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誰が召喚したか知りませんが、私は魔獣ではありません  作者: もっけのさひわひ


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余裕無さすぎんだろ

「痴話喧嘩も大概にしてほしいすよねえ」

 僕の耳に、廊下で話す声が聴こえてくる。



「はは、あれはやはり痴話喧嘩なのですね!」

「そもそも喧嘩でしたかね? お互いに想いをぶつけ合っていらしただけでは」

「ほんとほんと。ミカさんはあれで鈍感なとこあるからなぁ。全く世話が焼けるバカップルすよぉ」

「エビー様はほどほどにした方がいいです。今度こそ死因がドングリになりますよ」

「エビー! お、俺も世話を焼きたいぞ。どうすればドングリが飛んでくるだろうか!?」

「タイさんに何か仕込むとドングリっつうか姉貴に殺されるんすよねえ…」


 くそ、エビーめ。この会話、わざと僕に聴かせているな。

「チッ、本気で死因をドングリにしてやろうか…」

「何を怒ってるんですか。皆の前で喧嘩なんてしてた私達が悪いんでしょ」

「喧嘩なんかしていません」

「そうですね、ザコルが怒ってただけですもんね」

「すみません…」

「謝らないでくださいよ。不安にさせた私が悪いんです」

「ミカこそ謝らないでください! 散々不安にさせたのは僕の方で」



 トントン、とノックがされ、返事をするとメリーが扉を開けた。

 その後からマージが一礼して入ってくる。

「失礼いたします……ザコル様。ミカをお離しくださいます?」

 未だに僕に拘束されていたミカを見たマージが、困ったように首を傾げて言った。

 仕方がない。渋々離す。


「先程の騒ぎについて事情をお伺いしたかったのですが、後にした方がよろしいですか?」

「いえ、構いません。どうぞお姉様」

 ミカが僕の代わりに答えた。

「助かりますわミカ。では、お二人はそちらにお掛けくださいませ」

 マージは僕達の後ろにあったソファを指し示す。


 メリーは水差しとカップと軽食、そして林檎と調理道具と器などが乗ったワゴンをローテーブルの横につけ、一礼して部屋から出ていった。

 ミカが僕に林檎のシャーベットをと話していたので、エビーかピッタが気を回して頼んでいったのだろう。


 向かいのソファに座ったマージに、事の顛末を簡単に説明する。


「なるほど。ミカはこれまで、カリューの状況については全くご存知なかったのね。イーリア様もザコル様も、あなたには本当に過保護だわ」

「私もそう思いますが、今ならお二人の気持ちも解ります。重傷者がいると聞けば、何も考えずに飛び出した可能性もありますから。下手をすれば曲者を大勢引き連れて被災地に乗り込むなんてことにもなったでしょうし…」

「いいえ、きっとそんな事を心配したのではないわ。あなたに危険が及ぶかどうか、お二人が考えるのはそれだけよ」

 マージはゆったりと首を横に振る。

「私自身はちょっとやそっとでは…」

「シータイに来た避難民達が、不自然な程の速さで回復しているのは、あなたも気づいているのでしょう」

「そ…っ、それは…。でも、私は何も」

 ミカが言葉を濁す。

「これから話すのはわたくしの仮説よ。ミカ、あなたはここにいるだけで、皆に何か影響を及ぼしているのではないかしら」

「マージ」

「仮説ですわ」

 僕の睨みも何事もないかのように流し、マージは優雅に微笑む。


 ミカの作る氷や湯に、僅かな治癒効果があるのは把握している。ミカもそれは承知の上で積極的に振る舞っている。だが、その僅かな治癒効果というにはあまりにも速い回復速度には、ミカも違和感を感じていたはずだ。


「マージお姉様は、私がカリューに行くと、その影響が強まるかもしれないと?」

「仮説ですわ」



 無意識にしろ意図的にしろ、ミカはカリューで力を使うだろう。

 義母は今頃、重傷者を含めた怪我人を隔離しているはずだ。ミカがもし力を使ったとしても、口封じが最低限で済むように。回復したとしてもそのまま一週間以上は隔離させるつもりに違いない。


 ミカのようなお人好しが、明日をも危ぶむ重傷者を目の前にして冷静でいられるかどうか。それは僕も危惧していた。義母もその点は全く楽観視するつもりはないようだ。


 強い治癒能力を持った渡り人として有名なのは、初代テイラー女伯爵であったエレノア様だ。だが、彼女のように堂々と身分を得て、身の安全を生涯保証された渡り人ばかりではない。

 権力者によって陰で一生飼い殺しにされたり、政治の駒として扱われたり、それこそ宗教団体によって生贄のように扱われた者もいたと聞く。それすらも生ぬるいと思えるような目に遭った者も大勢いることだろう。


 正史には残らない、渡り人召喚の闇。

 特にあのサイカ国から来た義母は、その闇の深さをよく知っている。



「きっとイーリア様はあなたのしたいようにと計らわれるでしょう。ミカが望まれるのなら、カリューでも『影響』を与える事を、きっと黙認なさる。でもね、あの方はあなたを利用しようなどとは思われない方よ。秘密もしっかり守ってくださるわ。どうか、それだけは信じて差し上げてほしくて」


 マージがそう口にすると、ミカは虚を突かれたような顔をした。


「そんな。イーリア様に利用されるだなんて考えた事はありません。何ならカリューの話題から遠ざけられていたような気が…。心配するとすれば、私の知らない所で口封じや掃除と称して死人が出ているんじゃないかって方ですよ」

「あら、ふふっ。それはあり得ますわね」

「笑い事じゃありませんよ、マージお姉様」


 ミカが義母を微塵も疑っていないと確認できたマージは、安堵しているようだった。


「ミカ、ありがとう。あの方を、私達を信じてくださって。でもね、もう少し警戒なさった方がいいわ」

「お姉様ったら。いくら私だってきちんと人を見て判断していますよ」


 …コマと同じような事を言う。そんなにお花畑に見えるだろうか。


 ミカの独り言だ。コマの「もっと警戒しやがれ」というセリフを思い出したんだろう。


「警戒はともかくとして、皆さんが私をそうまでして庇護しようとしてくださるのは単純に不思議ですよ。テイラー伯もジーク伯もですけれどね。それで何となく、私が変な人に捕まるとマズい事が起きるんだろうなとは察しています」


 察するだけでそれ以上に余計な事は訊かない、この姿勢も実にミカらしい。

 ミカなりの処世術なのかと考えていたが、それだけでなく、訊く相手の立場を慮るあまり、気になる事も聞けないでいる時もあるんだなと気づいた。カリューのことも、被害を正確に予見していたからこそ、避難民達に気を遣って話題に出さなかっただけのようだ。

 

 この聞き分けの良さや優しさに甘えていてはいけない。言わなくとも赦してくれるからと、聡い彼女に我慢を強いていいはずがない。雑に扱っていると痛い目を見る、そんなことは解っている。


