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旅の始まり

 伯爵邸を出てしばらくは整備された街道が続き、賑やかな中世風の街並みの中を通った。

様々な服装の人々が行き交っている。

 ザ・異世界だ! 春に戻ってきたらぜひ遊びにも行ってみたい。


「もうそろそろ昼時ですね」

「なかなか出立できませんでしたからねえ」

 名残惜しいのはこちらもだが、もはや引き留められるかと思った。


「でも、朝食をたくさん頂いたし、私はあまりお腹空いていませんけれど」

「僕は一日二日、食べなくても平気です」

「いや、そこは普通に食べましょう。平時から苦行を課そうとしないでください」

 護衛隊の皆さんから笑い声が上がる。

「氷姫様。お昼の休憩ですけど、このまま一時間程進んで街を抜けると見晴らしのいい丘があるんで。そこでピクニックがてら休むってのはどうでしょう」

 よく私の部屋でアイスティーを飲んでいた若い護衛君、エビーが声をかけてくれた。

「素敵ですね。そうしましょう」

「もし痛みや疲れが出たらおっしゃってくださいね。俺らがいるうちにできそうなことは対処しますんで」

「ありがとうございます」


 護衛隊の皆さんがついてきてくれて良かった。

 普通の人が休憩を取るペースや体のつらさをどこまで訴えていいかなど、おおよその目安が分かるだろう。

 ザコルもこんなだし、私もある程度詳しくならないと本気で身がもたないかもしれない。準備というか認識が甘かった。伯爵家には旅の心得を記した本もあったかもしれない。探してみれば良かった。

「この先で、旅の心得に関する本が買える場所なんて無いですかね。荷物になるかな」

「ハコネ団長が用意してくれた冊子がございますよ。領境で別れるまでに渡してくれと。馬での移動で困った時の対処法や、やむを得ず野宿となった場合の心得などが書かれてあります」

 エビーとは別の騎士がそう答えてくれる。

「ありがたや…! 文字たすかる。後で見せてください。見ながら質問もしていいですか」

「もちろんです」


 ザコルが無言なので、後ろをちらっと見てみた。

「師匠……。何ですかその顔」

 彼はどう見てもムスくれていた。

「僕はそんなに頼りになりませんか。いや、僕の認識が甘かったのがいけないんですよね。すみません」

 プイ。拗ねてる。

「急に出立することになったのだし、色々と間に合わなかったのは仕方ないじゃないですか。師匠は拠点潰しで忙しかったんでしょうし。ちゃんと頼りにしてますよ」

「はい」

「またぁー。子供みたいな顔して。責めてるわけじゃないのに」


 そう、彼のせいではない。

 荷造りや下調べも一応はしていたけれど、それでも予習が足りなかったのは私の落ち度だ。

「…そうですね、結局、この旅で起きた事の責任は師匠が負う事になっちゃいますから、私の方もなるべくそうならないように努めるべきでした。そう、私の認識こそが甘かったんです」

「ど、どうしてあなたが謝って…っ、いえ、すみません、あんまり自分が不甲斐ないので苛ついていました。僕も領境まで皆に教えを請いますから」

「じゃあ、一緒に教えてもらいましょうね、『普通の旅』について」

「俺らも騎士団員なんであんまり普通じゃないんすけど…。比較的、普通に近いってだけすよ」

 エビーがへへっ、と苦笑しながら言う。それでいい。ザコルは普通とかけ離れていそうだし、私は無知だ。

 両脇から伸びるザコルの腕を撫でる。

「何故今撫でたんです」

「仲直りです」

 また後ろをチラ見したら、真面目くさった顔で何事か考えている様子だった。

 しばらくして、ザコルは私の手の甲を撫で返してきた。

 …笑ったらまた拗ねるのだろうか。


 エビーを始めとした護衛隊員達は最初からそのつもりだったようで、休憩や野宿となった場合の場所の選び方や、獣や虫対策、火起こしの仕方など、移動しながらとても細かく教えてくれた。

 私は知らなかったが、クリナに括り付けられた荷物にはサバイバルグッズもちゃんと入れられているようだ。簡単な説明書まで添えられているとのこと。

「野営用品は主に僕の私物ですが、説明書や追加の食器を入れたのはハコネですね」

 流石はハコネ兄さんだ。私だけでも使えるように配慮してくれたのだろう。

「師匠って野営とかするんですね。夜の山中でも寝ずに動き回ってるのかと思ってました」

「僕を何だと思ってるんですか。必要がなければ動かず休むこともありますよ」

 そんな彼も、一般的にどれくらいの頻度で休憩を挟むべきかを騎士達から説明されて真面目に聞いていた。


 他にはハコネ団長の武勇伝なども聞いた。『俺だって戦ったら強いんだぞ!』と言うハコネの声が聞こえた気がした。結局、誰の戦闘シーンもまともに見てないな。実は遠目にはザコルが参加している訓練現場を覗き見たことならあるのだが、後学のためにと訓練の見学くらい普通にお願いしてみればよかった。こう考えると、伯爵家でやり残した事が結構ある。


 伯爵家で用意してもらったサンドイッチ弁当を丘の上でいただいた後は、広大な麦畑を眺めながらの道になり、そして徐々に草木の多い道へと切り替わっていった。

 ずっと伯爵邸の敷地内にいたので、久しぶりに開けた場所を見て感動した。

 丘から森までずっと興奮しながら辺りを見回していたら、栄えた街より畑や藪に興奮するなんて面白い人ですねなどとザコルに言われてしまった。

 昔、祖母と住んだ家の辺りには田んぼや畑の広がる光景があった。麦の収穫は夏の初めだそうで、これから種まきをするという麦畑にはまだ何も植わっていなかったけれど、除草して耕された畑からは土埃や肥料の匂いがして、ひどく懐かしい気持ちになった。


 畑の道を抜け、脇に樹木が立つ道になると、道幅が明らかに狭くなった。樹木は種類によっては紅葉し始めている。初秋の風を感じながらの乗馬はとても気持ちが良かった。

 小さな川の側で休憩した時、ドングリやマツボックリに似た実を発見して思わず拾い集めた。この世界にも広葉樹と針葉樹があるようだ。夢中になって拾いあつめた木の実の山を護衛隊の皆に見られて笑われた。

 マツボックリに似た実は油分が多いから火起こしに使えますよと言われ、よく乾いたのを選んでハンカチに包み鞄にしまった。


 その後アケビによく似た実も見つけたのでザコルに聞いてみたら、同じようにワタを食べるのだという。

 かなり高い位置にぶら下がっていたのを眺めていたら、ザコルがフックのようなものを使い、木の幹を軽々と駆け上がり取ってくれた。オゥ、ニンジャボーイ。

 実を指ですくって口に含むと上品な甘さが広がった。アケビは美味しいけれど、種が多くて食べにくいのが難点だよね。


「僕は面倒なので、山で見つけると種ごと飲んでしまいます」

「アケビの種って食べていいものでしたっけ。祖母には出すよう言われたんですが」

 アケビを食べていたら、護衛隊の数人が見にやってきた。

「氷姫様の国ではこれをアケビと呼ぶんですね。こちらではニャーコって呼ばれていますよ」

「えっ、可愛い。これからはニャーコって呼びます。これが手に入ると、祖母が皮を灰汁抜きして、天ぷらという揚げ物にしてくれたんですよ」

「この皮を食べるんですか? 確か、かなり苦かったような…」

「ニャーコがアケビと全く同じものなら食べられると思います。栄養があるんですって。アケビの皮もすごく苦くて子供心には苦手でした。でも、懐かしいな」

「ミカの祖母君は、色んな知恵をお持ちだったんですね」

「はい。厳しかったですけれどね」


 十歳の時、母の失踪後に私を引き取ってくれた祖母は、決して孫を甘やかしはしなかった。

 挨拶や食事の仕方、家事など、しっかりと仕込んでくれたことは今でも感謝している。祖母は自分の歳を気にしていたと思う。厳しくするのは私のためなのだと、子供心にもよく解っていた。季節の食材を手に入れては触れさせてくれ、よく図書館にも連れて行ってくれた。祖母は私によく「あんたは利口だからいい大学に行きな」と言っていた。

 厳しくて優しかった祖母は、私が高校に上がる頃、脚を悪くしてあまり動けなくなってしまった。動けなくなると、今までの快活さが消え、たまに別人のように怒り出したり、失踪した私の母…つまりは娘が来るから迎えに行くと言って聞かず暴れたり、食べ方を忘れたかのようにご飯を茫然と見つめたり、逆に何度も食事を催促したりと、少しずつ、しかしあっという間に普通の会話や習慣が出来なくなっていった。

 心配した近所の人があれこれと相談に乗ってくれて、介護サービスを受けられるよう何とか手続きすることができた。

 私は高校で文芸部に入部してみたものの、初日以来顔を出すことはついぞなかった。

 朝は祖母に朝食を摂らせてからヘルパーさんにバトンタッチし、デイサービスに送り出してもらい、授業が終わるとすぐに帰宅し、祖母が戻ってくる前にご飯を用意し、洗濯物の片付けや掃除をし、合間に勉強するといった生活を二年程続けた。数年振りに訪ねてきた叔母夫婦が、施設に入れようと言い出すまでの事だった。


 祖母は私を大学に入れるつもりでパート代と年金から貯金していてくれたようだが、生活費や介護費用でみるみる目減りし、施設への入居金に充てたら足りないくらいだった。

 祖母の家土地を売り払って工面することに決まった時は悲しくて寂しくて、眠る祖母の横で一人で泣いた。お金のことはほとんど叔母夫婦が引き受けてくれたので、子供だった私にはどうすることも出来なかった。祖母の家土地が売れる事になり、施設に入る順番が巡って来たのは、それからまた半年ほどが経ち、私の受験が始まった頃だった。

 祖母が私名義で貯めておいてくれたお金を受験費用と入学金に充て、家土地を売り払って残ったお金の一部、そして叔母に保証人になってもらい借りた奨学金で、私は叔母の家がある隣県の県立大学に進学した。しばらくは叔母夫婦といとこの住む家にお世話になったけれど、バイトを始めたのをきっかけに独り暮らしをすることになった。

 祖母のいる施設には定期的に見舞いに行った。祖母は私の事を実の娘、つまりは母だと思い込んでいるようだった。それでも、季節の果物を持って会いに行くのはやめなかった。



 手にもったアケビを眺めていたら、ザコルが残りのワタをむんずと掴み、自分の口に放り込んだ。

「えっ、全部食べた…?」

 ザコルは種ごとごっくんと飲み込んで言った。

「そんな顔をさせるくらいなら……いえ、手がベタベタになりました。川で洗ってきます」

「あっ、私も」

 水を飲むクリナの横で手をすすぎ、護衛隊の一人が沸かしてくれていた白湯を受け取って飲んだ。その後またザコルにヒョイと馬に乗せられ、旅を再開した。

 ザコルが私の手の甲をそっと撫でた。アケビを全部食べてすみません、という事だろうか。私もその腕を黙って撫で返しておいた。


 ◇ ◇ ◇


 夕方を過ぎ少し薄暗くなりかけた頃、森を抜けて小さな街が見えた。これからの予定を聞くと、今夜はこの関所のある街に宿泊し、明朝に出発、明日はもう領境を越えるのだそうだ。


