猟犬ブートキャンプ
ザコルが私を呼ぶ声で目を開く。辺りはまだ暗い。朝五時とか、そのくらいだろうか。
正直寝足りないが、今日は楽しみな事がたくさんある。寝ている場合じゃない。
「おはようございます…寒いですね…」
「おはようございます。ミカ、今夜から町長屋敷に泊まりますか? 部屋も少しは空いたようですし」
「ううん…。ここに泊まるのもファンサのうちですから……んーっ」
寝袋から身を出して伸びをする。抱き枕よろしく抱えて寝ていたホノル特製ストールを肩にかけ、ザコルが差し入れてくれた洗面器と水差しを受け取る。
マグに水を注いで魔法をかけるとホカホカと湯気が立った。ただのお湯だが、ふうふうとして一口飲むとじんわりと身体が温まる。
ささっと洗面と着替えを済ませる。ピッタが用意してくれた服は、乗馬服のようなパンツスタイルの上下。防寒も兼ねてか、短い丈のジャケットも添えられていた。髪は、昨夜のコマのように高い位置でまとめ上げた。
「ミカ、靴も用意してくれたようですよ」
テントの外に出てみると、確かに軍靴のようなデザインの幅広の編み上げショートブーツが用意されていた。
「ありがたい…! なんてよく気のつく子なのピッタ」
伯爵夫人サーラに借りたロングブーツは歩きやすいが、決して走り込みや運動をする用のものではない。
いつの間に私の足のサイズを把握したのか判らないが、用意されたショートブーツは足にピッタリと馴染んだ。
「エビー達は先に行っています。コマは…まだ寝てますね」
テントの中を覗くと。確かにコマと思われる寝袋がまだ転がっていた。
「まあいい、行きましょうか」
「はい師匠!」
「で、そのシショーとは、結局どのような意味なんですか」
「前も言いましたけど、先生ですかね。軍隊風に言うと教官でしょうか」
「なるほど、教官。悪くないです」
前から思っていたが、師匠、が正しく翻訳されないのは何故なんだろう。もしかすると、一対一の師弟制度のような概念がこの国に存在しないのだろうか。
テイラー伯爵邸にいた頃は、毎日のようにザコルと早朝トレーニングを行なっていた。あの頃とは季節が変わってしまったが、朝の空気というのは独特の爽快感がある。久しぶりに体を動かせる事にワクワクした。
駆け足で放牧場へと急ぐ。エビーとタイタ、そして同志達の姿が見えてきた。
そして散った。
エビーが「あれえ?」と辺りを見回している。タイタは苦笑気味だ。
「うーん…。まあ、そうなりますよね。これ、一緒に鍛錬するっていう目的は果たせるんでしょうかね」
「いえ、ちゃんとしごきますよ。どうせ近くにいるでしょうから、指示は出せますし」
ザコルがニヤ、と口角を上げた。
人見知りの割に人に指導するのは好きだよな…。彼は気に入った人間をすぐ何かに仕立てようとする節がある。
「今回、彼らを何に仕立てるつもりなんです?」
「とりあえず、隠密の完成度を上げてやりましょうか。攻撃手段を持たせればいい斥候か暗殺者にもなれそうですが…流石に思い留まりまして」
「良かった、素人に暗殺術を仕込もうとしてなくて」
「いえ、暗器は基本的に特注ですから。そこまでの時間はないなと」
「時間があれば仕込むつもりだったんですね?」
「可能性は追求すべきです」
放牧場の端に着くと、私はまずその場で柔軟を兼ねた体操をするよう師匠に命じられた。
ピッタを始めとした同志村女性スタッフが五人連れ立って見に来ていたので、彼女らも誘って一緒に行う事にする。
ザコルが考えてくれたメニューを指導しながら、一緒にこなしていく。
「結構キツイですね、それに念入りです。メニューはまだあるんですか?」