 何もかも話せる立場ではない。それでも、僕は言葉を尽くすことを忘れてはならないのだ。


「マズい事、ええ、そのつもりでいていただくのがいいわ。くれぐれもご自分で敵を仕留めに行こうだなんて考えないでくださいませね」

「はい。護衛にも怒られましたから。鍛錬は本気でしますけどね」

「ふふ、ミカは本当に面白い方ね」


 マージは必要な事は伝え終わったとばかりに、話を切り上げた。

 そして去り際「くれぐれもお行儀よくなさいませ」と僕に釘を刺して退出していった。


 ◇ ◇ ◇


「いいなあ。私もお姉様に叱られたい…」

「どうしてそう悪趣味な事を言うんですか。あのマージを敵に回すという事は、この町に新しい墓標が建つという事ですよ」

「私は叱られたいんであって敵に回したいわけじゃないですよ。それで、あの、ザコル…」


 私が望むなら『影響』を与えていいのだとマージは言ってくれた。イーリアもきっと黙認すると。


「あなたの得た力だ。好きにすればいい」

 そう言いながらザコルは私の腰をガッと掴んだ。

「わひゃっ」

 身をよじる私に構わず持ち上げ、ヒョイと自分の膝に乗せる。

「あの、お行儀よくなさるんでは…」

 腰に両手を回して後ろからぎゅうと抱きしめ、私の背中に頭を擦り付けた。

「ミカの匂い」

「あの、吸わないでくれます?」

「ああ、二人旅に戻りたい」

「あの、話は…」

「…………」


 会話を諦めた私は、手の届く場所にあった鞄から編みかけの帽子を取り出した。適当に突っ込んだせいで毛糸はこんがらがっていたが、編み目は無事だった。


 しばらくして今度こそ満足のいくものが完成し、眺めたりかぶったりしていたらようやく腰に回った腕が緩んだ。


「それは、コマの帽子ですか」

「はい。いいでしょう。タイタが目の辺りに芯を入れていたのではって言ってたので、後から芯が入れられるように中にポケットも作ったんです。入れなくてもかぶれますけどね。ふふ。いい出来」

「何でコマなんかに…」

「はいはい。そのコマさんがね、こんなの体質だから適当に付き合えって言うんですよ。魔力が余ってんなら、魔力切れに備えてザコルに貯めさせときゃいいだろって、ほんと軽い調子で。私が深刻に考えすぎなんですかね」

「だから、僕は最初からそう言っているでしょう。何でコマの言う事は素直に聞くんですか」

「ザコルの普通とか大丈夫とかは簡単に信じるなとサーラ様に言われていますので」


 む、とザコルが黙る。


「…すみませんでした」

「何がですか」

「やはり、僕が強引だったかと」


「…ううん。私も素直に信じてあげられなくてすみませんでした。ザコルは、魔力について詳しいと私に言いづらかったから、あんななつっけんどんな態度にもなったんじゃないですか。元を正せば、コマさんの秘密に触れてしまうかもしれなかったから」

「…………」

「違いますか? では、また別の誰かを庇って…」

「いえ、それも理由の一つです。コマの事も、黙っていて…」

「はい、もう謝らない。私は、元同僚の秘密を安易に漏らさなかったザコルを尊敬します。私もきちんと彼を尊重しますから。安心してくださいね」

「ちっとも安心なんてできません」

「何でですか…。大事に思ってるんでしょう?」

「思ってません」

「素直じゃないですねえ」


 ザコルは、私がいくら思い詰めて泣いても、情に流されてコマの秘密を喋るような事をしなかった。

 嘘や演技が苦手な彼は、人の持つ魔力に関して知見があると匂わすような事もせず、ただただ関連する事の全てを黙っていたんだろう。それだけ、コマは彼にとって大事な、尊重すべき相手なのだ。


「ふふ、この際なので、コマさんからは色んな事を学ばせてもらいましょう。信用していいんですよね」

「……魔力を食わせている限りは、それ相応のものを返すと思いますよ」

「分かりました。どうせ垂れ流しみたいですからね。好きなだけ食べてもらいましょう」

「その垂れ流しが、マージの言う『影響』とやらではないですか」

 魔力の垂れ流しが、周囲の人に影響を…?

「…あ、そっか。そういう可能性もありますね。でも、シシ先生は何も…」

「誰しもが全てを語っているわけじゃありません」

「ううむ、なるほど」


 きちんと診てもらったのは夜だったから、単純に気づかなかったのかもしれないし、何か理由があって言わなかったのかもしれない。理由だって、町のためかもしれなければ、もしかすると私のためとか…。


「ミカは本当に何でも前向きに捉えますよね。シシが何を考えているかなんて分かりませんよ」

「いえ、あの時は相当過敏になってましたから。その辺に魔力を垂れ流しているなんて告げられたら、それこそ町を飛び出していたかもしれないです」

「…………」


 黙ってしまった。つくづく、苦労をかけたなと思う。


「…一応、後で感謝を伝えておきましょう」

「そうしましょう。そういえばシシ先生、診療所でコマさんの姿を見た時、ちょっと動揺してませんでした?」

「そうですね。動揺するにしても少し遅いのではと思いましたが…。確認ですが、あの二人は牢の前で一度顔を合わせているんですよね?」

「はい。コマさんと衛士くんの二人が、香の影響で魔力が線みたいになっちゃってるって言って慌ててました。もしや、香のせいでパッと見特別に見えなかったんでしょうか」


 血の代わりに魔力が通っているなんて人の魔力が、常人と同じような見た目とは考えづらい。シシが驚いたとすれば絶対にコマの魔力を視たからだ。


「……考えても判りませんね。まあ、コマは『道具だと思え』と言って、シシも分かったと言っていましたし、特に干渉する必要はないのでは」

「そうですね。コマさんがいいなら別にいいですよね。私ももう触れないように気をつけます」

 これ以上はあの二人の問題だ。


 私は持っていた帽子をローテーブルに置いた。

 ザコルがまた腕を緩めたので、私は体ごと捻って彼の方に顔を向けた。

「こっちを見ないでください」

「ええー」

 そこはかとなく赤い気のする顔を横に背けられる。


 ザコルが私を膝から下ろし、席を立つ。

 どこへ行くのかと思ったらワゴンをローテーブルに寄せてきた。そして私の前に水を注いだカップを置き、軽食と、林檎が盛られたカゴ、ナイフ、カッティングボード、ボウルや鍋などをテキパキと並べていく。

