お風呂の時間だ
さあ、お風呂の時間だ。
クリナに悠々と乗っていたせいで少し遅刻してしまった。
先に準備を進めていてくれた同志村スタッフやりんご箱職人の男達、手伝いの町民達、町長屋敷の使用人達に謝ると、彼らは笑顔で迎えてくれた。
「さあ、大樽の準備はできてます!」
少々足をもつれさせたカファが勢いよく言った。彼はさっきの猟犬ブートキャンプを途中リタイヤしている。
皆がワクワクとした表情でザコルを見る。
樽から風呂桶に流し込む様子を皆で見物しやすいようにか、男風呂も女風呂も天幕を半分めくってあった。最前列には、今日入浴予定の子供達や高齢者、妊婦と母子が並んで拍手している。
「あの、見せ物になるようなものではないかと…」
「ご謙遜を! あれを間近で見てしまったら、うちの若頭がしきりに言う『滾る気持ち』とやらが解ってしまいました! 私もまずはあのメニューをこなせるよう、少しずつでも頑張ります!」
どうやらカファは昨日、大樽を持ち上げるザコルを見て魅了されたようだった。
「ファンが増えましたよザコル! 嬉しいですね!」
「えっと…はい、あ、ありがとうございます。頑張りましょう、カファ。では」
ザコルは若干気まずそうにしつつも大樽の一つに手をかけ、よっと軽い掛け声と共に持ち上げた。樽の中の水が揺れてドプンと跳ねる。
わああー!! と歓声と拍手が上がった。
振り返って上を見ると、今日も患者達が窓から落ちそうになっていた。…本当に落ちたら、何としても蘇生しようとして私が暴走することになりそうなので無茶はやめてほしい。
ザコルが大樽を傾けると、男風呂の湯船にザブンと水が流し込まれる。丁度三分の一近くまで貯まった。大樽三杯で湯船一杯。これは分かり易くていい。
「さあミカ様、どうぞ!」
「よしきた」
私は湯船に手をかざして念じる。すぐに沸いて、ぼふん、と塊のような湯気がたった。皆、私にも惜しみない拍手と歓声を贈ってくれた。
その間にザコルはまた樽をひょいと持ち上げて今度は女風呂の湯船に水を流し込む。そっちにも魔法をかけに行き、ザコルはその間に男湯の湯船に二度大樽から水を足す。女風呂の方も同じように水を足して、あっという間にお風呂の準備が出来上がった。
より一層の拍手と歓声が巻き起こる。お風呂沸かしてるだけなのに大盛り上がりだ。
順番は色々と考えたが、まずは高齢者の皆さんに一番風呂を味わってもらうことにした。その次は妊婦と産婦。子供達は申し訳ないが最後だ。もしかしたらお湯を汚してしまうかもしれないし、付き添いも必要だろう。
高齢者の皆さんが脱衣所で準備をしている間、水路に水を貯めて魔法をかけ、再び水を足すという作業をする。ぬるくなってきたら足し湯をするので、次は手桶の水に魔法をかけて注いでいく事になるだろう。
「ミカ様は、こちらでお待ちください。魔法が必要になったら手桶ごとこちらにお持ちしますので」
「ええー! 手伝いたいよー!!」
ピッタが恭しく指し示したのは、入浴用テントから少し離れた場所にある樹の下だった。大きなラグとクッションと飲み物まで用意されている。貴族のピクニックかよ。
「俺ら代わりに手伝ってきますよ、ザコル殿はついててください。二人とも大役やったんだから充分すよ」
「大樽を何度も何度もお持ちになる様は、お見事という他ございません。ミカ殿の魔法もいつ見ても素晴らしい! 流石は我らが猟犬殿と氷姫様!」
エビーとタイタが張り切って腕まくりをし、男湯の方の手伝いに行く。
「ミカ、いっしょになにかかこうよ」
リラとそのお友達が紙と鉛筆を持ってやってきた。紐付きの小さな画板まで手にしている。
「いい画板持ってるね、どうしたの?」
「りんごばこのおじさんがつくってくれたんだよ。みんなに」
カファがりんご箱職人達に頼んだんだろうか。それか、世間話の中でカファが子供達に文房具を配った事を知って、気を利かせてくれたのかもしれない。
気さくでよく仕事のできるカファは、避難民のみならず町の人達からもよく慕われている。
「良かったねえ。これがあればどこでもお絵描きやお勉強ができるね。そうだ、字の練習でもする? 私もあんまり字が上手じゃないから、皆と一緒に練習したいな」
「する!」
子供達が履物を脱いでラグに上がってきた。
「手紙に使えそうな言葉を書くから、真似してみてね。こんにちは、おひさしぶり、ありがとう、げんきです、あいたい…」
手本を用意してやると、子供達はびっくりするくらい真剣にそれを写し始めた。識字率が低そうなので、教わる機会が貴重だと子供心に理解しているのだろう。
下流の子達は辛い目に遭ったばかりだろうに、このイベントや友達と一緒の時間を楽しんでくれているように見えた。衛生のためにと始めた事だったが、現実をひととき忘れ、皆で笑い合える時間になったならば良かったと思う。協力してくれた人達には感謝してもしきれない。
これ、なんてよむの、このもじのはつおんは? わたしのなまえと、まちのなまえをかいて。
子供達が、積極的に質問したり習いたい手本をねだってくる。
単文字になると私では発音が分からないものもあるので、ザコルが横からそれとなくフォローしてくれた。お陰で私も正しいオースト語の勉強になった。
単語や文章として聴くとどうしても翻訳チートが効いてしまうので、音そのものを覚えるのは難しいのだ。個人の名前や地名などの固有名詞も最初は読めなかったり、綴りに迷ったりする。それもザコルが代わりに書いてやってくれている。
「つるぎ。しーたい。かりゅー」
子供が一つずつ指差しながら読み上げる。
「かりゅー? 下流の町の事…? あっ」
皆が『下流の町』『下流の』などと呼ぶので、本当の町名はどう発音するのかと思っていたが…。
「そっか…そうだったんだ。カリューって町名だったんだ…」
「ミカ、どうかしましたか」
ザコルが不思議そうな顔をしている。私は子供達に聴こえないよう、声を落として返事をした。
「あの、私の国の言葉で、川下の方の事を『かりゅう』と言うので…。まさかカリューが正式名称だとは知らなくて」
町名の綴りは知っていたのだが、正しい読み方までは今の今まで知らなかった。
下流、カリューか。名付けのきっかけは日本人の渡り人かもしれない。
アカイシ山脈もツルギ山もウスイ峠もアマギ山も、きっとそうだろう。そうでなくては不自然なくらいだ。
「そうですか…。ミカには他にも思う所があるのですよね」
「そうですね、調査を始めれば自ずと説明する事になるだろうと思って後回しにしていたんですが…。この領にはきっと、私の故郷の面影がまだまだあるんだろうなと思っています。あの隠れ里よりは年月が経っていそうですが…」
サカシータ、多分、坂下か阪下だ。裏稼業である忍者に苗字があったかどうか知らないが、坂の下にある集落出身などの由来があるとすれば、恐らく坂下の方だろう。
「坂下ザコルさん。ふふ」
「何です、どうして姓名を逆に言うんです」
「私の国では、姓名の順はこれが正しいんです。私は堀田みか。私の時代ですと日本国民は全員が苗字を持っているので、仕事や学校では苗字で呼び合う事が多かったです。私は堀田さん。ザコルは坂下さん。ふふ、変な感じ」
