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出立

 伯爵夫妻とオリヴァーの準備が整ったとして、アフタヌーンティーを囲んで報告会が開かれた。

ハコネとホノルを始め、使用人の代表者も幾人か部屋に入っている。


「皆、本当にご苦労だった。私達が不在の時にも関わらず、王子殿下への対応を完璧にしてくれたこと、改めて感謝しよう」


 セオドアは、強行軍で走り抜けたばかりだというのに疲れた様子も見せずに言った。


「アメリア、その采配を評価するよ。きっと王家からも感謝を伝えられるだろう。流石は我が娘だ」

「もったいないお言葉ですわ、お父様」

 王子を撃退した件で王家に感謝されるとはシュールな…。


「ホッター殿、社交の初陣がこのような場になってしまいすまなかった。王家にはきつく抗議をするからね。それにしても、見事に王子殿下を言いくるめてくれたと聞いているよ。娘を助けてくれたこと、本当に感謝している」

「それには及びません。殿下が素直な方で、たまたま上手くいっただけですから。どうか、アメリアさんやザコルさんへの無礼を抗議するのみに留めてくだされば幸いです」


「何をおっしゃいますのミカお姉様。わたくしはお姉様への無礼こそしっかり抗議していただきたいですわ」

「お嬢様のおっしゃる通りかと」

 アメリアとザコルが私に言い募ろうと身を乗り出す。


「別に大した事は言われてませんよ。それに、私は思う存分やり返しましたので。これ以上の追求は不要です」

 はは、とセオドアが面白そうに笑った。サーラも扇子の向こうでくすくすと笑っている。

「そうかそうか、あなた自身が王家に思うところはないと。しかと伝えよう。恩だけ売っておくよ」

「ありがとうございます」


 セオドアは立っているハコネとザコルの方に目を向ける。

「ハコネ、ザコル。娘やホッター殿をよく守ってくれた。感謝する」

「私は何も。お嬢様とホッター殿のなさりようを見守っていただけでしたので」

「僕も。むしろ力不足で。お役に立てず申し訳ありませんでした」

 ハコネとザコルが揃って頭を下げる。

「いいや、娘達も君たちがいたからこそ安心して振る舞えたんだ。今後ともよろしく頼む」


 セオドアは、執事長や侍女長、料理長など、各部門の代表者に声をかけていく。

 声をかけられた側は嬉しそうに笑って応える。

 使用人への感謝を、主人が直接言葉を尽くして伝える。いい会社…じゃなかった、いいお家だ。



 仕事のある使用人達が場を辞すと、家族同士で和やかな歓談が始まった。

その家族の中に私が入れてもらえているのは不思議な気分で、少しずつ慣れてはいるがまだソワソワとしてしまう。

 ザコルとハコネとホノルは警備と給仕をするために残っている。

 ちなみに親が仕事をしている間、シフトに入っていない使用人が交代で子供達をまとめて見ているらしい。持ち回りの託児所だ。昨日の宴会で話した若いメイドちゃんに聞いた。


「ミカ。安心してね。ぼくが伯爵になったあかつきには、いや、次に王宮へ行く機会さえあれば。ミカと姉上の平穏のためにアホの第二王子殿下なんて社会的に抹殺してあげるからね」

「十歳の言葉じゃない」

 にっこりと笑うオリヴァーからゴゴゴゴゴ…という幻聴がするのは気のせいか。


「オリヴァー、わたくしは決して殿下に破滅していただきたいわけではなくってよ」

「私も。恨むほど関わってませんから。ね?」

 アメリアと一緒に小さな過激派を宥める。


「もう、ミカもお姉様も慈悲深いなぁ…。ザコル、後で話があるんだけど」

「消しますか? 痕跡は残しませんから気軽にどうぞ」

「消さないで! 人様を気軽に消さないで! もう完全に私怨じゃないですか!」

 さっきは、個人的な頼み事をしてくる貴族が鬱陶しいとか言ってたくせに。


「全く、ザコルはすぐそんな事を言って。ミカお姉様が怖がっていらっしゃるわ。ねえ?」

「そうですよ…。ザコルさんやアメリアへの仕打ちはもちろん許せませんが、私にまで粉をかけにきたのは酔狂だとしか思いませんし、だから」

「ミカは、自分の事を魅力的だと思っていないのかな? もしぼくが毎日言葉を尽くして愛と賛辞をささやいたら自分の価値を解ってくれるだろうか。試してみるかい?」

「十歳の言葉じゃない」

 流石はセオドア様のお子だ。ビスクドールが色気満載で口説いてくる。ちっちゃいのに破壊力すごい。


「オリヴァー様、ミカは少しでも賛辞を述べようものなら悲鳴を上げて嫌がりますよ」

「それはザコルが相手だからじゃないの。気持ち悪がられてるんでしょ」

「うぐっ」

「何てこと言うんですか!! そんなことない! そんなことないですからね師匠! 褒めてくれるのは嬉しいです! な、慣れないだけで! あと、アメリアやオリヴァーみたいに顔も頭も性格まで良い子達を見ちゃうと、自分に魅力があるなんて到底思えないだけで…」


 ザコルがふー、と息を吐いて整える。あ、待って、何を言う気……

「ミカ、あなたも充分に聡明ですし」

「ヒッ……」

「元々の儚げな雰囲気も」

「ヒッ……」

「最近は随分と生気が宿ってますます」

「ヒッ……」

「何で悲鳴を!? せめて最後まで言わせてくれませんか!?」


 アメリアはザコルを呆れ顔で見遣り、オリヴァーは私達のやりとりを見てケラケラ笑っている。セオドアとサーラは変わらずにこやかだ。


「ザコル、いいかな。実はお願いがあるんだ」

「はい、なんなりと。主様」

 ザコルが表情を引き締めてセオドアの方を向く。


「公爵様からね、興味い噂を聞かせていただいたんだよ。君の故郷であるサカシータ子爵領に、渡り人とおぼしき者が現れたと」

 えっ、と私とアメリアは顔を見合わせる。

「それは初耳ですね。実家からはその様な報せは来ていませんが」

「公爵様のお耳は早いからね。サカシータ子爵家としても対応を決めかねている状況ではないかな。渡り人らしい者はいつの間にか子爵家の新兵に交ざっていたようだが、類いまれなる体術によって注目を集めたそうだ。出自が不明だったため、よくよく話を聞けば渡り人ではないかと。カズ・ナカタと名乗っているそうだよ」


「ナカタですか…? まさか…ミカが話していたエイギョーのナカタ?」

 ザコルの言葉に、皆の視線が私に向く。


「ホッター殿、知っているのかい?」

「ナカタ、中田…。うーん、私の国にはよくある苗字なので、私の知っているナカタかどうか分かりませんが、名前が本当なら同じ日本人か、最低でも日系人ではありますね」


 不意に、頭の隅に『今日からこちらでお世話になる中田カズキっていいまぁーす。中田って言ったらヒデじゃないのかよってよく言われまーす。サッカーはできませんけどー、合気道はこれでも師範なんですよぉー。気軽にカズって呼んで可愛がってくださいねぇー。よろしくお願いしまーす』という軽薄な調子の挨拶がよぎった。


「ああ、そういえば中田のファーストネームってカズキでした。愛称はカズ…。中田が私のように適当なノリで名乗っているとすれば、私の知る人間である可能性があります。合気道という日本特有の体術も嗜んでいましたしね」

 ザコルがセオドアに向き直った。

「そうですか。それで、主様、お願いとは何ですか? そのナカタとやらを消し」

「待って待ってまっって! 何ですぐ消そうとするんですか! 本人かどうかも分からないのに! 確かに私の過労の一端は中田のせいですが、元はと言えば私が雇われていた会社の体制が悪いので! 会社が! 悪いんです! 手のかかる奴ではありますけど、社会的には無害ですから師匠が手を汚すまでもな…っ」

 ザコルが突然こちらをくるっと向いたので、言葉が引っ込んだ。


「妙にナカタを庇うじゃないですか、ミカ」

「ヒッ……」


 鋭すぎる眼光に射貫かれて喉から声が漏れる。


「ザコル? お姉様を怖がらせないでくださる?」

「そうだよ。ミカにいちいち言わず、とりあえず消してくればいいじゃない」

「ヒィ! 冗談に聴こえない!」

「ゴホン。あー、皆よく聞いてくれ。お父様を置き去りにしないでおくれ」

 セオドアが端正な目元を情けなく下げて言った。


「いいかい? ザコルへのお願いというのは、子爵家に事情を聞いて、ナカタ殿本人の様子を見てきてほしいというだけのことなんだ。もしかしたらホッター殿の知人なのかもしれないみたいだしね」

「解りました。早速発ちます」

「今から!? もう夕方ですよ?」

「はい。ナカタとやらの顔をすぐにでも拝みたいので。僕は夜でも移動できますし」

 オリヴァーがハイハイハイと手を挙げる。

「ザコル! 僕も一緒に行きたいよ! そんなに危険な任務じゃないでしょ?」

「オリヴァー、あなたはダメよ。いくらなんでも足手まといです」

 サーラがオリヴァーを嗜める。

「だって母様、ザコル、家にいたって情けないだけなんだもん。お仕事してるとこ見たいよ!」

「オリヴァー様、あなたを担いで走って移動するくらいなら可能ですが、舌を噛まないよう、猿轡を噛ませる形でもよろしいですか? 行程は宿泊無しで丸三日ほどになります」

 サー…。流石のオリヴァーも顔色をなくした。

「……やっぱりやめとく。代わりに今度、暗器で戦ってるとこ再現して見せて?」

「暗器ですか、お目に触れさせていいものかどうか判りませんが、主様か奥様のご許可がいただけるようでしたらお見せしましょう」

「母様!」

「もう、仕方のない子ね」

「やったあ!」

 オリヴァーが子供らしくピョンピョン跳ねて喜んでいる。サーラが苦笑しつつザコルに謝る。


「…………無理は、承知の上で、いいでしょうか」

 私はそろりと手を挙げた。セオドアが鷹揚に頷く。

「何だい、ホッター殿。そろそろ私もミカと呼んでもいいかね?」

「それはもちろん。いつでもお好きに呼んで下さって結構です」

「ありがとう、ミカ。それでどうしたのかな」


「私も、サカシータ子爵領に行かせて下さいませんか」

「は?」

「ふむ」


 ザコルが私を振り返り、セオドアが右手を顎に当てた。


「まあ、ミカまで。北方の辺境領よ? ザコルは走って三日だのと言っているけど、普通は馬車と馬を乗り継いで一週間、いえ十日以上の行程なのよ。道も整ってない所があるし、過酷な旅になるわ」