 並べ終わるとサンドイッチを二、三個自分の口に放り込んで私の後ろに立った。そしておもむろに私の髪紐を解き、どこから出したのか櫛を持って髪を梳き始めた。


「…………」

 何だこの状況…。

 とは思いつつ、私も無言のままサンドイッチを食んだ。

 そして食べ終わると、林檎とナイフを手に取って剥き始めた。


「僕は後悔しているんです」

「え、今度は何をですか」

「まずは、ミカの過去の話を碌に訊かなかった事です」

「ああ…」


 私の男性恐怖症の話か。

 ザコルには初対面の頃に生い立ちを軽く話しているが、それ以上詮索もされなかったので、あまり詳しく話してはいない。


 剥いた林檎をスパ、スパ、と切り分けて芯を除き、さらに細かく切り分けた林檎を鍋に入れていく。


「ミカが祖母君の話をするたび、寂しそうな顔をするのが気に入らなくて」

「気に入らない? ……まさか、うちの祖母にまで嫉妬を…?」

「何とでも言ってください」


 過去の話をした時、あからさまに話を逸らされたり切り上げられたりしたことはある。それもあって、そう興味がないのだろうと思い込んでいたのだが…。

 あの人は心が狭いだけ。エビーも、そういえばコマも同じような事を言っていた気がする。


「ザコルって私のこと…いえ。あの、私の過去の話ですけど、面白い話じゃないですよ?」

「話すのがつらいなら言わなくていいです」

「つらいという程では。じゃあ、聞いてくれますか」

「はい」



 私は二つ目の林檎を剥きながら、つらつらと話し始めた。


「母親が姿を消してから、少しの間、学校に行けなくなった時期がありましたので、担任教師だった男の先生が家に訪問してくれていたんです。彼はしきりに『可哀想』だと言って慰めてくれました。その時はまだ十歳の子供でしたから、ただ優しい先生なんだなと思っていたんですが、後から考えると、最初からやけにスキンシップが多かったんですよね。有無を言わさず私の部屋に入り込んで扉も閉め切っていましたし」


 ザコルは黙って私の髪を何やら複雑に編み込んでいる。


「それを黙って受け入れていたのがいけなかったんですかねえ。ある日『いいかな』と訊かれたので、よく解らず『はい』と答えてしまったんです。そうしたら、押し倒されてしまって…」


「ミカ、やはり曲者を何人か生贄にしてニホンへ行きましょう。僕もついて行きますから」

「へ」

「その男は今、何をしているんです」

 ブワ、背後からとんでもない圧が放たれる。

「ザコル、代わりに怒ってくれるのは嬉しいんですが鎮めてください。誰か来ますよ」


 言うが早いか、ドンドン、と扉が強く叩かれた。返事をするとメリーが転がり込んでくる。

「どうされましたか!」

「ごめんね、何でもないよメリー」

「ですが今…」

 メリーは私の背後にいるザコルを伺う。

「本当に何でもありません。思い出話をしていたらつい殺気が漏れてしまって。よくある事でしょう」

 いや、決してよくある事ではないと思う。メリーは額に手をやって溜め息をついた。

「あまり驚かせないでくださいませザコル様……あの、それで、何をなさっているんです」

「ミカの髪を編んでいますが、何か」

「……いえ、失礼いたしました」


 非常に納得がいかないという顔でメリーが一礼し、部屋を出ていく。

 廊下がにわかに騒がしくなったようだが、メリーが皆に説明してくれたのだろう、喧騒はすぐに引いていった。


「それで、どうなったんですかミカ。確か未遂で終わったのですよね」


 髪を編み続けつつ続きを促してくる。

 殺気という程ではないが、微妙にピリピリとしたものを肌に感じる。


「ええと、そうですね……押し倒されて流石にマズいなと思ったんですが、声を出そうとしたらぶたれて、口を押さえられてしまって。でもたまたま近くにあったローテーブルに読み終わった本の山があって。咄嗟にテーブルの脚に自分の足を引っ掛けてその山を倒したんです。先生が怯んだ隙に抜け出して、さっきのメリーのように扉をドンドン叩きました。すぐ祖母が来てくれましたが、祖母と孫の二人暮らしだからって舐めていたんでしょうね。先生は私が急に暴れたと言って祖母に圧をかけたんですが…」


「やはりニホンヘ行き」


「最後まで聞いてください。大丈夫ですよ。その男は、祖母が箒とバット…いわゆる棍棒で、コテンパンに叩きのめして警察に突き出しました。私の顔の怪我と脱がされかけた服の写真も証拠に撮って…ああ、写真とは見たままを精巧な絵のように残せる技術なんですよ。それから、すぐに学校と教育委員会と知る限りのクラスメイトのお家に連絡して、先生の家族や親族を調べ上げてそちらにも抗議の電話をして、といった具合に、肉体的にも社会的にも報復の限りを尽くしていましたので大丈夫です」


「…………」


「その後、他にも触られたと言う女子が何人か出てきまして、先生は先生ではなくなりました。妻子にも逃げられ、ご実家で厳しい監視の元暮らしていると聞いています」


 祖母は私の負担を考えたのか裁判を起こすまではしなかったが、先生の実家からはそれなりの額のお詫び金をもらったようだ。後から気づいたのだが、それらしい入金が私の名義の通帳に記帳されていた。


 ザコルがキュッと私の髪に巻きつけた紐を結ぶ。

「ミカ、祖母君に感謝を申し上げたいのでやはりニホンヘ行きましょう」

 彼から発せられていたピリピリとしたものは止んだ。


「ふふ、ありがとうございます。自慢の祖母なんですよ。でも、せっかく守ってもらったのに、私は心に傷を残してしまいました。同世代の子供はまだ良かったんですが、大人の男性はもう見るのも怖くなってしまって。十二歳まで通うはずだった小学校は結局不登校のまま卒業して、十二歳から十五歳まで通う中学校は私立の女子校へ行きました。経済的には厳しかったと思うんですけど、祖母が行けと強く後押ししてくれまして。電車やバス…ええと、公共の馬車? みたいなものには男性も乗ってますからとても一人では乗れず、祖母が毎日車で送り迎えしてくれました」


 中学に通ううちに心療内科にかかり、カウンセリングを何度も受けたり、祖母に付き添って町内の集まりなどに顔を出して優しくされるうち、少しずつ大人の男性と話したり、長く一緒の空間にいても耐えられるようになった。

 お陰で何とか高校からは公立の共学校に進む決心がつき、そして十五歳の三月。


「ついでなので話してしまいますが、中学を卒業する頃、日本のとある地方で稀に見るような大きな地震があったんです。私が住んでいた地域は海が近くて、海底で大きな地震があると津波という大波が来る可能性が高い地域でした。ですから、もし警報が鳴った時は、高台にあった自宅にいる場合は必ずそこを離れないように、決してお互いを探しに出ないようにと祖母から強く言われていました」