「うん、まだ半分くらい。でも、これやっとくと体も温まるし、この後の運動も楽になるよ」
ここは見晴らしがいいので、少しくらい離れていてもザコルの視界に入っていれば安心だ。
ザコルは放牧場の中央でエビタイの二人に軽い柔軟を命じ、あらぬ方向にも同じ指示を叫んでいる。きっとあっちの森の中に同志達がいるんだろう。
女性チームは柔軟を終えた。
「ええと、次は、そうだね…この放牧場の内周を走ろっか。あっちはきっともっと念入りな基礎だか体幹だかのトレーニングでもするんだろうし。とりあえず、十周くらいかな」
「十周…!? この放牧場をですか?」
女性達が距離を測るように放牧場を見回した。
「え、少ないかな、テイラー邸の練兵場よりかなり広いし十周くらいで充分かと思ったんだけど…。まあ、いいか。もっと走れそうだったら追加すれば」
「つ、追加…一周でもまあまあな距離が……いえ。どこまでもお供いたします!」
ピッタを筆頭とした女性達が拳を握って元気よくそう言った。いい目だ。
「じゃあいっくよー、ファイ、オー!」
『ファイッ!! オー!!』
久しぶりなので、少しゆっくりめにスタートする。飛ばしすぎても長続きはしない。
「ミカ様ぁ早いですー!! お、追いつけませえええん」
「え、ごめん。じゃあピッタ達は自分のペースで走っててー」
どうやらまだあの子達とはペースが合わなかったようだ。
私もトレーニングを始めたばかりの頃は休み休みでしか走れなかったが、今はかなりのスピードでノルマをこなせる様になったと思う。継続は力なり。
放牧場を五周ほど走ったところで、コマが後ろから走ってきて並走を始めた。
「あ、コマさんおはようございます。よく眠れましたか」
「朝から元気だな。昨日は色々あったんじゃねえのか、高貴な姫さんよう」
「ありましたよう。正確には『昨日も色々あった』ですけどねえ」
昨日は朝イチでイーリアと朝食、町長屋敷にはお風呂の話をしに行ったはずなのにいきなり町中をパレードするよう言われ、何も分からぬまま盛大に祝われ、シシに思わぬ事実を告げられ、からの不意打ち婚約承認の儀、コマとの再会、お香騒ぎ、革命云々、タイタの独白、イーリア達への報告、そして最後はシシの前で大醜態だ。お風呂だって何度も沸かしたし、氷もたくさん作った。我ながらよく寝込まないなとは思う。
「そうか…」
コマはそう短く返した。何となく同情されている気がする。
「それにしても、高貴な姫ってのはこんなスピードで走り込めるもんなんだな」
「そうですか? 以前はもっと速かったですよ、ザコルがペース管理してたので。あの人、ずっと並走してても息一つ乱さないし、私が止まった後も物凄いスピードで走り続けるんですよね。どういう体力してるんですかねえ、ほっ」
丸太が転がってた。跳んで避けながら走り続ける。
「あいつ…。姫さんに何させてんだ」
「私を一般人レベルにしたいらしいですよぉ、ほっ」
大きい石だ。整備の行き届いた練兵場に比べて障害物が多い。
「一般人のレベルがちょっとおかしい気がするんですけどねえ、わっ、びっくりした」
トカゲだ。踏まなくて良かった。
「後で護身術もおさらいしてもらおう。乗馬も…そうだ、クリナに会いに行かなきゃ」
テイラーからここまで私達を乗せてきてくれた牝馬、クリナ。水害直後に牧場の厩舎に預けたきり、バタバタしていたせいで会えていない。
あんなにお世話になっているのに放っておくなんて。不義理な事をしてしまった。
「どれだけ走るつもりだ」
「あと五周ですかね。気持ち良くなってきたとこだし」
ランナーズハイというやつだろうか。無心になって走るのは割と好きだ。
「あっちで女どもがへばってんぞ。今日はこれくらいにしとけ」