私はその場で正座し、姿勢を正した。そして両手の指を膝の前につく。
「坂下さん。いえ、師匠ですから、坂下先生ですね。いつもお世話になっております」
「そうだ、そういえばセイザだ。あの里でもしていましたね。いいんですか、町の者が見たら不思議がりますよ」
ザコルも何となくつられて正座をする。その反応も実に日本人ぽい。
「そうでしょうね。今朝も腰を折る礼をついしてしまって不思議がられました。でも、もうそろそろバレる頃かと思いますけどね」
「そんな……ああ、そうだ。今朝でしたか。…まあ、言及はあるでしょうね」
今朝配られるという朝刊には、きっと『渡り人の氷姫』の話が載っている。私こそがその渡り人だと、この町にいる誰もが知ることになる。
「私の国の事までは書かれてないと思いますから、祖先が同じかもしれないような事はまだ言わない方がいいですかね」
「言っても問題はないと思いますが、あなたが崇拝される理由が一つ増えるだけですよ」
「す、崇拝? はどうでしょう。私、むしろ奇異の目で見られる事も覚悟しているんですが」
「この領は渡り人に縁が多い土地です。調査すれば自ずと判ると思いますよ」
そう言うと、ザコルは正座のまま並んだ私の手をぎゅ、と掴んだ。
「自分を異物のように言わなくていいんです。あなたはもう、この町の、この領の一員だ」
涙がじわ、と滲んだと思ったらぱた、とザコルの手の甲に落ちた。俯いて顔を隠す。
「どれだけ言葉を贈ったら、ミカは僕を頼ってくれるんでしょうか」
「そんな、ずっと…っ、頼りっぱなしですよ…」
声が震えるのを必死に隠して返す。
「先日、強引にしたせいで酷く泣かせてしまいました。僕に余裕がないばかりに…ミカに負担を強いたかと」
「そんな、事、な、い…っ」
駄目だ、しゃくり上げ始めてしまう。
まだ、文字を写すのに夢中になっている子供達には気付かれていない。
気を使わせる前にその場を離れようと腰を浮かせたら、目の前に差し湯用の手桶を持ったピッタが来ていた。
「ピ…ッ」
一瞬でしゃっくりが引っ込む。ピッタは顔を青ざめさせ、わなわなと震えていた。
「強引にして、酷く、泣かせた……ですって…!?」
「ご…っ、ごごごごご誤解だよピッタ!! 絶対思ってるのと違うから!! ザコルも何黙ってるんですか!! 何か言ってくださいよ!!」
「僕が何か否定しても逆効果になりそうなので…」
「黙ってても逆効果ですよ!! だ、だからね、えーと、えーと…!」
必死で弁明を考えていたら、ピッタが手桶を脇に放り出し、膝をついて私をギュッと抱き締めた。
「えっ、ピッタ…?」
「誤解ならいいんです。でも、それならどうして泣いていらっしゃるんですか。もしかして、今朝の新聞の事でしょうか」
「…ピッタ、読んだの?」
「申し訳ありません、兄達が…ファンの集いが勝手な事を…!」
「そっか……読んだんだね。黙っていて、ごめんね…」
「どうして謝られるんですか!? ミカ様は何も悪くありません!! …私、丁度朝食の用意をしに行った時に、テントに届いているのを見てしまったんです。兄達はまだ放牧場で走ってるかもしれないので見ていないかもしれません。他のスタッフも…。もし、あれが涙の元凶なら、今から全部燃やして参りますから!」
「燃や…!? ピッタ、落ち着いて。今日出回る事は私も知ってるから大丈夫だよ。おおよその内容は昨日ドーシャさんからも聞いてるし。それが原因で泣いてるんじゃないから」
ピッタの背中をさすって宥める。
子供達も流石に気付いて驚いている。
「ミカ、ピッタないてるの?」
「ミカさまもないてるよ」
「なんで? だいじょうぶ?」
鉛筆を置いて私達の周りに集まってくる。
「さっきからずっと…っ、何て言ったらいいかって、ずっと、ずっと…ミカ様ぁ…」
どうしよう、ピッタが本格的に泣き出してしまった。そんなに思い詰める程とは…。記事に一体何が書いてあったというのか。
ピッタが突然私に抱きついて泣き出し、私も泣き顔のまま宥めていると言う状況に、テント周りにいる人達も気付いたようで心配そうにチラチラと見ている。
エビーとタイタが走って戻って来てザコルに事情を聞いている。
私は、目の合った同志村女子に向かって手招きをした。無理矢理笑顔を作る。
「ふへ、ピッタと少し思い出話なんかしてたら泣けてきちゃったんだよ。お風呂途中でしょ。ピッタが持ってきたその手桶、温めるから持っていって。心配いらないから」
「は、はい。承知しました。…ピッタさん、ミカ様が困っていらっしゃるわよ。落ち着いてね」
彼女はそう言ってピッタの背を軽くポンポンとすると、私が片手で魔法をかけた手桶を受け取り、持ち場に戻っていった。
「ピッタ、大丈夫?」
「はい、申し訳ありません、取り乱して…ミカ様に…ご無礼な真似を…」
「そんな風に思ってないよ。心配してくれたんでしょ、解ってるから。ありがとう、ピッタ」
すん、すん、と洟をすするピッタと三角座りで並び、その背中をさする。
あまり大事にしたくないので、エビーとタイタには後で説明すると言って手伝いに戻ってもらった。
子供達には心配ないよと伝え、ザコルに相手をお願いした。相変わらずの仏頂面だが、子供達は特に怖がる様子も遠慮する様子もなく手本をねだっている。
ザコルが子供に囲まれている光景は珍しい。テイラー邸で暗器を見せて欲しいと使用人の子供達にせがまれて以来だ。
「ねえ、何が書いてあったの。私の出自は驚かせたかもしれないけど、後はどうせ私の恥ずかしい話でしょ? 私が自ら望んで愛するザコルに同行したとか何とか」
ゲフッ、とザコルが咳き込む。昨日は読んでみたいなとか言って格好付けてたくせに。
「…ミカ様は、さるお方の陰謀によって無理矢理この世界に招かれ、突如として故郷を失われたと…。孤独に苛まれ、身も心もやつれきったミカ様の前に現れた運命の人、猟犬様への愛を貫くため、膨大な書物を読んでこの世界の事を勉強し、魔法や武術の鍛錬に打ち込み、懸命に努力なさってきたと。ミカ様をお飾りとして囲おうとする某王子や、儀式の生贄にしようと企む邪教の存在、猟犬様との関係を悪しきもののように言って引き離そうとする某王族、猟犬様とミカ様は懸命に戦われたけれど次第に追い詰められて…。そんな折、猟犬様がこのサカシータ領へ任務で赴く事になり、彼の身を心配なさったミカ様は過酷な道程になる事を承知でテイラー伯爵に頭を下げて強く同行を望まれたのだと。他に供も付けず、隠れるように二人で旅立たれて…っ。ジーク領では邪教徒達に襲われ、追われた二人はかの有名な魔の森へ…。そこで記事は終わっていました」
「はは、何それ壮大…てか長…」
思わず乾いた笑いを浮かべてしまった。大袈裟オブ大袈裟だ。
しかし、オリヴァーの検閲が入っているだけあって、やたらな嘘は書かれていないようだ。所々時系列がおかしかったりする所はあるが、完全な嘘といえば、ザコルはともかく私は懸命に戦ってなどいないという所くらいか…。