 剥いて切り分けた三個目の林檎を全て鍋に入れる。


「私はたまたま自宅より海に近い図書館にいて、大きくて長い揺れを感じて、警報はそこで聞きました。ケータイ…連絡手段は持っていなかったけれど、祖母はどうせ自宅にいるだろうって。呑気にも借りた本や持ってきた本で鞄をいっぱいにして、大した危機感もなく、重い鞄背負ってプラプラ歩いて帰って。結局、津波が私がいた場所まで届く事はありませんでしたが、地震であちこちの塀なんかが倒れたらしく、道は荒れていました。自宅に続く道に救急車がいて、近所の方が集まっていたので駆け寄ったら、祖母が瓦礫に足を引っ掛けて派手に転び、腰の骨を折ったと聞かされて…。祖母は帰りの遅い私を探すために、家を出て走ったみたいでした」


 それから、祖母はしばらく入院し、リハビリを行ったものの経過は芳しくなく。


「祖母は地元でもお友達の多い、活発な人でした。そのお友達の皆さんには私もとても助けられましたし、皆いい人ばかりでした。祖母は足腰を悪くした事をきっかけに塞ぎ込んで、家に篭るようになってしまって。それからどんどん、自分を失っていってしまいました。…でも、いくら人が変わってしまっても、私にとっては自慢で、ヒーローで、大切な大切なたった一人の家族だった」


 四個目の林檎を取る気になれず、私はナイフを置いた。


「私なんかを引き取っていなかったら、私なんかを心配して探しに出なかったら、私がもっと急いで家に帰っていたら。今も地元で、たくさんのお友達に囲まれて、楽しく暮らしていたかもしれないって…私が祖母の人生を壊したんだって…ずっと…」


 自分を憐れむな、守られるより守る側になれという、誇り高い祖母の言葉。

 父母に捨てられた分際で、立派だった祖母の人生を滅茶苦茶にした。

 お前なんかには泣く資格もないのだと、私が私を責め立てる。

 誰にも頼ってはいけない。心配なんてさせちゃいけない。

 もう決して『可哀想』な自分には成り下がらない。


 …心に染みついた言葉達は、自分を形どる信条のようで、しかし呪詛のようでもあり、私を私という形に縛りつける。

 頑固だと、融通が利かないと解っている。しかし、どうしようもなく自分を変えられなかった。 



「ミカ」

 後ろにいたはずのザコルがいつの間にか隣に座っていて、私の手を掴んだ。

「…ごめんなさい、ザコル」

「何故謝るんですか」

「だってこんな話、今の状況に関係ないでしょ、聞かされても困りますよね。この世界じゃ、私なんかより苦労してる人もいっぱいいるでしょうし。私は恵まれていますから。でも、聞いてくれてありがとう、ちょっとスッキリしました。あ、林檎のシャーベット作りましょう。早くしないと変色しちゃ…っんぐゅう」


 急に抱き締められて、息が止まる。

 潰れた蛙のような声に気付いたのか、腕はすぐ緩んだ。


「難儀ですね。ミカを救けようとすればする程、ミカは息がしづらくなるようだ」

 物理的な話だろうか。たった今、肺は潰れかけたが。


「単純に頼れと言ったところで、あなたに響かない理由が判りました」

「けほ…っ、私これでも、ザコルにはかなり頼ってますよ。それこそ、自分でも驚くくらい」

 この出会いは、確かに私を変えた。しかしザコルは首を横に振る。

「いいや、頼りにされていない」

「そんなことありませんってば」

「どうだか」


 ザコルはフンと鼻を鳴らし、不遜な感じで腕を組み、ソファに背を預けながらこちらを横目に見てくる。

 最近よく見る俺様モードだ。


「ミカは自立しようという気持ちが強すぎるんです」

「社会人ですし当然のことでは」

「人のことはぐだぐだに甘やかしてダメ人間にしようとするくせに」

「ザコルは性分的にダメ人間になんかならないでしょ。というか私、大規模水害が起きてるって分かってるのに単独で救助に行けとか、結構鬼畜なこと言ってますからね?」

「僕が濁流ごときでどうにかなるわけがない」

「それはザコルだから言えるんですよ。ほら、私だってあなたの強さに甘えてます」


 しばらく、どっちが相手に甘えているかいう不毛な押し問答は続いた。


「大体、ミカは僕に周りを見ろとか幸せになれとか言いますが、必ず『私がどうなったとしても』が枕詞につくんだ。ミカはそんなに捨て身でいて、本当に僕と婚約してくれる気があるんですか?」

「別に捨て身な訳では。婚約…の仮約束ですよね? は、ザコルが必要だと考えるのなら、もちろん」


 どんな理由があるのか知らないが、何か必要に迫られてそういう事になっているんだろうから別に拒むつもりはない。

 今の段階で彼が恋人でいてくれるのと、本気で婚約するのとはまた別だろうと私も理解している。


「僕がどうとかじゃありません。あなたはどうしたいんですか。僕や周りに流されていませんか」

 流されている、そうとも言えるかもしれない。

 だが、私は自分の意思で目の前の人を信じ、判断を委ねているのだ。どうしたいかと問われれば、ザコルの言う通りにしたいと言う他ない。


「離すなだとか僕が必要だとか言う割に、僕に求めてくる事といえば人助けやその延長のような事ばかり。それも結局は僕の評価につながる事だ。そういうのも甘やかしていると感じる要因です」


「ですから、そんな事ありませんって、甘やかしているのはザコルの方じゃないですか。何度も言いますけど私、ザコルにはかなり我が儘を言ってるんですよ。ザコルだって私に振り回されて散々だったみたいなことたまに言ってるでしょ? 今なんか、こうして図々しくご実家にまでついてきちゃって……自分でもびっくりですよ。我が儘言ったり、調子に乗ったり、意地悪言ったり、泣いたり、怒ったり。そういうの、全部受け止めてくれるって心から信じられるのは、日本でもこの世界でもあなた一人だけです」


「…………」


「私、さっきみたいな後ろ向きな感情に飲まれそうになる事が多かったんですが、こちらに来てからはその頻度も減った気がします。元気だった時の祖母なら、私に前を向けと叱ってくれただろうと、今は思えます。…それでも、可哀想という言葉にはつい反応しちゃったり、人に心配させるのはやっぱり怖いと感じてしまうんですが…」


 彼の焦茶と榛色の交じる瞳をじっと見つめる。


「ザコルが、優しいふりなんてせず正直な態度で接してくれたり、怒ってもいい、思うことはぶつけろと言ってくれたり、渡り人なのに魔法はオマケだと言い切って私自身に価値があるように言ってくれたり…。私、きっとそういうのに少しずつ癒されて、少しずつ変わってこられているんだと思います。あなたは充分、私を救ってくれています。…だから、大好きです、よ、ザコル」