 街の入り口では、以前ハコネの師と聞いた第一騎士団団長ボストンと数人の団員が待っていて、街唯一の宿泊施設へと案内してくれた。ボストンは白髪混じりの年配男性だが、見上げる程の大男で、顔や手に刻まれた古傷と盛り上がった筋肉が物凄い迫力だった。なんというか、世紀末感満載なお人だ。


「到着が遅いのでな、こちらから捜しに行くところだった」

「お待たせして申し訳ありません。別れが惜しくてなかなか出立できなかったものですから」

 ガハハ、とボストンは豪快に笑った。

「主様方の事だ。それはそれはあなた方を可愛がったろう」

「はい。本当の本当にお世話になっています。ね、師匠」

「あ、はい。僕まで服の餞別をいただきまして」

 ザコルが服をつまんでみせる。

 オリヴァーに押し切られただけにも見えたが、服を贈られたのは嬉しかったのかもしれない。

「深緑の猟犬殿。貴殿に会えるのを楽しみにしている団員も少なくないぞ」

「それは……ええと、幻滅させないといいのですが」


 その後、宿の酒場でしどろもどろで挨拶したザコルに第一騎士団員と護衛隊の男達がどんどん酒を飲ませ、次々と腕相撲勝負を挑んでは散っていた。

 酒場は大いに盛り上がり、団長と街の力自慢を含む全員を倒したザコルは、酔っぱらい達に担ぎ上げられて広場に連れていかれ、胴上げされていた。楽しそうだなあ…。


 ザコルに酒は飲むなと厳命されていた私は、エビーの監視のもとベリー入りのドリンクをちびちび飲みながら料理をいただいていた。疲労のたまった身体に、ガツンとした味付けの酒場料理がよく染みる。


 しばらくするとザコルが何事もなかったように戻ってきた。お酒に酔わないとは聞いていたけど、かなりの量を飲まされていたのに全く様子に変化が見られない。


「僕があれしきの薄い酒で酔うわけないでしょう。まあ、酒精を樽ごと飲んだとしても変わりませんが」

 酒精、とは純度を高めたアルコールの事だろう。

「うへぇ。それほぼ毒じゃねーすか。流石は狂犬。バケモンすねぇ」

 ほろ酔いのエビーが茶化す。

「猟犬です」

 ちなみに、私が渡り人だと言うことは街の人には伏せているので、必要以上に絡まれることはない。それどころか伯爵家の縁者という事で、失礼があってはいけないと少々遠巻きにされていた。

「ミカさんがぁ、寂しそうにしてましたよぉ」

 氷姫という呼び名も封印し、ミカでもホッターでも好きに呼んでくれと言ってあった。

「んーん、へふにはひひくはんは、はいほー」

 別に寂しくなんかないよー。

「ミカはおばあ様に食事のマナーを厳しく躾けられたんじゃないんですか」

 私は口に入れていた分厚いハム肉を咀嚼して飲み込んだ。

「酒場での食事マナーは習ってないですねえ。おいしーですよ。これ、食べます?」

 ハム肉の皿とフォークを差し出すと、ザコルは手で直接肉を摘まんで口に放り込んだ。

「酒場でお上品にフォークやナイフを使うなんてマナー違反です」

 おおー、かっけー。アウトロー。

「猟犬殿はあのサカシータ一族なんでしょ? 人間やめてるって噂の」

「人間をやめた覚えはありませんが、人間らしくないとはよく言われます」

「そうかなぁ。師匠程人間味に溢れた人はそうそういないと思いますけど」

「そんな事を言うのはあなただけです。僕を混乱させて何が楽しいんですか」

「その怪訝な顔が好きなんですよ。ああ、それそれ、その顔」

「………………」

「…ふっ、ふふふ、もう、何その正直な顔。ふふっ」

 思いっ切り寄せた眉間の皺。思わず笑いが漏れる。

「いーなあ。俺もミカちゃんみたいな理解のある彼女欲しいなあー」

 エビーがダルそうに机に突っ伏す。

「ミカに失礼でしょう。僕はただの護衛で世話係ですから」

「はあ、いつもお世話になってます師匠」

「ミカさあん、エール一杯どうすか? そいつ困らせてやりましょうよお」

 エビーがメニュー表を持ち上げた。

「ダメです! 勧めないでください!」

「師匠ったら、私だって一杯くらいじゃ流石に記憶飛ばしませんよ」

「いいですか、ここにホノルはいないんですよ。あなたが酔い潰れたら僕が全て介抱するんですからね」

「わあ、えっちー」

「やるぅ」

 ひゅーひゅー。

「揶揄わないでください! というか、飲んでますね!? ミカ!」

「あはは、本当に一杯だけですよ。ベリーのエール。やっと気づきましたねえ」

「……おっと、俺は勧めてませんからね。女将が間違えて持ってきたんすよ」

 ザコルに睨まれたエビーが椅子ごと後ずさりしている。

「ふふ、相変わらずお酒とジュースの見分けがつきませんねえ師匠は」

「ミカ、お腹は一杯になりましたか? もう部屋に下がりましょう」

「ええー。もう少しここにいたいですよおー」

「明日を潰す気ですか!」


 ザコルに引きずられて部屋に戻されたものの、酒のせいか目が冴えてすぐ眠れそうになかった。

 女将が届けてくれたタライのお湯と手拭いで身体を拭き、宿で借りたワンピースを着てベッドに腰掛けると、自分で写した地図とハコネの旅冊子でも見直そうと広げた。

 一時間程して扉をノックされたので返事をしたら

「まだ起きてるんですか? 早く寝てください!」

 とザコルの声が返ってきた。中学時代の修学旅行を思い出して笑ってしまった。


 あのジュースみたいなベリーエール一杯で二日酔いになることはなく、翌朝はすっきりと起きられた。

 とは言え、慣れない馬旅のせいか、体のあちこちが強張っている気がする。しっかり体を伸ばしてから顔を拭いて着替え、簡単に荷物をまとめたら昨日の酒場兼食堂のある一階に降りる。階段の下には既にザコルが立っていた。


「ミカ、おはようございます。身体の調子はどうですか」

「おはようございます。元気ですよ」

 ザコルに伴われて食堂に入る。

「女中の方が後で軽くマッサージしてくれるそうですよ」

「えっ。嬉しい。実は肩や背中が凝ってて…」

「あれえ、猟犬殿はマッサージしてあげないんすかあ? ミカさん、おはようございます。今日もお綺麗ですね」

「ありがとうエビー。おはようございます」

 エビーは既に食堂の椅子に座ってパンを頬張っていた。

「僕が彼女にマッサージなんてできるわけ」

「もー、真面目なんだからぁ。なんなら俺がやろうか……って殺気! 殺気引っ込めて!」

 エビーは昨日と同じように椅子ごと後ずさりした。

「冗談ですよ、師匠。エビーも煽らないで」

「ミカさんがそれ言います?」

 ドドドド…と轟音のような音がし、二階と外からドヤドヤと騎士団長のボストンや団員達、護衛隊の皆が食堂に入ってきた。

「なんだ今の殺気は!」

「敵襲か!?」

「…いえ、俺が殺されそうになっただけっす」

「何やらかしやがったエビー!」

 エビーはチラッとザコルを横目で見る。

「狂犬を揶揄って死にそうになりました」

「猟犬です」

 がくっ、と皆が肩を落とす音が聞こえた気がした。


 ◇ ◇ ◇


 私達と護衛隊に第一騎士団の面々を加え、端から見れば非常に物々しい雰囲気で街を出立した。

 昨日ザコルが腕相撲をした男達や宿のスタッフは「またぜひお立ち寄りください」と別れを惜しみつつ見送ってくれた。


 テイラー伯爵領のお隣、ジーク伯爵領との境には、標高はそう高くはないものの岩がゴロゴロとした険しい山が跨がっており、そこそこの難所として知られていた。山を越えさえすればすぐジーク伯爵領の関所が見えるという。

 クリナは私達を乗せたまま、ゴツゴツとした道をものともせず進んでいく。しかしあまりに急だったり道幅のない箇所では、降りて一緒に登ることもあった。

 私はザコルが鍛えてくれた事に感謝した。この程度の登山ならなんとか食らい付いていける。

 今、人生で一番体力に自信がある。汗をかくって楽しい!


「あの、もっと高貴な人って、ここをどうやって越えるんですか?」

 ふと気になって訊いてしまった。籠に入って担がれてでも行くんだろうか。

「かなり遠回りになりますが、ジークとはまた別の領地を経由してこの山を迂回するルートがあります。あなたの体力ならなんとかここを越えられるかと」

「普通、貴婦人はここのルート使わねえすよ。奥様やお嬢様にここを通ったと知られたら怒られるんで、内緒すよ」

 エビーが人差し指を口元に立ててみせる。

「そうなんだ。でもまあこっちが近道なら仕方ないね」

「ミカさん、いや氷姫様も毒されてきてますねぇ」

「これからもミカさんのままでいいよ、エビー」


 お昼過ぎにたどり着いた山頂からの景色は格別だった。下方にジーク伯爵領の関所と街が見える。

 宿で用意してもらった肉多めな弁当を広げ、第一騎士団と護衛隊の皆に囲まれてワイワイと食べた。ボストン団長が珍しいベリーを使った携帯食を分けてくれたので、いざという時に食べようと大事に鞄へしまった。


 山をある程度まで降りて関所が近づくと、急にしんみりした気持ちになった。

 春から今日まで、護衛隊の皆とは顔を合わせる機会も多かったし、今回の旅でさらに距離が縮まったと思う。ザコルはエビーを始めとした隊の面々にイジられるようになって戸惑ってはいるが、心底嫌というわけでもなさそうだ。


「氷姫様、いえ、ミカさん。楽しかったすね。よくこの山を越えましたよ。あんまりあっさり登って行くんで正直びっくりしました」

 エビーが馬を進めながら話しかけてきた。

「うん。確かに今日の山は大変だったけど、二日間すごく楽しかった。皆さん、色々と教えてくれてありがとうございました」

「猟犬殿も。帰ってきたらまた俺らと一緒に飲みましょうよ」

「僕は酔いませんが、いいんですか」

「はは、いつか酔い潰れたところも見てみたいですね」

「なるべく度数の高い酒を用意して待ってますよ。ハコネ団長の奢りで」

 隊員達が口々に言って笑っていた。

「ミカさんもまた一緒に飲みましょうよ」

「もちろん。楽しみにしてるね」

 自分にできる一番の笑顔で応えた。


 武装した人間が大所帯のまま関所に近づきすぎると混乱を招くというので、関所の手前一㎞くらいの所でお別れになった。


 馬を降り、ボストン隊長を始めとした第一騎士団や、護衛隊の皆と一人ずつ握手を交わす。ザコルは全員から荒々しい握手をされていたが、身体の軸が全く動いていなくて正直異様なほどだった。