タイタが差し湯用の手桶を持って様子を見にやってきた。
彼が差し出した手桶に魔法をかけると、湯気が立ち、それが日光に反射して白くきらめいた。
「どうして、どうしてこんなにお優しいミカ様が、避難民や町の方々にも、ファンの集いのためにさえ惜しみなく心を砕いてくださるミカ様が…っ、こんな、無理矢理こんな世界に喚ばれた挙句、に、逃げるように旅に出なくっちゃならないんですか。酷すぎます…! 初めてうちのキャンプでお泊めした日だって、本当は町中で曲者に襲われたのでしょう、怖い思いをなさったでしょうに、曲者の仲間を捕縛するために囮を自ら買って出られたと聞きました。どうして、どうしてそんなにお強くあれるんですか!」
わあっ、とピッタがまた泣き出してしまった。
「ピッタ殿…」
タイタは以前、私に『可哀想』と言ってしまったことを気にしているのか、ピッタにどう声がけしたらと迷っているようだ。
「ね、大丈夫だよピッタ、王子なんて笑えるくらいポンコツだったし、王弟にはまだ会った事もないし、他に供も付けずというかザコルが敵も味方も撒いて森に突っ込んだだけだし、実際に私が襲われたのはこないだの曲者が初めてだし、囮を買って出た結果、ザコルの大捕物を最前列で見物できて得しただけだったし。ね、タイタ」
タイタは少し困ったように笑って頷くと、一礼して手桶を持ってテントへと戻っていった。
召喚から今までの経緯を、私視点でピッタに話す。時折ザコルが補足する。いかに私が伯爵家でお気楽な生活をしていたかが伝わるといいのだが。
「そんなわけでね、私は恵まれていると思うんだよ。やつれてたのは孤独のせいなんかじゃなくて、元の世界で仕事しすぎてたせいだからね。毎日のように側にいてくれる人もいたし、テイラー伯爵家の方達だって私を本当の家族みたいに言ってくれるから、ちっとも寂しくなんてなかったの。趣味だった読書も好きなだけさせてもらえてねえ、大変充実した日々を送ってたよ。鍛錬や乗馬やマナーやダンスの練習も新鮮で。世界がぐんと広がった気がするんだよねえ。新しい事学ぶって本当に楽しいよね!」
ピッタが、本当なのか、という感じの視線をザコルに送る。
ザコルは短く溜め息をついた。
「ミカ、僕は何度でも言いますが、あの状況で猛勉強に打ち込めるというか、あの蔵書を半年で読破しかけるなんて並大抵の事ではありません。僕が指導しておいて何ですが、鍛錬や乗馬とて半年でここまでに仕上がるとは思っていませんでした。ダンスも既に僕よりは踊れますし、所作や言葉遣いなども、その気になれば生粋の貴族令嬢にさえ引けを取りません。そんな、常人では到底考えられないような、いっそ狂気かというレベルの努力を、寝る間も惜しんでする生活のどこがお気楽な生活なんですか」
ザコルは、子供に次々と画板を押し付けられ、順番に手本を書いてやっている。
字が綺麗だな。流石は生粋の貴族令息だ。
「えっと、それ、褒めてくれてるんですよね…? 狂気とかザコルにだけは言われたくないんですけど。私の護衛と世話に加えて、夜中も寝ずに調査に出掛けてたような人にだけは」
「僕だってあなたにだけは言われたくありません。昼夜問わず読書と勉強に明け暮れて、常に紙に埋もれていたような人にだけは」
じろ。お互い半目で睨み合う。
「似た者…カップル…?」
涙を引っ込めたピッタがザコルと私を交互に見やる。
「そうだよ、ピッタちゃん。この人ら、揃いも揃って頭のネジ飛んでっからさ」
今度はエビーが手桶をチャプチャプいわせながら来て言った。
「何よう、エビーなんてセクハラ護衛のくせにー」
「ピッタちゃんに変なイメージ植え付けるのやめてくださいよねえ。ほら、この手桶お願いしますよミカさん」
「はいはい。ねえ、水路の横にさ、熱湯を満タンに入れた樽でも置いておけば、しばらくはそこから柄杓かなんかで差し湯できるんじゃないかな。その方が楽で効率的じゃない?」
「確かに。次からそうするといいかもですね。ちょっとカファさんに言ってきますわ」
エビーが湯気の立った手桶を持って、入浴用テントに戻っていく。
「ともあれ、そこまで嘘は書かれてなさそうで安心したよ。大袈裟すぎるのは気になるけど」
どんなドラマチックな筆致で書かれているんだろう。見るのが怖い。
「取り乱してしまいまして、申し訳ありません…」
「ううん、ピッタが謝る事ないからね。ほら、顔を上げて…」
また目の前に影ができたので見上げるとタイタだった。
「ピッタ殿。ミカ殿は確かに心のお強い方ですが、こちらが謝ると動揺なさるのですよ」
「もう。謝ると動揺するのはタイタもでしょ」
タイタは神妙な顔つきで頷いた。
「その通りです。ミカ殿に謝られると心の臓を掴まれたような感覚になります。どんなに酷く泣かれていたとしても『心配かけてごめん』『ちゃんと気持ちは解ってるから』とおっしゃるばかりで。むしろ、どうして責めてくださらないのかと思う程なのです」
「タイタ様、やっぱりミカ様も酷くお泣きになる事があるんですね、強がっていらしても、辛く思う時があって当たり前です。私にできる事があれば、何でもして差し上げるのに…!」
何なんだ、どうして私をそんなに可哀想にしようとするんだ。
「あのね、私は自分の境遇が辛くて泣いた事なんかないよ。だって本当に恵まれてるんだもん。タイタもピッタも、私の事なんて憐れんでくれなくていいんだからね。誰より図太く楽しく生きてるからさ。だからね、もしも何かあったら、必ず自分の事を優先してよ。お願い、ピッタ」
「そんなの、何かあるの前提じゃないですかぁ…っ、ミカ様はこの地にお逃げになってきているんでしょう、某王族とかいうのがミカ様を狙ってやって来るんじゃないんですか!?」
「まあ、それはありそうだから、その時までにちゃんと同志達は家に帰すからね。安心してよ」
そう言えば、ピッタは青ざめつつもキッと強い視線を寄越した。
「いいえ、私もここでミカ様を守ります!!」
「いや、何でよ。駄目だって、これ以上巻き込まれちゃいけないよ。私は元々、この世界にあるべきものじゃないんだか…」
「自分を、異物のように言うなと言った」
ザコルの低い声が響いて、言葉が引っ込む。ピッタも子供達も驚いて固まった。
ザコルが顔を上げ、皆が萎縮したのに気づいてハッとする。
「すみません…」
「ザコルさま、こわいこえださないで」
ザコルがもう一度すみません、と抗議する子供の頭を撫でた。
「あの、僕はミカに一つ謝らないといけない事があります」
「何ですか、ザコルが謝るような事なんて」
リスクに晒しているのは私だし、今だって勝手に思い詰めて勝手に不眠になっているだけだ。お願いだからもう何も……
「ミカに対して、ずっと強引な態度でいたでしょう。あなたがあまりに思い詰めるから…何だか、自分が信用されていないような、頼りにならないと言われているような気がして…。それに、強引でも、結果さえともなえばあなたも納得すると思ったんです。ですが、僕のそういう態度こそがあなたをさらに追い詰め、言葉を封じさせてしまったのかもしれないと、昨日は夜通し考えていて」