 サーラが丁寧に諭してくれる。


「過酷であろうことは何となく承知の上です。地図で見たことがあるので。馬車での移動はしたことがないですが、悪路を木の車輪で長距離走れば負担が大きい事くらいは解るつもりです。ですが、もし行かせてくださるのなら一週間や二週間くらい根性でどうにでも耐えてみせます。担がれても文句は言いません。私もその中田という人に会うべきだと思うんです」


「理由を聞いても?」


「まず、カズ・ナカタが本名ならば間違いなく同郷でしょう。遅かれ早かれコンタクトは取った方がお互いのためです。それから、本当に知人だった場合、ザコルさんに殺されそうなのでそれは避けたいです。流石に後味が悪いので!」

「嫌ですね、ミカ。あなたが殺すなと言えば殺しはしませんよ」

「本当に!? その据わった目を引っ込めてから言ってくれます!?」

 全く本職みたいな顔しちゃって。あ、本職か。


「そうだな、ザコルも命令に反してまでそのナカタ殿を即始末する事はないだろうが、それでも行くのかね?」

「はい、もし可能なら行かせてください。お願いします。何でもしますので!」

 私はソファから立ち上がり、バッと膝をついて頭を下げた。


 この世界では四十五度のお辞儀は「御意」とか、道行く高貴な人に敬意を示すくらいの動作だ。お願いしたいなら膝をついて頭を垂れるくらいが正しい。たぶん。断じてジャパニーズ土下座の出番ではない。


「ミカお姉様、そのナカタという方と何ありましたの? わたくしまだその方のお話、聞いていませんわ」

「アメリア、話してなくてごめんなさい。中田は、元の世界で仕事仲間だった者です。まさか再会の可能性があるとは思わず、重要な話題とも思っていなかったので」

「ミカが最初、ボロボロの過労状態で寝込んでいたのは、ナカタという者が無茶な仕事をミカに押し付けたせいだと聞きました」

 ザコルがすかさずアメリアに告げ口する。

「いえ、それは」

「まあ! 本当ですのお姉様! そんな者のためにお姉様が頭を垂れたり、無理して移動などなさる必要などないでしょう? むしろザコルに命じて凝らしめてやればいいではありませんか」

「ミカが行くくらいならぼくが行けばいいじゃない。ミカよりはまだ馬車に慣れてるし、ナカタも息のある状態で連れ帰ろうか?」

「オリヴァー?」

 サーラがオリヴァーを睨む。


「ダ、ダメです! ダメ! ゼッタイ!」

 私は立ち上がり、思いきり両手を振ってNOと叫ぶ。


「どうしてそんなにナカタを…」


「違います! 皆さんは、渡り人は護るべきものだという信条をお持ちなんでしょう? その人が本当に私の知る中田だとしても、一応は渡り人なんですよ! 手を出したりしたら経歴に傷を付けてしまうんじゃないですか!? 私なんかのためにお世話になった皆さんの手を汚すなんて絶対耐えられない…! そんなことなら、中田ごとき私が同じ渡り人として元先輩としてキッチリ首を絞め上げてきますから! ですからどうか行かせてくださいお願いします…!!」


 ………………

 ………………

 シーン。 


 全員が目を丸くして黙った。あれ? 何かやっちまった…?


「あの、ミカは、ナカタの身を案じているわけではないんですか?」

 微妙な空気の中、ザコルがおずおずと訊いてきた。


「中田の身を? いえ。その人、サカシータ子爵領で上手い事やってるんですよね? 中田め、私よりも先に再就職を決めるとは…じゃなくて、とりあえず無事で生計まで立てられてるんなら心配ないでしょう。そんなことよりも、私に取っては皆さんの手を汚さないことの方が大事です。だから私に行かせて下さい! 地図さえ貸してくだされば自力で徒歩でも構いません! ザコルさんに追いつけなくても追いかけます! 調査でも何でもしてきますから! お願いします!」


 再び深く頭を下げる。


 しばらく沈黙が続いたのち、アメリアが口を開いた。

「…わたくし、ここ二日でミカお姉様の意外な一面を沢山見たわ」

「あのアホ殿下をやりこめるミカ、ぼくも見たかったなあ。ねえねえずるいよ姉様!」

「もう、少し黙っていてちょうだいオリヴァー。わたくしは、お姉様のお味方をしたいのよ」

 アメリアがセオドアに向き直る。


「お父様、わたくしが使っている馬車を、ミカお姉様に貸して差し上げてもいいかしら。御者と馬、旅用のドレスも。わたくしはどのみちしばらく領から出ませんから」

「アメリア…!」

「ミカお姉様は、そのナカタという方に一言くらい文句をおっしゃってもいいはずですわ。もちろん、ご自分のために」

 いや、私が中田本人に言わなければならない文句など知れているのだが…。もう同僚でもないし。


「では、わたくしのブーツも貸して差し上げてよ。確か足のサイズは近かったわよね。丈夫で歩きやすいものを選ばせるわ。良かったらお使いになって」

「サーラ様…!」


 ふん、と少し面白くなさそうにオリヴァーが顔を背けながら口を開く。

「しょうがないなあ。ぼくは、いつも旅をする時に持っていく小さな絵本を貸してあげる。荷物にならないから、本好きのミカにはいいでしょ」

「オリヴァー…!」


「馬車でもいいですが、僕が担い…」

 じろ。サーラがザコルを睨む。

「…いえ、では馬にでも乗せて行きましょうか? 馬車では通れない場所もありますし、まだ騎馬の方が早く着くかと。護衛も僕がいれば問題ないでしょう」

「師匠…!」

 担がれても文句は言わないつもりだったが、馬なら猿轡はしなくて良さそうだ。


「ふむ、皆、ミカがサカシータ領へ行くことに反対はないんだね?」

 セオドアがぐるりと皆の顔を見渡す。


「欲を言えば、わたくしもご一緒したいですわ。ナカタという方を締め上げるお姉様を見てみたいのですもの」

 アメリアを見ると、ふふ、冗談ですわと笑ってくれた。

「セオ、いいでしょう?」

 サーラがセオドアの手にそっと手を重ねる。

「いや。もとより、反対する術はないんだよ。それがミカの、渡り人の意思ならば。ずっと我が邸の中で安全に過ごしてもらいたいのは山々だがね」


「お世話になっているのに、我が儘を言って大変申し訳ありません…」

「安心してください。うちの実家なんてすぐそこですから。国内ですし」

 ザコルが何でもないような口調で言う。


「ザコル、子爵領までは山岳地帯もいくつかあるでしょう。走って三日などと言うのはあなたくらいなんですからね」

「一応馬が通れるくらいの道は通じてますから、まだマシな方なんですが…」

 サーラの言葉に、ザコルが腑に落ちないといった顔をする。


「いいかいザコル、ミカを頼んだよ。しっかりお連れするんだ。ミカ、女性に対する気遣いはあまりできないかもしれないが、ザコルは国内、いや世界最強の武人と言っても過言ではない。くれぐれも離れないように」


「主様、世界最強は流石に過言では」

「サカシータ子爵家の子息達は皆、普通とはかけ離れた強さを持つだろう。だが、その兄上達をもってしても『八男は化物』だと言わしめるのが君だ」


 八男は化物…。

 セオドアと接点のありそうなサカシータ一族といえば、王宮に出仕している長男と三男だろう。年の離れた弟に随分な言いようだな。


「ザコル。君もいい加減に自分の価値をよく考えたまえ。その謙虚で欲の無い所は長所でもあるがね。単身で一個小隊を潰すとか、敵の二人や三人を抱えたまま山を超えるなんて事が普通だとは思わないように」

「あの、それ、やっぱり凄い事なんですよね? ザコルさんがあまりに何でもないように話すので、もしかしたらこの世界の人の体力基準が私とは違って、実は大人の男性を担いで走るくらい普通なのかと…」


「そんなわけないでしょう、ミカ。ザコルがおかしいのよ」

 サーラも呆れたように突っ込んだ。

「この子が普通ですとか、大丈夫ですとか、マシですなんて言っていても、簡単に信じてはいけませんよ。あなたは魔法は使えても普通の女性なんですからね。旅の中でも、しっかり大事を取って装備や休息には手をかけるのよ。ザコルもちゃんとホノルから引き継ぎを…」

「ねえミカ! 深緑の猟犬はね本当に世界最強なんだ! 他にも沢山伝説があるんだよ! ミカはまだあんまり知らないでしょ? ぼくが色々と教えてあげるからね!」

「オリヴァー! まだわたくしが話しているでしょう!」

 サーラの言葉を遮ってオリヴァーが言い募り、速攻で叱られている。


「全く、オリヴァーは本当にザコルが大好きだな」

 はは、とセオドアが笑う。

「…えっ」

「もう、男の子はこれだから。すぐ意地悪をするくせにね。素直じゃないわ」

 サーラも苦笑しながらオリヴァーの頭を撫でた。


「違うもん。うちで情けなくボサッとしてるだけのザコルが嫌なの。もっとかっこいい服を着たり、堂々としていればいいんだ。深緑のマントは伝説だからそのままでいいけど!」

 プイッ。

 おお。こんな所で由緒正しきツンデレの姿を見られるとは。様式美をありがとうございます。おもわず合掌した。心の中で。


「つんでれ…?」

「ぼくね、ぼくね、深緑の猟犬について書かれた新聞の記事は全部取ってあるんだよ! 持ってくる!」

 オリヴァーはザコルの呟きなど意にも介さず、そう言うなり部屋を飛び出して行った。


 つんでれ、と呟いた主の方を見れば、珍しく目を丸くしていた。

「オリヴァー様、僕の事はお嫌いなのかと思っていました…」

「なんだ、坊っちゃんはザコル殿がお気に入りだったのか…。俺はてっきり、単なるイジメの対象なんだと思っていたな…」

 ハコネとザコルがコソコソ言っている。男性陣、鈍すぎないか?