 髪を整え、目元がよく見えるようになったザコルは、パッと見は上品な顔立ちの真面目そうな青年、という印象である。顔だけなら大人しそうですらあるのに、体格差のある団長が思い切り腕を振ってガシィッと手を握ってもびくともしない。どういう身体の構造をしているんだろう。戦闘民族サカシータ人は皆こんな感じなんだろうか。


 再び馬に乗り、私はまたザコルの腕のかげから顔を出して手を振った。第一騎士団と護衛隊の面々はそこに留まり、いつまでも手を振ってくれた。私達が関所にたどり着くまでを見届けるつもりなのだろう。

 私達はジーク伯爵領の関所を通過した後、急いで砦の上に登って彼らの姿を探した。点にしか見えなかったが、山へと引き返す集団の背中を少しだけ見送ることができた。


 ◇ ◇ ◇


 ジーク伯爵領の関所街は、山蔭の小さな街だったテイラー伯爵家の関所街と違い、有名な景勝地や繁華街のある賑やかな観光地だった。

 人通りがあるのでクリナを降りて引き、並んで歩いた。

「今日はまだ日が高いですが、次の街に出立するには遅い時間です。あなたの疲れもあるでしょうし、今晩はこの街で一泊しましょう」

「分かりました。時間があるなら街を散策してもいいですか? 師匠」

「はい。宿を確保した後なら。休まなくても大丈夫ですか?」

「大丈夫です。ああでも、今日は早く寝ようかな。師匠、肩をマッサージしてあげますよ」

 あ、眉間に皺が寄っちゃった。

「全くあなたは、またそういうことを言って。揶揄うのも大概にしてください」

「あの、ごめんなさい。当て付けじゃないんです。普通にねぎらいたかっただけで…」

 色々お世話になっているしと…。

「……はあ、分かりました。機会があればお願いします」

「ふふ、祖母の肩をよく揉んでましたから、きっと上手ですよ」


 ザコルは慣れた様子で街の中心に向かい、観光協会と看板に書かれた建物を見つけ出すと、受付の女性から宿の情報を聞き出していた。チップなのか銅貨を数枚置いて出て、こっちです、と歩きだした。

 この街には宿が五件ほどあるらしく、そのうちでも割高で綺麗な宿を紹介してもらったらしい。金持ちの商人や高貴な身分の客が泊まる宿なのだそうだ。


「そんなお高い宿に泊まっていいんですか?」

「あなたは伯爵家の縁者なんですよ。選択肢が無いならともかく、あなたの立場で敢えて安宿に泊まる方が不自然です。馬舎もあるでしょうし、警備もいいから安心ですよ」

「そうなんですね。理解しました」

 警備がいいということは、きっと護衛のザコルもゆっくり休めるという事だ。それならばいい。


 たどり着いた宿は大きく綺麗な建物で、宿というより立派なホテルという感じだった。

 ボーイらしき人にクリナと大きな荷物を預け、後はザコルがてきぱきと手続きをしてくれるのを手持ち無沙汰になりながら待った。ふと見ればザコルは腰の短剣を預け、鍵を受け取っている。目立つ武器は持ち込めないらしい。

「ミカ、お待たせしました。部屋が取れたので行きましょう」

 ボーイが手荷物をカートに乗せて運んでくれる。…私達はさっきまで岩山で行軍していなかっただろうか。それが何だ、いきなり高級リゾートへ来てしまったような…。

「何だか落差が激しくて場違いに感じちゃいますけど、伯爵家の縁者らしく優雅に振る舞わなきゃ。集中集中」

「そんなに気を張ることはありません。部屋に着いたら荷物を軽くして街に出ましょう」

「わあ、楽しみ!」

 緊張感が続かないことに定評のある私である。


 ザコルは二部屋続きで取ったようで、私に部屋を案内して鍵を渡した後、その隣の部屋を開けて入っていった。

 部屋は広く、トイレやお風呂まである。クリナに括り付けられていた荷物も運び込まれていた。思わず大きなベッドにダイブしたくなったが思いとどまり、とりあえず肩掛け鞄の中身を出した。身分証明とお金と護身の短刀、そしてホノルのストールだけを詰めなおし、部屋を飛び出した。

 部屋の前で待っていたザコルと合流したら、いよいよ街へ出発だ。


 ホテルを出ると、ザコルが腕を差し出してきた。

「はぐれるといけないので。こちらに来てから市井を歩くのは初めてですよね」

 お言葉に甘え、ザコルの腕に手を添える。

「はい。ワクワクしてます。あ、変な人にはついていきませんから大丈夫ですよ」

「それは当たり前です。セオドア様からあなたの欲しがるものは何でも買うようにと言われて財布を預かっています。気になる店や物があれば教えてください」

「甘々だなぁ…。遠慮したい所ですが、ここは変に遠慮しない方がいいんですよね」

「その通りです。財布の中身が減っていなかったら、後で僕がどんなお叱りを受けるか分かりません」

「じゃあ、屋台の食べ物を物色してもいいですか? あっちに並んでいたのが気になって」

「分かりました。行きましょう」


 異国では水や食べ物が合わなくてお腹を下すこともありそうなものだが、こちらの世界に来てから今まで私はお腹を下した事がなかった。それどころか風邪もひいていない。偶々かもしれないが、私は何となくそれに理由があるような気がしていた。


 屋台では串焼きの肉や、揚げたパン、 スープ、まだ見たことのない果物や加工品などが並んでいた。味が全く想像できない紫色のスープを指差したら買って渡してくれた。味はジャガイモのポタージュだった。


「ん、普通においしい。飲みます?」

「パープ芋のスープでしょう。味は想像がつきますから」

「パープ芋って言うんだ。紫色のジャガイモみたいなものかな。まあまあ飲んで」

「分かりましたから、押し付けないでください。あなたの世界には紫色以外のパープ芋があるんですか」

 ザコルが器を受け取って口を付ける。

「そうですね、多くが黄色か黄色っぽい白です。あ、でも紫色もあった気がする。品種名はそれぞれありますが、全部ジャガイモと呼びます」

「こちらでは、同じような見た目と味の芋でも、黄色や白のものはマシ芋と呼んでいます。分類の問題ではないでしょうか。そちらとこちらで、名前は違えど近しい植物は他にもありそうですね」

「アケビとニャーコの例もありましたもんね」


 米は存在するのだろうか。テイラー伯爵家で出てきた事はないが、この世界のどこかにはあるのかもしれない。

 翻訳チートが効いているのに、同種と思われる野菜や果物の呼び名が違って聞こえるのは何故なんだろう。一方で蜂蜜酒や麦、紅茶など、そのままの意味で聞こえる食材もある。もしや、分類や扱い方の認識が異なると、全く未知のものとして訳されずに聞こえてしまうのかもしれない。


「翻訳チート、意外と万能じゃないんだな。初めて聞く単語でも、実物見たら知ってる物の可能性があるんだ…」

「図鑑などを見ればよく分かるのではないですか?」

 なるほど図鑑か、そういえば食材に関する本は読んでも、絵入りのものはあまり開いていなかったかもしれない。

「そうですね。サカシータ子爵家に図鑑はありますか?」

「蔵書量は伯爵邸に遠く及びませんが、食材に関する絵入りの実用書くらいならあると思います。栽培や採集の参考にするので」

「もし可能なら閲覧させて貰ってもいいですか?」

「もちろんです。着いたら案内しますね」

「お願いします」


 その後屋台を巡りながらザコルに質問して回った所、牛っぽいなと思って食べていた肉は角が立派な水牛っぽい動物の肉で、別種の牛から採れる飲用の牛乳も存在するようだということが判った。

 ただ冷蔵技術がないので、チーズやバターはともかく、生乳は出回らない地域のほうが多いらしい。また、鶏肉っぽいなと思っていたのは、白と黒の羽が特徴の某ブランド地鶏のような鳥だった。その卵は馴染みのある鶏卵だ。が、牛も鶏も聞いたことのない品種名で呼ばれていた、今まで特に気にして食べていなかったので初めて知る事実ばかりだ。


「ミカは意外と食べる物に無頓着なんですね。知識は豊富そうだというのに」

 食材の種類などを全く気にせずに口に入れていたことがバレた。

「ここ何年かは、栄養さえ摂れたらいいやって感じで生きてきてたので…。別に食材の正体なんて分からなくても、伯爵家のご飯は何でも美味しかったし、別にお腹も壊さなかったし…、特に深く考えずにいただいてました」

「ああ、解ります。伯爵家で出てきたなら最低でも食べられる物でしょうからね。僕も料理の名前に詳しい訳ではないですし、体質的に毒や傷んだものでも平気なのでなおさら」

 そうなんだ、毒が平気なのか。暗部構成員の特技なんだろうか。酒に酔わないのもそのせいか。

「私、これからはなるべく興味と危機感を持って食べたいと思います。ここは伯爵家ではありませんから、気を引き締めないと」

「では僕も。料理の名前の一つくらいは覚えてみせましょう」

 目の前の牛串屋のおじさんが微妙な顔をして、牛串を頬張る私達の顔を交互に見やっていた。


 屋台で色々と食べてお腹が満たされたので、メインストリートのお店を見て回る事にした。

 どこの観光地にも名物にまつわるお土産は存在するらしく、深緑湖クッキーとか、深緑湖玉子とか、名所となっている湖の色をイメージした小物などがあちこちの店先にあった。

「ここの湖って綺麗な深緑色が有名なんですね。見る時間はあります?」

「もう日が傾きそうですが、見に行きますか? 少し歩きますが」

「行きます。深緑だし」

「深緑だし…? ええと、はい。じゃあ、あの看板に向こうだと書いてあるので行きましょう」


 メインストリートから離れ、体感では二㎞くらい歩いたと思う。木が多くなった所で『深緑湖 湖畔入口』と書かれているロッジにたどり着いた。ちらほらと人もいる。

 ロッジの脇を抜けてすぐ、煌めく水面が目に入った。湖の中央まで見物用の桟橋がかけられている。夕暮れ時にはまだ少し早く、湖の中心まで架けられた桟橋を歩けば、有名だという深緑色の湖水をじっくりと見ることが出来た。