「心配してくれてるんですか?」
「王弟や邪教に獲られる以前に過労でくたばられてみろ、俺まで責任取らされんだろが。俺が手合わせしてやるから止まれ」
どうやらコマは私の世話をしにきてくれたらしい。
彼らが属した暗部とは、基本的に個人プレーな職場なのではないだろうか。それなのに、ザコルもコマも何だかんだで面倒見がいいというか、世話好きというか、何ならちょっとしたオカンみを感じる時すらある。
ザコル達の方を見たら、逆立ちして片手で腕立て伏せをしている。あんなの本当にやってる人初めて見た…。少年漫画の主人公かオリンピックに出る人くらいしかしないと思ってた。あ、エビーが倒れた。
私は徐々にスピードを落とし、息を整えながら歩く。
走り初めの場所に戻ると、確かにピッタ達が地面に座り込んでいた。
「ごめんごめん、走るのに夢中になっちゃって」
「ミカ様…凄い体力でいらっしゃいますね…驚きました」
「そんなそんな大袈裟なー。私なんて本格的なトレーニング始めたのは今年の夏からだし。毎日しっかり働いてる皆の方が絶対体力あるって」
「…………元々素質がおありだったのでは。コマ様、止めてくださってありがとうございます」
ピッタがコマにお礼を言った。
「別にいい。このイカれ姫の実力も気になるしな」
イカれ姫って何ですか、と言い返そうとした私に、コマが突如大きく振りかぶるようにして拳を向けた。私はそれを左腕で頭を庇いながら受け流し、脇に誘い込んでひねり上げようとしたが、サッと避けられた。
ピッタ達が悲鳴を上げる間もない出来事だった。
「いい反応だ。じゃあ、次は少し距離を取れ」
言われた通りに離れると、コマは手にナイフを持っているような体勢を作り、思い切り地面を踏み込んで眼前に迫った。
私はそれを体の回転のみで躱し、背中に手を当てる。本来ならここで襲撃者は体勢を崩すところだが、コマは前に転ぶような動きからくるっと前回りをして立った。
その他にも様々な襲撃パターンをコマが実践してくれるので、ザコルから習った事を思い出しつつ捌いていく。
ふと横を見ると、ピッタを始めとした女性スタッフが離れた場所で体育座りをし、私達に見入っていた。邪魔しては悪いとでも思っているのか、無言で顔だけを驚きの表情にし、時に拍手の真似をしている。
…いい子達だ。
「フン、曲者に一撃入れたってのは伊達じゃねえな。動きに迷いがねえ。よく鍛えてんじゃねえか」
「お褒めに預かりまして…。でもあっちから殺気が飛んでくるので全く集中できてません」
例のあの人がこちらをチラチラと伺っているのが見なくても分かる。
逆立ち片手腕立て伏せを各腕何回やったか知らないが、次は片足スクワットを始めたようだ。あ、またエビーが倒れた。
「襲われるって時に相手が集中なんざさせてくれる訳ねえからな。丁度いいんじゃねえか」
そう言うと、コマは腰の辺りから小降りの短剣を出して抜いた。恐らくダガーと呼ばれるものだ。
「あんたの獲物は短刀だろ、持ってきてるか」
「はい。でも刃物を使った訓練はまだしてないですよ。ピッタ、その鞄取ってくれる」
大事な物がいっぱい入っている肩掛け鞄はちゃんとここにも持ってきている。
ピッタが側まで持ってきてくれたので、そこから護身用の短刀を取り出した。ちなみにダガーは両刃で短刀は片刃だ。刃渡りの長さはどちらも二十から三十センチ程度。
「俺様が軽くレクチャーしてやる。暇だしな」
「やった、ありがとうございます。よろしくお願いします!」
他領の工作員なのに、どうしてこんな変な女相手に親切にしてくれるんですか。と問いたくなるが、気が変わってはいけないので突っ込まない。コマと私は背丈が近いし、きっと参考になる事が多い。このチャンスは決して無駄にしてはならない。