 私もザコルとハコネにだけ聞こえるように小声で言う。

「ねえ師匠にハコネ兄さん。あの子、師匠の体術や剣術の手解きは積極的に受けていたじゃないですか。今回もすごくついて行きたがっていたし、技や暗器を見せるって言ったら喜んでいたでしょ。気づいてあげてないのは流石に可哀想ですよ」

「そうだったんですか…。面目ないです。そんなに好きなら、もっと色々と仕込んで差し上げれば良かった」

「仕込む、とは」

「オリヴァー様がそんなにも暗部の仕事に興味がおありとは。僕が責任持って鍛え上げて」

「違うそうじゃない。多分そうじゃない。それはそれで喜びそうだけどそうじゃない」

 小声が中声になった。


「あら、また面白いお話かしら、お姉様」

「全然面白くないですよアメリア。このままだと弟君が裏社会のエリートか何かにされてしまいます」

「まあ。それは面白いですわ。流石は狂犬ね」

「猟犬です!」

「そうだったかしら?」

 アメリアがツン、と澄ました様子で扇を口元に広げた。何となく昨日からザコルへの当たりがキツいような…。


「ザコル。オリヴァーはね、生ける伝説である深緑の猟犬当人に憧れてはいるが、自分が暗部に所属したいと考えているわけではないと思うよ」

 セオドアがやれやれ、と首を振る。


「そうなんですか…。では僕はどうしたら」

「ただ堂々としていればいいだろう。それだけで一人の男の子の夢が守られる」

「そうだ。オリヴァーの言う、かっこいい服を着ればいいんじゃないですか?」

 小学生が考えるかっこいい服。こいつは面白くなってきた。

「ミカ、面白がらないでください」

「ミカお姉様、わたくしもかっこいい服とやらを一緒に考えたいですわ。ザコルは鍛えていますから、もっと身体に沿うものにしましょう」

「いいですね。あと全体的に深緑にしましょう。伝説の色ですし、きっとオリヴァーも喜んでくれます」

 全身深緑タイツで決定だ。レンジャー深緑、爆誕。

「全身深緑タイツって何ですか…!? 深緑の面積はこれ以上増やしませんから!」

 ザコルが両手で自分の服を抱く。


「おい、ザコル殿、まだオリヴァー坊っちゃんに考えて頂いた方が無難かもしれないぞ」

 ハコネがどこかズレたアドバイスをする。


「無難…? いや、そもそも何の話をしていたんだ? 僕の服なんてどうでもいいことで」

「ザコルー!!」

 バン!と、扉が開いてオリヴァーが入ってきた。

 その後ろをメイドのハイナが大きめの箱と紙束を持ってついてきている。


「ねえ、サカシータ領に行くならこれを着てよ! デザインはハコネと同じだけど、黒に深緑のラインで作らせたんだ! 猟犬の刺繍もワンポイントで入れたよ!」

「オ、オリヴァー様、ええと、僕は、少し鍛えているせいで身体のバランスが悪いので、一般的な寸法では着られるかどうか…」

「そんなのちゃんとザコルのサイズで作らせたに決まってるでしょ。体術指南の時にある程度は把握してたからさ。公爵家に行く前に仕立屋に頼んでいたのが届いてたんだ! ちゃんと洗い替え用にあと二着あるから。…着てくれるよね?」


 ニコォ。十歳が放つ圧じゃない。


「は、はい…。も、もちろん」

「やったー!」

 押しに弱いザコルは即折れた。


「まあ。オリヴァーったらいつの間に仕立屋を呼びつけたの?お母様は知らなくてよ」

 ふふーん! とオリヴァーが得意そうにしていて可愛い。可愛いけれども。

 愛が、重い。

 その言葉の意味をしっかりと噛み締める私だった




「ミカを連れていくなら、いくらか準備もしなくては。申し訳ないですが、明日以降の出発となってもいいでしょうか」

 ザコルがセオドアに申し出た。


「もちろん構わないよ。というか、私は今すぐに出発しろなどとは言ってないからね。一週間以内に出発してくれればいいさ。今回は期限を設けないし、騎乗でも、馬車でも、ザコルとミカの好きにしていい。装備には万全を期してくれ。隣領の関所手前までは我が家の騎士も出すよ」


「これから出発するなら、もしかしたら帰りは雪に捕まって移動が難しくなるかもしれないわ。そうなったらザコルはともかく、ミカは春まであちらに滞在する事になるかもしれないのよ。しっかり準備をしないと」

 そうか、雪が降るのか。日本では雪国には数える程も行ったことがない。少し楽しみな気がしてきた。


「お姉様をお連れするなら、子爵家にきちんと先触れを出すべきではありませんの?」

「それはもう出してある」

『えっ?』

 全員がセオドアを見た。


「……お父様、最初からミカお姉様を子爵家に行かせるおつもりでしたのね?」

 セオドアが、いたずらが成功した時のようにニヤリと笑った。

「お父様を置いてけぼりにしないでくれと言ったろう? 話は最後まで聴くものだよ」



 セオドアによると、サカシータ子爵家の起こりは現王家よりも旧く、禁忌となる前までは異世界からの渡り人召還をも司っていたそうだ。

 渡り人に関することでは現王家より詳しい情報を握っている可能性もあるため、王家からの干渉が少ないうちに接触してしたおいた方がいいとのこと。

 運が良ければ、渡り人の持つ魔法能力に関することや、元の世界への送還方法など、重要な情報が手に入るかもしれない。


「その仰いようですと、王家は、渡り人を何かに利用する予定があるということでしょうか?」

 セオドアは両手を上に上げ、軽く首を振ってみせる。

「ミカならば解っていることだろうが、この世界の文明レベルは到底あなたの国には及ばない。ニホン国に勝てることがあるとすれば、魔法や召喚魔法陣など、一部の者が限定的に使える力とその知識くらいだろう。それとて、ミカを超える魔法士など今のこの国には存在しない」

「…えっ、でも私って、ただ氷を作れるだけの…」

「少なくとも、私は練兵場に小山のような氷像を作るような魔法士に会ったことはないよ」


 そうだったのか…。

 正直、夏場に涼を提供できるくらいしか能がないと思っていたが、これでもそこそこの魔法使いと認定されるレベルだったのか。


「ミカは貴重な知識をたくさんお持ちなのよ。茶会でお聞きしたニホンのお話、驚くことばかりだったわ」

「ええ、ですのに、ミカお姉様はちっともそれを誇られないの。ご自分の功績ではないからと」

「単純に、あの量の知識を溜め込んでいるだけでも常人離れしているというのに」

「そ、そんな、私なんてただの本の虫ってだけで…」

 サーラとアメリアが褒めちぎってくれるので、むず痒くなってついその場に正座してしまった。見咎めたらしいホノルが何故かザコルを軽くはたきつつ、私に手を差し伸べて立たせ、ソファに座らせる。


「貴重な知識も、魔法の力も、王家にとっては見逃せるはずのない宝だ。だが、彼らがミカの意思を尊重できるとは限らない。あの第二王子殿下を見れば判るだろう? 恥ずかしながら、我が国の王家は余裕がある状況とは言い難いのだよ」

 まあ、余裕があればあの第二王子ももう少し教育的指導くらいされているんだろうが…。


「渡り人の行動は本来誰にも制限ができないものだ。今回は殿下による失態もあることだし、心優しいミカが思い詰め、衝動的にうちを飛び出したって仕方がないだろう? 我が家は目の前の愛しき渡り人、ミカの意思を優先しなければならないのは道理だ。急ぎ『英雄』に追わせ、護衛につけたと言っておくよ。雪に閉ざされる前、まさに今のタイミングで行けば、逆に今後は雪に阻まれて王家は手出しもできまい。…羽虫どもが、うちの可愛い娘達にちょっかいをかけようなどと。そんな思い上がりは正さなくてはならないからね」

「ヒッ……」

 セオドアからの特大の闇オーラが放たれ場を支配した。


「お父様、お姉様を怖がらせないでくださる? わたくしはきちんと自衛できていてよ」

「そうだよ、さっきからどうして意地悪するの。頑張って頭を下げたミカが可哀想だよ、お父様」

 可愛い姉弟が私を庇って言い募る。

「ああ、悪かったね。ミカがあまりに可愛い事を言ってくれるものだから。私達の手を汚したくないなどと、全くそんな事を気にする必要はないのに。あなたのためなら相手が渡り人だろうと王族だろうと我が家は喜んでこの手を血で染めるだろう」

「染めないで! 染めないでください! 無益な戦争ダメ! 絶対!」

 ブンブンブン、NO!!