「深緑ですね。綺麗です」

「僕も初めて見に来ましたけれど、確かに深緑だ」

 桟橋の脇には深緑に見える所以が書かれた看板があった。

「えーと、湖底一面に珍しい深緑色の藻がついているそうですよ。水の透明度が高いから鮮やかに見えるんですって」

「そうですか。って、ちょっ、何をしているんですか」

 私はザコルの深緑マントの端を持ち上げて見ていた。

「師匠の深緑マント、ちょっと褪せてるんじゃありません? これじゃただの緑マントです」

 正しくは濃いめのカーキ色といった所だ。ミリタリーな感じ。

「古いものですし、使い込んでいますからね。夜間に侵入した際、相手からは深緑に見えたんでしょう」

「そっか、別に師匠が自称してる訳じゃないからいいのか」

「僕が自称するわけないでしょう」

「ふ、ふふっ、そっか」

 吹き出しつつ顔を合わせると、ザコルもほのかに笑っているように見えた。


 ここ最近ずっと周りと一緒になってザコルをイジり倒してたから、怪訝な顔ばかりさせていた気がする。何だか久しぶりに彼の穏やかな顔を見た気がして、急に申し訳ない気持ちになった。


「あの、ごめんなさい。最近師匠を揶揄ってばかりいて。嫌になりませんでしたか」

「…? いえ、ミカはそれが常なのでは。僕が怪訝な顔をするのが好きなんでしょう?」

「うん…。でも、きっと笑った顔も好きですよ」

 ぐ、とザコルが喉の奥に何かを飲み込んだ。

「そういうところですよ、ミカは」

「?」

 ザコルの言葉の意図が解らず、思わず首を傾げる。

「周りはどうこう言いますが、あなたはどう思ってるんですか」

「どうとは」

「どう……えっと、僕の、事を、どう……」

 過去最高に気まずそうな顔でザコルが斜め下を見る。カッと血が上ったのが自分でも分かった。

「……そっ、それ、あなたが私に訊きます!?」

「あ……ミカ、その」

 私が大声を出したのに驚いたのか、ザコルが僅かに後ずさった、

「気づいてないなら、仕方ないと思ってましたけど…!」

 ザコルからそんな話をされるとは思わなかった。が、彼に自覚があったというなら言いたい事は山程ある。

「ぼ、僕はただ…! ……前も言いましたが、あなたの立場を考えて…っ」

「じゃあどうして聞いたんですか! 私からこんな話、できる訳ないでしょ!? 私は渡り…っじゃない、何て言えばいいか、ええと、割と融通のきく? そういう立場なんじゃないですか。良くも悪くも私の一言で決まっちゃうかもしれない。だからっ、だからこそ、あなたの意思に反して、進退が極まるなんてことは、決してあってはならない…から…っ」

 自分でも何を言っているのか分からない。口から出るまま言い募っていたら興奮したのか涙が出てきてしまった。

「ミカ」

 ザコルが私の腕を掴んで近くに引き寄せた。

「泣かせるつもりでは。…その、人が集まってきたから少し移動しましょう」

 乱暴に涙をぬぐって周りを見ると、確かに桟橋へ渡りたくても渡れないといった人達が桟橋の入り口近くでうろうろしていた。

「本当だ、人が。こちらこそごめんなさい。泣くなんて反則です。忘れて」

「ほら、歩いてください。抱えて運びますか?」

「もう! やめて、分かりましたから…」


 ザコルを振り払うように離れ、顔を隠すようにして桟橋を引き返す。人の間をすり抜けて、さっき通ったロッジの脇ではなく、湖畔の木のかげまで移動した。


「ミカ、ごめんなさい。多分僕が悪いんです」

「もう、そんな訳ないでしょ。何が悪いのかも分からないうちに謝らないでくれます?」

 すー、はー。息を吸って吐いて自分を落ち着かせる。

「……確かに。今のは僕が悪かったです」

「また悪いって言った。こんなのね、いきなりヒス起こして泣き出した私が全面的に悪いんですよ。泣いたら…話し合いにっ、ならないでしょ……っ、うぇっ、ひぐっ、ううぅー…」

「余計に泣いた! ど、どうしたんですか、今まで泣いたことなんて」

「うえぇー……」

「何ですか、子供みたいに…。僕の事を子供みたいだと言うくせに…」

 ザコルが泣きじゃくり始めた私の手を取り、何かを言おうとしてはやめ、何か言おうとしてはやめている。

 挙動不審だ。

「ふ…っふふふ、変なの」

「変とはなんですか!」

 ボロボロと涙を流しながら、彼の怪訝な顔を見上げる。

「……あのね。わたし、師匠ともっと仲良くなりたい、と、思っています。多分…」

 アメリア達にはよく分からない、と伝えたが、自覚の一つもないというのは嘘だった。

「そんな、僕なんてただの…」

「そんな風に言わないでください。あなたに自分を卑下させるくらいなら、正直に言いますから。…もっと仲良くなりたい。でも…、でもっ、もしも嫌だったら、嘘つかないで。ちゃ、ちゃんと師匠のこと、諦めるからっ、信じて…」

 涙が止まらない。どうしてこんなに感情がコントロールできないんだろう。普段の私なら、もっと冷静に伝えられたはずなのに。

 ややあって、ザコルは口を開いた。

「……じゃあ、シショーって呼ばないでください」

「え?」

 また言葉の意図が解らずにキョトンと見上げる。

「ですから、仲良くなりたいだのと言うなら、ちゃんと、名前で、呼んでくれませんか…」

 ……そうか。そうだ。

 名前って大事なんだ、少なくともこの真面目な彼にとっては。

「ザコル、さん」

「…はい。さんは、要りません」


 今まで、他の人の前では建前上ザコルさんと呼ぶことはあった。しかし初対面の時を除き、本人に直接ザコルと呼び掛けた事は一度もない事に今更ながら気づいた。

 ザコルの立場から見れば確かに不可解かもしれない。

 自分にはミカと呼べなどと気安く言うのに、その本人は自分を妙なあだ名でしか呼ばない。他の人の事は当然のようにファーストネームでも呼ぶのに。もしかして、ずっとモヤモヤさせていたんだろうか。


「…そっか。私が悪かったです、よね…。ごめ…なさっい…うぐ……っうぇぇ」

「泣かないで泣かないで! きっと、いや絶対に僕が悪いんです! ああもう、くそっ、何で泣くんだ」

「ちょっと、失礼」

 ぽん、と目の前のザコルの肩に手が置かれた。

 見上げると、ロッジの管理人とおぼしき、ガタイのいいおじさんが立っていた。

「黒髪の非常に美しいお嬢さんが泣きながら茂みに連れ込まれたと、他のお客様から通報が」

「えっ」

 ザコルの顔色がざあっと悪くなった。

「えっ」

 非常に美しいお嬢さんって誰…?

「あなたのことに決まっているでしょうが!」

 私の独り言に思わず大声で突っ込むザコル。タイミングがことごとく悪い。

「女性相手に大声とは、感心しませんな。お二人とも身なりがよろしいようだが、家名を伺っても?」

「ご、誤解です!」

「後ろめたい事がないなら、堂々と名乗られればいい」

 私はザコルとおじさんの間に入る。

「あの! 彼は、私の護衛です。すみません、私の情緒が不安定なばかりにとんだ誤解を。時々こうして泣き出してしまうクセがありまして」

 もちろん嘘だ。自分でも何故ここまで大泣きしてしまったかなんて解らない。

「おお、そうでしたか。ですが、どうですかな。無理をなさっておいでではありませんか」

 おじさんが私にアイコンタクトを送ってくる。もしここで本気で襲われていたなら彼に感謝したことだろう。適当な言い訳では納得してくれなさそうだ。

「ほ、ほ、本当に誤解なんです。僕はししゃく…むぐっ」

「本当に誤解なので! ご心配いただき、ありがとうございました!」

 白状しそうになるザコルの口を無理矢理抑え、そのままロッジの方向へと押す。ぐっ、くそっ、この男、全然動かんぞ。

「あなた有名人でしょう、変な噂を増やしてどうするんです」

 ごく小声で言ったが、通じたようだ。 無言でコクコクと頷いている。

「失礼します!」

 動き出したザコルについて素早くロッジの脇を抜け、街の中心部へと急いで戻った。


 ◇ ◇ ◇


「公衆の面前で貴婦人が泣かないのって、理由があるんですね」

「何を他人事のように…。僕が社会的に死ぬところだったでしょうが」

 自分から名乗りそうだったくせに。危機管理意識の低さはお互い様だ。

「まあ、ちゃんと説明すれば分かって貰えたでしょうけれど、それでも間違いなく伯爵家に連絡がいく所でしたね」

「……ああ…これは駄目だ…どっちにしろ…死ぬ…」

 ザコルが頭を抱えている。

 あのやり取りだけで連絡されるとは考えづらいが、心配事を増やしてしまって大変申し訳ない。

「そうだ、通報してくれた人が近くにいるかもしれないので髪を隠しておきますね」

 鞄からホノルが編んだストールを取り出し真知子巻きにする。黒髪が珍しいのも忘れていた。

「もう宿にもどりましょうか。ししょ……いえ、ザコル」

「…はい、ミカ」

 ザコルが腕を差し出してくれたので、そっと手を添えた。


 ホテルに戻り、部屋でシャワーを浴びた。昨日は清拭のみだったのですごく気持ちがいい。

「あっ、下着も洗っちゃおー。明日までに乾くかな」

 ルンルンとしながら軽く揉み洗いし、絞ってハンガーに干した。

 替えの下着とワンピースを着込み、ホノルのストールを肩にかけた。夕方前に屋台でそこそこ食べてはいたが、夜になったらお腹が空いてきてしまった。


 部屋を出てザコルの部屋をノックしようとすると、まだ扉に触れてもないのにガチャッとドアが開いて心臓が跳ねた。

「び、びっくりするからノックする前に出てこないでくださいよ!」

「あ、すみません。部屋を出たなと思って」

 何故そんな事が判っている…。

「……あの、もしかして、私がシャワー浴びながら歌ってたの、聴こえてました…?」

「それは、まあ。聞き慣れない歌でしたね」

 すっかり頭から抜け落ちていたけれど、この人異常に耳がいいんだった。私の独り言や、騒がしいパーティで陰口を聴き取る程度には。

 なぜ今日はよりによって天城を越えたりしたんだろうか。恨んでも恨んでも恨みきれない。

「とっ、隣にいてどこまで聴こえてるんですか!? 独り言は! 衣擦れの音は!?」

「いえ、こんな高級宿の防音壁じゃ流石に服の音までは……少ししか」

「衣擦れの音まで拾えるの…? もう! 何で隣の部屋にしたんです!? 私が今脱いだなとか着たなとか下着洗ったなとか全部分かっちゃうじゃないですか!」

「ミカ、ちょっと。また人が来ますから…」

「あ……す、すみません。廊下でしたね。…あの、お腹が空いたので、何か食べたいなと思って」

「分かりました。それなら、僕も一度シャワーを浴びてもいいですか? その、申し訳ないんですが、ご協力頂けませんか」

「? いいですけど…」




 なるほどなるほど。私もザコルのシャワー音を聴くことになればフェアだ。そういうことね。


 ザコルは私を自分の部屋に引き入れると、ガチャッと鍵を閉めた。そのまま私を鏡台前の椅子に座らせ、

「動かないでください」

 と言い残して脱衣所に入っていった。


 なにこれ。何の状況?