 大好きという言葉に自然に頬が緩み、しまらない笑顔になってしまった。

 また気持ちの悪い笑いだとか言われるかと思いきや、ザコルは無言のまま動かない。


「ザコル?」

 目の前で手を振ってみるが、反応がない。


「どうしよう、まだ話したい事あるのにな。魔力を貯めておく件とか」

 ザコルが急に動き出し、両手で私の顔をぎゅむと押した。

「い…っ、今はっ、勘弁してください!」

「じゃあ、忍の話でもします?」

「そっ、そうしてください」


 ◇ ◇ ◇


 僕は再びミカの後ろに立ち、しっかりと編み込んだ髪を一旦解いた。

 僕がただ赤面しているのを見られたくないだけだとミカも解っているのだろう、彼女も何も言わずに調理器具を手に取る。


 ミカはどうしてあんなに恥ずかしい事をスラスラ言えるんだ。…いや、僕が仕向けたのか。これがエビーの言うところの『返り討ち』なのか。情けないとしか言いようがない。僕だってミカには……


「とはいったものの、私だって別段、忍に詳しいとは言えないんですよねえ」

 ミカは鍋の林檎に魔法をかけてヘラで混ぜながら言った。

「ミカの『詳しくない』は一般の人間からすれば『少し詳しい』か『まあまあ詳しい』くらいなのでは」

 サーラ様…奥様のおっしゃっていた、僕の『普通とか大丈夫とかは簡単に信じるな』というのは、ミカにも当てはまると思う。


「とりあえず、簡単に知っている事を話しますね。忍というのは、日本にかつて存在した暗部組織の構成員の事なんですよ」


「暗部?」


「シノビって言葉は、忍ぶとか隠れるとかそういう意味の日本語からきているんです。今から五百年くらい前の日本は戦国時代といって、小さな国に分かれて戦を繰り返していたんですが、忍はそういう戦乱の世の中で生まれた職業、だと思います。いつからいつまで存在していたとか正確な事は私もよく知りません。ただ少なくとも明治維新、百五十年くらい前までは機能していたんじゃないでしょうかねえ。暗部ですから、表の人には知られない形で残っていった可能性はあると思いますけれど」


「…詳しい、ですよね。僕には何一つ分からないですが、充分詳しいのではないですか」

「常識の範囲内です」


 ミカのいた世界、ニホンでは、ほとんどの子供が六歳から十八歳まで、同じような教育を受ける機会を与えられるのだという。

 それならば少なくともニホンから来た渡り人は皆、ミカのように博識だという事になるが…。


「いいや、ミカの言う『常識』は信用ならない」

「いえ、本当に義務教育や高校の範囲で学べる事なんですよ。大人になっても覚えている人は少ないかもしれませんが」


 十歳の時点で、自室に大人の男を怯ませる程高く積まれた本の山があったらしい事、そして地面が揺れて警報とやらが鳴ったというのに、平然と本を山ほど借りて帰るその肝の据わりよう。


 エビーの台詞じゃないが、異世界でもミカはミカなのだ。


 祖母君が慌てて迎えに行こうとしたというのも頷ける。それで治らない怪我を負ってしまったのは気の毒だが、祖母君とて健気で聡明なミカが可愛くて仕方なかったに違いない。

 成長を手助けできなくなったのはさぞ無念だった事だろう。塞ぎ込む気持ちも分かるというものだ。


「それでですね、忍び、忍者とも言いますが、基本的には隠密行動、諜報、暗殺なんかを行う裏社会専門の傭兵みたいな人達でした。集団で里を作って暮らしたりもしていたようで、伊賀衆とか、甲賀衆あたりが有名です。何か他にもたくさん流派はあったようですが、残念ながらそこまでは詳しくありません。近代になって小説や舞台などで取り上げられるようになって、暗器や薬物を使った技や、体術、類い稀なる戦闘力なんかに魅入られる人間が増えました。今では日本と言えば忍者と呼ばれる程、世界中にファンがいます。まさにザコルみたいですよね!」


 ミカはどこかはしゃいだように語る。異世界にも裏稼業の者なんかに憧れる奇特な人間が大勢いるのか…。


「ザコルが使っている、リング付きの投げナイフがね、大きさは少し違いますが、忍が使っていたというクナイという武器にそっくりなんです。他にも、ほら、こんな形の手裏剣という投擲武器も有名で」


 いつの間に作ったのか、ミカはスライスした林檎を変な形に切り抜いたものを掲げてみせた。四方に刃がついた、薄い鋼鉄製の投擲武器だという。


「後は地面に撒いて敵を足止めするマキビシとか。十手は戦国時代より後の時代で活躍した警邏隊のような人達が持っているイメージですけど、ここに伝わっているという事は忍も使っていた武器だったって事ですかねえ。いや、江戸時代の同心が一人くらい渡ってきている可能性も…」


「それで、僕はそのシノビの末裔だと?」

 僕は、再び編み上げた髪を高い位置でまとめ上げる。


「そうなんじゃないでしょうか。少なくとも、忍に関する知識を持った日本人は絶対に関与していると思います。この国の山や峠の名前もいくらか日本の地名に因んでいるようですし…」


 アマギ山、ウスイ峠、ツルギ山、アカイシ山脈、カリュー。ミカは唱えるように言って頷いている。


「日本では珍しくない苗字の一つに、サカシタという苗字が存在します。ですが、当時の裏稼業で苗字を持つ人間は少なかったはず。日本語でサカシタ、は、坂の下を表します。忍本人が祖先だった場合は、元の出身集落の名前かもしれませんし、こちらで住み着いた場所が坂の下だったり、山の麓を坂下と表現していた可能性もあるでしょうね。昔はそうやって土地の特徴を苗字の由来にする事が多かったようですから」