うっかり武器を手放して飛ばしたりしたら危ないので、ギャラリーである女性達には充分に離れてもらった。
「こういう短い獲物は斬撃には向かねえ。投げてもいいが、投擲はかなりやり込まねえとモノにならねえ。あの犬が使ってる投擲用のナイフとも違うしな。結局は刺突が基本、一番ヤれるってこった」
「なるほど」
刺突、はその字面の通り、突いて刺すという攻撃スタイルの事である。
「構えに決まりなんてねえが、俺や姫さんみたいに身の軽い奴が適当に振り回したって大した傷は与えられねえ。とすりゃ、逆手に持って左手を添えるか、両手で持って自分の前に構えるかだな。少ねえ体重でもしっかり乗せて深く刺せ。確実にヤるためにも急所はしっかり覚えろ。両手で持つと、威力は出るが動きに制限がでる。俺の場合は逆手に持って、肘から先の動きで刺したり、相手の斬撃を受け流すように使ったりする。まずは真似してやってみろ」
「はい!」
コマが見せてくれたお手本通りに構え、攻撃や防御の動きを習っていく。そうしていると、ふと先日の襲撃時のことを思い出した。
あの時、背後から奇襲を仕掛けようとした曲者に対し、私は短刀を逆手に持ち、肘から先の動きで刺していた。もちろん偶然だが、自分の本能に賞賛を贈りたい。さすミカだ。
「筋がいい。何なんだお前。刃物持ったらちったあ萎縮すんだろ。俺にも遠慮なく振ってきやがるし」
「私ごときが思い切り振ったところで、コマさんに当てられる訳ないじゃないですか」
「そりゃそうだが」
事実、全力で向けた刃は全て防がれている。コマとて暗部のベテランだ。素人で根っからのインドア派だった私が一撃でも入れられるような相手であるはずがない。
一通り習ったところで最初からおさらいだ。興が乗ってきたのかコマの口角も上がっている。楽しそうだ。
おさらいが終了すると彼は仁王立ちになり、勢いよくビシィ、と私を指差した。
「よし、お前も俺様の下につけ」
「え」
「女でここまでやれる奴は少ねえからな。半年、いや一ヶ月でいい。みっちり仕込んで敵陣に送り込んでやる。あのクソ豚を仕留めてきやがれ!」
「ちょちょちょ、私って『氷』なんですよね?」
豚、とはもしかしなくとも王弟の事に違いない。
コマは主人であるジーク伯とその弟マンジより、王弟や邪教から『氷』を守れと命じられているのではなかったか。その氷を敵陣に送り込もうだなんて、それこそ軍規違反というやつには抵触しないんだろうか。
「氷ならなおさら都合がいいだろ。世間知らずの姫に急所突かれるなんざ誰も予測しねえ。捕まったフリして豚の懐に入れ。ドレスのこの辺りにスリットを入れて、こう獲物を隠してだな…」
「コマ。貴様、ミカに何を仕込もうとしている」
いつの間にやってきたのか、ザコルがコマと私の間に割り込んだ。
「うるせえ犬。俺は今こいつに豚の捌き方を教えてんだ。邪魔すんな」
「コマさん、私なら瞬間冷凍もできますよ。鮮度も抜群です」
「ミカ!?」
「そりゃあいい。だがな、あの件もある。生での捌き方も覚えておいて損はねえぞ」
「おっしゃる通りで」
あの件、とは邪教の香の件だろう。
魔法が使えない時のために、物理的な攻撃手段を持っておくべきと。合理的だ。
「おい、ミカのシショーは僕だ。あの干からびた芋のような状態からひと夏で峠越えさせるまでに仕上げたのはこの僕だぞ」
「ご苦労。続きは俺がやる。体格の近い俺が教えた方が効率良いに決まってんだろボケカス……そうだ姫、お前、薬にも興味あるだろ」
「あります」
「ミカ!?」
思わず即答してしまった。
