生き地獄を味合わせる派だからね
「母さま」
いつ、少年が移動したのか、私の目には見えなかった。
ただ彼はいつの間にかミリナの隣にいて、その手首を掴んでいた。
「イリヤ、あの」
「それをどうするんですか? 母さま」
少年は無垢な瞳で牢の中のモノを一瞥した。
かつて憧憬の対象であった父親はもう、彼の瞳の中にはいない。
「…ふん、ますますあの母に似てきたな。その、何も期待しない目で私を見るところなどそっくりだ」
「僕は、見た目はおばあさまににているかもしれませんが、なきむしではずかしがりやなので、あまりにてないと思います。でも、あなたはにたかったんですよね、おばあさまに」
「違う!!」
イリヤは声を荒らげた父親から目を離し、自分の髪をつまみ上げた。
「僕は、母さまとおなじ色のかみがよかった。こげちゃ色のかみ。シュウおじさまや先生やゴーシ兄さまとも、おなじになれたもの」
「何色だっていいのよ、イリヤ。それがあなたの色なら、この世で一番美しい色になるわ」
ぱ、イリヤは髪から手を離す。そして母へと視線を移した。
「母さまは、なんでもゆるしちゃうからダメなんです。僕も、かんびょうすれば、わるい父さまがいい父さまになると思ってた。……母さま。どうしてそれを『てき』だとおしえてくれなかったんですか?」
ピリ、イリヤから殺気がほとばしる。
「イリヤ、ダメよ」
「どうして? わるい父さまのくせに、母さまがやさしくしてくれるなんてずるい」
「はっ、私はこの女にそんなことを望んだ覚えはない。身の程知らずめ、この私に慈悲をかけようなどとは何様のつもりだ?」
「ほら」
「イリヤ、この人は」
ぐわん。牢の中の空気が歪んで視えた気がした。
「ぅあ、うあああああああああああ!!」
「イアン様!!」
「やさ、ややさ、やさしくするな、するな、しないで嫌い、嫌い、死んじゃえ、いらない、わたし、お、俺、いらないっ、ここじゃないっ、もっと」
「ダメ、ダメよ、本当に壊れてしまうわ! 誰か…っ」
ミリナはバッと振り返る。オーレンやザラミーア、ジーロやザコル、彼らがもはや動くこともしない様子を見て、最終的に私に視線を定めた。助けを求めるような顔に、私は溜め息をつく。
「サゴちゃん、そこの二人を連れて急いで退避して」
「え、でも」
「君が消えると私が困る。さあ行って」
「了解しました」
サゴシがへたり込んだペータとメリーを立たせ、陣の外へと駆け出す。抜け出すのに最短でも数分はかかるだろう。だがその前にイアンが壊れてしまいそうだ。私は牢の方へと一歩踏み出した。
「ミカ」
ザコルが私の腕を掴む。
「ザコル。あなたならいつでも殺せるでしょう。今じゃない」
私がそう威圧混じりに言えば、ザコルは手を引いた。だが横をピッタリとついてくる。
「ミカ様…っ、どうか」
「ミリナ様、大丈夫です。イリヤくんも、ちょっとどいててください」
牢の前に立って、私は格子の前に蹲るイアンに手をかざす。そして集中した。光源の少ないここでは視覚に頼れない。だが成功させないといけない。アレくらいの魔力をぶつけないと、この力は打ち消せない。
手の平から、既視感のある感覚が生まれる。湿り気のある地下の空気がグンと温度を下げる。イアンの周りの空気だけを凍らせるつもりで、私はイメージを膨らませる。
「ささ、さぶい」
「我慢してください」
貫頭衣のようなものしか着ていないイアンが震え出した。サカシータ一族の人から『寒い』などという泣き言を聴いたのはこれが初めてだな、と妙なことを思う。長期間の拘留によって消耗しているせいもあるだろうが。
「……?」
蹲って震えていたイアンが顔を上げる。彼の顔には、涙や洟が凍って霜柱が立っていた。
「頭痛が、止んだ?」
「イアン様!!」
ミリナが格子に取り縋る。
暗くて判らないが、イアンの周りにだけ発生させた『ダイヤモンドダスト』は成功しているようだ。そのまま牢の中を氷のダストで満たしていく。数分くらいはバリアとして機能してくれるはずだ。
「ミイ。澱みがある場所ってどこ」
ふわり、白いリスが私の肩に現れる。
ミイミイ、ミイミイミイ?
あっち。ミカ、どうしてそいつ、助ける?
「別に助けようなんて思ってないよ。今じゃないってだけ。私は簡単に死なすよりも、生き地獄を味合わせる派だからね」
「いきじごく」
イリヤが反応した。
「目が節穴なのを治してやって、雪玉の的にするんでしょ。それに、下に見てた人間に優しくされるなんて、彼みたいなプライドエベレスト級の人にはこの上ない屈辱だよ。ミリナ様はよく解ってるなあ」
「ちょっ、ミカ様、私そんなつもりじゃ」
「おい、今すぐ殺せ、聖女もどきが。私はお前の秘密を知って」
「黙りなさい」
じろ、威圧。イアンはグッと言葉を飲み込んだ。
「案内して、ミイ。穴熊さんもついてきてください」
「ぎょぃ」
私はミイと穴熊、そして何も言わずともついてくるザコルを伴って駆け出した。
つづく