「えっ、夜通し!?」
「あ、いえ。別に僕は一週間くらい寝なくたって平気ですよ。そういう職なので」
「ザコルさま、ねないおしごとのひとなの?」
小さな男の子がザコルの肩に乗っかりながら言った。
「ねえ、そういうのやめてくださいよ。私のために無理とか無茶とかしないで。ほら、もう、大丈夫だから」
「どうしてそう物分かりのいい振りをするんです。あなたが思い詰める要因を作ったのは僕なんでしょう。ミカが感じたままに抗議すればいい。僕の振る舞いを許さなくたっていい。だから…」
「違う。許すも何もないんです。だって、だってザコルは自分が正しいと思ってそうしたんでしょう? 私のためを思ってしてくれたんでしょう? だったら、もうそれでいいんです。私はただ、これ以上心配してほしくないだけで」
「ミカ様」
興奮してきた私の背を、今度はピッタがさする。リラも私の横に座って心配そうに見上げた。
「…ミカ。僕が正しいと思ったことが、あなたを傷つけたなら謝りたいんです。そしてできれば、これからも心配くらいはさせて欲しい。だから謝りたいし、何を思い詰めているのかちゃんと知りたいんです。どうか」
「思い詰めてません」
「ミカ…」
ザコルが傷ついたような顔をしたので、私は目を逸らした。
「ねえ、ミカさん」
いつの間にかエビーも目の前に来ていた。タイタの横に並んで膝をつき、座る私に目線を合わせた。
「俺が、あの時、林檎食べたりしたから、嫌な思いさせちゃったんすよね?」
ぴく、僅かに目を瞬いてしまった。
「林檎を…?」
「おにいちゃん、ミカさまのぶんのりんご、たべちゃったの?」
ピッタと子供達が不思議そうな声を出す。
「あ、いや、林檎は、ええと、概念的な話だと思って聞いといてよ。その林檎は、ミカさんの持ってる力そのものなんだよ。ミカさんは、その林檎が他の人にとって毒かもしれないって怯えてた。でも、俺はぜってえそんな事ねえって思ってた。だから、ミカさんが毒だの危険だのって言うのが許せなくて、俺も、その、強引に納得させたらいいって思って、ミカさんの気持ち考えず、勢いでさ…」
エビーが俯く。
「軽率だったと思います。気持ち悪い思いさせちまって、本当に、すいませんでした…」
「な…っ、何で、違うよ!! 気持ち悪いなんて思ってないから謝らないで!! エビーだって私のことを考えてそうしてくれたって、ちゃんと解ってるから安心して。そもそも、私が君達を心配させるような事言ったからいけないんだよ。ね、もう言わないから、思い詰めたりしないから。大丈夫だよ、ね? だからもうこれ以上、私なんかのために…」
エビーに手を伸ばそうとする。その手はザコルがサッと出した画板によって防がれた。
「………………」
エビーが一瞬だけ微妙な顔でザコルを見た。
私の代わりに、タイタがエビーの背中をポンポンと宥めるように叩いた。
「ミカ殿、どうか、ご自分なんか、とおっしゃらないでください。俺には、ザコル殿やエビーが強く出た理由も解るのです。きっとミカ殿も解ってくださるはずだ。たとえ本人であろうとも推しを否定する言い方はあんまりだと、俺を庇ってくださったではないですか」
「それは…」
ザコルが自分を卑下するのを見兼ね、タイタが言い返した事があった。私はそれはファン心理として当然だと思って庇った。
「それはそうですね、タイタの言う通りです。僕達はミカを推している? ので。別に、ただ優しいから力になろうとしているわけではありません」
「ザコルさま、おしてるってなに? おともだちをどーんっておしたらダメなんだよ。やさしくして!」
先程抗議していた子供がザコルに叱り口調で言う。
「推している、とは、ええと、慕っているとか、好き、とか…そういう」
「ザコルさまミカさまのことすきなのー?」
「えっ」
「すきだってー!!」
わーっ! 今度はおませな子達が騒ぎたてる。
「ちょっ、黙りなさい。静かに! もうお手本書きませんよ!」
「ねえねえ、ここにすきってかいて。おかあさんにあげたい」
「わたしも」
ぐいぐいと画板を押し付けられるザコル。しばらく見ていると、結局断れずに書いてやり始めた。
…ぐう、もう限界だ。
「…あのさ、真剣な話してる時にごめん、ちょっと、話に集中できないんだわ…」
「ふふっ、そうですね、ミカ様がどうして猟犬様しかとおっしゃられるのか、少しだけお気持ちが解りました」
ピッタが隣で頷く。
「解ってくれる!? この人ね、愛想の欠片もなくて怖そうに見えるかもしれないけど、ただ大真面目で人見知りでお人好しなだけなんだよ!」
「冗談はやめてください。お人好しなのはミカの方でしょう」
肩や膝に子供を乗せながら、何枚もの画板に『すき』と書いている人には言われたくない。
「とにかく。推しているというのは、期待しているという意味だとでも思ってください。あなたに期待しているから、そんなに小さな事で悩まないでほしいと思っているんですよ僕は」
「はあ!? 小さな事な訳ないでしょう!?」
誰にもよくわからない能力で人の魔力に干渉する事が、小さい事のはずがない。
「いいえ、小さな事です。そんなのはオマケだと言ったでしょうが。魔法が全く存在しない国から来たミカからすれば恐怖に思えるかもしれませんが、僕からすれば、魔法や魔力による現象なんかより、ずっと不思議で珍妙で、貴重に思える事があるんだ」
「えっ、珍妙で貴重…また、変なことが判って…!?」
「違います! そうじゃない、何故、どうしてあなたは、異世界のこんな辺境で風呂なんか沸かしているんですか!」
「えっ、風呂…?」
テントの方を見れば、相変わらず賑やかに手伝いのスタッフや町民達が走り回っている。
今はまだ高齢者の人が順番に入っている所だ。男湯はりんご箱職人が介助に当たっているらしく、上半身裸でビショビショのままテントから顔を出し、手ぬぐいをスパアンと肩に掛けて「次の人ぉ!」と叫んでいる。女湯の方には、町長屋敷の使用人マダム達がお世話に入ってくれているようだった。
「それは、何故と言われましても…なりゆきとしか…。えっと、水害で弱った人達が、スッキリして元気になってくれたらいい、から…? 今このタイミングで熱湯沸かせるようになるなんて超ラッキーですよね。ずっと入浴支援はやりたいと思ってましたけど、それがこんなにすぐ実現するなんて」
「ほら、ミカは魔法がなくたって、きっとどうにか大量の湯を沸かして入浴させていたはずです。そんな奇特なな女、他にいますか」
「いますよ、ほら、ここに」
ピッタの方を指し示す。それを言ったら同志村の皆さんだって負けず劣らず変でお人好しではないか。
ピッタはブンブンと首を横に振った。
「な、何をおっしゃってるんですか! 私はただうちの兄が行くというからついて来ただけですよ! 支援者の方々から謝礼もいただいていますから仕事みたいなものですし! 猟犬様やそのお相手が素敵な方だと聞いていたので、ひと目お会いしたいという下心はありましたけど…」
「ピッタちゃんは生粋の氷姫ファンだもんな、俺とは推し仲間っすよ」
……? おれの、なかま……?