コマなら素人が手を出せない領域の薬学書や医学書などにも詳しそうだ。ぜひとも教えを請いたい。人間に魔力がある事を前提とした治療法とやらにもアプローチできる可能性も…………
「ミカ、ミカ! 一体何になるつもりですか! 豚を絞めたいのであれば僕が血抜きまでしてここに持ってきますから!」
ザコルが私の肩を掴んで揺さぶる。首がもげるからやめてほしい。
「いえ、豚肉が欲しい訳ではないんですけど…。そもそも、干からびた芋だった私を何かに仕立てようとしてたのは師匠じゃないですか。飛脚か登山家かジビエ料理家か知りませんけど」
一日走ってもへばらない程度の体力に、ツルギ山踏破だったか。獣の捌き方を習いたいと言い出したのは私だが。
「猟犬よう、こいつにただ山登らせて満足するつもりか? まあ、根性あっから何処までも登れそうだが…」
「そうだろう! ミカならきっと登りきれる!」
ザコルはパッと顔を明るくした。
「ツルギ山の山頂やアカイシ山脈の秘湯にも連れていく約束なんだ。最終的には山に何ヶ月か潜伏しても生き残れる地力をつけさせたい。狩猟にも興味があるようだからな、弓も教える予定で」
そうなんだ、私を山に潜伏させるのを目標にしてたんだ。…マタギかな。
「弓か、そりゃあいい。投げナイフよりゃ現実的だ。飛び道具がありゃ暗殺の幅が広がる。必ずマスターしろ」
「あ、はい。弓は面白そうなのでぜひ」
コマの言葉に反射で答えると、ザコルも満足そうに頷いた。…この人、コマと私を止めに来たんじゃなかったっけ。
「ミカさああん! これ以上毒されないでくださいよおお! 奥様とアメリアお嬢様に殺されます俺がああああ」
エビーもやってきた。トレーニングがキツかったのか、足をもつれさせながら私に縋る。
「ミカ殿、見ていましたよ。とても初めてとは思えぬ短刀捌きでした。俺もお教えしたかったのに…」
タイタがその後を汗を拭いつつ小走りで追ってきた。こっちはまだ余裕がありそうだ。
「ありがとうね。良かったらまたタイタのやり方も見せて。コマさんとはきっと流派みたいなのが違うでしょう?」
「ええ、もちろんです。いつでもお申し付けください」
何せタイタは中央貴族仕込みだ。きっと洗練された王道の剣術を披露してくれるに違いない。
「赤毛、お前も俺と手合わせしろ」
「もちろんですコマ殿。ご期待に添えるかどうか判りませんが…」
スッ、ザコルがタイタとコマの間に入る。
「お前は僕と手合わせでもしていろ」
「お前の手の内は知りすぎて面白味が無えんだよ」
元暗部二人がジリジリと距離をはかり始めた。空気はビリビリと張り詰める。
「仲良しだなぁ」
「マジで言ってんすか。イカれてんすか。どう見ても一触即発なんすけど?」
エビーが信じられないという顔でこっちを見てくる。イカれているとは心外だ。
「師匠、同志が置いてけぼりになってますよ。基礎トレーニングの途中だったんでしょ? 私も見学していいですか」
同志達は急に指示が止んで戸惑ったらしく、見れば森から様子を見に出てきてしまっている。
仲良し二人のじゃれ合いはもう少し眺めていたいくらいだが、二人が本気でじゃれ合い出したら誰にも止められなさそうなので水を差す。
「見学? まだまだ基礎が続きますよ。正直、見ていてもそれ程面白くはないと思いますが」
「いや、かなり常人離れした事してましたよね。面白そうだから休憩がてら見てます」
「そうですか。ではこれを」
そう言ってザコルは私に投げナイフを一本寄越した。
「見ながらでいいので、このリングに指に掛けて回す練習でもしていてください。なるべく同じスピードで、なるべく長く回し続けること。うっかり飛ばすと危ないですから気をつけて」
「はい。分かりました」