 よくもまあスラスラと出てくるものだ。自国の事とはいえ、数百年前の暗部工作員に詳しい婦女子などどう考えてもおかしいだろうが。


「ミカと話していると、たまに第一王子殿下の話を聞いている気分になります」

「私は研究者じゃないですよ。第一王子殿下は多分、歴史か何かの研究者なんですよね?」

「まあ、そうですね。ずっと王都の地下遺構や、歴史的な遺物を集めて何かを探求しているようです」

「それはロマンですね。第二王子殿下や王弟殿下に比べたら五百倍くらい会ってみたいです」

「あなた達は話が合いそうだから会わせたくありません」

「ええー」


 僕は窓の外に目をやる。昼下がりの時間はとうに過ぎた。気温も徐々に下がっている。

 王都の方のゴタゴタは春までに片付くのだろうか。下手をすれば年単位でサカシータ領に留まる事になるのでは…。


「ああー、もっと忍者の本読んでくればよかったなぁー」

「充分です。後は父あたりを交えて話せばもう少し詳しい話もできるのでは」

「楽しみですねえ」

「ミカが楽しめているのなら何よりです。僕は、そのシュリケンやマキビシとやらについてもう少し詳しく聞きたいです」

「後で図に起こします。ぜひ作りましょう。持った所が見たいです」

 食いつかせてしまった。嫌な予感がする。

「……全身タイツはやりませんからね?」

「ええー。タイツじゃなくてもいいから忍装束はやってくださいよー。何なら縫いますから」

「やっぱり詳しいんじゃないですか! どうして数百年前の暗部工作員の衣装や武器を再現できるんだ!」

「細かいところまでは分かりませんよ。でも忍者っぽくなれば満足です。あ、ザコルって壁を垂直に走ったりできます?」

「す、少しなら…」

「あの天井の角に手足を突っ張って留まれます?」

「や、やった事はあります」

「きゃーっ!!」

 今朝方、義母の乗馬姿を見た時のように嬌声を上げ、見たい見たいとはしゃぐミカ。


 …どうやら僕は、数百年前に生きた先祖とそう大差ない日々を十年間も送っていたらしい。


 ◇ ◇ ◇


「退化どころじゃないな、進化もしていないなんて」

「そこは伝統を守ってきたと言いましょうよ。それか、先祖返りとか」


 私としてはザコルに忍者っぽい所を見つけるたびに大はしゃぎなのだが、ザコルの反応は微妙である。

「それで、魔力を貯めむぐっ」

 次の話題に行こうとしたら後ろから口を押さえられた。

「んー、んーっ」

 抗議の声を上げるものの離してくれない。

「いいですか、僕が動揺するような事を言うのは禁止です」

 自分はシシの目の前で思いっ切り検証したりしたくせに。

「んんー…」


 すん、すん。


「ミカ?」

 すぐに手がを引っ込められて顔を覗かれる。

「で、魔力を貯める件なんですけど」

「…泣き真似とは卑怯な」

「話が進みませんので。こっちに来て座ってください」

「嫌です」

「もう髪はいいでしょ、私をどこの夜会に行かせる気ですか?」


 鏡を見ていないからどうなっているか判らないが、一度目よりもさらに複雑に編み込まれた髪は高い位置でお団子にされているらしい。髪紐一つでどうやってこれを結い上げたのか、全くの謎だ。


 鍋の中でドロドロになった林檎のペーストを大きなスプーンで器に移しながら氷結魔法をかける。ふんわりとしたシャーベットになって、器の中で雪のように積もっていく。


「さあ、どうぞ」

 ローテーブルに器とティースプーンを置くと、渋々といった様子でザコルがソファに座った。

 体が冷えるだろうからと、カップに水を注いで湯に変えておく。


「ありがとうございます」

 ザコルは一旦カップに口をつけてテーブルに置くと、器を手に取った。

「ん、甘い」

 メリーが気を遣ってか、蜂蜜の瓶を林檎のカゴの中に忍ばせてくれていた。

「ふふ、坊ちゃんだから特別、蜂蜜入りですよ」

 その言われようには不服そうだが、ひと匙ひと匙、大事に食べているザコルが愛おしい。

「メリーはミカのために入れたんですよ」

「私がザコルに蜂蜜をあげたがるのを分かっているなんて…」

「違うと思います」


 私も自分の分を器に盛り、スプーンですくって口に入れる。

「ん、甘い」

 やっぱり甘みを足した方がシャーベットとしては美味しく感じる。日本で甘味に慣れきった私だからそう感じるのかもしれないが。



「とりあえず私が考えた仮説だけでもいいので、聞いてくれますか?」

「……はい」


 ザコルが食べ終わった器におかわりを盛りながら話す。

 それを差し出して、私は自分の器を再び手に取った。


「…それで、口移しで魔力を移動させた時に怪我が治ったのは、涙による治癒とはプロセスが違って、私の自己治癒能力がザコルの中で発動したとみるべきかなと考えているんです。それを仮説とすると、もしも私の魔力を一定以上保有し続けていれば、後から怪我したとしても治るんじゃないかと。これがまず一つ」


 少し早口になってしまった。

 溶けかけたシャーベットをすくい集めて啜るようにして食べる。体は冷えていないが、妙に喉が乾くのでカップを手に取った。


「二つめに、どうしたら私が魔力切れを起こすかって事です。積極的に倒れようという話じゃないんですが、氷結と湯沸かしでどのくらい魔力消費の差があるかも、今のところさっぱりですよね」


 カップに水を足し、湯にもせずそのまま飲む。


「もしもカリューに行って、無意識の『垂れ流し』とやらを含め、私がかなりの魔力を消費したとします。食器や飲水の煮沸、清拭や風呂、氷の振る舞い、調理、その他想定に無い事も含め色々…。魔力切れを起こす可能性が無いとは言えません。私の魔力の回復スピードはよく判っていませんが、かつて一日か二日まともに魔法を使わないだけで魔力酔いのような状態になっていた事を考えれば、一昼夜でそれなりの量の魔力生産が見込めるって事でしょう。なので、明日、この安全が保証されているシータイから出る以上、今日のうちに保険をかけておくのもいいのかな、と思っています」


 横を見ると、ザコルは食べ終わった器を置き、カップからぬるくなった湯を啜っていた。


「それで、三つめ…。ごちゃごちゃ言いましたけど…その…」

「何です」

「……何でもないです」


 空になったザコルの器を横から取り、三杯目のおかわりを盛りつける。

「少しずつにしてください」

「あ、多すぎました?」

「いえ、氷菓の事ではなく」

 ザコルは器を受け取ってシャーベットをかき込み、ローテーブルにタン、と置いた。


「……その、僕が、戦闘不能にならない程度に…」


「あ、そう、ですか…」

 私は急に恥ずかしくなってきてザコルから目を逸らした。カップを手に取り水を啜って誤魔化す。


「それに、僕はまた調子に乗って、強引な態度を取りそうな予感がするので、戒めを…」

「……うん?」

 思わずザコルの顔を見る。

「ですから、僕が調子に乗らないように戒めを」

 …………調子に乗らないように戒めを?


「…あの、もしかしてあの妙に強引で俺様な態度って、調子に乗ってる所だったんですか? 何で?」


 ぶわ、ザコルの顔が紅潮する瞬間を初めて直視してしまった。私の方までカッと血が上る。


「だっ、だって、ミカが僕にくち…っ、いや、僕がミカの魔力を保持しているんですよ!? 他の誰でもなく! ミカが僕を想ってくれた証がちゃんとこの身に宿っているのかと思ったら…今までにないような、自信を…感じ…くそっ、こっちを向くな」


 私の頬を手のひらで押し、顔を無理矢理向こうに向ける。私も自分の心臓を落ち着けようと精一杯で、ザコルの言葉が全然頭に入ってこない。深呼吸、深呼吸だ。ひっひっふー。


「それなのにっ、ミカは後悔しているような事ばかり言うし! あろうことかコマまで現れたりなんかするから…! あの下衆め隙あらばミカの魔力を食おうとしやがって対価のつもりか知らないがミカの護衛や指南をするようだから何とか見逃してやっていたものを…! ミカもミカです! よく知りもしないくせにどうしてコマに何か施そうとするんですか!!」


「えっ、コマさん? 何の話ですか、コマさんは、えっと、その、前にもお世話になりましたし、今も親切にしてくださるから…。私が落ち込んだりしてるとさりげなく気遣ってもしてくれますし、感謝のつもりで」