「ちょ、心底不可解みたいな顔しないでくれます? お、れ、は、ずーっと氷姫様のファンっすからね。だから、あの林檎を勝手に頂いちまったのにはいちファンとして罪悪感が…。あ、でもファンサとかいうの? は、いつでも受け付けてますんで」
エビーが頭を差し出そうとした刹那、画板の角がエビーの頭にズゴッと刺さる。
「いってえ!! 何すんだ変態!! 昨日はしなびた草みたいになってたそがれてたくせに!!」
「ふん、お前もだろうが」
……? しなびた草……?
「ミカが混乱しています。ちゃんと説明しなさい」
「はいはい。あの、昨日、ミカさん、独り言セーブしてたんすよね、俺には聴こえないんで知らないんすけど…」
「あ、ああ、独り言? そうだね。ザコルが人前で褒めるなとか意味分かんないこと言うから当てつけで…」
しかし途中で再開した。思考を垂れ流しにしない程度には抑えたが。
「エビー、別にそこは説明しなくていいんです。君がどうしてミカのファンなのかという話を…」
「そんでさあ、ミカさんの考えてる事が全く解らなくなったってこの変態先生が」
「無視するなセクハラ従者。僕の事なんてどうでも」
「子供達よ俺の言葉を聴きたまえー。そこの猟犬殿はとんでもねえ力持ちだから全員ぶら下がっても平気だぞおー。試してみるがよいー」
エビーが神妙な顔をしてお告げをのたまった。
「ほんと!? ねえねえやってやって」
「たってよザコルさま!」
既に肩や頭に三人乗せているザコルに、他の子供達がねだり始める。
「い、今ですか!? 僕はそこの金髪を退治しないと」
「ねえねえたってたって」
ザコルが渋々腰を上げる。
上に乗った三人はそのまま、立ち上がる時に両腕に四人ずつぶら下げて立ち上がった。まだ何人かあぶれて周りをぴょんぴょんしている。
「ぶらさがるとこがないよ!」
「……背でも腹でも…あ、待ってください。ちょっと、腕の人達は降りて。この腰ベルトは外さないと危ないので」
ベルトを取ろうとして、まず腕にぶら下がったまま離れない子達を降ろそうと四苦八苦しはじめる。
「えーと、そんでですねえ、あの変態唐変木なんすけどね。昨日の夜、俺も寝付けなくってさ…。ミカさんが明かり消したんで、厠でも行くかってそーっとテント出たら、テントの外でセイザ? ですっけ、何か変な体勢で座ってる人がいて…」
「その話はいいと言ったでしょう!」
「ザコルさまー、まだー?」
「ちょっと、そこ引っ張らないでください! 金具が外せませんから、ほら、離して」
まごついてるな…。
「その変な体勢の人が、ミカさんが自分の気持ちを話さなくなったって、ボーッと星とか眺めてんすよ。ミカさんが眠れてないみたいだってのは俺も聞いてましたから、何に悩んでんだろって、二人でずっと話してて。そしたらしばらくしてタイさんも起きてきて…」
「俺も考え事をしておりましたので…」
タイタが後頭を掻きながら照れたように言った。
「…は? まさか、三人とも夜通し外で考えてたわけ!? 私、起きてたのに気付かなかったけど!?」
「そりゃあ、俺ら現役騎士なんで、気配くらい絶ってテント出れますよ」
「外なんて寒いのに!! 一睡もしてないの!? このお馬鹿護衛ども!?」
びしっ、びしっ。立ち上がってエビーとタイタにチョップを入れる。
「何で俺らだけ叩くんすかあ」
「あの変態にはもう独り言なんて一言も聴かせないからいいんです」
「なっ、ミカ、それだけは」
「フン」
まだまごついているザコルから顔を逸らし、ピッタとリラの間に座り直す。
三角座りで、子供みたいに膝を抱える。
「怒ってくださって、ありがとうございます。ミカ殿」
「何なの。タイタまで変態みたいな事言わないで。私に怒れとか叱れとか。もうたくさん」
「ミカ、かわいそう。ないてる」
リラがエビーとタイタを睨む。
「ごめんなリラちゃん。ミカさんはね、嫌な事があってもあんまり怒ってくれねえんだ。だからさ、俺らも意地悪してんのに気付けなかったりすんだよ」
エビーがリラに言って聞かせる。
「色々話してて思ったんすけど、やっぱりザコル殿はともかく、俺が勝手に検証したのが駄目だったのかなって。ミカさん一途っつうか、身持ち固えのにさ、せめて了解取ってから検証したら良かったんすよね。やっぱ、俺に何かされたみたいで嫌だったんでしょ? でも、それならそうと、一人で悩まなくたって、言ってくれたら…」
「……何トンチンカンな事言ってるの。私の身持ちがどうとかなんて関係ないんだよ」
「いや、でも、もう他には、悩む事ない…ですよね…?」
「そんなわけないでしょ! 今になって新しい事がどんどん判ってるのに…! まだ判明してない事が無いなんて言い切れる!?」
「それは…」
「私、今でも自分の力が怖いの! でも、私のために勝手に身を危険に晒そうとされるのはもっと怖い! 私がこの後に及んで、自分の力が怖くて悩んでるなんて言ったら、エビーはどうしてた? また勢いで検証しようとしたかもしれないでしょう!?」
「それは…」
エビーが視線を落とす。
「だから言わなかったの。言えなかったの。テイラーから預かった大事な子に、これ以上無茶な真似させるわけにはいかなかった。ザコルにだってそう。これ以上、私のせいで誰かの人生を壊したりしたら、もう、私、自分の存在が許せなくなっちゃう…っ」
「ミカ」
涙が溢れてきて顔を伏せる。ザコルも私の前に来たようだが、顔を上げられない。
「軽く考えるなって、危機感持てって言ったのはエビーじゃない。言いたくないけど、やっぱり私は『毒物』なんだよ。少しは薬にだってなるかもしれないけど、今もたくさんの人を巻き込んでトラブルの種増やしてる。そんな毒物が、ザコルやエビーより、この世界の人より大事にされるような理由なんて何も…っ」
うっ、うっ、と嗚咽が漏れる。
「ミカ、そんな言い方をしないでください。僕もエビーもただあなたが大事で…その…」
ザコルが何とか宥めようとしている。しかしその言い方にも苛ついてしまった。
「私だって…っ、二人の事が大事で、大事で、だからこれ以上心配させたり無茶させたりしたくないんだよ……!」
「ミカさん……」
その場に、私の嗚咽だけが残る。
子供達も戸惑っているのか黙っている。ピッタは黙って私の背中をさすってくれていた。
護衛達はともかく、子供達やピッタにまで気を使わせている状況に耐えきれなくなり顔を上げようとすると、ピッタがそっと私の目の前にハンカチを差し出してきた。
「ミカ様。少しよろしいでしょうか」
ピッタは片手で私の背中をさすり続けながら口を開いた。
「私には詳しいことは分かりませんが、これだけは言えます。私、例えばこの国の某王族とやらより、ミカ様の方が百万倍大事です。だって、ミカ様の方が百万倍、私達、民の事を大事に思ってくださいますから。ミカ様について行けば、きっとこれからも楽しい事が待ってるんだって確信が持てるんです。猟犬様もおっしゃっていたじゃないですか。期待しているって」