「あーあ、お父様が一番腹を立ててるんじゃないか。ナカタはともかくアホ殿下は死んだね。ザコルを無能呼ばわりしたみたいだし、自業自得だけど」

「それはそう」

 私はオリヴァーの言葉に頷く。

「僕に対する暴言なんてどうでもいいでしょう。それよりミカを舐め回すように見たあげく、王宮に連れ込もうとしたのは許されません」

「私はどうせ珍獣ですからそれこそどうでもいいでしょう。でもアメリアへの付きまといはやめて欲しいです。安心して発てません」

「ねえ、お姉様が殿下をやりこめてくださった時のやりとりはメイドのハイナが一言一句しっかり記録していてくれたわ。これを見て心を落ち着けましょう」


 アメリアがおもむろにバサッと紙束を出した。それ、さっきハイナがザコルの衣装と一緒に持ってきてたやつ…


「な、な、何故そんな公開処刑の物証が!? しまって! しまってってば!」


「いいえ、お姉様。わたくしこれを読んで本当にお姉様を尊敬しましてよ。大袈裟に言ってやり込めたとは聞いてましたが、決して無礼とは言えないこの絶妙な匙加減、言葉遣いも少々慇懃が過ぎたくらいで完璧でしたわ。大体この後半の畳み掛けは何ですの。いっそ殿下が憐れになりましたわ。お姉様はこの半年で、どれだけこの国の知識を頭に叩き込んだというのかしら。挨拶やお茶の作法も非常に自然で堂々となさっていて…いえ、やっぱり言葉遣いよ。それこそ一朝一夕で何とかなるものではないわ。本当に庶民のお生まれなの? 実は異世界で高い身分にあらせられたのではなくって?」

「いやいやいやあらせられるわけないでしょ! 強いて言えば翻訳チートが優秀だっただけです!」


 日本で使われている敬語をほぼ正確に訳してくれたのだ。文法も全く違うのに、よく細かなニュアンスまで伝わるものだと思う。


「大体、日本には明確な身分制度なんてないんです。男女も平等、皆がある程度の年齢まで同じ教育を受けて育っているんですよ。私はたまたま本が好きで知識や語彙に幅があっただけだし、食べ方の作法だって根本的な所はそう変わりませんし、目上の方を持ち上げるのは社会人として当然のスキルだし…」


 あんなトンチキを沈めたくらいで持ち上げないでほしい。あんなの真の悪質クレーマーに比べたら大したレベルじゃない。


「お姉様、ちょっとわたくしの真似をして『まるで貴族令嬢のように』喋ってくださらない?」

「まあ。アメリア。少しの間しか持ちませんわよ。わたくしのような無教養者では、身のある話題を振るのは難しいのですからね。それにしても今日も女神のように美しいわアメリア。目を癒しの泉に浸しているようよ。あなたは私よりうんと若くていらっしゃるのに、どうしてそんなに賢くて慈悲深いのかしら。ああ、あなたのこの華奢で柔らかい手は、揺るぎなき幸せを掴むためにあるのですね。未来のお相手が今から妬ましくてよ。かの王子殿下にだって決して触らせてはならないわ。お姉様は心配なの。ねえ、約束よ」

「……ミカお姉様ぁ!」

 ひしっと二人で抱き合う。よしよし、アメリアたんは揺るぎなき私の嫁。


「よくもまあそんなにスラスラと…」

「ミカすごい! 公爵夫人みたいだよ!」

 オリヴァーがいつの間にかザコルを無理矢理自分の席に座らせ、膝上に乗っかっている。可愛い。

 サーラが紙束を手に取った。

「あっ」

 止めようとしたもののサーラは構わず紙束をパラパラとめくり、スッとセオドアに渡す。セオドアも面白そうに読み込み始めた。


「なるほど。確かに、ミカには意外と好戦的な一面もあるようだ」

「ふふ、このままサカシータ領になどやらず、身分を伏せて茶会や夜会に乗り込ませるのも一興かと思ってしまったわ」


 私を何と直接対決させようというんだろう…。流石に、偉い人が複数人いる場で何時間も立ち回り切る自信はないのだが。

「あ、あのトンチ…いえ、王子殿下がお若いから通用しただけの手ですので…」

「お若い、ね。ミカの立場なら未熟な愚か者と素直に表現して構わないのよ」

 ほほほ、とサーラが扇子の向こうで嗤う。

「それにしても、殿下の教育係は一体何を教えてきたのかしら。あの王妃殿下のお子とは到底思えないわ。ミカの方が余程王族にふさわしくてよ」

 サーラは嘆息する。

 …うん、正直あの王子に比べれば私の方がまだマシかもしれない。あくまで、あの王子に比べればだが。


「ミカお姉様、春までにお揃いのドレスを仕立てておきますわ。ザコル、明日採寸の時間を取らせていただいてもいいかしら?」

 アメリアが私の手をぎゅっと握りながら楽しそうに言った。かわいい。

「はい、アメリアお嬢様。急ぎではないとの事なので、目安としてあと二日ほど準備に時間をとりましょう。冬支度の方は後から送っていただきましょうか」

 ザコルはそれとなく部屋の隅に控えるホノルに目配せした。ホノルは小さく一礼する。


「あなたたち、お揃いのドレスを作る約束なんてしているの? 素敵ね。お母様も交ぜてほしいわ」

「ええ、もちろんですわお母様。氷や雪の柄を金糸や銀糸の刺繍で入れようと考えていますの。お母様の分も色違いや形違いで作りましょう。一緒に意匠を考えてくださいませ」

「いいわ。春の社交シーズンは必ずそれを着てミカの社交デビューとしましょう。今回の件はデビューなんかじゃありませんからね。ただ飛んできた羽虫を追い払っただけの事よ」

 セオドアも怖いが、サーラも全く容赦がない。


「…あの殿下も、ミカお姉様とお話しなさった後はもう本当に大人しかったのよ。これで心を入れ替えてくださるといいのだけれど」

 ほう、とアメリアが息を吐く。

「ねえ、アメリア。サーラ様もおっしゃっていましたけど、王子殿下はきちんと助言してくれる人が側にいないんじゃないでしょうか。本人より、身辺でおかしな吹き込みをしている人を調査された方がいいと、素人心に思うんですけど…どうでしょう」

 素直に表現するならば、彼はちょっとお馬鹿で思い込みの激しそうな子という印象だ。周りが適切にフォローしないからああして暴走しているんじゃないだろうか。あるいは、暴走させられているのか。

「流石はお姉様。そうですわね、わたくし、知り合いの令嬢達にも話を聞いてみますわ」

 アメリアも頷いてくれる。

「我が家の娘達は本当に優しいね。アメリアが彼を探ってはあらぬ誤解を生むだろう。私の方で王宮での報告がてら王子殿下の周囲を探っておこうじゃないか」

「感謝致しますわ、お父様」

 …私の事も自然に娘として扱ってくれるんだなあ。くすぐったいような気持ちを誤魔化しつつ、紅茶に口をつけた。



 その日の夕飯の後、私は別棟の自分の部屋には戻らず、そのまま客間でお世話になることにした。

 元々私の荷物はこの邸で借りた物ばかりだし、旅支度もほとんど借り物に頼ることになるので、いちいち自分の部屋に帰っていては正直効率が悪かったからだ。

 私が自力で用意したものといえば、伯爵家所蔵の地図を自力で写したものと、通勤鞄に入れていた地元の神社のお守りくらいだった。

 本は嵩張るし貴重でもあるので、オリヴァーが貸してくれた小さな絵本以外に持ち出すのはやめた。


 次の日は朝から仕立て屋のご夫婦がやってきて、私の採寸をしてくれた。春までにサイズが変わっていたらどうしようかと庶民としては心配になった。

 旅の宿や子爵家でどんなに美味しいご飯が出てきても、食べ過ぎには注意しなければ。

 午後からは、アメリアとホノルが私に貸す旅装を選んでくれた。ザコルが準備があるからと言って朝から外出していたので、今日の護衛はかつての護衛隊が数人ついてくれている。


 アメリアから、出立の日はこれを着るようにと渡された旅装束は、淡いベージュで丈夫そうな綿素材、ふんわりとしたミモレ丈のワンピースだった。エンパイアドレスのようにゆったりとしたつくりだが、コルセット付きのオーバースカートで絞って着るらしい。少々ガーリーすぎる気もするが、楽なサイズに調整できるのはいい。


 そして、羽織だと渡されたのは草花の刺繍が入った深緑色のポンチョだった。

「あの、これ、可愛い……ですけど、これは完全にあの深緑の人とお揃いでは?」

「もちろんお揃いにするのですわ。せっかく深緑色のものが手元にあったんですもの、今貸さずしていつ貸すのです」

「いや、私、これで深緑の人のご実家にお邪魔するんですよね? ひょっとしなくても彼の進退が完全に極まりません?」

「もちろん極まりますわ!」

 ふふーん! と胸を張るアメリア。流石、オリヴァーと姉弟だな。


「アメリア、選んでくれてありがとうございます。ですが、できれば違う色のものをお願いしたく」

「何故ですの!?」

 何故も何もない。付き合ってもない人とペアルックなんて断固お断りだ。


「アメリアお嬢様、流石にあからさますぎますわ。色合わせまでするのはもはや婚約者か夫婦でしょう」

「でも、ホノル。せっかく二人旅をするのに…」

「あくまでお仕事で行かれるのですからね。…それに、彼のお気持ちもよく分かりませんし」

 ホノルがアメリアを嗜める。

 そうなんだよな。普通に馬に二人乗りする気でいるみたいだし、特に意識もされていなさそうである。

「確かに、ザコルって相変わらずよく分からない人ですわよね…。お姉様の周りからあらゆる脅威を排除しようという強い気持ちは感じますのに」

「彼の頭には任務遂行という文字しかないのでは?」

 それ以外のことはほぼ些事だろう。

「そうですね、そういうところですからね、ザコル様は」

 ホノルがいつものセリフで嘆息する。


「お姉様はどう思っていらっしゃるの? ザコルの事…」

 話を振られてしまった。どう答えるのが正解なんだろう。

「正直自分でもよく分かりません」

 正直すぎる言葉が出てしまった。

 きょと…、と、戸惑いにも似たアメリアとホノルの顔に少し焦る。

「いえ、はっきりしなくてごめんなさい。どう思う以前に、私、師匠の事を知らなすぎるように思って…」

「お姉様、ザコルから経歴の話を聞いたのでは?」

「ええ、聞きました。凄いですね、凄いですけど、それも彼の持つ一面に過ぎない訳ですよね」


 彼の成してきたことは素直に凄いと思うし、尊敬も新たにした。外野が何と言おうと誰にでもできる仕事ではない。

 しかし、経歴イコール彼自身の人となりという訳ではない。


「その一言で終わらせてしまう懐の深さには感服致しますわ。彼の場合、お仕事を心から理解していただける女性の方が少ないのですもの。お姉様はザコルに普段からよくお絡みになっていらっしゃるし、彼の事は憎からず思っていらっしゃるのではなくて?」