 貴族って、未婚男女が二人きりで密室にいるのってアウトなんじゃないの? 護衛だからセーフ?

 それはともかく、もしザコルが女騎士とかだったらこの後もれなくラッキースケベが起きるやつだ。

 あの人、ちゃんと着替え一式を脱衣所に置いてるんだろうか。裸のまま途中で戻ってきたりしない?

 いや、流石に無いかぁ。そこまで無頓着じゃないよね…。


「ミカ! すみません、どこかに服の替え、ありませんか?」

「この無頓着!」

「も、申し訳ありません…。脱衣所の中に入れてくれませんか? まだシャワー室にいるので」

「拭くものと下着は? あるんですか?」

「それはあります」


 パンツ一丁で出てくるつもりだったな。私の存在に気づいて貰えて良かった。

 とりあえず、解きかけの荷物の中を探すと綺麗に折り畳まれた新品の猟犬コスチュームが発見された。脱衣所のドアを少しだけ開けて差し入れる。

「ザコル、ここ置いときます」

「はい、ありがとうございます。すぐ出ますね」


 水音が止んだ。シャワーのノズルをガチャガチャ片付ける音などがする。

 私は慌てて声をかける。

「待って。言っておきますけど、私父親も男兄弟もいないし、今まで誰かと付き合った事もないので、いきなり男の人の裸を見たら物凄い反応をすると思いますから」

 ピタッ……。音が止んだ。

「注意して、出てきてくださいね?」

「分かり、ました……」

 ラッキースケベフラグは自分の心臓のために折った。



 その後、きっちりと猟犬コスを着こんだザコルが手拭いを持って出てきたので、椅子を譲った。

 手拭いをその手から取って彼の髪を拭きだしたら、

「は?」

 と驚かれてしまった。

「あ、すみません。つい祖母を世話していた時のクセで。拭いてもいいですか」


 祖母はデイサービスで入浴するようになるまでは自力で入浴していたので、髪を拭いたり乾かしたりするのはよく私が手伝っていた。

「よくこうやって椅子に座った祖母の髪を拭いて乾かしてあげていました。立ってドライヤーをかけるのが辛いと言うから。懐かしいです」

 この世界にドライヤーは無いので拭くだけだけれど。

「ザコルの髪は短くなったから、すぐ乾きそうですね」

「そうですね、ハコネがいい加減に切れと言うので…」

「私達、ハコネ兄さんとホノルのご夫婦には本当にお世話になっていますね」

「それはまあ…。ハコネは特に、実の兄達よりお節介なくらいです。知ってましたか? ボストン団長はホノルの父君ですよ」

「えー! 何で言ってくれないのかなぁ。娘さんにお世話になってますって言いたかったですよ」

「そういうのは照れくさいんじゃないですか」

「そういうものですかねぇ」

「そういうものですよ」


 手拭いがもうこれ以上は水を吸わないところまで拭き終え、手拭いを鏡台に置いた。

「あ、宣言通り、肩をお揉みしましょう」

「あの、指を痛めないように気を付けてくださいね?」

「あははそんなに堅いわけ……かっっった!」

「筋肉が厚いせいか指が入らないと、前に指圧師の方に言われた事が」

「か……っった…! ガッチガチ! どうなってるのこれ。それに肩が厚い! 手が届かない! 掴めない…!」

「無理しないでください。別に凝っているような自覚もありませんし」

「仕方ない、さするくらいしかできないかもしれませんが、マッサージだけでも」


 さすさすさす。さすさすさす。

「………………」

「………………」

「……これ、効いてます?」


「……ふっ…ふはっ、くく、ははははは」

「あっ、ザコルが壊れた」

 爆笑するザコルは初めて見た。面白かったけれど、効力の低そうなマッサージは五分位で終了した。



 その後、いつもの革ベルトを装着するのを見守った。初めてこのベルトの後ろを見たが、腰の裏は幅広になっていて小さな武器らしい何かが沢山収納されていた。前に毒も入っていると聞かされていたのでもちろん触ってはいない。


「はー、これを隠すためのマントなんですね」

「マントは夜営時のブランケット代わりとか、森や茂みなどに潜む際にも活躍しますよ。あと、ベルト以外にも武器は仕込んでいます」

「へー、靴とか? 手首の辺りとか?」

「よく分かりましたね。…なんで分かったんです?」

「オタクだから…?」

 オタクだから。なんとなく。オタクだから。

「オタク…とは、何なのか知りませんけれど。服の下に防刀用のアームカバーを着けているので、そこに針や小さな刃を仕込んでいます。後は、靴先に鋼板と靴底に刃を仕込んだ靴を履いています」

「重そうですね」

「そうでもないですよ。女性が護身用に使う仕込み靴もあります。ミカのそのブーツももしかしたらと思っていたのですが」

「へっ、これ? サーラ様のブーツが?」

 しげしげと足元を見る。

「なんだろう、ありうる気がしてきた。あのお方なら。踵のあたりとかですかね?」

「そうですね。あと、僕と同じように爪先に補強も入っているんじゃないですか?」

 壁に手をついて立ったまま踵をいじくっていたら、低いヒールの内側に突起が見つかり、指で弾いたら刃が踵裏にシュンッと出てきた。

「おお、おおおおおおお」

「思った通りです」

 ザコルが何でもない事のように頷いた。


 ザコルの装備が整ったので、私も踵の刃をしまい、ホテルにあるラウンジへと向かった。

 食堂の提供時間は終わってしまったけれど、ラウンジなら軽食が食べられるという。念の為、ストールで髪を軽く隠していく。

 案内役のボーイが出てきて、二人で座れるソファ席を勧められたので座った。ザコルの許可を得て一杯だけカクテルを頼む。ザコルが適当にメニュー表を指差すと、サンドイッチにチーズ、フルーツ盛りがすぐに運ばれてきた。

 幸多からんことを、といってグラスを挙げる。


「明確なドレスコードがあるわけではありませんが。流石に二日風呂無しで、山越え後の埃っぽい状態ではここのラウンジに入れません」

「なるほど、それでシャワーをね。全く、急に連れ込まれて鍵をかけられた挙句、ザコルはシャワーを浴び始めるし、何の状況なのかと思ってました」

「人聞きの悪いことを言わないでくれますか。言葉が足りなかったのは僕ですが。入浴中はすぐに飛び出せませんし、流石に音も聴きにくくなる。あなたの状況が把握しづらくなる以上、部屋に戻ってもらうには不安があったので。今日は、あなたが完全に寝入った後にシャワーを浴びようと思っていたんですよ」

「ああ、そうですよね、私の動向は音で管理してるんですもんね。あまぎ、ごえ…」

「あれは何の歌なんですか? 確かに今日越えたのはアマギ山ですが」

「…隠しきれない」

「その歌詞、一体何なんで…」

 私は立ち上がった。

「恨んでも~! 恨んでも~!」

「周囲に誤解を与えそうな歌詞はやめ…っ」

 止めようとするザコルに構わず、私は周囲に誤解を与えそうな歌詞を歌い切った。

 ワッ!と周りの客が立って拍手を贈ってくれた。


「何だ今の歌は。聴いたことのないメロディーだが、歌詞といい、心にガツンとくるな」

「弄ばれる女の切ない気持ちが伝わってきますわね…。もしや新作の歌劇なのかしら」

「アマギって、アマギ山の事かしら。もしかしてあなた、男性のためにあの山を越えるというの? あの険しい山を?」

「まさかその男、あなたをいいように言いくるめて連れ回しているんじゃ…」

 隣にいた上品な大人四人が立ち上がった。

「全くミカは! ちょっと飲ませるとすぐこれだ! 僕をイジめてそんなに楽しいですか!」

 囲まれそうになったザコルも勢いよく立ち上がった。

「どうどうどう。私の部屋の音を盗み聞きした罰です。甘んじて受け止めてください」

「まあ! 盗み聞きですって!?」

「この方ね、大変お耳がよろしいのです。わたくしが心配なのは分かりますけれど、シャワーやトイレの音はもちろん着替えの音一つまで聴かれているなんてどう思われます?」

「なんてこと。まさか聞き耳を立てているの? とんでもないわ」

 美しいマダムに寄り、よよよと眉を下げてみる。

「善良なご婦人を誑かすのはやめてください。耳がいいのは仕方ないでしょう」

「ふーん、仕方ない、ですか」

「大体僕はただの護衛であって…」

 ただの護衛か。名前で呼んで欲しいなんて言うくせに。

「ミカ」

 睨まれた。

「はい。すみません。調子に乗りました。ふふ」

 私が笑みをこぼしたのを見て、隣のご婦人がほっ、と息を吐く。

「何よ、あなた達、仲良しなのかしら?」

「はい。ご心配いただいたのに申し訳ありません」

「なんだぁ、本気で保護してやらにゃと思ったとこだったじゃねえか」

 紳士淑女が自分の席にそろそろと戻っていく。

「そうね。でも冗談で良かったわ。あなたみたいに華奢な子が、殿方との愛を貫くためにあのアマギ山を越えたいだなんて」

「アマギ山とやらは今朝越えて来ましたよ。そこの耳のいい人が『あなたの体力ならいける』と言うので」

『は?』

 ザコルに視線が集中した。

「ちょっ、ミカも、山登り楽しかったなんて言っていましたよね!?」

「正確には『山は大変だったけど、旅は楽しかった』の間違いです。まあ、近道だと言うなら仕方ないですけどね。天城隧道があったら楽だったのに…」

「アマギズイドー?」

「トンネルの事ですよ。山に穴を掘って貫通させた道。ええと、何だったかな、少しずつ木材やなんかで崩れないよう支えながら掘り進めて、貫通させて、最後に石やレンガで補強して、馬車などが通れる道を作るんです」