私に投擲を仕込むつもりだろうか。やった。ちょっと憧れてたんだよね。
投擲はかなりやり込まないとモノにならないらしいが、逆にやっていればいつかモノになるだろう。千里の道も一歩からだ。
「暗器渡されて喜ぶ女子なんてミカさんしかいねえすからね。全く、コマさんに対抗しやがって」
「エビー、行きますよ」
ザコルがエビーの襟首をガッと掴んで引きずっていく。南無三、と心の中で唱えた。
常人離れした基礎トレーニングがその後一時間程続き、私は投げナイフを一定の速さで回せる時間が増えてきた。
「お前、器用だな…。今日初めて訓練したっつう割に刃物に慣れてっし」
コマが隣に座って私の手元を覗き込む。
私の事は姫さんとかあんたとか呼んでいたのに、いつの間にか姫とかお前とかこいつになって定着したようだ。微細な変化だが、距離が縮まったようでちょっと嬉しい。
「もしかして、料理してたからですかね。私、包丁研ぐのも得意ですよ」
祖母が長年愛用していた包丁セットは、銘が彫り込まれた古くとも立派な品々だった。私の代で錆びさせる訳にはいかないと、手入れも頑張っていたのだ。独り暮らしには立派すぎたために叔母に譲ってしまったが。
しかしこうして家事もやり込めば何らかのスキルに繋がる事が証明された。人生で無駄な事など一つもないのだろう。
「コマさんはアレ、やらないんですか」
あの常人離れしたアレ。
今は直立と空気椅子を繰り返すようなスクワットを、何やら大きな石を各自持たされたままやっている。そしてたまに空気椅子状態でストップをかけられる。もう五十回目くらいだろうか。エビーもタイタも汗だくですごい形相になっている。あ、エビーが倒れた。
「この可愛い俺に無駄な筋肉なんかついたらおかしいだろうが。お前もアレはやるなよ」
確かに、この美少女然とした存在の首下がガチムチになったら不自然だ。
そうか、そう思うとザコルも一応私のスタイルがおかしくならないように私のメニューを考えてくれているんだな。
「む、それってつまり…」
……つまり、私、ザコルによってザコルが思う理想の体型に近づけられている……?
「おい、何考えたか知らねえが雑念抱きながらそれ回すんじゃねえ。危ねえだろが」
「…ぁぁあああああああああぁぁ…」
「おい、手元見ろ馬鹿。速度上がってんぞ」
ピタッ…。私が高速回転させていたナイフが急に止まった。
顔を上げたらザコルが目の前にいて、指先で刃を挟んで止めていた。
しゅごい。
「何を言われた」
「な、何も…」
「どうしてそんな顔をしている」
「すみません、ええと、私が勝手におかしな事を考えて…コマさんのせいでは…」
「……今日はここまでです。今度からはちゃんと僕が付き添って行いましょう」
「ええー…もっと雑念だらけになりそう…」
「何を考えていたか知りませんが、その顔は伏せて他に見せないように」
そう言うと私の指からナイフを取り上げて腰ベルトに収容し、トレーニングに戻っていった。
私は肩掛け鞄からホノルのストールを出して頭からかぶった。
「今の話の流れで何を考え…いや、言うなよ、言わなくていい」
「ううー…もうあのスクワットしようかな。無性にスタイル崩したくなってきた」
「よく分からんがやめとけ。後でドレス着らんなくなるぞ」
「それは困る。アメリアに叱られちゃう。……ザコルが」
「アイツが叱られ……? ああ、なるほど。酒だけじゃなく体型まで犬に管理されてんのかお前」
「言わないでくださいよぉぉ…」
「面倒くせえヤツだな……まあ、あいつが女の体にどう筋肉をつけるか考えてんのは確かに気色悪いが」
私は返事をせず、ストールの前を合わせて完全に沈黙した。
つづく
初めてのファンサイベントです。