 お絡みになる。初めて聞く表現だ。確かに私はよくザコルにお絡んでいる。あの正直すぎる怪訝な顔が見たくて。


「好きか嫌いかで言えば好きですよ。一緒にいても楽しいというか楽ですしね。私、人に頼るのは苦手なんですが、彼って顔が正直なせいか割と気負わずにお願いできますし。不思議と、初対面からずっと彼には好印象しかないんですよねえ…」


 褒められたり名前を呼ばれたりすると未だに心臓がびっくりするが、不思議と離れたい気持ちにはならない。

 …というか、何となく側を離れてはならないような気がするのだが、本能的に。一体これはどういう気持ちなのか…。


「あの顔を『正直』と評されるのはミカお姉様くらいでしょうね…。やっぱり、このポンチョは着るべきではなくて? どう思うかしら、ホノル」

「それくらいの荒療治はあってもいいかもしれませんね」

 アメリアとホノルが顔を見合って頷く。

「待って待って待っっって。あまり困らせたくないから。ほんと、違う色にしてください」

 アメリアが受け取ってくれないのでホノルに押しつければ、ホノルは笑ってポンチョを受け取ってくれた。


「ふふ、まあ、幸い時間は沢山ありますから。他に選択肢がないのも問題ですしね」


 その後もアレコレと悶着があったが、なんとか肩掛けは紺色のケープコートに変更してもらえた。

 後に最終チェックをして分かることだが、荷物の中には替えのワンピースや下着類と共に、深緑のポンチョがしっかり入れられていた。しかも出すなら一度解き直す必要がある。

 …何かあってこれ以外全ての衣服が破り裂けでもしない限り、これは着るまいと思う私だった。


 その日の夕飯後はアメリアについてオリヴァーも私のいる客間に遊びにきて、アメリアの令嬢友達の話や、ザコルの武勇伝なんかを楽しく聞いた。

 ホノルが温かい蜂蜜入りのハーブティーを淹れてくれて、四人で飲んだ。


 用意を始めて二日目の夕方。ザコルはまだ不在のようだが、私の方は支度した荷物が整い、後は馬に括り付けるだけとなった。

「今夜はご馳走よ。しっかり食べて明日に備えてちょうだい」

 夕飯の席でサーラが声をかけてくれる。温かいこの家族との夕食も、しばらくはお別れだ。


 ◇ ◇ ◇


 旅立ちの日の朝。アメリアから借りたワンピースを自分で着て、ウールのタイツを履き込み、サーラから借りた柔らかい革のブーツを履く。

 突然冷え込むといけませんから、と、ホノルが滑り止めの付いた乗馬用の手袋とストールを持たせてくれる。この辺りの土地はまだまだ日中暖かいので、それらは革の肩掛け鞄の中に入れた。


 鞄には他に、自分で写した地図とお守り、セオドアが直々に書いてくれた伯爵家預かりの身分証明書、オリヴァーが貸してくれた小さな絵本、水筒、ビスケット状の携帯食料、短刀、歯ブラシ、ホイッスル、そしてお小遣いの銀貨と銅貨が入っている。いざというときのためにと、鞄の奥底には金貨が縫い付けてもある。

 もしもザコルから離れたら本当に何もできないので、万が一はぐれても命を繋げられるようにと手荷物は少し多めだ。

 準備が出来たら、皆が待つ食堂に集合の約束だ。


 食堂に通じる扉の隙間から中を覗いてみる。

 ザコルはオリヴァーが作らせたという黒地に深緑ラインのシンプルな軍服、そしていつもの深緑マントと暗器を収めた腰ベルトを装着し、短剣を腰に刺していた。


 ザコルのサイズに合わせて作らせたというだけあって、ダボついたところは一つもない。

 今まで中肉中背に見えていたけれど、腰や太もも、上腕、胸など、大きな筋肉がついている所以外は引き締まって身軽そうだ。

 いかにも重量級のアスリート体型。日本だとスーツ購入に苦労するタイプだろう。

 もっさりしていた髪も短く整えられて、榛色とダークブラウンが混じった瞳もよく見えるようになった。…いつもの猫背は敢えてしていたのだろうか、今日は普通に背筋を伸ばしている。


「ふおおぉぉぉ…! 格好いい…!! ザコル! 足腰や肩回りはどう? きつくない?」

「ぴったりです、オリヴァー様。ありがとうございます。着心地もいいですし、手足の視界も良くなりました」

「当たり前だよ! あのダボついただけの服よりいいに決まってるよ! よく伸びる生地にしたから動きやすいでしょ。仕立て屋の主人とたくさん話し合ったんだ」

「この猟犬の刺繍、デザインはオリヴァー様が考えられたのですか? はは、格好いいですね」

 ハコネも一緒になって盛り上がっているが、珍しく表情に疲れが見て取れた。

「もちろんそうだよ! ぼくが五歳の時、初めて深緑の猟犬の記事を見てからね、ずっとずっと考えてたんだから。いつかぼくが出資して彼のユニフォームを作ろうって」

 五歳からのファンとは筋金入りだ。彼にとっては半生じゃないか。


「あの、オリヴァー様、実は今まで嫌われているのだろうと思っていたんです。お気持ちに気づかず、申し訳ありませんでした」

 ザコルが膝をついてオリヴァーに目線を合わせる。師匠やさしー。

「ううん、ぼくもごめんね。ザコルがうちに来るって聞いた時はすごく嬉しかったんだけど、ずっと仏頂面だし、あまり喋ってくれないし、自信も無さそうだし…。ぼくが勝手にイライラしてたんだ。ファンとして失格だったよ。でもね、体術や剣術のお稽古はやっぱり凄かったよ! どんな先生より強くて格好良かった! ぼくがもっと素直なら、もっと早くお願いできたはずなのに…!」

 だよねだよねー。師匠に頼みたかったのにうまくいかなくて、いじけてお稽古サボってたパターンでしょー。他の人に習いたくなかったんだよねえー。

「…あの、今まで意地悪ばかり言ってごめんなさい。帰ってきたら、またお稽古してくれる?」

 オリヴァーが手をモジモジと合わせながらザコルをの顔を見る。おおお偉いぞツンデレ少年素直に言えたー!!

「僕が周りから受けてきた中傷に比べたら、あれくらい意地悪のうちに入りません。僕も大人なのにムキになって言い返していましたからね、おあいこです。こちらに帰ってきたら、色んな武器を使った稽古もしましょう。同時に基礎から徹底的に鍛え上げて、あなた様を今代最強の武人に」

「まてまてまて、次期伯爵を何に仕上げるつもり…」

「今代最強の武人!? かっこいい! ぼく、春まで毎日走って体力つけるから。体術や剣術の指南もサボらない。絶対絶対約束だよ!」

 ハコネのツッコミを遮ってオリヴァーが完全にその気になる。

「ええ、約束です。子爵家から僕が年少時に使っていた物も探して持ち帰りますから、良かったら装備の参考に」

「本当に!? そんなレアなものをぼくに…!? ありがとうザコル! すごく、すごーく楽しみにしてるから。早く帰ってきてね!」


 ふふふ、ほっこり。


「お姉様、お部屋にも入らず、扉のかげから何をなさっているの?」

 勝手にほっこりしていたら、後ろからアメリアが声をかけてきた。


「男子達、可愛いなと思って愛でていました。おはようございます」

「ええ、おはようございます。いいお天気で良かったですわ。全く、あれの何が可愛いんですの、お姉様のお気に入りの方に失礼かもしれませんけれど、ザコルもオリヴァーと同じくらい子供っぽいと思う時がありますわ」

「分かります。あの人、基本真面目なのにたまに小学生なんですよね。そこがいいんじゃないですか」

「ショーガクセイ、それは小さな子という意味ですわね? その子供っぽい様子を愛でるなどと、お姉様のご趣味は変わっておられますわ」

「あら、私はその気持ち、何となく分かりますわよ。男の子の親ですからね」

 私の後ろにずっと控えていたホノルが口を開いた。

「まあ、ホノルまで。気に入った相手に意地悪する気持ちが分かると言うの?」

「いえ、その気持ち自体はさっぱりですが、そういう理解しがたいお馬鹿な所も愛しいものです。男同士の友情も素敵ですよね」

 そーだよ、流石ホノル母さん分かってるぅ!


「ふふ、アメリア、一見キツイ言葉なのに好意が見え見えの人の事を日本ではツンデレと呼ぶのですが、オリヴァーは全くその典型なんですよ。最初からそう念頭に置いて発言を聞いていると本当に本当に可愛いんです」

「わたくしには理解不能ですわ。それからお姉様、言っておきますが、ザコルが表情豊かになったのは最近の事ですわよ。うちに来た時は完全に目が死んでいたもの。毎日お姉様が振り回していらっしゃるせいね」