「流石はピッタちゃん、いい事言う!」
「エビー様は、調子に乗りすぎです」
ピッタがピシャッとエビーに言い渡す。
「ちょっ、調子に乗ってなんか…」
フン、とピッタは鼻を鳴らしてエビーを睨んだ。
「いいですか、ミカ様の崇高なお考えを勝手に決めつけないでください。そんなんだからミカ様が大人の対応をなさったんじゃないですか。話を聞かずに何か強引な事をしたんでしょう。何しやがったのか知りませんけど、ミカ様のお気持ちを無視しといて怒ってくれないだの言葉を封じられただのと後から文句を言うなんて、虫が良すぎるんじゃありませんか!」
「ピ、ピッタ、そこまで言わなくても…エビーもザコルも、私のために…」
私は涙と鼻水でベタベタになった顔を上げた。
「ミカ様はこの者共に甘すぎです! さっきから何ですか。ミカ様のお気持ち一つ察せずに追い込んでおいて、いかにも解ってる風な顔で問い詰めた挙句、寝てないだとかミカ様を心配させるような事をわざわざ言って。何様のつもりですか!? そこになおりなさい!」
ピッタに言われ、タイタが黙ってその場で正座をする。エビーも倣い、ザコルもその横に並ぶ。無論子供は肩に乗せたままだ。
だから昨夜の話はしなくていいと言っただろう、とエビーを肘でつつきながら小声で言っている。
「お優しいミカ様をこんなに泣かせるなんて万死に値します! 罰としてミカ様のいいところをそこで言い続けてください!」
「へっ!? そ、それ、私がただただだ居た堪れなくなるやつじゃ」
「ミカ様はこちらで優雅にお過ごしになるだけで結構です。さあ、お飲み物をどうぞ。子供達、お手本は私が書きますよ。猟犬様みたいに上手な字じゃないですけどね」
ピッタはそう言って、牛乳を注いだグラスを私に差し出した。
◇ ◇ ◇
「ミカ殿は、とにかく慈悲深くして思慮深くもあり、懐も広くていらっしゃいます! 俺のような察しの悪い者にもお優しく、いつもそれとなく相手の意図を教えてくださったり、指示を分かりやすくしてくださったりなさるのです。それに、お優しいだけでなくあらゆる才覚と判断力にも秀でておいでだ。このように素晴らしいお方にお仕えできた幸運を日々噛み締めております!」
「褒めすぎでは…?」
「流石はタイタ様です。では、はい次の方」
ピッタはタイタに拍手を贈り、次はとザコルの方に手のひらを向けた。
「僕の番ですか……そうですね、ミカは博識で、努力家で、与えた課題にも常に真摯に取り組んでくれます。さっきも言いましたが、夏の間にここまで体力をつけられるとは僕も予想外でした。護身術や馬術の習得スピードには特に目を見張るものがありましたね」
何となく、三者面談などで担任から評価を述べられているような気分だ。ピッタも小声で「固い…」と呟いている。
「旅の間も自分から野営の仕方を学びたいと言ってくれましたし、ウスイ峠越えの際も弱音一つ吐かず、何なら馬の心配までする余裕もあり、本当によくぞここまで仕上がってくれたものだと僕はシショーとして誇らしく」
「ミカ様、まさか魔の森を抜けた後にあのウスイ峠を越えていらしたんですか…?」
ピッタがザコルの口上の途中にも構わず口を挟んでくる。
「そうだよ、猟犬さんおすすめコースだったからねえ。もー汗だくだったけど、頂上の景色も、山小屋での食事も最高だったよ」
じろ、とピッタが一瞬ザコルを睨んだ気がするが、彼女はすぐに笑顔で私に向き直った。
「いつかその過酷な旅を自叙伝としてお残しになってくださいね。私が量産して全国に配布して参りますので」
「量産…。う、うん、旅の記録は忘れないうちに残しておこうかな」
「ぜひそうなさってください。では、次」
ピッタは途中で黙らされたザコルをスルーしたまま、エビーには顎でしゃくって促す。
「俺の扱いが酷い…」
「何か?」
じろ、とピッタがエビーを睨む。
「いえ何でもないっす。えっと、俺は、召喚されたあの日からずっとあんたの事…」
「あんた?」
「あっ、あなた様をずっと見続けて来た一人です!」
すぐに言い換えたものの、ピッタはじっとエビーを睨んだままだ。
「こわ…」
「は?」
「い、いえ、何でもないっす。…えっと、俺は、ミカさんがこっちに来た直後からの付き合いなんすけど、座敷牢にいた最初の一週間は、文句どころか何の要求もしてこなくて、嘆くでも怒るでもなく、毎日団長が持ってきた本にかじりついて読み込んでましたよね。急に異世界に来て囚われたってのに、普通あんな風に落ち着いて過ごせるもんかって不思議に思ってました。でも、ザコル殿がセオドア様の代理としてやって来て話した後は、妙に楽しそうに牢に帰ってきてさ、奥様からの贈り物を開けて目を輝かせて、俺らにも勧めてくれたんです。それが俺との一番最初の会話すよ。覚えてますか」
ふふ、と私は思わず笑いを漏らした。
「もちろん覚えてるよ。それまでは囚われの不審者が話しかけたりしたら迷惑かなって思って遠慮してたんだけど、あの日は晴れて不審者から居候あたりにランクアップしたからさ。それにあのクッキー、本っ当に綺麗で美味しそうだったでしょ? 感動を分かち合いたくてねえ」
「今考えるとミカさんらしいなって思えるんですけど、あの時は話しかけられてマジでビビりました。笑ってるとこ初めて見ましたし。あん時は健気で可愛いなーって見惚れちゃって。あれからずっとファンなんすよねえ、氷姫様の」
エビーが後頭を掻きながら照れくさそうに言う。
「やだ、エビー、本当に私のファンだったの? …それはそれは、実態がこんな変な女で幻滅したでしょう」
「ちょっ、俺の氷姫愛を見くびんないでほしいすよ。今でもファンですって!」
氷姫愛って…。
こっちも照れちゃうからやめてほしい。何か別の方向から殺気っぽいのも飛んでくるし…。
「確かに、一緒に旅するようになってからイメージ変わりましたけどね。面白いっつうか何つうか。思ってたよりずっと逞しいし、歳上だったし…。でも、反省文で徹夜したタイさんを、護衛失格だって叱り飛ばして仕切り始めた時が一番びっくりしましたねえ」
「ああ、あれね…。あの時は突然頭ごなしに叱ったりして、本当にごめんだったよ、タイタ」
「いいえ、とんでもございません。あの時ご指摘いただかなければ、誠意を見せる方法はそれ一つだと今も思い込んでいた事でしょう」
「そうそう、別に謝る事ないですよ。タイさんには悪いすけど、ミカさんが言ってたのは正論でしたからね」
タイタは気を悪くした様子もなく、はは…、と申し訳なさそうに笑った。