「あいつは、気が滅入ってる奴の魔力は美味くない、と以前に言っていた事があるんです。どうせミカの機嫌を取るのだって…」


 それは…。


「待って、もしかしてそのセリフ、ザコルが何かで落ち込んでたりした時に言われたんじゃないですか」

「それはっ……そ、そう、ですが」

 要は、元気を出せって言いたかったんだろうなあ。

「ふふ、コマさんは本当に優しいですねえ」

「コマを褒めるんじゃない!」


 温かく汗ばんだ手のひらに頬を押されたまま、その手に手を添えて頬を擦り寄せ返してみる。手のひらが強張った。


「コマさんに嫉妬してるのが自分だけだと思わないでくださいね」

「そ、それは、どういう…」

 俺を間に入れようとすんじゃねえ、そんなセリフが聞こえた気がした。

「まあそれはいいんですけど。私ね、少しだけ不公平だと思ってるんです」

「な、何が…」

 ふう、一呼吸つく。

「どうして僕が我慢しなければならない、でしたかね。じゃあ、どうして私が我慢しなければならないんでしょうか」

「え」


 ザコルが言葉を詰まらせる。少し意地悪してやりたい気持ちになった。


「コマさんって、私が泣いてると、謀ったみたいに現れてはフォローしてくれますよねえ。彼も色々と大変でしょうに…。もっと素直に感謝した方がいいのでは?」

「どうしてコマのことばかり…ですから、コマがあなたに近寄るのは許してやって…」

「それは、私が許すべき事であって、ザコルが許可を出すような事ではないですよね?」

「ぐう…っ」


 つらそう。ただの当てつけなのに。

 まあ、正論で詰るのも趣味じゃないし、後でコマに迷惑をかけそうな気もするのでここらでやめておこう。


「で、何で調子に乗ってたんですか?」

「なん……さっき、い、言いましたよね? ですから」

 ごにょごにょごにょ…。

 何度も聞き返してはみたが、結局はっきりしなかった。

「まあ、いいですよ。で、そろそろこの手を退けてほしいのですが」

「ま、まだ」

「可愛くしてあげますから」

「蹂躙する気ですね!?」


 そう警戒しなくたっていいのに。そんなに嫌がられるとこっちが襲っているような気持ちになるじゃないか。

 手のひらに顔を擦り付け、チュッと口づけをしたら、サッと手を引かれた。

「あ」

 思わず体勢を崩して倒れかかると、サッと支えられた。

「こういう時、すぐ支えてくれるのが偉いと思うんですよねえ。なかなかこうは反応できないですし、切り替えもできないですよ」

「急に褒められても切り替えられないのですが」


 ぎゅってしてほしいな…。

 独り言を拾ってくれたのか、ザコルは黙って私の手を引いて立ち上がった。

 座ったままではダメなんだろうか。


「た、立った方が接する面積が多いので!」

「接する面積が」

 急に理屈っぽい事を言う。


 手を引かれるままソファの傍らに立つと、ぎゅっと抱き締めてくれた。

 私から何かしようとすると必死で止める割に、私が何かしてほしいと言えばすぐにしてくれる。


「やさしい。すき」

「ストレートな言葉は禁止です」

 堂々とプロポーズみたいな事をやってのけた人が何言ってるんだろう。ザコルにしては自然な演技だったと思うが。

 背中に手を回してぎゅっと抱きつき返す。ザコルが少しビクッとした。

 温かい。


「…ミカはいつも、僕に言葉を尽くしてくれますよね。すれ違いそうになる度に、自分の気持ちを説明してくれたり、僕の気持ちを察してくれたり」

「そういうの、気づいてくれるだけでも偉いと思うんですよね」


 そういうのは人によって得意不得意がある。大事なのは、気持ちを知ろうと努力してくれているかどうかではないだろうか。


「ちっとも偉くない。甘えすぎたと反省しているんです。それこそ不公平でしょう。僕ももっと努力をするべきだと、思って」

「やっぱり偉いです。でも私が先に惚れたんですから仕方ないですよ。無理しなくたっていいんです」

 すりすり。好き好き。

「…っ、甘やかすなと言ったそばから! それであなたに思い詰めさせたんですよ! 大体、気を遣い過ぎなんです。僕は、あなたが思うようなお人好しじゃないんですからね!?」

「はいはい、そうなんでしたねえ。私は別に心狭くても打算的でも全然構いませんけど。そういう自分を偽らない所も推せます」

「どうしてそう僕の駄目な所ばかり褒めるんだ! 僕の成長を阻害する気ですか!」

「何をもって成長と呼ぶかは価値観によると思いますが…」


 私は別に、駄目だなんて思っていないのにな。


「最近、ザコルも少しずつ変わってきてますよね。例えば同志に直接お礼を言おうとしたりとか、気持ちを言葉にして伝えようといっぱい努力してるでしょう。女性の扱いやマナーへの意識も高くなりつつありますし。でも私が一番嬉しかったのは……」