「それは分かりますけれど」


 まだ小学生の頃、祖母と一緒にバス旅行で伊豆に行った際に立ち寄った。暗くて怖くて、ずっと祖母の腕にしがみついていた。


「トンネル…トンネルか。確かにあの山にトンネルがあれば、テイラー伯爵領への行き来が一瞬になる。テイラーとの交易を考えたら十分元が取れそうじゃねえか、兄貴」

 ワイルドに決めた壮年男性が、同じくらいの歳のナイスミドルに真面目な様子で話し出した。

「我がジーク領にトンネルの施工実績などないぞ。一度、施工例のある領主から話を聞けないものか」

「それなら、我がサカシータ子爵領に山岳部でのトンネル工事を得意とする者がおりますが」

 ザコルがそろっと手を上げた。

「君、サカシータ子爵領の人間か?」

「はい。恐れながら、ジーク伯爵様と伯爵夫人様、弟様、そのご夫人でいらっしゃいますよね。僕はサカシータ子爵が八男、ザコル・サカシータと申します」

 どよっ…

「ザコル・サカシータ…」

「深緑の猟犬…!」

「ブッフッ…!」

 堪えきれなかった。行儀悪くも吹き出してしまう。

「ミカ、大丈夫ですか? 拭くものを」

「けほけほっ…大丈夫、大丈夫です。失礼しました…えっ、今伯爵様とか言った…?」

 今、重要なことを聞き流した気が…。

「こんな所で英雄にまみえるとはな! 以前とは印象が違ってまるで気付けなかった。貴殿の言う通り、私はジーク伯……はっ、するとあなたが…」

 ナイスミドル、いやジーク伯爵と呼ばれた男性が私の方を見る。

「失礼しました、レディ。私はジーク伯爵家当主、オンジ・ジークと申します。どうぞお見知りおきを」

 彼はそう言って跪いた。まさか本当に伯爵様、いやジーク伯爵だとは。

 という事は、きっとセオドアから私達がここを通る事を聞いているはず。私の正体も判っているのだろう。私は頭に被せていたストールを取った。

「初めまして、ジーク伯爵様。お目通り叶い光栄でございます。わたくしの事は、ただのミカと。そうお呼びいただければ幸いです」

 ソファから立ち上がって付け焼き刃カーテシー。決まった。

「まあまあ、あなたが。何と美しい礼をなさること。わたくしはジーク伯爵が妻、イェル・ジークです。さっきの歌はとっても素敵だったわ。全く聴いたことのない旋律だったもの。ああ、でもそれも納得よ」

「俺は、オンジ兄貴の弟でマンジだ。腹違いで育ちはちっと悪いが、兄貴のもとで仕事させてもらってる」

「わたくしは、その妻でニコリですわ」

 次々と挨拶をされる。オンジマンジ、イェルにニコリ。確かに貴族年鑑でも見た名だ。部屋に戻ったら、顔形の特徴とともにメモを残しておこう。

「皆様も初めまして。私はミカ、訳あってテイラー伯爵家のお世話になっております。先程は大変なお耳汚しを。お褒めいただき光栄でございますが、どうかお忘れください」

 先程口を拭ったナフキンで口元を押さえつつ、おほほ、と笑ってみる。手遅れは重々承知である。

「ふふ、そこの耳のいい方への意趣返しでしたのでしょう? 可愛らしいものだわ。いつの間にか部屋の音を殿方に聴かれていたなんて、女性には耐え難い事ですもの」

「お分かりいただけて嬉しいです。せめて事前に聴こえると伝えて欲しかったですね」

「はい。え、ええと、大変申し訳ありませんでした…」

 ザコルが縮こまる。

 …ちょっとやりすぎたか。耳がいいだけなのにごめんなさい。

 そう独り言のつもりで謝ったら、彼は無言でチーズの皿をこちらに寄せてきた。


「ミカ、ありがとうございました」

「へっ、何が?」

 ラウンジからの帰りに、ザコルが急に改まってお礼を言い出した。

「つ、ついに、私からの理不尽な扱いに快感を…!?」

「そんな訳ないでしょう! 理不尽だって解ってるならやめてください! そのうち本気で社会から抹殺されかねません!」

「いやあ、今回はほんとギリギリでしたね。まさか隣の人達が偉い人達だったとは」

 お偉い方々に素人の演歌熱唱を聴かれた上に名乗るだなんて、とんだ黒歴史を作ってしまった。

「しかしそのおかげで、実家の貧乏子爵家にいい仕事の話を持って帰られそうですから。そのお礼です」

 ザコルがぺこりと頭を下げる。

「それは良かったです。適当な気持ちで発言してしまいましたが、トンネル工事にはそれ程詳しくなかったので。ちゃんと専門家がいるみたいで安心しましたよ。崩落とかしたら命に関わりますもんね」

「あなたは詳しくないと言いますが、アマギズイドーとやらの構造を語るのを聞く限り充分博識ですよ。サカシータ子爵領は山岳部が多いので木材運搬や住民のためにトンネルを設置する事がありますが、その他では普及していない領が大半ですから」

「天城隧道は日本では古くに造られたトンネルで観光地なので、たまたま行ったことがあって知っていただけです。私の生まれ育った日本は全国的に山だらけでしたから、トンネルは珍しくなかったんですよ。そうだ、歩くと二時間以上かかるような長いトンネルもありました」

 実際に歩く人はほとんどいないだろうが。私もバスで通った事があるだけだ。

「それは凄い。やはり、それだけ技術が進んでいるということですね。行けるものならぜひ行って見てみたいです」

「そうですね、ザコルが一緒に来てくれるなら、もう一度日本に戻るのも悪くないです」

 待つ人もない故郷だが。


「ミカ、手を」

「?」

 右手を差し出すと、ザコルがその手を取った。彼はしばらくそのまま逡巡していたが、意を決したように私の手を顔に近づけた。

「あなたが望むのなら。どこへなりとも一緒に行きますよ」

 手の甲に口づけられた、と思ったら頭が真っ白になった。

「ミカ、ミカ? ちょっと、あの? 聴こえていますか? 僕が見えますか? ちょっと!」

 ザコルが目の前で手を振ったりして慌てている様子が見えるが、何やら遠い出来事のように思えた。


 ◇ ◇ ◇


「私、免疫無さすぎじゃない?」

 結局あの後、ザコルに手を引かれるがまま茫然と歩いてきた私は、部屋に着き、ストールとブーツを脱がされ、ベッドに寝かされて布団をかけられ「おやすみなさい」の声とともに扉が閉まったところで我に返った。


「ザコル、ごめんなさい。多分聴こえてると思いますけど、大丈夫ですから。ありがとう」

 隣の部屋がある方から、トントン、と小さく壁を叩く音がした。

 嬉しくなって、トントン、と叩き返したら、またトントン、と音がした。その後三回くらい同じ事を繰り返していたら、音が返ってこなくなった。と、思ったら扉が開いた。

「いつまでやってるんですか! 早く寝てください」

「やべ、怒られた」


 ザコルはすぐに部屋に戻っていった。怒られたけれど、一つ仕事を思い出してしまった私は鏡台の引き出しを開け、筆記具と便箋を取り出して今日会ったジーク伯爵家の人達のプロフィールをメモした。

 それから、昨日馬上で見た景色、アケビの味、酒場での事、アマギ山越え、屋台で食べた物、湖の色など、簡単だが順に書き記していった。練習がてら、ちゃんとオースト国の言葉で書く。便箋が五枚ほどに到達したところでまたガチャッと扉が開いた。

「ミカ!!」

「……っ! びっくり、したあ…」

 そういえば、この人私の部屋の合鍵でも持っているのか。護衛なら当たり前か…。

「いつまで何を書いてるんですか。明日に障りますから本当に寝てください。…もう一度口づけでもしたら静かになりますかね? 手か額か頬か選んでください」

「寝ます寝ます! あ、傷ついた顔しないでくださいよ! 私にそういうのはちょっと早いんです! おやすみなさい!」

 ベッドに潜り込んだ私を見て溜め息をつき、ザコルは再び自分の部屋に戻っていった。



 翌朝、よく眠った私は再びシャワーを浴びて身支度を整え、荷物をまとめて肩掛け鞄だけを手に部屋を出た。大きな荷物はきっと後で取りに来てくれるだろう。


「ミカ、おはようございます」

「おはようございます。ザコル」

「脱衣所で音が聴こえ始めたので、あまり音が聴こえなくなる距離まで移動していました」

「あまり……。参考までに訊きますけど、どれくらい離れたら聴こえなくなるんですか?」

「そうですね、壁が三枚以上あれば、シャワーの音は聴こえづらくなります」

「ちなみに今どこに行ってたんですか?」

「この廊下の端の方に行っていました」

「そうですか…。お気遣いいただきありがとうございます」


 腑に落ちないが、私の部屋の扉が見える位置としては最大限の譲歩なのだろう。

 大食堂に向かって歩いていくと、入り口前の待合のソファーに昨日のジーク伯爵夫妻とその弟夫妻が座って待っていた。近づくと立って挨拶をしてくれた。


「ミカ殿、猟犬殿。おはよう。よく眠れただろうか」

「おはようございます皆様。旅の疲れがすっかり取れました」

「おはようございます」

 私達も揃って礼をする。

「猟犬殿、サカシータ子爵にこれを。年明け以降でいい、トンネル工事についてお聞きする機会を頂きたい」

 そう言ってジーク伯爵は書状を差し出した。

「承りました。テイラー伯爵にも僕から連絡をいたしましょうか」

「いいや、それは私からしよう。どのみち連絡しなければならない事もあるからな」

 アマギ山の所有はテイラーとジークで半々らしい。トンネルを通すなら相談は必須だ。

「ミカ様、音は大丈夫だったのかしら。壁の防音について、宿に物申した方がよろしくて?」

「いいえ、イェル様。このお宿の防音は完璧です。私の部屋からは隣の生活音なんて水音一つ聞こえませんでしたから。この人がおかしいのです」

「おかしいとはなんです。今日は廊下の端まで寄って待っていたでしょう」

「そうでしたね。脱衣所の音を感知して移動してくださったんですよね。ご配慮ありがとうございます」

「ふふ、やっぱり仲がよろしいのね。微笑ましいわ」

 ニコリ様がクスクスと笑う。歳上の女性だけれど、ニコリ様はとっても可愛らしい笑顔をする人だ。


「実はなあ、要人がお忍びでこの街を通るってんで、俺らはそれを口実にここで休暇を楽しんでたってわけさ。念のためな。会うつもりはなかったんだが」

「そうだったのですね、マンジ様。気づくのが遅くなって申し訳ありません。お会いできて良かった。貴重なお休みをその要人のために使ってくださり、感謝申し上げます」

 四人はここでその要人、もとい渡り人の私が何か問題でも起こした時のため、休暇という名目で待機していてくれたという事だ。

「いいや、こっちが感謝してるくらいさ。こういう機会でもなきゃ、兄貴も休む時間がねえんでな。兄貴と旅行なんて、久しぶりだったなあ」

「わたくし達も楽しかったわね、ニコリ。深緑湖にも久しぶりに足を運んだけれど、綺麗なものには心癒されるわ」

「わたくしのことまで誘ってくださって嬉しゅうございましたわお義姉様。良い思い出になりました。それもこれも、要人様のおかげですわね。ミカ様、道中お気をつけていらしてね。猟犬様、あまり無理をさせないで差し上げてね」

 いい休暇だったのは本当のようで、四人はニコニコと晴れやかな顔をしている。


「そうだな、アマギ山を越えてきたというのは何の冗談かと思ったが…。そうでもなければここの関所を通る理由がないからな。あまりレディに無茶をさせるのは感心しないが…。ふむ、要人殿は騎士団員並みの体力をお持ちらしい」