「あん時を境に、見る目が変わったんすよ。ミカさんって、人のために先を先を読んで行動する人なんだって。牢で大人しくしてたのも、本を読んで知識つけてたのも、魔法の練習や鍛錬に真剣に打ち込んでたのだって、結局は全部、周りを困らせねえようにするためだ。この旅だって、ザコル殿にただ連れ回されてるだけじゃなくて、実は自分でも下調べガチガチにやり込んでましたもんね。そこまでしてても出しゃばらなかったのは、色々理解した上で、護衛の仕事を邪魔しないよう遠慮してくれてたってだけだ」
「そうだったのか…!」
タイタが合点がいったとばかりに膝を叩く。
「そうだったのかじゃないよ!! タイタも感心しないで。あんな付け焼き刃の知識くらいで、本物の土地勘持ってる人に敵うわけないでしょ。ほんと、買い被りもいいとこ…」
「いやいや、謙虚も過ぎると嫌味っすよ姐さん。少なくともこの辺りの地理じゃ既に俺は敵う気しねーっす。それだけじゃねえすよ。あんた、知らねえうちに領主クラス二組と勝手に交流して気に入られてんじゃねえすか。あのイーリア様からも半分本気で誘われてっし。うちの姫、実はめちゃめちゃ大物なんじゃねえかって俺ぁ惚れ直したんすよ!」
「もう、もうやめて! 買い被りだって言ってるでしょ! 領主クラスのお方達は、セオドア様に頼まれたから私の相手をしてくださっただけだよ。それに、私ってザコルとはぐれたら即迷子でしょ。普段はザコルを信用して任せておけばいいだろうけど、私も簡単な位置関係くらいは頭に入れとかないとと思ったくらいの事で」
「あの手製地図は簡単な位置関係とかいうレベルじゃねえんだよ。そういう極端っつうかオーバーキルなとこ、すぐ森とかに突っ込みたがる変態殿にほーんと似てますよねえ」
エビーがザコルを軽く睨む。ザコルも睨み返した。
だんだん殺気が濃くなってるような…。
「ザコル、落ち着いてください。エビーの言うように、私、あなたに共感できる部分は結構ありますよ。ザコルの選んだルートだって、はたから見れば極端だったかもしれないけど私は概ね納得してました。ツルギ山だけはまだ早いかと思ってやめてもらいましたけどね」
「…そうですか。納得できない時は今後もしっかり意見してください。その方が安心できるので」
ザコルが殺気を幾分か和らげながらそうのたまった。
そうか、無茶をさせないためにと、言葉を封じたのは失敗だったんだ。
最初からこうして言葉を尽くしていれば、彼らも悩まずに済んだかもしれない。
「はい、そうしますね。峠の頂からの景色、皆にも見せたかったなあ。山犬邸のソーセージとお芋が本当に美味しくてねえ…。帰りもまたウスイ峠通ってもいいかな。春はいつ頃山開きするんだろ」
春の旅立ちに間に合えばいいけど。雪が残ってたら無理かなあ。
「何言ってんすか、帰りは普通に街道通って帰りましょうよ…。でもまあ、そういうぶっ飛んだとこも面白いと思ってるんすよ。たまについていけねえ時もありますけど」
「君はツッコミ担当だからねエビー。これからも頑張ってついてきてツッコんでくれたまえー」
ふすん。鼻を鳴らそうとしたが、鼻水が詰まっていてうまくいかなかった。
「へへ、ミカさんはそうでなくちゃな。俺はこれでもマジで尊敬してるし、姐さんにはこれから何やってくれんだろって期待もしてんだ。だからもう『毒物』だなんて言うのはやめてくださいよ。水臭えだろ。ていうか、たとえ毒でも危険でも、姐さんの本当の価値が揺らぐ事なんかねえんだからな。ザコル殿風に言うなら、オマケってやつすよオマケ!」
エビーが軽い調子で言う。きっとその態度も敢えてなのだろう。彼は意外と『気にしい』だし、繊細だ。
「うん、私なんか……って言っちゃダメだね。私をそんな風に評価してくれてありがとう、エビー。毒だの危険だのって事は、エビーも体張ってくれたからね。もう言うのはやめる。でも、まだ判ってない能力が無いと言い切れないのは本当でしょ、だから軽率な事はしないように気をつけたいんだ。そうじゃないと、私が君達を心配しすぎて参っちゃいそうだから…」
「分かりました。ちゃんと、相談しながら慎重にやりましょう。今後、ミカさんに黙って勝手は絶対しないって約束します」
「うん。お願いね」
エビーの横ではタイタがニコニコとしてこちらを見守っている。仏頂面のザコルは子供達に顔をペチペチされている。
真横を見たらピッタが子供達の紙に美化しまくった私らしき似顔絵を書いて『神』とか書いていたので、思わず突っ込みを入れた。
◇ ◇ ◇
「エビー様、素晴らしい演説でした。神の新しいエピソードもありがとうございます」
「神はやめてくれるホントお願いだから」
「良かったあ、ピッタちゃんに嫌われたままだったら俺死んじゃうとこだったわー」
正座を崩す事を許された三人は、ラグに腰を落ち着けている。ザコルはピッタの反対側で、ぴったりと私にくっついて座っている。何だろう、くっつきたい気分なんだろうか。
「あのさー、座敷牢にザコルが来た日って確か、私部屋でスクワットとかしてたよね、運動したかったとはいえ我ながら奇行だったと思うんだけど、ファンとしてはどういう解釈を…」
「紛う事なき奇行でしたね。ハコネも動揺してましたし、僕は心底変な女だと思っていました」
「ふふ、ザコルは本当に正直で好きです」
ぐい、と顔を押しのけられた。照れるならそんなに近くに座ってなきゃいいのに。
「スクワット…は見てないすよ。俺が交代で入ったのは団長とザコル殿が連れ出した後だったんで。スクワット…」
エビーが眉を寄せた。他にも奇行の数々はあったはずだが、護衛隊の子達は同席していなかったかもしれない。
彼の中の初期氷姫様像は、危ういバランスで保たれていたようだ。
「そういやさ、ザコル殿とミカさんがサカシータ領に行くって決まった時なんすけどね。セオドア様からさ、やっぱりザコル殿だけじゃ心許ねえから、護衛隊から一人後を付いてって、途中で様子見ながら必要なら従者として介入してやれって命令が出たんで、俺含め何人も立候補したんすよ。セオドア様の軽い面談の後、最後は腕相撲で決着つけたんすよねえ」
「また腕相撲!」
思わずピッタを見てしまった。
何だろう、こっちの世界はじゃんけんみたいなノリで腕相撲するんだろうか。じゃんけんよりは実力主義で合理的だけど…。
「どうせ僕は心許ないですよ…」
「ふふ、旅の初日もそうやって拗ねてましたよねえ。多分、そういう意味じゃないと思います」
心許ない、というのは、恐らく世話や護衛そのものの話ではなく、私達が『上手くいかなかった』場合の事を指しているんだと思う。二人きりでは、もし酷い喧嘩などに発展した時に逃げ場がないからだ。
「そうそう腕相撲で一騎討ちで……あ、ああ!」
エビーが急に何か思い出したとばかりに声を大きくする。
「どうしたの?」
「最後の一騎打ち、俺とカニさんだったんすよ! 勝ち残って良かったっす!! 俺偉い!! マジで!!」
「そっか…!! それはよくやったよ!! 偉い! 偉すぎ! さすエビ!!」
