伺っていて、目が合うとペコリと会釈してくれた。
足元は乾燥が進んではいるものの、日陰になる部分はまだまだぬかるんでいる。土砂や泥、折れた木、倒壊した家の建材など、濁流が運んできたものはあちこちで散らかり、そして堆積していた。
城壁は、高さ十メートル前後、厚さ三メートル前後といった所だろうか。一度は壁の内側に大量の水が溜まった事を示す、水染みでできた線がくっきりと残っている。その線はタイタやザッシュの身長よりもずっと上にあって、その被害の甚大さが窺い知れた。
そしてその高く分厚い壁には、誰かがサクッとフォークを入れて食べてしまったかのように消滅している部分がある。そんな全く非現実的な現場を、ザコルを除く全員が呆然と見上げていた。
「はあ、本当に、この弟は。一体どういう…」
しばらくこのカリューにいるはずの実兄ザッシュでさえ呆れ顔だ。
「城壁の破壊にはコツがあるんですよ。一度真上から振り下ろして地面まで亀裂を二箇所いれ、その間を抜けば早いです。この壁はままあ厚い方なので、一つの亀裂を入れるのに二撃ずつ要りました。ですから、ほら、二撃入れたので亀裂に僅かにズレができてしまって、断面にガタつきがあるでしょう。正確な石の切り出しにこだわる兄様からすればやはり上手な仕事とは言えませんよね」
「いや、城壁の破壊に上手も下手もないだろう、おれは別にそんな事にケチをつけているんじゃない。その口ぶりでは、城壁を破壊するのは初めてではないのか」
「はい。戦では基本的に斥候を任される事が多いのですが、その際に将からは『突破口を開け』と言われるので、大体壁や砦を…」
仮に斥候役に突破口を開けと言ったとしてもそれは言葉の綾であって、まさか壁や砦を物理的に破壊しろなどとはその将とやらも命じたつもりはなかったんじゃ…。
「おい、この十年でそんなに多く戦があったか? 国境の小競り合いは除くとすれば、おれが聞いたのはせいぜいお前が褒章をくらったあの件くらいだぞ」
くらったとは…。褒章は拳骨か何かだと思われているのだろうか。
「国内ではその件と後は領同士の諍いくらいですが、第一王子殿下が他国の依頼を受けては、僕やコマを国外の戦に派遣していましたから。全く殿下はその度に依頼主から家宝やら国宝やらをせびって…。王都の地下はそんなもので溢れかえっていますよ」
「あの、それって、第一王子殿下は王位継承に向けてそれなりに地固めなさっていたという事になりますか?」
つい気になって口を出してしまった。
「どうでしょう、彼は王位なんかより、本気でよく分からないガラクタを愛しているようにしか見えませんでしたが。他国に借りを多く作っているという点ではそう見えなくもないかもしれませんね」
人様の家宝やら国宝やらをガラクタ呼ばわりするのはどうかと思うが。
「他国に借りを…うーん、王太子なのに貴族年鑑にあまり情報を載せていないのもわざとでしょうか。それにしても、要職に就けられないとはいえ、サカシータ一族の最終兵器という最強カードに加えてあのコマさんを囲ってたのに、どうして王弟殿下や第二王子殿下のお好きにさせているんでしょう。それこそザコルが王都にいるうちに一言命令するだけで王都や王宮の安全は守られたんじゃ…。あ、すみません、分かったような事を言って」
「いえ、ミカは流石、状況が冷静に見られていますよね」
壁の上に小さな影が揺れたかと思ったら、たん、と蹴って、ひらりと私達の前に人が着地した。
「コマさん」
「遅えぞ。何呑気にのんびり見物してやがんだお前ら」
「これでも余計な寄り道はほとんどしてないですよ。ねえコマさん、王都にはザコルやコマさんを凌ぐような強者がたくさんいたりするんですか?」
「はあ? その駄犬以上の兵器なんざ、魔獣や大砲含めたって存在しねえ。俺くらいの奴ならいるかもしれねえが」
大砲…。銃などの火器はまだ見た事が無いが、大砲が存在するなら火薬も存在するのだろうか。
「コマが直接戦う事は稀です。大体、戦闘になる前に勝敗がつくので」
「ああ、それはすごく納得です」
毒かハニートラップか情報操作か、コマを敵に回したが最後、何も知らないうちに詰んでいそうな気がする。
「姫、お前は余計なことを考えんな。今まで通り目の前の事に集中してりゃいい」
「ええ、そのつもりですよ。今、思った以上にザコルが『兵器』として駆り出されていたと知ったので、上司たる第一王子殿下の真意はどこにあるのかな、と単純に疑問に思ってしまっただけなんです。ふふ、勘繰りはよしますね」
ニコ、と笑うと、ニヤ、と返された。顔が可愛い。
「……美少女同士が何か物騒な匂わせ話を…。あの二人はいつもああなのか?」
「そうすねえ、あの二人はずっと何か匂わせてますねえ。二人とも頭いーんすよ、きっと」
ピリ…。僅かに空気が張り詰める。
「ミカ殿、下がってください」
エビーとタイタが剣の柄に手をかける。見上げると、再び壁の上に人影が現れていた。
「…あいつは、懲りないな。ミカ殿、おれが行って締め上げてくるから、少しここで」
「いえ、お兄様。お話を聞きましょう」
「正気すかミカさん、あっちはどう見ても正気って感じじゃねえすよ」
「わざわざここで待ってたんでしょう、多分、全然正気だと思うよ。二人とも手出し無用だからね。降ろしてくださいザコル」
「嫌です」
私が指先でスッと彼の耳元の髪を梳くと、ザコルがびくっとしてこちらに首を回す。
「おろして」
にっこりと笑顔で言ったら素直に降ろしてくれた。しかしどうして青ざめるんだ。せっかく可愛く言ったのに。
「怖えぇー……いでっ」
失礼な従者にはドングリを投げつけておいた。
つづく