 ……もう、一人で王都を燃やしに行くのはやめたと言ってくれた事。


「それは…。ミカがまるで僕と同じような事を言い出したから、冷静に自分を見られるようになっただけです。どれも全部、ミカのせいです」

「ザコルが人と真摯に関わってきたせいですよ。きっと、私がいなくても」

「いいや、ミカ無しではあり得ない。頑なな僕に、根気強く寄り添ってくれた…」


 ぎゅ、急に腕の力が強まった。また肺が潰れそうになったのでバシバシと背中を叩いた。


 ◇ ◇ ◇


 立って抱き合ったままどれだけ時間が経っただろう。

 体感で、もう三十分くらいはこうしている気がする。


「ねえ、そろそろ離してくださいよ」

 立ったままだと、身長差もあってこちらからはまず何もできない。さてはこれを見越して立ったか。

「…………」

 返事がない。その代わり彼の心臓はずっと忙しそうだ。


「ねえ、私も髪に櫛を入れてみたいです。とりあえず、そこに座ってくれませんか。というかいい加減に落ち着きましょう」

「わ、分かり、ました」 


 私が何か言う度にザコルの動悸が強くなるので、心臓に負担をかけているのではと心配になってきた。何にせよ一旦離れた方がいい。

 一体何がどうしてここまで拗らせてしまったんだろう。やはり心神喪失が怖いんだろうか。


 ザコルは素直にソファに座ってくれた。後ろから肩にそっと手を置く。ビクッ。


「…やっぱり、私がいきなりハードな検証なんかしたから、トラウマ作っちゃいましたかね…。ごめんなさい」

「いや、違…っ…こんな余裕のない…で…され……次こそ…どう…っ」


 私は、何やらぶつぶつと呟き始めた彼の肩を揉もうとし…っ、ぐっ、筋肉が厚すぎて指が入らない…っ、ので、マッサージがてらさする事にした。


 さすさすさすさす。さすさすさすさす。


「…ふっ、くく、はは、ははは…」

 あ、ザコルが笑い出した。良かった、少しは緊張がほぐれただろうか。

「もう、どうしてミカはそう…」

「ふふっ」


 さすさすさすさす。

 私達はしばらく、深緑湖のホテルでの出来事を思い出しながら二人で笑い合った。



「まあ、今日無理してする事ないですかね」

「え」


 ザコルから櫛を借りて髪をとかす。毛並みの整った髪を撫で、軽く頬擦りしてみる。

 いつもザコルが私の髪にするので、一度自分でもしてみたかった事だ。

 男の人らしく太くハリのある髪の毛で、思った程肌触りがいいわけではなかったが、先程お風呂に入ったばかりの髪からはふんわりとザコルの匂いがして癒された。


「あの、吸わないでくれますか…。それに、さっき言っていた事は…」

「安心してください。今日はもうやめておきますから」


 後ろからぎゅむ、と首に抱きついてみる。ザコルが心なしか肩をこわばらせる。

 ああ、そっかあ、ザコルは馬上でこうやって私を抱き締めたり、つむじを見たり、耳を…。


 耳…。


「ひっ!?」

 ザコルがサッと自分の耳に手をやってこちらを振り返る。


「今まさか食みましたか!?」

「食みました」

「何故!?」

「やってみたかったから…」


 ザコルが何度もしたがるからどんなにいいものかと気になって。


「しょっぱい」


 唇を舐める。

 ザコルが頬をカッと紅潮させ、慌てたように前に向き直る。そして前屈みで顔を覆ったまま完全に沈黙してしまった。


 ぽん、とその背に手を置く。


「あの。私、これを逃げ場のない馬上でされたのですが?」

「……申し訳、ございませんでした…」


 トントン、扉がノックされる。窓の方を見たら、空が茜色に染まりかけていた。


「お迎えでしょうか」

「うぐう…」


 ザコルから呻き声が聞こえてくる。ドンドン、今度は強めにノックされる。


「おおーい、いちゃついてんすかあ」

 廊下から間伸びした声が聴こえる。

「今開けるよー」

「ま、待て!」

 ガチャ、とエビーは勝手に扉を開けた。


「……あーあー。何すかそのザマは。やっぱり返り討ちすか?」

 エビーは、顔を覆うザコルを見てニヤニヤとする。

「ミカさんはその髪型何なんすか。夜会にでも行くつもりすか」

「ご子息渾身の力作だよ」

「相変わらず意味の解らないイチャつき方を…」

 ヒュ、と何かが扉の方向に飛んだ。

 エビーがサッと扉でそれを受け止める。前に痕跡が残りにくいとか言っていた針だ。


「ふふん、飛ばしてくるだろうと思いましたよお! 殺気がダダ漏れなんだよ!」

「フン、刺さっていれば朝まで昏睡して今の記憶など夢に消えたものを」

「怖ッ!! 毒物使うんじゃねえし!!」

「ただの睡眠薬だ。強めのな」

 ひいい! と悲鳴を上げるエビー。通常運転だ。


「エビー、一人? タイタは?」

「タイさんは、さっきまで集会所でミカさんファンの集いやってたんで片付けを」

「は? なっ、何なのその集い…!?」

「同志村女子と俺らで始めたんですけど、人がどんどん集まってきちゃって…」


 エビーは扉を盾にしてこちらを伺いながら話す。


「で、せっかく集まったんで皆で林檎剥きながら話しました! 変色しないようにはしてあるんで仕上げはお願いしますよ」

「えー! すごーい! 行く行く!」

「ジャム作っときゃ病気予防? だかになるんでしょ。冬は目前すからね!」

「エビー、どことなく考え方がミカに染まってきていませんか…?」

 流石はエビー。さすエビだ。伊達にあの夜を共に乗り越えてない。


「あ、待ってエビー。行く前に」

 鍋に残った蜂蜜入りの林檎ジャムを全てシャーベットにして器に盛る。

「エビー、これ。特別に蜂蜜入りで作ったんだよ。数量限定だからどうぞ」

「やった! 俺だけいいんすか!?」

「タイちゃんは甘いの苦手そうだからね。いつもありがとう、エビー」


 ザコルの考えてる事も教えてくれたし。本来なら余計なお節介だろうが、私が思い悩まないようにという彼の厚意には感謝すべきだ。


「姐さんやっさしー! そこの魔王殿! 殺気引っ込めてくんないと部屋に入れないんすけど!!」

「ミカ、それは僕が食べるので寄越しなさい」


 私はザコルの後ろに回ってそっと肩に手を置く。耳元に顔を近づけるとまたビクッと肩が上がる。


「師匠は三杯も食べたでしょ。ね?」

「うぐ……は、はい、すみません」

「さあ、エビー。どうぞ」


「こわ…何されたら魔王がそんな従順になんだよ…」

 エビーが恐る恐る部屋に入ってきて、ザコルの向かいの席についてシャーベットの器とスプーンを手に取った。

「んーっ、甘ーい!!」

「…………」

「いやあ、殺気がいいスパイスになって滅茶苦茶うまいっす」

「エビーも肝が据わってきたよねえ」


 私は、未だに前屈みのまま、無言で殺気を放ち続けているザコルの隣に座った。

 カップに残った水を一口飲む。


「で、猟犬殿は何なの? マジで何されちゃったんすか?」

「……何も」

「何もぉ…? そのていで? 嘘だろ」

「嘘じゃありません。僕はただただ自分に絶望しているだけで」

「まーた拗らせてんのかよ…」

「ええ所詮僕は配慮の何たるかも理解せずミカに許され甘やかされていただけに過ぎない矮小な」

「はいはい、何言ってるか分かりませんけど、あんま思い詰めんでくださいよ」

 エビーが雑にあしらう。

「エビーの言う通りですよ、気にしないでくださいね。色々と話し合えて良かったと思いますし」


 でも、結局『拒否』か…


「きょ、拒否なんて…!!」

「あ、違うんです、今のは」

「何が違うんですか!!」


 今のは独り言にするつもりなかったのに、失敗した。


「ごめんなさい。ちゃんと解っていますから、大丈夫ですよ」

「そっ、その言い方こそトラウマなんです!! 勝手に解らないでください!!」

 ザコルにブンブンと肩を揺さぶられるやめれ首がもげる。

「ちょ、余裕無さすぎんだろ…。ほら、揺さぶりすぎだぞ魔王、やめとけって」

 ピタ、ザコルが止まる。


「ありがとう、エビー。君達にもまた忍の話するね」

「シノビ? あ、やっぱミカさん何か面白い事知ってんすね。いーすねえ、ワクワクしますねえ!」

「でしょでしょ、私、本当にこの領に来るの楽しみにしてたんだー」



 なるべく明るい調子で言ってみたのだが、結局その後、ザコルが話に加わって来ることはなかった。



つづく

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