「ちょ、やめ、何すんすか!」
身を翻し、後ろにいたエビーの頭を思いっきりワシャワシャしてしまった。
「これ以上僕を煽ってどうするつもりですか、ミカ」
ゴゴゴゴゴゴゴ…。
「いい加減俺が殺されるんでやめてくださいよミカさん! この俺が大事で大事でしょうがないって気持ちは嬉しいすけどお」
ゴスッ、エビーの頭に画板の角が二つめり込み、エビーが悶絶した。
ザコルとピッタが同時に出した画板だった。
カニタが本当に間者だった場合、同行者だったらと思うとゾッとする。
どうせザコルの前で直接手を下すのは難しかっただろうが、もしも下手に仲良くなって裏切られでもしたら精神へのダメージが計り知れない。
「よく勝ち取ったなエビー。俺は…オリヴァー様にズルいから行くなと…」
「あれ、タイタはてっきりカニタに邪魔されたのかと思ってたよ」
タイタもこの性分ならば当然立候補したかっただろうにとは思っていた。しかしオリヴァーによって立候補を阻まれていたらしいのは意外だ。
「タイさんが出てたら絶対勝てなかったすよ。逆にカニさんはタイさんを出したかったんじゃねえすかね」
「なるほどね、今回と同じようにタイタに言い付ければいいわけだもんね。でも、今思えばカニタごときに操り続けられるようなタイタじゃなかったよきっと」
「間違いねえすわ」
「そんな、買い被り過ぎです、ミカ殿もエビーも…!」
恐縮する執行人を揶揄って笑う。
「カニタとは、ミカ様の敵なのですね…? 覚えておきます」
黙って話を聴いていたピッタが、カニタという不穏分子の名を心に刻んでいた。
…くれぐれも自分で討とうなどと考えないでくれることを祈る。
◇ ◇ ◇
その後、妊婦と赤子連れの母子に入浴の番が回ってきて、入浴後に感謝を伝えに来てくれた。
おむつの取れていない赤ちゃんには大きなタライを用意し、町長屋敷の使用人が母親の代わりに入れてくれたらしい。そうか、ベビーバスというやつか。大浴場にあるのはそのためなんだ。
子供達の番がやっと来たのでテントに並ぶよう促すと、男の子達はザコルと一緒に入ると言い出した。
「な、なんで僕と? 子供の世話なんてした事がないんですが」
「それでは、俺も一緒に入りましょう。お一人では大変でしょう」
「じゃあ俺もー。よく近所のガキ共の面倒見てたんで」
エビタイの二人が、困惑するザコルと小さな男の子達を連れて男湯に入っていく。
ここは町長屋敷の敷地内だし、テントの周りは顔見知りの町民で固められているので護衛上問題ないと判断したようだ。
「ミカ、いっしょにはいろうよ」
リラが私を誘ってくれる。他の女の子も私を見上げていた。
「もちろんいいよ、皆の髪、綺麗に洗ってあげるからね」
「そんな、ザコル様もそうですが、ミカ様が直々に子供の世話なんて…」
「ううん、やりたいの。最近お世話されてばっかりでさ、私だってお世話したいんだよ」
「それなら私もお手伝いに入りますから!」
「私も!」
ピッタと同志村女子の一人が手を挙げる。
二人は、私が脱衣所で躊躇なく服を脱ぎ、肌を隠す様子もなく子供達と浴場に入っていった事に驚いていた。本物の貴族令嬢ならば恥じらった所だろうが、こちとら大浴場慣れした日本の庶民なので何とも思わない。
様々な汚れでカピカピしかけていた子供達の髪を湯で流し、丁寧にほぐして洗ってやれば、絡まりも解けて驚く程サラサラなになった。
子供とは、背丈だけでなく、髪一本一本まで細くて頼りないものらしい。その柔らかく繊細な手触りは、何にも例えようがない程心地よくて感動してしまった。
小さな彼女らと湯船で一緒に歌ったり湯を掛け合ったりもし、その日のお風呂は本当に本当に楽しかった。
「ミカさま、ふくぬいでもきれいだった! すべすべー」
「わたしもおとなになったらそんなふうになれる?」
「なーに言ってんの、ザ・日本人体型の私より皆の方が絶対きれいに育つってー」
「ミカ様は程よく鍛えていらっしゃるから体のラインがお綺麗なの。皆もあの体操をすればいいわよ」
「やるう!」
「いや、待って。まだ育ち盛りの子供だし、もう少し軽いメニューを考えてもらった方がいいかも。ザコルに相談するよ」
ラグを日当たりのいい場所に移動し、女の子達の髪を拭いてやりながら美容の話をする。今日は気温も比較的高くて過ごしやすい。
コマに言われた保湿用の油は流石にここでは手に入らなかったようだが、この支援活動が一段落したら全力で自分に合う油を探すと意気込んでいる女子達だ。
「確かさー、羊の毛の脂を精製すると人間の皮脂に近いものができるんだよね。口紅の原料にも使われてたはず…」
「ミカ様そこのところ詳しく!!」
「いや、流石に精製方法までは知らないよ? またコマさんにでも訊いてみてよ」
今の今まで湯船で遊んでいたらしい男子達がやっとテントから出てくる。大人も子供も頬が真っ赤でホカホカだ。皆暑いのか、上半身は下着の半袖一枚だ。
「わあ…ザコルさま、うでがすごいふといねー。おむねもおおきいし」
「うちのおとうさんよりすごい!」
「そうね、エビー様やタイタ様と比べても随分……」
「あれが大樽を持ち上げる筋肉なのね……あっ、ミカ様申し訳ありません不躾にジロジロと見て…あら、どうしたんです?」
私は手で顔を覆ってガードしていた。
「むり…」
こんな日の高い時間に直視なんてできない。
「えっ、まさか照れていらっしゃるの?」
「ミカ様かーわーいーいー!!」
「少しはご覧になって、慣れておいた方がいいのでは?」
「むーりむりむりむり」
父親や祖父と生活した記憶も交際経験もないような人間に無茶を言わないでほしい。
「先程までりんご箱職人の皆さんが上半身裸でうろついていらっしゃったじゃないですか」
「あれは遠目だったからまだ…」
「彼らもムキムキでしたよね、猟犬様のメニューも難なくこなしていましたし。流石は武のサカシータですね。あ、彼らこっちにやってきますよ」
男子達の賑やかな声が近づいてくる。
「私は、逃げる!」
「あっ、ミカ様」
ブーツの紐もロクに結ばず、ラグから急いで離れる。
「ミカ、どこに行くんですか」
音もなく横に並ばれて飛び上がる。
「ひい!! 追ってきたぁ!!」
全力で走ったつもりなのに三秒と保たなかった。
ガッと腰に腕を回されて呆気なく捕まる。
「うう、うううー…離して…無理……」
「何が無理なんですか。全く、奇行ばかりして…あ」
ザコルは私の耳か首筋が赤いのに気づいたか、腰に回した手を緩めた。
「…すみません、でも、逃げないでくれますか」
ザコルは動かなくなった私の膝をサッとすくって横抱きにすると、笑い声の聞こえるラグの周りへとスタスタ歩いて戻っていった。
そして。
朝刊を握りしめた町民がこの場所になだれ込んで来たのは、皆で牛乳が入ったコップを片手にまったりとしていた所だった。
つづく