 ジーク伯爵が顎に手を当て、感心したように言った。

「ええ、ミカは素晴らしいですよ。僕が修練を勧めたのは夏の終わり頃でしたけれど、毎日弱音も吐かずよく修めました。アマギ山も朝にテイラー側を出発して日が高いうちにはここの関所に辿り着きましたから、馬も一緒とはいえ一般人としてはなかなかのスピードです。街や湖の散策をする余裕まであって、本当に予想以上の仕上がりですよ。この分ならモナ男爵領に抜けるウスイ峠はいけるとして、ツルギ山は流石に迂回しようと思っていましたが…」

『………………』

 急に饒舌になったザコルに全員の視線が集中した。

「……ん?」

 微妙な空気を察したかザコルの顔色が徐々に悪くなってきた。

「今のは、私のせいじゃありませんからね。墓穴を掘ったのはザコルですから」

「ちょ、距離! 距離を置かないでください!」

 思わずニコリ様の方へ寄った私の前にイェル様がさっと入った。

「猟犬様。少し、お話し合いが必要かしら?」

 上品な笑顔から特大の圧が放たれる。貴族出身の方はこの圧を皆習得済みなのだろうか。

「い…いえ……ルートを、考え直し、ます…」

「そうしてくれるのがいいわ。再来週末、サーラ様にお茶会に呼ばれているのよ」

 しまった、これはザコルはともかく騎士団の皆まで怒られてしまう。

「イェル様。私がアマギ山を越える件については奥様とお嬢様には秘密にと、騎士団の者からも言われております。彼らがお叱りを受けては気の毒ですから、サーラ様にお伝えするのはお控え頂けませんでしょうか」

「まあ、そうなの。ではテイラー伯爵はご存じなのね。猟犬様、くれぐれもテイラー伯爵がお許しになった道順だけは外れてはなりませんよ。ミカ様、もしこの者が無茶を言うようなら、すぐ近くの警邏隊にでも身分証書をお見せになってね。我が領でもモナ男爵領でもすぐに保護してくれますから」

「はい。話し合いでどうにもならなくなったら考えさせていただきます」

 私の予備知識が少ないせいで正しい判断ができるかは分からないが。

「ミカ、流石にあなたが無理と言えば僕は…」

「無理だと言わなければ行かせようとしていたわね?」

 イェルがピシャリと言う。マンジがその言葉に頷いた。

「ミカ殿はなかなか根性がありそうだからな。相当な事じゃなけりゃツルギ山でも知らずに登っちまうんじゃねえか」

 ツルギ山、と言うのはモナ男爵領とサカシータ子爵領の間にまたがる険しい山岳地帯一帯を指す地名だ。山脈とも言うべきか。雲をも突き抜ける巨岩が麓からも見えて見事だと、テイラー伯爵家所蔵の当主探訪記にもあった。文献では標高までは分からなかったが、よく軽装備で登ろうとした者が遭難したり滑落したりするらしく、初心者には危険度の高い山だという事は見てとれた。

「そんな、危険は一つでも多く回避すべきよ。そう言うのは本来、護衛が過保護なくらいに先回りして考えるべきですのに」

「猟犬殿、これから予定しているルートを教えてくれたまえ。何、時間は取らせないさ。もし遅くなればここにもう一泊でも二泊でもしていけばいい。費用はこちらで持とう」

 そう言ったジーク伯爵の圧には勝てず、ザコルはオンジ・マンジの兄弟に連れられてホテルの食堂の奥の個室へと連れて行かれてしまった。


 食堂の入り口には、お姉様方二人と私だけになった。他の宿泊者がたまに通り過ぎるのみだ。

「大丈夫よ、ミカ様。マンジは要人護衛のプロよ。さて、わたくし達にはちゃんと見えない場所に護衛が控えておりますからね。よろしければ朝食をご一緒いたしましょう」

 マンジは『腹違いで育ちが悪い』と自称する程には生い立ちが複雑なようだが、今では伯爵を護る一番の腹心らしい。…なにそれ。アツすぎじゃない? いつかその兄弟伝をじっくり聞かせてもらいたいものだ。


 ザコルは連行されたまま戻ってこなかったので、私はイェルとニコリという麗しい義姉妹と一緒に朝食を楽しみ、その後は一緒にメインストリートへと散策に出た。

 女三人、楽しくお土産を物色し、オシャレなカフェでスイーツを食べた。どうせ正体がバレているならと、店員や他の客が見ていない所でドリンクや果物を凍らせ、二人を楽しませたりもした。

 その後は再び湖にも行って管理人の紳士に昨日の謝罪とフォローをし、イェルに三人お揃いのイニシャル入りのハンカチを買ってもらい、すっかり仲良くなってホテルに帰ってきた。

 ザコルが解放され、宿を出発させて貰えたのは結局その翌日の朝だった。


 宿の前で四人の親切な貴人に見送られ、別れを惜しみつつ出立した。餞別に貰った豪華弁当のカゴを抱え、クリナを引くザコルと並んで歩く。

「そのカゴ、重くないですか? やっぱり僕が持ちましょうか」

「いえ、そうすると師匠の両手が塞がっちゃうでしょ。大丈夫ですよ」

 む、眉間に皺が寄る。

「シショーはやめてください」

「ふふ。ルート、一緒に考えて貰えて良かったですね、師匠。いくら私でも垂直の岩壁は登れませんからね、師匠」

「くっ、馬に乗ったら覚えて…」

「まあ。無体を働くおつもりかしら。宿に駆け戻らなくっちゃ」

「僕を社会的に殺そうとしないでください!」

「冗談ですって」

 プンスカするザコルの腕を笑いながらさすって宥めた。


 賑やかなメインストリートを通りながら、この街に来た時とは反対の街の出入口へと向かう。これからジーク領内の街道を進み、次の街を目指す予定である。

「あ、ザコル。待って。あれ買ってほしいです」

 私は昨日お土産屋で見かけて目をつけていた、深緑色の天然石ビーズと黒い木製ビーズを繋いだブレスレットを指した。

 あしらわれた彫刻が民族調で可愛らしい。値段もそう高くなさそうだったし、お土産としてねだっても厚かましいという程じゃないだろう。

「可愛いでしょう? 深緑色の石。メノウかなあ。せっかくだから、旅の記念に買って欲しいです」

「あなたがそう言うなら買いますけれど、ミカ、あなた、解って言ってるんですよね?」

「何が?」

「まあ、いいです。人から何とでも言われればいいんですよ。店主、これを」

 ザコルがブレスレットを店主の老婆に渡し、銀貨を差し出す。ブレスレットとおつりを受け取り私に向き直った。

「どうぞ」

「すみません、カゴで手が塞がってるので着けて貰えませんか」

「……はい」

 ザコルが私の左手首にブレスレットを通す。小さなビーズによって長さを調節するタイプで、ザコルがキュッとビーズを締め、私の手首に沿わせてくれた。

「可愛らしいねえ。恋人かい?」

「えっ」

「それ、彼氏のマントと、お嬢さんの髪の色だね。ぴったりだよ」

 店主にそう言われてみればそうだ。というか、全くその通りだ。顔に熱が集まるのが分かった。

「ほら、行きますよ。ミカ」

「はい……」

「ありがとねぇ」

 にこやかに手を振る店主に会釈を返し、そろそろと歩きだす。


「………………」

「…………ふっ、はは、ははははは」

 ザコルが笑い始めた。お腹を押さえての爆笑だ。

「何笑ってるんですか!」

「ミカは、本当に可愛いですね」

「ふ、ふぅぅー!…ああ、もう、嫌ぁ」

 変な唸り声をあげてしまった。カゴで顔を隠す。

「カゴ、持ちましょうか。顔が見えませんし」

「イジめないでください。変態」

「変態とはなんですか。あなた、これからその変態と馬に乗るんですよ」

「やっぱり宿に走って戻ろうかな…」

「やめてください。僕が悪かったです。もう笑いませんから…ふっ…」

「また笑ってる!」

 私は顔を隠したまま、思わず街の出入口方向へ走り出した。

「ちょ、待って! 危ないですから! …っ、クリナ、あ、ちょ、本当に待てと言ったら…!」


 私は三十メートルくらい離れた場所で立ち止まる。

 馬のクリナを放置するわけにもいかず、雑踏を早足で走らせるわけにもいかず、完全に進退が極まったザコルをカゴのかげから見た。

 賢いのか、人混みの中では決して急ごうとしないクリナを何とか引っ張ってザコルが追い付く。

「本当に危ないんですよ! 離れないでください! 最悪クリナを放り出さないといけなくなるじゃないですか!」

「それは良くないですね」

「ほら。もうカゴも降ろして。ああもう、顔にカゴの編み目がついてますよ」

「ん」

 ザコルが顔に手を当てたので思わず声が出た。

 しっかり編み目の跡がついた私の額や頬を検分し、そしてはっとしたように手を引っ込めた。

「今、何か、視線が複数…悪意は感じませんでしたが」

「ジーク伯爵家の方ですかねえ。私には分かりませんでしたが」

 まだ街中だ。イェルが言っていたように、見えない所にジーク伯爵家管轄の人がいてもおかしくはない。


 ザコルと並んで街の出入口へと歩く。訪れたばかりの観光客達とすれ違った。皆表情は明るい。私達は逆に、あと少しで街を出る。

「まあ、今見られたとすれば私の恥ずかしい場面なんですけど」

「あなたに恥をかかせたなんて知れたら立場が悪くなるのは僕です。ああ、どのみち湖であなたを泣かせた時点で僕の寿命は決まったかもしれませんね」

「ザコルってこの国最強なんでしょう?」

「そんなの、主の方便ですよ。少なくとも兄達の方が強いです。最近手合わせしていませんが」

「お兄様達も敵将二人抱えて山を駆け回れるタイプなんですか?」

「武人なら普通それくらいできるでしょう?」

「いや、知りませんよ。あなたの普通は信じるなと言われてますし」

「ミカ、こっちへ」

 不意にザコルが私を背に庇った。

 サッとマントの内側に手を入れ、私が差し掛かっていた路地の入り口から奥に向かって何かを投げた。一気に緊張が走る。

 ザコルは私を背に庇ったまま近くの街灯に素早くクリナの引き綱を結ぶ。

「ミカ、絶対後ろについて離れないでください」

 黙って頷くと、路地に入っていくザコルの後ろを歩く。カゴはクリナの近くに置いた。

 狭い路地をまっすぐ五十メートルくらい歩くと、物陰にうずくまる男性がいた。脚がうまく動かないらしい。よく見ればザコルの投げナイフが太ももに突き刺さっている。

「どこの所属だ」

 ザコルが冷淡な口調でそう投げかける。

「悪魔め…っ! な、なにも、は…っ、話す事は、ない。我らの神に、誓って…!」

「なるほど。神様からのご依頼ですか。大層な事だ」

 ザコルは男の太ももからナイフをゆっくりと抜いた。サッと抜いてやらないのはわざとだろうか。

「う、うぐううっ」

 うめく男性を放置し、懐から紙を出してナイフの血を拭っている。

「ああ、あなたとはいつかの酒場以来ではないですか。覚えていませんか、間抜けにも僕と知らずに勧誘したでしょう、ああ、この鼻につく匂い。隠れていてもすぐ分かるんですよ。そこにもう一人」