「毎日ストレスを与えている自信はあります。あの怪訝な顔がクセになってしまって」


 扉のかげで話し込んでいたら、その扉が急に開き、おっとっと、と倒れ込んだ。


「あの…。全部聴こえているんですが…独り言も…」

「おはようございます師匠。どこから聴いてたんですか?」

 ザコルに肩を受け止められながら訊いた。

「ミカの気配が扉の前に来た時から。部屋に入らず何をしているのかと思っていました」

「一部始終!!」

「ザコルの近くで内緒話は無理ね…」

 アメリアが扇子で口元を隠しながら溜め息をついた。

 ホノルがクスッと笑った。

「ミカ、昨日はザコル様がいない間の内緒話、楽しかったですわね」

「ああ、そうだよねホノル。あんなことやこんなことも話したよね。アメリアも。すごく楽しかったですよね」

「ええ、そうね。とってもとっても楽しかったわ。お姉様。女同士、本当に色んな事をお話ししましたものね」


 三人で、ねーっ! と顔を見合わせる。


「分かっていますよ、また僕を振り回そうという魂胆でしょう。そうはいきませんからね」

「ほらほらまた怪訝な顔して〜」

 頬をツンツンする。

「ぐぅ、つつくなと何度言ったら…!」

「ザコル、ミカ相手には本当に色んな顔するよね…」

 オリヴァーがニヤニヤとしながら寄ってくる。


「オリヴァー、おはようございます。覗き見なんてしてごめんなさい。ザコルさんと仲直りできて良かったですね。私も嬉しいですよ」

「うん、ありがとう! ねえ、ミカ。ザコルの格好どうかな? 今回は騎士団の制服と同じデザインになっちゃったけど、サイズを合わせただけでもすごく良くなったでしょ!」

「はい、オリヴァーのこだわりが詰まっていてとっても素敵です。体術指南の後に何をメモしてるのかと思ったら、これだったんですね」

「ミカにはバレてたかぁ。ぼくね、これからもっと服のデザインを考えてザコルに着てもらうんだ! 深緑の猟犬ブランドで売り出すよ!」

「売り出す!? 聞いていないのですが!? オリヴァー様、僕はこれ以上目立ちたくなんてな」

「オリヴァーったら忙しくなりますねえ、最強の武人にもならなきゃですし、その上服飾デザイナーも目指すなんて」

「僕を無視しないでくだ」

「ぼく自身が強くなれば箔も付くでしょ。きっとデザインの参考にもなるだろうしね。現役の伯爵で最強で、戦闘服ブランドも立ち上げて成功するなんて最高でしょ!? 絶対に叶えてみせるからね!!」

「僕を無視しな…」

「まあ、素敵な目標ね、オリヴァー。何でも挑戦してみるのはいい事だわ。皆、おはよう。続きは朝餉の席についてからにいたしましょう。セオドアは少し遅れるそうですわ」

 サーラがやって来て、何か言いたげなザコルを無視して皆の背を押した。



 席に着くと、焼きたてのパンが運ばれてくる。


「ミカ、そのブーツ、サイズが合ったようで良かったわ。あなたの雰囲気にぴったりだと思ったのよ。アメリアが見立てた旅装束もよく似合っているわ。男達ときたら、ザコルの衣装にばかり盛り上がって。こんなに可愛らしい装いのミカに言葉を贈らないなんて、どうかしているわ」


 オリヴァーとザコルが気まずそうに顔を見合わせる。歳の離れた兄弟みたいだな。


「ありがとうございます、サーラ様。お借りしたブーツ、履き心地も最高で外を歩くのがとっても楽しみです。何から何までお世話いただき、感謝いたします」

 座っているので、目を伏せてお礼の気持ちを示す。

「ミカ、あなたって本当にしっかりしているわ。相手によって立場を弁え、言葉を選ぶのが上手なの。これは褒め言葉よ。安心して外に行かせられるというものよ」

「サーラ様にお褒めいただけるなんて、こんなに心強いことはありません。旅先で不安になったらお言葉を思い出します」

「ええ、ええ。母として、社交デビューに立ち会える日を楽しみにしているわ」

「はい。伯爵家に恥をかかすことのないようにしっかり務めさせていただきます」

 サーラは何故か、少し寂しそうな目をした。


 右も左も分からない異世界で、こんなに良くしてくださる方々に出会えるなんて。私は本当に恵まれている。だからこそ、自分がすべき事を見誤らず、努力と準備だけは欠かさないようにしなければ。


「アメリア。私にマナーやダンスを学ぶ機会をくれてありがとう。しっかりおさらいして春までにちゃんとモノにしてきますから。実はね、本を読んで男性パートも一通り覚えたんですよ。アメリアとも一緒に踊ってみたくて…」

「もっ、もうお姉様ったら! わたくしをこれ以上ときめかせてどうしようというの。愛しいミカお姉様。お早いお帰りをお待ち申し上げております。ザコルは置いてきて構いませんからね」

「ダメだよ! ザコルはぼくに稽古の続きをする約束なんだから! お土産も忘れないでね、ザコル」

「はい、承知しました」


 扉が開いてセオドアが入ってきた。

「やあ、おはよう」

『おはようございます』

 全員が席を立ち、一斉に挨拶する。


「遅れてすまないね、先に食べていてくれたかな?」

「ええ、あなた。皆にはもう給仕を始めてもらっていましてよ。用事はお済みなのかしら」

「ああ、騎士団の報告を聞いていたら遅くなってしまった」


 セオドアは私の方を向く。

「ミカ、君の召喚に関与したかもしれない者達について、途中経過にはなるが伝えておこう」

「ふぁっ?」

 こんな出立ギリギリになってそんな重要そうな話をされるとは思っていなかったので、思わず変な声が出てしまった。


「今の所、以前からザコルや騎士団に動向を調べさせていたいくつかの組織のうちの二つが怪しくてね、一つは宗教団体。もう一つは、王弟殿下が出資する慈善団体だ」

「宗教と慈善団体ですか…。 私というか、魔獣の召喚はアメリアさんへの嫌がらせが目的だったのではないのですか?」

 ザコルからはそう聞いていた。

「その可能性もまだ消えてはいないよ。実の所、まだ分からない事だらけなんだ。わざわざ我が邸の中で召喚などした動機が特にね…。ではその可能性の一つである宗教団体から話そう。こちらはラースラ教といい、魔獣と渡り人を融合させた像を神体として祀る団体、いわゆる邪教だ。ザコル、問題となっている教義の一節を覚えているかい」


「はい。『尊き渡り人は我らが祈りによって新しい境地へと達し、聖なる獣神となって我らを導くだろう。かつてご光臨なされた神、ラースラ様は言った。我が同胞、神の卵たる渡り人を我らがもとに迎え、非情なる世に光射す聖域をもたらそう』ですね」

 向かいの席にいたザコルがスラスラと一節を空んじる。


「ええ…。私、聖なる獣になるタイプの渡り人なんですか? 神の卵? どういうこと?」

「ミカ、これはラースラ教という、召喚に対して歪んだ信仰を持つ団体の言うことですから。あまり真に受けないでください」

 混乱する私にザコルが無表情のままで言った。

「渡り人が聖なる獣になるという下りは確かに気になりますが、歴史上、渡り人が獣になったなどという伝承はありませんから」


「そんな奴らに捕まったら、ミカ、一生祭壇に祀られて謎の祈りをささげられちゃうんじゃない」

 オリヴァーが揶揄うように言った。

「怖っ! 絶対連れてかれないように気を付けます!」

「オリヴァー、滅多な事を言わないで。嫌だわ、わたくしまで不安になるじゃない」

 アメリアが隣に座った私の袖を掴む。よしよしとその手を撫でておいた。


 続きを、とセオドアが咳払いする。

「昨今、ラースラ教と思しき者達が魔方陣を使った儀式らしい事を行っているという目撃情報が領民から数件上がっている。他の領でも同じような事例が複数あり、どれも人里離れた山や森の中だというのが共通している。召喚が行われて成功しているとは必ずしも言えないが、そこにサカシータ子爵領に現れたというナカタという渡り人の存在だ。無視することができなくなってしまった」


「可能性の話ですけれど、私と中田らしき人以外にも、渡り人がいる…かもしれないんでしょうか」


「その可能性は確かにある。渡り人ではなく魔獣を違法に召喚している可能性もあるがね。まだまだ推論の域を出ない話だが、常に念頭に置き、なるべく接触は避けるように」

「分かりました」

 魔法陣を囲む邪教団体かあ。実に異世界っぽいな。


「それから王弟殿下が出資する慈善団体の方だが、こちらは王位簒奪の目論みのため、慈善団体を装って人を集め力をつけているのではと以前から噂されている。また、こちらも違法に魔獣を召喚しているのではないかともね。王弟殿下ご自身も、以前から王子殿下方やその婚約者候補への嫌がらせへの関与が疑われているし、もし我が家への嫌がらせとして魔法陣を張ったとすればこちらが怪しいかな」

 この国の王族、どうなってるんだ。第二王子といい王弟といいみんな暴走マシーンか。


 ザコルが挙手し、発言の許可を求める。

「その他の候補ですが、僕が分かる範囲で可能性を潰しておきました。テイラー伯爵家と敵対している貴族家や恨みのありそうな商家などですが、時間がなかったので、一昨日と昨日、小さな罪をあげつらって強制的に調べました。いずれも魔法陣に関する知識を有している可能性は低かったです」

「えっ、姿を見ないと思ったら一昨日からそんな事してたんですか!? もしや、準備があるってそういう…!?」

「あまりに急に動くものだから、逮捕者の収容や余罪の追求で騎士団は一昨日からずっとてんやわんやだぞ」

 ハコネがもはや疲れを隠すことなく言った。

「ハコネ第二騎士団長、ご協力ありがとうございました」

「こちらこそ。領内外の治安向上への貢献、感謝する」

 ぺこりとするザコルに、敬礼で返すハコネ。


「ラースラ教は隠れた信仰者も多く、また拠点が転々とするので二日では潰せませんでした。もし根絶やしにするとしたら時間がかかりそうですね。力不足で申し訳ありません、ミカ」

「い、いえ、そんな、謝られるような事では」

 ザコルが頭を下げるので慌てて制する。


「途中経過にはなりますが直近の成果をお話ししておきます。一ヶ月程前の深夜、ラースラ教の半獣人神の彫刻が施されたブレスレットをつけた男性を酒場で発見したので後をつけ、興味を持ったふりをして教義本を入手しました。警戒心が強いのか本拠地については話してくれませんでしたが」

「深夜…!? ここ二日以外にも調査へ出ていたって事ですか? 早朝から夕方まで毎日私の護衛についてたのに!?」

「はい。調査も僕の仕事ですから」

 しれっと答えるザコル。いつ寝てるんだこの人…。


「ザコル、ミカの護衛に専念しろと言った時点で、召喚に関する調査は別の者に振っていたんだよ。君が継続することはなかったのに」

 セオドアが眉を下げる。

「ミカに害を及ぼすかもしれない存在を放置しては、護衛たる意味がありませんから」


「わあ、深緑の猟犬が寝ないって本当だったんだね…」

 オリヴァーが感心しているが、これはただの働き過ぎだ。


「ししょ…いえザコルさん。私のために調査を進めてくれてありがとうございます。もし今朝まで働いていたのなら、今日は休んで、出立を明日にしてはどうですか」

「いいえ、今日からはあなたの身辺護衛に集中しなければなりませんから、昨夜は数時間ほど休止時間を取って備えています。問題ありません」

「睡眠時間ではなく休止時間…? ちゃんと寝たんですよね?」

「はい、必要な分は寝ましたよ」

 寝てないな。寝てても一、二時間とかそういう目だ。

「…なんで分かるんです」

「社畜の考えることなどお見通しです」


 今聞いた限りでは、少なくとも一ヶ月以上は早朝の鍛錬と昼間の護衛と深夜の調査を両立させていた事になる。平均睡眠時間の事を考えると頭が痛くなりそうだ。


「ねえシャチクって何? 強いの? ぼくもなれる?」 

 オリヴァーが食いついてしまった。

「ある意味では強いですよ。常に寿命を削って無茶な仕事をする生き物です。絶対に目指さないでくださいね」

「ミカだってそういう性質でしょうが。僕は邪教や王弟殿下はもちろんナカタとかいう脅威も早く排除したいですし、ミカを狙った敵や権力者がここに来るかもしれませんし、なるべく早く発ってサカシータ領に着きたいんです」

「いやいや、体が資本のくせに万年寝不足とかあり得ないでしょう。今日はこのまま寝てください」

 むむむ…。私とザコルで睨み合いになる。


「……すまん、ホッター殿。ザコル殿が寝不足で心配なのは解るが、もし一日延ばしたとて調査の深掘りが一日延びるだけかもしれん」

 ハコネが渋面で言った。ふむ、確かに。終わってない仕事があるのに寝てる場合じゃないのは分かる。

 …いや、分かってどうする。

「そうだね、二十四時間もあったらそこの仕事中毒が大人しく寝ているとは思えない。この二日間、彼を止められなかった私を責めてくれていい。君と馬に乗せてさっさと出発させた方がいっそのこと休めるかもしれないよ」

 セオドアまでが疲れきった顔で言った。


「セオドア様も、ハコネ兄さんも、お二人ともほとんど寝ていないのですか」

「調査が進むのは本望だがな。昨夜はそいつを寝かせるのが大変だった」

 ザコルを見たら、プイッと顔を背けた。ハコネに言われなければ休もうという発想すら無かった感じか。


「解りました。ここで要らぬ問答を繰り返しても皆さんの睡眠時間を削るだけのようですね。さっさと出立しましょう」

「流石、ホッター殿は話が早い」

「ミカ、恩に着るよ」


「いいえ、感謝するのはこちらです。皆様、無理を押して奔走して下さった事、本当にありがとうございます。知らなかった事とはいえ、当事者の私が邸でのんびりと過ごしていて申し訳ありませんでした」

「いいんだよ、ミカ。君のためなら喜んで手を血に染めると言っただろう。君の安全と将来のためにサカシータ家に預けはするが、ちゃんと春には帰ってくるんだよ」

「はい。恐れ多くも、私にとって今この世界で家族と呼べるのはここでお世話になった皆さんだけです。保護し、健康に過ごさせていただいた恩は生涯かけて返して参ります」


「ミカったら。仰々しいこと。そんなことは恩に思わなくていいのよ。わたくし達がしたくてした事なのだから。つらくなったら春を待たずとも帰ってらっしゃい。家族として絆を育むのもまだまだこれからなのだから」


 サーラの優しい眼差しがくすぐったい。母親との想い出が少ない私には特に眩しく、言葉に詰まってしまった。


「いいこと、ミカお姉様。もしも、もしもよ。もしもサカシータ家で帰還の方法が見つかっても、どうかすぐ帰ってしまわないでちょうだい。お揃いのドレスを着て踊ってくださらないと、わたくしが一生泣きますわ」


 お姉様と慕ってくれる子ができたのも初めてだ。この可愛い存在のために、何がしてやれるだろう。


「私をそんな恩知らずだと思わないでください、アメリア。それに、またおかしな渡り人や魔獣がまたアメリアの部屋に現れたらどうするの。お姉様は心配でとても日本になんて帰れないわ」

「ふふ、お姉様ったら」

 アメリアと泣き笑いを交わす。


「今まで自分に出来ることが少なく足手まといになると思って控えてきましたけれど、これからは当事者として調査に協力、いや、参加させてもらう事にします。渡り人に関する情報は責任持って余さず集めてまとめてきますから」

「ミカ、そんな。あなたに無理はさせられません。子爵家でもゆっくり読書などでもして、調査は僕に任せてくれれば」

 ザコルが少し焦ったように言った。

「師匠が人間らしく生活するように見張るのもこれからの私の役目だと思ってますから。あなたが寝るまで私も寝ませんからね」

「なぜ…」

 困惑しているようだが、こちらももう引かない。


「ザコルには丁度いい監視役だな」

「そうね。ミカはやると言ったら本当にやる子よ」

 セオドアとサーラが頷き合う。


「さあ、師匠。朝食をいただいたらさっさと出立しましょう。皆が寝られません」

 ザコルにジトリと目線を向けたらより気まずそうな顔になった。

「頼もしいわお姉様。お手紙を書きますから。簡単でいいのでお返事くださいね」

「文字を書くのはまだまだ下手ですが、頑張って書きますね」

「ミカ、もう手紙が書けるようになったの? すごいね。前は読めるけど書けないって言ってたのに」

 オリヴァーがパンを口に詰めながら言う。食べながら話すんじゃありませんとサーラに叱られている。


「読めるんだから、書く方は写本でも何でもすれば覚えるでしょ? 出来ることがあるのに寝てる場合じゃな…」

 ぽん、ホノルが私の肩に優しく手を置いた。


「ミカ? 夜更かしはダメだと言いましたよね? この二日またこそこそ起きていたのは分かっていますよ。深夜の読書はほどほどにしてくださいと何度も」

「ホノル…ど…っ、読書はほどほどにしてたよ? ただ地図をまとめて…」

「お勉強もほどほどにしてください。写本した紙束でお部屋が埋もれそうですわ」

「……ミカお姉様? お返事は気長に待つわ。決して急がないでくださいませ。決して」

「あ、はい」


 ザコルから目線を感じるが無視だ。



 サラブレッドよりも立派な足腰をした大きな馬に荷物をくくりつけ、いよいよ出立の時となった。

 伯爵領の境界までは護衛隊の皆さんも同行してくれるため、なかなかの大所帯である。


「よろしくね、クリナ」

 馬に挨拶する。牝馬で名前はクリナだ。首を撫でたらブルルっと返事してくれた。


「僕が先に乗ってあなたを引き上げます。…よっと。さあ、後ろを向いて手を上げてください」


 言われた通りに背を向け、両手を軽く上げたら、脇に手を入れられて予備動作もなくスイッと持ち上げられ、ストンとザコルの前に乗せられた。急に脇を触られて声を上げなかった事を褒めて欲しい。


 スカートはボリュームがあるので、跨がっても大きくめくれあがる事はない。ドレス姿の女性が男性の後ろで横乗りするスタイルもあるようだが、ザコルが腰の裏に暗器を収納していて危ないという事で、前に跨がる形に落ち着いた。


「あの、なんか私、今、まるで幼児か荷物みたいに持ち上げられませんでした…?」

「あなたは軽いので」

「軽くは、ない…ですよ…⁉︎ 確かに背は高い方じゃないですが、荷物も持っているのに」

「軽いですよ。もっと筋肉をつけた方がいいです」

 そういう問題か…?