 そう言うなり、ザコルはまた何かを投げた。今度は飛礫か何かのようだ。飛礫はすぐ側の大きなゴミバケツを大きくひしゃげさせながら吹き飛ばした。ザコルはさらにもう一投追撃し、バケツの後ろで逃げ出そうとしていた人影に命中させた。

 言葉で説明すると長く感じるが、一秒にも満たない出来事だった。

「ご迷惑をお掛けするのは心苦しいですが、ジーク伯様にご協力いただきましょう」

 ザコルが脇の建物の上に目を向けると、しばらくして建物の中から黒装束の男達が二人出てきた。黒装束は黙ってうめく男達を縛り上げ、ザコルのナイフを恭しく返した。

「マンジ様に伝言です。七番目の道で行きますと」

「承知しました」

 ザコルは顔をあげ、すん、とわずかに鼻を鳴らした。

「ミカ、急ぎましょう。少し走れますか」

「はい」


 ザコルに手を引かれてメインストリートの方へと走り戻る。弁当のカゴを回収するのを忘れない。

 ザコルはクリナの引き綱をほどくと、カゴを抱えた私を横抱きにし、そのまま鐙に脚をかけ飛び上がるようにして馬上に股がった。

「すみません、少し状況が良くありません。急ぎます。このまま僕にしがみついて。決して口を開かないで。舌を噛みますから」

 カゴの持ち手に片腕を通し、ザコルの服を掴む。反対の手は横乗りの体勢ままザコルの背中に手を回して掴んだ。ザコルが腹を蹴ると、クリナは猛然と走り出し、器用に人や障害物を避けながら街の出入口から飛び出した。


 ◇ ◇ ◇


 予定していた街道ではなく、森の中を無理矢理突っ切って走り続けること五分か十分、ようやくクリナは減速した。それでも足は止めない。荷物も背負っているのに、体力のある馬だ。


「次に行くはずだった街をやめ、森の中にある小さな集落を目指します。集落で屋根を貸して貰えるとは思いますが、最悪野宿になるかもしれません」

「しゃ、喋って、いいですか?」

「ああ、すみません。どうぞ」

 私はずっと服を掴んでいた手を緩め、少しだけ体を起こした。変に斜めの体勢でしがみついていたので、そろそろ腹筋が限界だった。

「はあ…」

 ザコルの胸に頭をもたれかけさせて息を吐く。

「大丈夫ですか。もう少し先に行ったら休憩にしますので」

「はい。大丈夫。よく分からなかったけれど、あの人達、ラースラ教の人でしたか?」

「そうです。一人はテイラー領で接触した信者と同一人物でした。彼らは独特な香の匂いが体に染み付いているので、路地からの風で特定できました。怖い思いをさせましたね」

「流石は猟犬……鼻もいい…」

「なんだ、結構余裕がありそうじゃないですか。大丈夫ですよ。絶対に撒いて見せます」


 そのまま三十分ほど進み続けると、流れの急な川のほとりに出た。

 ザコルは先に降りると、まだ体がこわばっている私を抱いて下ろしてくれた。クリナから荷物を下ろして楽にしてやり、そのトランクを地面に置いてポンポンと叩いた。椅子がわりにして座れという事か。

「はああ…」

「無理をさせました。すみません」

「いいえ、昨日のうちに出発すれば見つからなかったんじゃないですか? 私がラウンジでジーク伯爵様達に接触しなければ…」

「いえ、結果的に今日彼らを捕まえましたけれど、昨日や一昨日から街の出入り口で張っていたかもしれません。ジーク伯爵家と連携が取れるようになったのはむしろ幸運かと」

「そうですか…。それなら良かったです」


 ザコルは野営道具の中からカップと小さなケトルとアルコールランプと金属製の台を取り出し、マッチで火をつけて川の水を沸かし始めた。一応水筒に水は入っているが、なるべく節約するために水辺では白湯を沸かすものらしい。


「説明不足で申し訳なかったのですが、アマギ山を超えたのは、なるべく街の経由を少なくするためだったんです。迂回すると、テイラー伯爵家とはあまり関係のよくない領地の街も通らなくてはなりませんでしたので」

「それは、不満に思っていたわけじゃないんですよ。登山が楽しかったのも嘘じゃないですしね。でも、説明は先にくれるともっと嬉しいです。私が無駄に足を引っ張らなくてすみますから」

「そうですね。気が利かなくて本当にすみません」

「もう謝らないでください。ツルギ山へのアタックはまだ無理そうですけど、ウスイ峠とやらはいけそうなんでしょう? 行きますよ、私」

 ザコルが顔を上げた。

「良かった。あなたならそう言ってくれると思っていました。マンジ様とルートを十二通り考えたのですが、七番目のルートはウスイ峠を通らないと成り立たないので。しかし人の多い街はこれでほとんど回避できます!」

 何だろう、すごくいい顔をしている。

 そこまでして私に峠越えをさせたいのか。

「この森を通るのもルートのうちですか?」

「十二通りのうち、七から十二は緊急回避ルートです。基本的に大きな街の近くを通る道は避け、小さな町や集落で補給しながら進みます。マンジ様にちゃんと伝言しましたから基本的に冷遇される事はないでしょう。あなたをあの宿で二日休ませられて良かったですよ。これから少々過酷になりますので」

 少々過酷か。それはいいが、今頃イェルやニコリがカンカンに怒っていないといいな、と私は空をぼんやり見上げて思った。


 ザコルが渡してくれた白湯を啜り、十五分程の休憩ののち再び出立することになった。

 ザコルは白湯をろくに冷まさずあおったのち、野営道具の片付けをし、クリナへ荷物を再度くくりつけた。彼の方は動きっぱなしでほとんど座っていない。


「ねえ、ちゃんと休める時に休んでくださいよ。私が代われる事は何でもしますから。次に水辺で休憩する時は私が白湯を用意します」

「いえ、この二日間大して動いていませんでしたし、むしろ有り余っているくらいなのですが…。でも、そうですね。余裕のあるうちに野営道具に慣れてもらった方がいいでしょうね」

「はい。ぜひそうさせてください」


 横乗りの慣れない体勢のせいで予想以上に疲れたので、今度はちゃんとまたがって乗った。クリナの首筋を撫で、よろしくねと声を掛ける。

 かくして、朝の浮ついた雰囲気は吹き飛び、緊迫感バリバリの行軍が急に開始されたのだった。


 ◇ ◇ ◇


 森を進むこと二時間半。川を越えたり、崖を降りたり、途中で大きな街道に当たりつつも垂直に渡って素通りしたり。

 色々あったけれど、小さな湖のほとりに出たので再び休憩することになった。人の手が入っていないのだろう。湖岸は落葉や折れた枝などが堆積し、自然な姿のままだ。


「ここの水って、沸かせば飲んでも大丈夫ですかね?」

「さあ、大丈夫じゃないですか。そう濁ってもないですし」

 適当だ。そうだ、この人、毒でも傷んでても平気だとか言っていた。

 クリナから降ろした荷物の中からピクニック用のラグと野営道具を出して広げた。かなり街を離れたが、念のためアルコールランプでお湯を沸かすことにした。煙を出すのは何となく不安だ。ザコルが見守る中、二人分の白湯を沸かしてカップに移す。


 ザコルと並んでラグに座り、緊急時でも死守した豪華弁当のカゴを開けた。

「ローストビーフサンド! チーズ! マスカット! ナッツの蜂蜜漬けー!!」

 食に無頓着な私でもテンションの上がる、実に華やかな弁当だ。

「ああ、パンが紙に包んであって便利ですね」

 ザコルの感想はそっけない。だがそれも旅の途中でも食べやすくと配慮してくれたポイントの一つだろう。お肉がたっぷり挟まれたサンドを頬張ると幸福感に満たされた。そして今朝まで高級リゾートホテルにいた事が思い出された。

 目の前には、ジャングル…とまではいかないが草木の生い茂る、ありのままの自然風景。

「落差が、激しい…」

「あの、今日はよく寝られないかもしれません。先に謝っておきます」

「大丈夫です。少々無理をする旅だっていうのは覚悟の上でしたから。ただね、今朝までのホテル暮らしとのギャップに戸惑っているだけです」

「そうですか。夜、寝られなかったら相談してください」

「相談したら何してくれるんです?」

「何を…えっと……手を、握る、とか…?」

「ふっ、ふふ、ふふふふふ……」

 む、と怪訝な顔になる。

「…別に、口づけでもいいんですが? どこにします?」

「はは、あはは、笑ってごめんなさい。あの、もしもですけれど、私からあなたに口づけしたらどうなるんです?」

「……だ…」

「だ?」

「だ! 駄目です! 僕とて、ええと、……駄目ですからね! こんな人けのない場所で危険な事を言わないでください!」

「危険なんだ」

「危険です!」


 今朝、迷いもなくナイフや飛礫を投げつけて人間二人を仕留めた人のセリフとは……ああ、そうか。

 もしかして、私に血を見せてしまったから、夜眠れなくなるのではと心配しているんだろうか。この不器用な人は。

「そうですね、眠れなかったら、手を握って貰おうかな」


 ラグは大人二人で寝転べるくらいの広さがあったので、サンドを食べたらゴロンと横になった。堆積した落ち葉のおかげで寝心地はいい。空の雲が遠い。秋の空だ。肌を撫でる風が涼しい。夜はきっと冷えるだろう。


 ローストビーフサンドとマスカットだけを食べ、チーズとナッツの蜂蜜漬けはそのまま取っておく事にした。荷物を片付け、少し軽くなったカゴを抱き、また出発だ。

 それから四時間、小休止を挟みつつ山を登ったり谷を渡ったりを繰り返した。

 途中で運よく自生するコケモモらしい実を見つけたので、ザコルに食べられるかを聞いて一緒につまんだりもした。とても酸っぱかったけれど、疲れた体にはよく染みた。


 そろそろ日が傾くかという頃、森を抜けて山間の小さな集落にたどり着いた。山から大きな籠を背負って下りてきた人に声をかけ、集落の長の家まで案内してもらった。

 出迎えてくれた長は、既にジーク家から事情は伝わっていると快活に笑い、私達は幸運にも一宿二飯を恵んでもらえる事になった。


少々過酷でも景色を愛でる余裕があるミカです

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