「いえ、乗せてくれてありがとうございます。よろしくお願いします」

「はい。なるべくゆっくり行きますけれど、姿勢がつらくなったりしたら遠慮なく言ってくださいね。僕も支えますし」


 背後から耳元に話しかけられるとドキドキするな…。乗馬を習っておいて良かった。馬上での体力消耗についてはある程度理解できている。まずは二時間、頑張ろう。


「僕の場合、馬の休憩なども考えたら自分で走った方が早いので、姿勢がつらいならいっそ僕があなたを背負って走った方が早…」

「いやいやいや、荷物と馬氏置き去りにする気ですか? 背負って走られたら舌噛みますよ!」

 この戦闘民族め。どうして発想がそう極端なのか。

「猿轡もしませんからね」

「な、なぜ言おうとした事が分かったんです」


「おい、ザコル殿」

 ハコネが慌てたように近寄ってきて声をかけた。

「ホッター殿を戦場で拾った捕虜などと一緒にするな。雑な扱いは控えるように。…そうだな、何か大きめの卵を運んでいると思ってくれ」

「なるほど、衝撃を加えると割れる…」

 ……すごく、すごく腑に落ちないが、ここはハコネに感謝にすべきだろう。

「ありがとうございます。ハコネ兄さん。私、割れないように気を付けます」

「せめて、俺が領境まで乗せていくのがいいか?」

「えっ! あ……いや、ダメです。ハコネ兄さんは寝てください。ホノルにも申し訳ないですし」

「今、喜びかけました?」

「ヒッ! 耳元で低い声出さないでくださいよ! 別に喜んでません!」


 ジト…。ハコネがザコルを睨む。

「全く、今からそんな事で大丈夫か…」

「大丈夫に決まっているでしょう。僕と言えどミカ一人世話するくらい何でもありません」

 ザコルがハコネに憮然と答える。大きめの卵としては少し心配になってきた。

 領境まで一緒に行ってくれるという護衛隊の皆からも生ぬるい視線を感じる。いたたまれない。

「氷姫様、しばらくは俺達がついてるんで。安心してくださいよ」

「猿轡はさせませんからね」

「普通に行きましょう」

「うう、慰めるポイントがおかしい…。でもありがとう。お願いします」

 彼らに頭を下げる。


「何だ、何がダメだったんだ…猿轡か?」

 ザコルが呟くように独りごちた。


 馬舎から本邸前の庭に移動する。

 伯爵家の面々に加え、お世話になった使用人や騎士団員、その家族の皆さんが待っていた。

 私達も一旦馬を降りて向かい合う。


「こおりひめさまに! おうたをうたいます!」

 子供達が揃って再会を約束する歌を歌ってくれた。皆可愛らしい。まるで幼稚園のお遊戯会みたいだ。

「しんりょくのきょーけんのシショー、またナイフなげるのみせてね!」

「狂犬ではありません!」

 笑い声が上がる。


「狂犬…じゃなかった、猟犬の兄ちゃん、新しい召物似合ってんぞ、氷姫様と仲良くなぁ」

「氷姫様、飲み過ぎには注意なさってね。猟犬様もしっかり見守って差し上げてくださいね」

 皆はザコルにも温かい言葉をかける。ザコルは少し不思議そうな顔をしつつ頷いている。

「皆さん、本当にお世話になりました。どうかお元気で。春からはまたよろしくお願いします」

「氷姫様の事はきちんと護りますので、安心してください」

 自分はオマケとばかりにペコッとお辞儀するザコル。


「…あの、師匠、皆さんはあなたのことも心配されているんですよ、もっとちゃんと挨拶した方がいいんじゃないですか、ほら」

 隣に立つザコルを肘でつついた。

「そ、そうですか? ええ…と…」

 ザコルは少し考え込んだ後に口を開いた。


「あの……怖がらせたり、騎士団の仕事を増やしたり、色々とご迷惑をおかけしたかと思いますが、一年前、こんな僕を受け入れて下さってありがとうございました。どうか、えっと…これからも、よろしく…お願いします…」

 せっかく服がビシッと決まっているのに、視線が泳いでいる。背中も丸まってきた。

「ははは、相変わらず引っ込み思案な英雄様だよ」

 拍手と笑い声が上がった。


 この伯爵家の皆さんの視点に立ってみるとだ。

 最初は心閉ざしていた英雄の若者が少しずつ周りに心を開き、こうして新しい服に身を包んで故郷へと…。あれ、なんかちょっと私までムズムズしてきたぞ。


「氷姫様、猟犬の兄ちゃんをよろしくな。この通り人の気持ちには疎いが、真面目で一途な人だよ」

「そうよ、理解してくださる方が現れて本当に良かったわね」

「ええと、しゅ、出立出立! もう出立ー!」


 照れ隠しに叫んだら余計に笑われた。そんな皆の中からホノルが進み出てくる。


「ふふ、ミカも本当に。そういうところですよ」

「ホノル、ストールと手袋をありがとうね」

「はい。ストールは私が編んだものなのですよ。使ってやってくださいね」

「一生大事にするから」

「ふふ、大袈裟です……寂しくなりますわ」

 ホノルと抱擁を交わしたら、目頭が熱くなった。


「お姉様、わたくしとも抱擁を」

「アメリア」

 同じく近づいてきたアメリアをひしと抱き締める。

「お手紙、気長に待つと言いましたけれど、毎日毎日届いていないか確認してしまいそうですわ」

「最速で返します」

「あんまり早く返ってきてもそれはそれで心配になりますわ」

「ふふふ、どうしろっていうの」

 笑い泣きしながらぎゅうぎゅうと抱き締め合った。

 横を見たらオリヴァーがザコルに抱きついて泣いていた。せっかく誤解がとけたところなのに、離れるのは淋しいよね。


「ミカ」

「セオドア様、サーラ様」


「気を付けて。子爵にはしっかりとお願いしてあるからね。間のジーク伯爵領、モナ男爵領にも内密には報せてある。大々的な出迎え等は出来ないだろうが、何かあればきっと助けになってくれるだろう。問題が起きた場合、その身分証明の一筆を見せればどこでも即座に保護してくれるからね」


「はい、分かりました。ご手配いただきありがとうございます」


「ミカ、手紙はアメリアにだけ書いてくれればいいわ。こちらは、あなたの無事さえ分かれば結構ですから。ザコルや子爵からも報告はあるでしょうから基本的に簡単でいいけれど、もし体調変化や気になる事があれば、すぐアメリア宛に正直に報せてちょうだい。正直にね」


「ご配慮ありがとうございます。自己管理もしっかりします」


「ああ、ミカ。心配ですわ。子供の事がなければ子爵領までご一緒したのに。やっぱり今からでも母に子供達を頼んで…」

 ホノルが眉を下げて私の手を持つ。

「大丈夫、大丈夫だよホノル。本当に。夜更かしはしないから。なるべく」

「なるべく……?」

「なるべく、いや、ほとんど、いや、ほぼ、夜更かししない。がんばらないをがんばる」

「哲学的ですわ。お姉様」

 ジト…。アメリアにまで睨まれる。


「だって。どのように、どのくらい、どのような情報を得られるかも全く分からないし…。何とも判断がつかないでしょう。師匠もあまり知らないんでしょ? 渡り人の事は」

「ええ、召喚儀に関して秘匿性の高い情報や伝承は基本的に当主しか知り得ないので。渡り人であるミカには開示されるはずですが」

「ええと。なのでですね、全く無理しないとは言い難いけれど、頑張って無理はしないよう努力します。あと体調崩したらすぐ休みます。あと適度にザコルさんも休ませます」

「それでいいわ。あなたこそ過労で寝込むなんてことはよしてちょうだいね」

 サーラにも釘を刺される。

「はい。もちろんです。子爵様にご迷惑をおかけしないようにします」


「ミカ、そろそろ」

 ザコルが肩に手を置いた。締めなければ。


「皆様、お見送りありがとうございました。春には戻りますので、どうかその時はまた宜しくお願い致します」


 ザコルが鐙に足を掛けて馬に跨がり、先程と同じように私を後ろ向かせ、ヒョイと持ち上げて自分の前にストンと置いた。おおーっと驚声が上がる。


「なに今の! 女の人ってあんなに軽いの? 僕も大人になったらできる?」

 ホノルがオリヴァーに首を振っている。

「ザコルったらお姉様をそんな軽い荷物か何かのように…」

 アメリアは青い顔をしている。

「ああ何だ、この乗せ方がダメだったんですね。猿轡じゃないのか」

「猿轡って何ですの!? お姉様に無体を働かないでくださる!?」

 アメリアが悲鳴混じりに言った。


「ザコル殿、乗せ方はともかく、自分が背負って走った方が早いとか、猿轡すればいいとか、とにかくダメだ。さっきも言ったが、大きめの卵か何かを運んでいると思え」

 ハコネが再三の注意をする。


「……大きめの、卵でーす…」

 ひらひらと馬上で手を振ると皆の青くなった顔が一望できた。


「猟犬の兄ちゃん、氷姫様を大事に、大事にな…。まずは今日を無事に。話はそれからだ」

「うっかり落としたりしてはだめよ。生身の人間は普通、落馬したらタダではすまないわ」

「ゆっくり、ゆっくり行けよ。襲歩(しゅうほ)なんてもっての他だ」

 襲歩とは、馬の駆け足の事だ。

「あまり上下左右に揺らしすぎてもダメだぞ! 首がイカれちまうからな!」

「人間だってぶん回すと血が偏るんだぞ水袋みたいに!」

「今更だが、クッションを敷いて命綱を着けた方がいいんじゃないか」

 馬を引いてくれた馬番を初め、オーディエンスが集まってきて議論が始まってしまった。


「あの、皆さん。流石にぶん回すという事はないですよ。人間の耐久性くらいは理解していますし」

 ザコルが不本意そうな声を漏らす。

「大丈夫、大丈夫です。私が自衛に努めます。ヤバそうな事はちゃんとはっきり言うので。師匠も話を聞いてくださいね」

「分かりました」


「ザコル、どうか、どうかミカを無事に送り届けてくれ。休憩もこまめに取ることを忘れないように」

 セオドアが焦ったように言う。

「早いからと言って危険なルートも取らないで。時間がかかっても負担が少ない道を選んでちょうだい。分かっているわね!?」

 サーラも少し取り乱しているようだ。

「お前達、途中までしっかり見張れ!」

「はい! 命に換えても!」

 護衛隊を交えて重めの宣誓まで行われ始めた。


「まあ、大丈夫、大丈夫。とりあえず行ってみましょう。急襲でもない限り、突然の姿勢変更だけはやめてください。後はその都度相談してください。自分の耐久性は自分で判断します」

「分かりました」


「ザコルに女性の護送をまかせるのは早かったか…」

 セオドアの顔色が悪くなってきた。

「大丈夫、大丈夫。私、丈夫な方ですし。高貴な姫とかじゃありませんから。大丈夫、大丈夫」

「ミカ、本当に大丈夫ですか? 僕も不安になってきたんですが」

「師匠が不安にならないでくださいよ! もう、ちゃんと相談してくれたら問題ありませんから」


 手綱を握るザコルの手をポンポンと叩いた。

「ここを強めに叩いたら停めてください」

「分かりました」


「大丈夫。もう、全然出立できませんから、行きましょう」

「そうですね、だいぶ押してますから急ぎま…」

『急がない!』

 その場にいた人々の声が見事に揃った。


「……分かりました。急ぎません。もし遅れたら宿泊場所を変更するなどして対応します」

「そうしてくれ、頼むぞザコル」

 セオドアが真剣な顔で言った。最後の最後まで心配かけちゃったな。

「では、出立します」


 ゆっくりと馬のクリナが動き、庭から続く門への道を歩きだす。

 護衛隊の皆さんがそれを囲むようにそれぞれの馬を進めた。

「お姉様ぁ! お気をつけて!」

 ザコルの腕のかげから何とか顔を出して手を振る。

「アメリアも! 皆も! ありがとうございます! また春にー! お元気でー!」

 背後からもまたね、お元気で、気を付けて、と沢山の声が聞こえる。

 私達はようやく、温かく愛に溢れた伯爵家を出立したのだった。



つづく

なかなか出立できない

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